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山手の家【第4話】

瑠璃は電気ポットの蓋を開けると、2つある蛇口のうち小さい蛇口の方の水をポットに入れ始めた。
この家のキッチンには普通の水道水が出る蛇口とは別に、浄水器の水が出る小さな蛇口があった。
浄水器の水は一度にたくさんは出ない。細い水の流れを、時間をかけてポットに溜めていくしかない。
ふと、足元が涼しくなった。幸代が冷蔵庫を開けているからだろう。
幸代は冷蔵庫の中を眺めて首を傾げていたが、納得したのか扉を閉めるとリビングに戻っていった。
「おぉ、今夜は焼肉だったな」
義人はすらりとした肢体を揺らしながらテーブルに近づいた。
70代を迎えてもこのスタイルなのだから、若い頃はさぞモテたのだろうし、そんな義人の心を射止めて約40年も奥さんであり続ける幸代もすごいなと瑠璃は思った。
(真さんも、似てたはずなんだけどな)
瑠璃はちらりと真を見やる。
結婚して5年の間に真はずいぶん恰幅が良くなった。久しぶりに会う友人が驚いたり、心配してスポーツジムやサプリメントを勧めてきたりしたらしい。
でも、そんな真を見て「幸せだということで、いいことだ」と目を細めた人が1人だけいる。
今は亡き、太一たいち伯父さんだ。
伯父さんは義人の姉の夫にあたる、この街のとある界隈では有名な寿司職人だった。
(伯父さんが亡くなって、もうすぐ1年か)
瑠璃だけでなく真も、伯父さんと最後のお別れをしていなかった。なので、せめて、あと数日後に迎える初盆や一周忌だけは手を合わせたいと考えていた。
「急きょ、お好み焼きになりました」
真がダイニングのイスに腰掛けながらすました顔を見せると、義人は「えぇっ」と、わざとらしい声を出した。
「焼肉じゃないの?」
義人と真が同じ反応だと気がついて、瑠璃は腹の底からこみ上げそうになる笑いを抑えようと、下唇を噛んだ。
「焼肉は明日にでも食べておいて。材料、置いて帰るから」
だいぶポットが重くなった。これくらいで充分だろう。
瑠璃は蛇口を止めた。
「ところで、真。あの家、買わないか?」
義人は壁のある1点を指していた。
(お義父さん、また言ってる)
瑠璃は、義人が何を指して言っているのか、わざわざ確認しなくてもわかっていた。
『あの家』といえば、あの家しかない。山手の家だ。
「転勤になるかもしれないから、買いません」
真も義人が何のことを言っているのかわかっているらしく、義人の指す方には一瞥もくれず、ただ淡々と答えた。
「テンキン?」
「4月に戻ってきたばかりじゃないの」
「総合職のサラリーマンは辞令が出たらどこにでも行くものです」

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