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山手の家【第5話】

瑠璃は真と結婚すると決めた時、いつか真の転勤に帯同する日が来ることを暗黙のうちに承知していた。
転勤先はどこになるかわからない。日本国内かもしれないし、場合によっては海外の可能性もある。
ただ、まさか、真珠まじゅを出産する2ヶ月前に転勤の辞令が出るとは思わなかった。
実際に転居したのは真珠の出産1ヶ月前。臨月を迎えようという頃だった。
無茶振りに近い転勤で、瑠璃が救いだと思ったことが2つある。
1つは真の故郷、義人と幸代が暮らすこの街に戻れること。
もう1つは真の職場が妊娠中の瑠璃に配慮して、荷物の箱詰め作業付きのフルコースで引越し業者を手配してくれた上、業者に払う費用を全額負担してくれたことだった。
電気ポットを台座にセットして電源を入れる。瑠璃が振り返ると、義人と目が合った。
「瑠璃さん、あの家、買わない?」
いつもの冗談めかした様子とは違って真剣な雰囲気の義人に、瑠璃はいつもと何かが違うと感じた。
「また、いつ転勤になるかわからないですし、それに、あの家は元々、優子ちゃんに相続させると聞いていたので、私たちが買うのは……」
「大体、優子に相続させるって散々言ってたのに、急に売りに出すなんて、どういうつもりだよ」
瑠璃が言い終わらぬうちに真が加勢したが、義人の反応はない。まるで何も聞こえていないかのようだ。
「優子ちゃんだって、あの家が売れなかったら自分が住むつもりで考えているかもしれないし、ねぇ」
瑠璃が真に水を向けると、真は義人を見上げた。
電気ポットが騒がしい音を立て始めた。
「そうだよ。このまま独身だろうと結婚しようと、売れなかったらあの家は優子のものなんだろ?」
瑠璃と優子は生まれ年も学年も同じで、お互いに「友達みたいな感じだよね」と言っている。
時々、訪れた店のスタッフに2人の関係性を訊ねられて、義理の姉妹だったことを思い出すくらいだ。
優子が休日出勤の代休で平日に時間ができた時などは、真抜きで食事に出かけることもある。
それくらい自然に、瑠璃は優子と交流していた。
真と妹の優子には不思議なシンクロがある。
それぞれ違う会社に勤めているのに、ほぼ同じタイミングで、同じ街への転勤の辞令が出るのだ。
優子もつい3ヶ月前の5月に、この街に転勤で戻ってきている。
義人も幸代も、優子が実家で暮らすものだと思っていたそうだが、優子は職場のすぐ近くにある独身者向けの社宅に居を構えた。
一度、別々に暮らし始めた家族が再び一緒に暮らすのは難しいと瑠璃は子供の頃から認識している。色々な家庭の、そういう局面を何度も見てきた。
ただ、優子の場合は実家に戻らなかったというよりは、戻れなかったのだ。
生まれたばかりの真珠の顔を見に来た優子が話の流れで「あともう少しだけ転勤が早く決まってたら、実家に戻る選択肢もあったんだよなぁ」と、漏らしたのだ。
無言のまま何度か瞬きを繰り返していた義人が、ゆっくりと口を開いた。

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