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山手の家【第27話】

山手の家に誰かが入った形跡を見つけてから、瑠璃たちは掃除や家具の配置を考えるために2週間に1回のペースで山手の家に出入りするようになった。
水道管の掃除の件を、義人は一切知らないという。
それでも真は「鍵を交換するのは引っ越しの直前で良い」の一点張りだった。
瑠璃は仕方なく『水道管掃除のご案内』の用紙を折りたたんで、玄関扉の1番下の蝶番の下に目立たないように挟んだ。誰かが扉を開ければ挟んだ用紙が落ちる。
これは根本的な解決にはならないのは、瑠璃も承知していた。
あくまで誰かが入ったかどうかを確認するためのものだ。扉を開けた人が挟めた用紙に気がついたり、落ちた用紙が何であるか気づかれたりしたら、扉を開けた痕跡を消される可能性もあった。
あの日以来、瑠璃は心の中から何かが抜け落ちたような感じがしていた。食欲はある。睡眠は、夜中に起きる真珠の相手をして、小刻みではあるがとれてはいる。
感情だけ、起伏のない状態が続いている。寝返りを打てるようになるなど、真珠の成長を目の当たりにして心が動くことはあっても、それ以外のことに関して心が動くことは、ほとんどと言っていいほどなかった。
真が何かと気遣うような態度を見せたり、意見を訊いてくることがあったりしても、結局のところは、真が真自身のためにやっているように感じて、瑠璃の心はさらに冷えていった。
考えを伝えても、考えが採用されることは全くなかった。
気遣いも、結局のところ真が自分の思い通りに物事を動かそうとした時に手伝えるかどうかを確認するための様子うかがいでしかなかった。
それは、今に始まったことではないというのも瑠璃は承知していた。



今年の終わりが、翌日というところまで迫っていた。
街は年末年始の休暇に入る会社や店が目立ち始め、道行く人たちの中には、帰省なのかスーツケースを持っている人も混ざっている。
「今年の締めに、みんなで美味しいものを食べないか」
小川家のみんなを誘って、真が懇意にしている割烹料理屋でランチを食べることになった。
みんなが座敷でドリンクを注文していると、遅れて信子がやってきた。食事の席ということを考慮してか、いつもの香水の匂いはしなかった。



締めのデザートが運ばれてくるのを待っていると、真の膝の上で真珠がぐずり始めた。
離乳食を少しと、ミルクを飲んで満たされた真珠は眠そうだった。
座敷についてからずっと、真が真珠を抱え、相手をしていた。
瑠璃は真から真珠を預かると、横抱きにした。
「真珠がみんなと美味しいものを食べられるのはいつになるかなぁ」
真も真珠の成長が楽しみのようだった。
「結構、早い時期に食べ物に興味を示したわりに、あんまり離乳食を食べてくれなくてさ」
「兄貴に似て、グルメなのよ」
優子が真をからかっていると、「どっちに似ても食いしん坊よ、きっと」と、幸代が無邪気に人差し指で真と瑠璃を交互に指した。
突然、信子が真っ赤な唇を両手で覆って、苦しそうに肩を振るわせた。
咳込んでいるのかと思いきや、笑い声を必死に抑えている。
「食いしん坊って言えば、この人の猫もすごいのよ」
信子は隣に座る優子の肩を叩いた。叩いた音が座敷に響いて、真と幸代が一斉に信子に鋭い視線を注いだ。目の前で起きていることだというのに、義人はぼんやりしていて、微動だにすらしない。
スキンシップで相手の体を触ったり、軽く叩いたりする人はいるけれど、信子の場合はスキンシップと呼ぶには疑問がある。
(加減をわからずにやってるのか、さりげなく暴力振るってるのか、わからないな)
瑠璃は腕の中で手足をばたつかせる真珠を抱え直した。
優子は叩かれた肩を撫でながら「うちのマロのこと?」と、苦笑いした。
「そうそう、マロンちゃんったら、面白いのよぉ。おデブだから、キャットタワーに登ろうとして落ちるの。あんな猫、初めて見たわ」
「信子さん、『マロン』じゃなくて『マロ』。そろそろ、覚えてね」
優子は悲しげにつぶやいて、信子から顔を背けた。
「マロちゃん、保護猫で、色々とあったでしょう? ごはん食べられるようになって良かったじゃん。幸せの証だよ」
瑠璃が「ね」と、優子に笑いかけると、優子が「うんっ」と、力強く頷いた。そんな優子の向こうから「グフグフ」と、排水溝が詰まったような、不気味な音が立ち上った。
信子の笑い声だった。
「だって、あの猫、デブなんだもの。ソファから下りようとして、着地に失敗してコケてるし」
真と幸代は、笑いをこらえて震える信子を冷ややかに見つめていた。
(誰かをおとしめないと気が済まないって、病気みたいなものよね)
しかも、単なる病気ではなく、次々と周りに感染していく、伝染病のように感じられた。
瑠璃は「うつってたまるか」と、目を伏せた。



畳んだベビーカーを持って狭い階段を上がると、みんなが何かの話で盛り上がっていた。
真珠をベビーカーに乗せようと近づいてきた真が「みんなで、山手の家を見に行こう、って」と、笑顔で瑠璃に話しかけてきた。
店を出て、山手の家までのゆるい上り坂を進む。
いつものようにベビーカーを押す真は、幸代と優子と楽しげな様子だった。
瑠璃は、無言で歩く義人と信子のすぐ後ろを歩いていた。
目の前の信号が赤に変わって立ち止まる。瑠璃は信子の隣に立った。
「信子さん、あの家のお隣さんに挨拶しようと思うんですけど、お隣さんのこと、ご存知ですか?」
信子は急に話しかけられて驚いたらしく、一瞬の間を挟んで、「あぁ、お隣の坂田さんね」と、答えた。
「坂田さんは、家の裏でお店をやっている人なのよ。隣に挨拶に行くよりも、お店に挨拶に行った方が確実かもしれないわ」
言い終わると、信子が懐かしそうに目を細めた。
「坂田さんもそうだけど、あのマンションはこの辺でご商売をやっている人ばかりなのよ。まぁ、あなたのお仕事もそんな感じかもしれないわね。マコちゃんみたいなサラリーマンは珍しいわ」
信子の向こうにいた義人が口を開いた。
「ま、元々あの家を買った私たちの母親も商売やってたし、言われてみれば、そんな人ばかり住んでるのかもな」
歩行者用の信号が青に変わった。
少し進んだところで、山手の家の壁が見えてきた。
「ほら、あそこ。緑のひさしのお店が坂田さんのお店よ」
家の1つ手前の細い路地を通りかかった時、信子が路地の先を指差した。
ゆるい坂からはっきりとは見えなかったが、なんとなく、緑のひさしが出ている箇所があるように見えた。



瑠璃が持っていた合鍵でオートロックを開錠すると、みんな我先にとエレベーターの乗り口に向かった。
6階に停まっていたエレベーターが1階に着くと、信子、義人、幸代、優子の4人がエレベーターになだれ込んだ。ベビーカーを乗せる余裕は、ない。
「私たちだけ先に上がっても、家に入れないんだが」
義人の声に真がすぐに反応した。
「貸して、鍵」
真は瑠璃の手から合鍵をひったくると、真珠の乗ったベビーカーを置いてエレベーターに飛び乗った。
エントランスに瑠璃と真珠を残して、エレベーターは浮き上がった。
みんなを追いかけて7階に上がったところで、みんなの脱いだ靴で玄関にベビーカーが入らないのは容易に想像がついた。
このままエントランスで待つのか、それとも7階に上がるのか。
瑠璃はしばらく迷った末に、エレベーターのボタンを押した。
7階に着くと、真が玄関の外に立っていた。
瑠璃は吹き抜けの脇にベビーカーを停めて、階下に目をやった。
真下の601号室の玄関にあった電動のママチャリが今日はない。
「入らないの?」
「多分、ベビーカー置けないから、私ここで待ってる」
真が無言で頷いたその時、701号室の玄関が開いて、信子が出てきた。
信子は瑠璃たちのところにやってくると、腰をかがめ、ベビーカーの真珠に向かって微笑んだ。
「中に入らなくていいの?」
「この前も空気の入れ替えに来たばかりなんで」
「そう」
信子の横顔が、どことなく、寂しそうに見えた。
「あの。私たち、本当にここに住んでいいんでしょうか?」
信子が「え?」とも「へ?」ともとれる小さな声を発した。
視界の端で、真が「急に何を言い出すんだ?」と、言いたげに首を傾げた。
「あなたたちが住んでくれるなら、うれしいわ」
信子は701号室の方を見つめていた。



新しい1年が始まった。
前日に引き取っておいたおせちのお重を持って、義人の家がある海沿いに向かって車を走らせた。
「あけましておめでとうございます」
義人の家に入ると、玄関に置いてある靴が少ない気がした。
(優子ちゃん、来ていないのかな)
何か変だなと思いつつ、瑠璃はお重と、真珠のお世話グッズの入ったバッグを持ってリビングに入った。
「どういうことだよ、それ」
真珠を抱っこした真が大きな声を上げた。
「今、説明した通りだ」
真が「納得いかない」と、言いたげに、ソファに腰を下ろした。
瑠璃がお重をダイニングテーブルの真ん中に置いて、真と義人の顔を交互に見ていると、義人が瑠璃に気づいて、「今、真にも話したところだけども」と、話を切り出した。
「昨日、姉さんから同居を解消したいと話があった」
「え、昨日?」
「なので、今日は姉さんは参加しません。優子も急きょ、隣の部署の応援に出ることになったらしいので、欠席です」
義人は淡々と続けた。
「それから、姉さんは『できるなら、山手の家に戻りたい』と、言ってる」
「どういうことですか、お義父さん」
「今、説明した通り。以上」
(お義父さん、新年早々、キツイって)
瑠璃は近くにあったダイニングの椅子に力なく座り込んだ。


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