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山手の家【第47話】

土を掘るような音は明け方近くまで続いた。
雨は朝を迎えても強く降り続けて、空は重い灰色の雲に覆われている。
瑠璃は大きなあくびを手で覆った。
眠れなかった。
音はお隣のベランダの方から聞こえてきたけれど、わざわざベランダに出て、お隣のベランダを覗き込むわけにもいかず、もやもやした気持ちを抱えながら音を聞いていた。
時計の針が6時を指そうとしている。
寝室から、真が目覚まし時計代わりに使っているスマホのアラームが聞こえてきた。
いつもなら、わりとすぐにアラームが止むのに、今日は珍しく鳴り続けている。
(昨日、だいぶ疲れたのかしら)
寝室に入ると、真が片手を上げた。アラームが鳴っているというのに、真珠は小さな寝息を立てて寝ていた。
「おはよ」
「瑠璃さん、僕のスマホどこかわかる?」
「枕元じゃないの?」
掛け布団を剥ぎ取ると、真が「寒っ」と、身を縮こませた。
スマホは真の足元にあった。
「あった、あった」
瑠璃はスマホを拾い上げて、アラームを止めた。
「なんか、体が変なんだ。とにかく、だるい」
「熱あるんじゃない?」
瑠璃は真のおでこに自分の手を置いた。ほんのりと温かいが、普段、真のおでこに手をあてるようなことをしないので、熱があるのかどうかまではよくわからなかった。
「これは多分、熱、あるな。計らないけど」
真が「よいしょ」と、上半身を起こした。
「出勤して大丈夫なの?」
「今日、明日を乗り越えたら連休に入るから」
「熱くらい、計っておけば?」
「いや、自分の体温見たら、余計に具合悪くなりそうだからやめておくよ」
立ち上がった真が大きくよろけて、尻もちをついた。
「無理しない方がいいって」
「会社行ったついでに、医務室で診察してもらうよ」
真はもう1度立ち上がって、ゆっくりと歩き出した。
「雨も降っているし、ペットボトルと缶のごみは私に任せて」
「それくらい行けるよ。大丈夫だ」
真は体の節々が痛いのか、歩みはいつもより遅く、1歩踏み出すたびに顔をしかめた。
出かける支度にいつもよりだいぶ時間を費やして、真は黒いリュックサックを背負い、片手に傘、残る片手にペットボトルや缶の入ったゴミ袋を持って出かけていった。



いつもより長めに寝ていた真珠も、真と同様に、どこかだるそうだった。
食欲がないのか、ふりかけをかけたごはんを嫌がって、お味噌汁だけきれいに平らげた。
真珠はリビングのカーペットの上に寝転んで、そのまま寝てしまった。
食器を洗っている間に、いつものようにコンセントに向かってお経かデスメタルを流してやろうと考えていた瑠璃は、さすがに寝ている子のそばでそれはないだろうと考えを改めて、真珠がお腹にいた頃によく聞いていたクラシックのプレイリストの中から、ホルストの組曲『惑星』を選んで流した。
真珠のお皿をすすいでいると、排水がうまく流れていかず、シンクに溢れそうになった。
(ちょっとしか水を流してないのに)
瑠璃は水道を止めて、お皿のすすぎを中断した。
溢れかけた排水がボコボコと音を立てて、あっという間に吸い込まれていく。
最後に『ぬぅぉーっ』と、怪獣かバケモノが、とどめを刺されて叫んでいるような音が排水溝から聞こえてきた。
(変な生き物が住んでるとか、ないよね?)
瑠璃は、排水溝をひと睨みしてから、すすぎが途中になっていたお皿を再び水で流し始めた。
突然、頭上から、バシャーン、ガシャーンと金属がぶつかり合う音が降ってきた。
瑠璃が「何?」と、天井を見上げると、玄関の方から瑠璃が立っている真上に向かって、誰かが走った。
男の人の話し声がかすかに聞こえる。しかも、1人だけではなく、複数のようだ。
寝ていたはずの真珠が、顔を真っ赤にして「うー」と、うなりながら体をバタつかせた。
「急にびっくりしたね」
瑠璃は真珠を抱っこして、小さな背中をさすった。
(もしかして、荷物の搬入かな)
荷物の搬入ならば、しばらく大きな物音が響いて、そのたびに真珠がぐずるかもしれない。
「お散歩行こうか」
雨も降っている上に、まだお店が開くには少し早い時間だが、買い出しついでに散歩に出ることにした。
玄関を出てすぐに、いつもなら吹き抜けで最低でも1羽見かけるハトが、今日は1羽もいないことに気づいた。
(ハトもお引越しかしら)
8階に停まっていたエレベーターを呼ぶと、エレベーターの内部は引越し業者のロゴが入った保護材に覆われていた。
1階に降りると、エレベーターホールはもちろん、エントランスの床やガラスの扉など、いたるところが保護シートで覆われていた。
(やっぱり荷物の搬入みたいね)
普段は鍵を使わないと開かないガラスのスライドドアも、荷物の搬入がしやすいように全開になっている。
エントランスの正面の車道に、引越し業者のトラックが1台横付けされていた。
(このトラックも、警察から許可証もらったのかしらね?)
瑠璃はトラックを横目に傘を開いた。
歩き出して、引越しのトラックの真後ろに黒い高級ワゴン車が1台、ハザードランプをつけて、エンジンをかけた状態で停まっていることに気づいた。
(今日、引越してきた人の車かな?)
気になって、傘を持ち上げてワゴン車に目をやると、運転席に座っていた白いワイシャツを着た男と視線がぶつかった。
瑠璃はとっさに傘で顔を隠した。

















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