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山手の家【第54話】

(そうだ、私も証拠を押さえておかないと)
瑠璃はテーブルに置いていたスマホを片手に、コンセントの前でしゃがんだ。
配線が剥き出しになったコンセントの内部に、異物感のある黒い物体が隠れている。
瑠璃は、シャッター音の出ないカメラアプリを立ち上げると、黒い物体の画像を何枚か撮った。
玄関が騒がしくなった。電気屋さんと警察官の3人が、鍵をかけずにいた玄関扉を開けて、家に入ってきたらしい。
リビングの扉が開くと、電気屋さんがコソコソと瑠璃の方を指差す。
瑠璃はコンセントの前から離れて、その場を電気屋さんと警察官に譲る。
コンセントの奥を覗いていた電気屋さんが顔を上げて「もう、しゃべって大丈夫ですよ」と、口にするまで少し時間がかかった。
「これが干渉したのか、それともマンション自体が古いからなのか、わかんないんですけど、絶縁体が焦げてるんで取り替えますね」
業者さんの脇で、警察官が「ここ、お借りしますね」と、ダイニングテーブルの上に黒い線を垂らした物体を置いて、写真を撮り始めた。
「最近、変わったこととか、ありませんでしたか」
「そうですね……」
少し遡れば、変わったことなんて腐るほどある。
(今さら話したところで、今回のこととは関係ないかもしれないし)
瑠璃は、しばらく考えて、郵便受けが誰かに開けられているかもしれないという話と、住み始める前に何度も誰かが家に上がった形跡があった話をした。
2人の警察官はポケットから取り出したメモ帳に熱心に瑠璃から聞き取った話をメモしている。
家族構成だけでなく、「ここはどなたの名義?」「前に住んでいたのはどなた?」など、基本的な個人情報に関する質問もあった。
顔を見合わせて、警察官が回収した盗聴器が入った袋やメモ帳を片付け始めた。
「盗聴器をここに取り付けた犯人が家に来たり、接触を試みたりするかもしれないので、まずは戸締りをしっかりと。もし何かあればすぐに連絡ください」
「この辺、最近、住居侵入や不審者の目撃で通報が増えているので、朝・昼・夜問わず、何か変だと思ったら遠慮なくご連絡ください」
警察官は「では、今日はこれで失礼します」と、一礼した。
2人を見送りに行こうと1歩踏み出しかけた時、コンセントの前で作業をしていた電気屋さんがコンセントカバーを元通りに付け直して立ち上がった。
電気屋さんに工事料を支払い終えて家に1人になると、本当にこれで良かったのか、頭の中を色々な考えと思いが交差して埋め尽くしていく。
真には盗聴器がリビングのコンセントの中から出てきたことを、盗聴器が仕掛けられたコンセント内部の画像と共に伝えた。
真は「マジで?」と、爆笑している顔の絵文字を送ってきた。
<マジでガチな話です。警察の人いわく、犯人が家に上がろうとしたり、接触を試みようとしたりする可能性があるらしいので、今日は面会を休もうと思います>
この人とは真面目な話ができない。
溜め息をついてメッセージアプリを閉じかけたその時、真からメッセージが届いた。
<じゃあ、仕事帰りに僕1人で真珠のところに寄ってみるね。さっき、一般病棟に移ったって連絡あったからさ>
元気になったのは良い。
けれど、救急の病棟に比べてスタッフが手薄になる一般病棟では、真珠が寂しい思いをするのではないか。
会いたい。
でも、真珠の元に駆けつけて家を留守にすれば誰かが合鍵を使って入るかもしれない。
(どうして、当たり前のことが叶わないわけ?)
真珠の服が入った引き出しを勢いよく開ける。信子から、真珠へのプレゼントとしてもらったパーカーを切り裂きたい衝動が瑠璃を侵食しかけていた。
深呼吸して、ゆっくり数字を数える。
(なんだって、あのクソババアのせいで私が苦しまなくちゃいけないのよ!)
盗聴器を仕掛けたのは、信子ではないかもしれない。
わかっているけれど、瑠璃にとって信子はとっくの昔に信用できない人になっていた。
(そうだ、郵便……)
マンション内なら大丈夫だろう。
このまま家にこもり続けたら、気が狂いそうだ。
瑠璃は玄関を施錠して、エレベーターに乗った。
1階で降りると、エレベーターはすぐに扉が閉まって、上がっていった。
エントランスの脇の、各部屋のポストが集まる壁面の前に立つ。
5月に入ってから、郵便受けのダイヤルの数字を『5』に合わせるようにして、真にも郵便受けを開けた後はダイヤルの数字を『5』に合わせるように伝えていた。
(珍しい。いじられてない)
数字と数字の間とか、『5』以外の数字が表示されていることの方が多いのに、今日はきちんと『5』が表示されている。
郵便受けを開けていると、黒ずくめの男がオートロックを解除してエレベーターに向かった。
(あ、703の人だ)
瑠璃が郵便受けの中から1枚のチラシと、1通の封筒を取り出して、郵便受けのダイヤルを『5』に合わせると、さっき家に上がった警察官が2人ともエレベーターから降りてきた。
警察官たちと会釈をしてすれ違う。
エレベーターホールに向かうと、口元に笑みを浮かべた黒ずくめの男が、エレベーターのドアを開けて待っていた。
「待たせて、すみません」
乗り込んで、ドアを閉める。7階のボタンが光っている。
「あの、701号室の小川と言います。ご挨拶が遅くなったみたいで……」
「あぁ、701の。僕、703の山崎って言います」
「山崎さん。もう、本当にご挨拶遅くなって、すみませんでした」
真よりも、山崎の方がずっと背が高く、エレベーターの天井に頭がつきそうに見えた。
「前に701に住んでたおばちゃんから、『今度、甥っ子たちが住むから』って聞いてましたよ」
「あら、そうでしたか。うちに小さい子がいるので、なるべくうるさくしないように気をつけますが、何かあったら言ってください」
「子供が元気なのはいいことですよ。それに、子供が元気な方が、世の中平和だし。そう思いません?」
山崎さんはにこやかに言うと、瑠璃の顔を覗き込むように見下ろした。
「そう、ですね……」
エレベーターが今、何階を通過しているのを確認するふりをして顔を背けた。
エレベーターがタイミングよく停止して扉が開いた。
「お先にどうぞ」
瑠璃は、エレベーターの扉を手で押さえた。
「そういや、2・3ヶ月くらい、売りに出してたみたいですけど……」
先にエレベーターを降りた山崎が振り返って立ち止まった。
「あぁ、売りに出したんですが、買い手がつかなくて私たちが住むことにしたんです」
突然、台車か何かがぶつかるような音が響いた。山崎が吹き抜けから身を乗り出して6階を見ていた。
「奥さん、あそこ」
「はい?」
山崎が手招きする。
ぎこちなく、山崎の横に立つと、山崎がするりと後ろに引いて、背後から瑠璃の両肩に手を置いた。
山崎は瑠璃を吹き抜けの柵ギリギリのところに誘導すると、「ほら、あそこ」と、吹き抜けの柵の間を指差した。指していない方の手は、瑠璃の肩に置かれたままだ。
山崎が指差す先には、玄関扉が開け放たれて、玄関先が丸見えになった6階の一室があった。
玄関の脇に台車が2台置かれている。1台にはモップやバケツといった掃除用具らしいものを載せ、もう1台は何も載っていない。
部屋の中から白い防護服を着た人が重そうな段ボール箱を抱えて出てきて、空の台車に載せた。
「今朝、あそこに住んでたおばあちゃんが、家の中で亡くなってたらしいですよ」
「えっ」
「息子さんが連絡取れないからって来てみたら、意識なくて。救急車呼んだけど、救急車って、亡くなってる人は搬送しないんですもんね」
「そうなんですね……」
「変な話してすみません」
山崎が、瑠璃の肩に置いていた手を離して「そうだ」と、思い出したように発した。
「さっき、おたくに警察の人が家に来てませんでした?」
「あ、あぁ」
(なんでこの人、うちに警察が来たこと知ってるんだろう)
瑠璃は鼓動を落ち着かせようと、静かに息を吸った。
「防犯登録で、回ってるみたいですよ」
「……へぇ。うちには来たことないな」
男の目の奥が鋭く光ったような気がした。
「何かあったら、相談してくださいね」
「は、はい……」
「では、今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
山崎は会釈をすると、鍵を開けて703号室に消えていった。
瑠璃は急いで自宅に入ると、ドアロックをかけ、それだけでは不安でドアガードもかけた。
リビングのテーブルの上に郵便物を置いて、椅子に座って、ひと息つく。
「この家、ホント心臓によくない」
盗聴器が撤去されて、安心したのも束の間だったなと、瑠璃は天井を見上げた。
何気なく、今、持ってきた郵便物に目をやる。
チラシには『701号室にお住まいの方へ』と、わざわざ宛名書きされていた。
『私どもの顧客で、どうしてもこちらのマンションを購入したいとご希望の方がいらっしゃいます。リフォームの有無、内装の状態などは問いません』
「だったら、下の601を買えばいいのに。事故物件だけど」
チラシをよけると、封筒が出てきた。封筒の宛名に、瑠璃は驚いた。
(なんで信子さん宛の郵便物が届くの?)
しかも、宛名が『藤原信子』ではなく、『小川信子』になっている。
(旦那さんが亡くなったら、旧姓に戻せるんだっけ?)
瑠璃の頭の中が再び混乱し始めた。
(小川に戻るとか、戻ったとか、聞いてないし)
瑠璃はぐったりと椅子の背もたれに寄りかかった。
















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