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山手の家【第30話】

衝撃の元旦から1週間経った。
瑠璃と真、そして真珠の3人は厚手のコートを着て、山手の家にいた。
義人が手配したエアコンの設置業者がそろそろ来る頃で、マンションのエントランスに到着したら真のスマホに連絡が入る約束になっている。
真は冷たい床にあぐらをかいて、さっきからずっと、スマホで調べ物をしているようだった。
(早く来ないかなぁ)
じっとしていると足元から体の熱を奪われそうだった。瑠璃は真珠を抱っこして、ぐるぐるとリビングの中を歩いていた。
この1週間はとにかく忙しかった。
まず、元旦の次の日の夜に義人から連絡があった。
「エアコンはお前たちの好きなものを選びなさい」
そう言っていた義人が「お年玉セールで安いから」と、山手の家のリビングにつけるエアコンの購入を報告してきた。
その際、義人は「姉さんは山手には住まなくなったので、予定通りお前たちが住みなさい」のひと言と、「業者の人に8日に来てもらうようにお願いしたから、あの家にこれから住むお前たちが立ち会いするように」と、付け加えた。
一方的だと憤る瑠璃を、真は「今に始まったことじゃないし、エアコンを買って親父なりに罪滅ぼししてるつもりなんだろう」と、なだめた。
幸代の変化も気になるが、最近は義人の変化のスピードの方が何倍も速く感じて、瑠璃は気が気でなかった。
真が探し出した、評判が良いと噂の認知症の専門クリニックに、義人と幸代を診てもらえないか相談したが、「初診の受付は1ヶ月待ち」と、言われた。
たとえ1ヶ月待ちでも、診てもらうのと、診てもらわないのでは違う。
診てもらわないことには何も始まらない。
瑠璃はすがるように2人の初診の予約を入れた。
そして、初診までの1ヶ月、義人と幸代に何事も起こらないようにと願った。
ずっと同じ場所をぐるぐる歩き続けて景色を見飽きたのか、真珠がぐずり始めた。
瑠璃は真珠を抱っこしたまま、キッチンに立った。
正面に見える、ベランダと小さなビルの群れを眺めて、瑠璃の目がその手前の窓ガラスに釘付けになった。
(何これ? こんなのあった?)
瑠璃は真珠を強く抱いた。
窓ガラスに、べったりと手形が1つ、ついていた。
キッチンからでも、はっきりと見えるくらい、白く濃い。
瑠璃はキッチンを出て、スマホに夢中になっている真の肩を叩いた。
「真珠を抱っこしてもらえる?」
「え?」
急に真珠を押し付けられて、真は不満そうに唇を尖らせた。
瑠璃はキッチンに戻ると、シンクの下の収納に入れていた、お掃除万能ウェットシートをわし掴みした。
手形に近づいてみると、手のひらの細かいしわの1本1本、指の先の先に刻まれた指紋もはっきりと窓に付着していて、誰かが窓の外から手を押し当てているような、気味の悪い感じがした。
瑠璃の手とさほど変わらないくらいの大きさ、あまり節くれ立っていない指の感じ、瑠璃の目線の高さより少し下に手形がついていることを総合すると、女性の手形のようだ。
親指が向かって左側にあるということは、家の中からつけられたものなら右手の手形となる。
ウェットシートで手形の親指のところを拭いてみる。
手形は油分が強いのか、ウェットシートは手形の上で引っかかった。
ウェットシートを握る指先に力を入れてみたが、汚れが伸びて余計に汚くなった。
瑠璃は舌打ちした。
(なんなの、これ。気持ち悪い)
べっとり、ねっとりした手形が、執着心の象徴のように見えてくる。
瑠璃が歯を食いしばって手形を擦り落としていると、背後でスマホの鳴る音がした。
真は短いやり取りを終えると、「じゃあ、ここで待ってろよ」と、真珠に向かって話しかけるのが聞こえた。
「瑠璃さん、下に業者さん着いたらしいから、迎えに行ってくるね」
「うん、お願い」
振り返ると、真珠が冷たい床の上に寝転がっていた。
「おいで」
真珠を片手で抱っこして、残る片手で窓の汚れを力いっぱい擦る。
本当は真珠をこの汚れに近づけたくなかったが、冷たく、まだカーペットも敷いていない硬い床の上に寝かせるのはかわいそうだった。
どうにか手形を消し終えたその時、玄関の扉が大きな音を立てて開き、冷たい空気が瑠璃の背中に吹きつけた。
「お邪魔しますー」
野太い声と、重たい足音が迫ってきた。
作業服姿の、縦にも横にも大きな男が窓枠の上を指した。
「ご主人さん、エアコンの電源って、これだけですか?」
「そう、ですね。そこの1箇所だけです」
男は何も言わずに窓を開けて外に首を出すと、隣の702号室の方を見て「あー」と、落胆するような声を上げた。
「ここにエアコンを取り付けると、ちょうどここ、『この付近に物を置かないでください』っていうところに室外機をおくことになるんですよ」
「え? じゃあ、こっち側に寄せることは?」
真は702号室から離れた側を指した。
「そうなると、中のエアコンと室外機が離れることになるんで、配管を隠すための資材の追加発注が必要になるんですよ。後日改めて設置におうかがいすることになります」
「置くな、って言われてるところに置くわけにはいかないし……」
真と目が合った。
「後日改めてで良くない? 今すぐ使うわけじゃないし」
真の顔が、ぱっと明るくなった。
「えっと、あの、延期するとしたら、いつ頃に延期になりますか」
男は、持っていた用紙の束をめくりながら「28日ですね」と、端的に答えた。



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