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山手の家【第58話】


(もしも、真さんや真珠が誰かのせいでアレルギー症状を引き起こしていたら)
そう考えると、だんだん腹が立ってきた。
意図的にそんなことをやるとしたら、行方がわからなくなっている義人や、意識のない状態で発見された幸代と最後に会っていただろう、あの人しか考えられない。
瑠璃の頭の中で、真っ赤な口紅を塗った信子の唇がニヤリと動く。
(あのくそババア、許さない)
瑠璃はタブレットの電源を入れると、メモ帳を立ち上げた。
自分や周囲の身の上に起こったことを全部、世の中にさらす。
タイトルに『プロローグ』と打ち込んで、文章を書き出そうとして手が止まった。
今、抱えている思いを全て吐き出さないと、後ろを振り返ることも、前に進むこともできない気がした。
(こんな毎日は、もう終わりにしたい。いや、終わりにする)
『プロローグ』の文字を消して『エピローグ』と入力してみる。入力した画面の文字を見て、瑠璃は小さく頷いた。
(いける。これで書き出せる)
指先に感情を乗せる。滑らかに動き出した指が、心の叫びを文字に変換していく。
一気に書き出した思いを、久しぶりに立ち上げたnoteに投稿しようとして、瑠璃は手を止めた。文章を読み返して、腕を組む。
(真さんとか小川家の人たちにあっさり身バレして、書きたいことが書けなくなるのは嫌だな)
これまでに見てきたことと、その時に感じた思いを、どういう風に形にするのが1番おさまりが良いだろうか。
瑠璃は今綴ったばかりの文章を一旦、寝かせることにした。
文章の冒頭に記した『5月14日』の部分を空白にして、保存をかけた。
短距離走を走り終えた後のような疲労感があるが、胸の内に立ち込めていたモヤが消えていた。
瑠璃は連絡があったらすぐに応答できるようにスマホをデニムのお尻のポケットに入れると、冷蔵庫で冷やしていたお茶をグラスに少しだけ注いで、一気に飲み干した。
気持ちがすっきりして落ち着いた途端、ひらめくものがあった。
(そうだ、小説として書けばいいんだ。いいこと思いついたぞ)
使ったばかりのグラスを急いで洗って、瑠璃は何かがいつもと違う気がして首を傾げた。
シンクに流した泡を含んだ水は詰まることなく、怪物の叫び声のような音を上げることもなく、粛々と流れていった。
(私、排水溝の掃除したっけ?)
排水溝を眺めていると、玄関の方からガタンと扉の開く音が飛んできて、何かが壁にぶつかる重い音が続いた。
(しまった。糸、あのままだった)
バリケード代わりに玄関に張った糸を真が引っ掛けたかもしれないと、瑠璃は慌ててリビングのドアを開けた。
「真さん、ごめ……」
瑠璃は言葉を失った。どこかで嗅いだことのある香りが鼻先をかすめた。
「なんなのよっ! まったく……」
玄関扉に向かって怒鳴りつけている黒い塊、いや、信子がいた。
「イタタ……」
信子は両腕をさすりながら、ゆっくりと立ち上がる。
(そうだ、すぐに出かける予定だったから、ドアガードをかけていなかったんだ)
無表情のまま、信子は瑠璃を正面にとらえて突っ立っていた。
瑠璃は大きく、けれど静かに息を吸い込んだ。
「人の家に、勝手に上がって何の用ですか」
「預けていたもの、引き取りに来たのよ。そうしたら、鍵が開いてたもんだから、入っただけよ」
「連絡をよこすなり、インターホン鳴らすなりしてください。勝手に上がるなんて、泥棒と同じですよ」
信子が靴を脱いでこちらに向かってきた。明かりに吸い寄せられる蛾のようだった。
瑠璃はこれ以上、信子を家に上がらせないように立ち塞がってみたが、肉厚な体で突き飛ばされて阻止できなかった。
「泥棒だなんて人聞き悪いわぁ」
信子はリビングを舐めるように、ぐるりと見回した。
「泥棒じゃなかったら、何ですか。小川家の幸せを脅かす、破壊者ですか」
「失礼な口のきき方ねぇ。幸代さんといい、あなたといい、よその人はこれだから……」
詰め寄りたいところだが、信子に組み伏されてしまったら死んでしまうかもしれない。
何かあったら逃げられるようにリビングの入り口の前に立ち、信子との間に十分な距離をとった。
「真さんと真珠に何をしたんですか。今みたいに、うちの家に勝手に上がって嫌がらせしてたの、わかってるんですよ」
信子が、ふっと笑った。
「嫌がらせ? このマンションのルールを教えてあげてるだけじゃない」
「合鍵使って家に上がって、トイレにネコのうんこ置いたり、盗聴器仕掛けたり、それとルールと何が関係あるんですか?」
「盗聴器? そんなもの知らないわよ」
「しらばっくれないで。あのネコのうんこ、優ちゃんのところのマロのでしょ?」
信子はため息をついて、「これだから、よその人は……」と、ゆっくり首を横に振った。
「あのね、このマンションは不具合で業者を呼ぶ時には管理組合におうかがいを立てて承認をもらって、指定の業者にお願いしないといけないのよ」
「は? そんなの知らない。ルールがあるなら先に言ってよ」
瑠璃の声などまるで聞こえていないかのように、信子はそっぽを向いた。
「マコちゃんも真珠ちゃんも繊細なのに、あなたは生命力が強いというか、しぶといというか、なんかゴキブリみたいよね」
信子は真珠のおもちゃが入った箱の前に「よいしょ」と、座った。
(触るな!)
殴りかかりたい衝動を抑えて、瑠璃はポケットに入れていたスマホのカメラを起動して録画ボタンを押すと、また、ポケットの中にスマホを押し込んだ。
「2人に何をしたの?」
「私は何もしてないわ。鳩よけの薬を用意しただけよ」
「鳩よけ?」
信子がおもちゃ箱の1番上に座っていたクマのぬいぐるみを両手で持ち上げて、微笑んだ。
「あんな取り扱いが難しい薬、いつまでも持っているわけにいかないし」
「いつまでも?」
信子は丁寧にぬいぐるみを戻した。横を向いているからはっきりとわからないが、信子の目は潤んでいるようだ。
「母さんは90歳だったから、すぐに効いたけど、大将はいくらガンだったとはいえ、なかなか効かなくてねぇ」
(まさか、毒物?)
瑠璃は思わず身構えた。義人や幸代の顔が脳裏に浮かんだ途端、背筋がぞくりとした。
「信子さん、今日、お義父さんとお義母さんに会いましたよね?」
返事は、ない。
「お義父さんと、お義母さんに何をしたんですか」
リビングに響き渡るくらい声を張り上げると、信子が振り向いた。
「義人も幸代さんも、マコちゃんも、しっかりしたお嫁さんもらって幸せ者よねぇ」
信子の笑顔が醜く歪んだ。
「憎たらしい」
瑠璃は目に力を入れて、負けじと信子を睨みつけた。
















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