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山手の家【第13話】

店員が紅茶とコーヒーのカップを持ってきた。
少し遅れて信子の頼んだカレーセットが運ばれてくると、信子はカレーの皿を抱え込むようにして勢いよく食べ始めた。
「信子さん、誰も横取りなんてしないんだから、ゆっくり食べて」
真が呆れたように笑うのも構わず、信子はカレーをかき込む。
(お預けを何度もくらって、ようやくエサにありつけた犬みたい)
瑠璃が冷ややかに見つめていると、信子が急に頭を上げて「あぁ、美味しい」と、恍惚の表情を見せた。
「あの家で料理を作りたくても台所に入らせてもらえないし、幸代さんが作った料理は傷んだ食材使ってたりするから食べれないこともあって」
そう言うと、信子は瑠璃たちが訊ねてもいないのに、カレーを食べながら喋り出した。
夕食に出された湯豆腐の豆腐とポン酢が腐ってとんでもない異臭を放っていたのに、義人と幸代が平気な顔をして食べていて信じられなかったとか、すき焼きを食べるのにあの人たちは卵を使わなくて変だとか、同居してから半年の間に起こったという話のほとんどが食べ物にまつわる話だった。
瑠璃は、信子が『自分は正しくて、義人や幸代が間違えてる』『期待が裏切られて不満だ』という思いに共感してほしいのだろうと感じた。
信子が喋り尽くしたのか、おとなしくなった頃には、カレーは綺麗に片付き、サラダだけが手付かずのまま残っていた。
「あぁ、お腹いっぱい」
信子はセットについていたブレンドコーヒーをすすりながらお腹をさすった。
駅まで見送ろうと真が申し出ると、信子は「こんなに暑くて真珠ちゃんが可哀想だから」と断って、カフェの横の坂を駅に向かって上っていった。
(信子さん、誰かと約束でもしているのかしら)
義人たちと同居している家に向かうなら、坂を下って東に少し進んだ先にある駅からモノレールに乗るか、カフェの向かいからバスに乗るしかない。坂の上の駅に行っても、義人と幸代の家には帰れないのだ。
まだ日差しが強い。
喫茶店のある交差点から瑠璃たちの住むマンションまでは歩いて5分ほどかかる。真珠に帽子を被せているとはいえ、この日差しと暑さの中をのんびりと帰るわけにいかない。
瑠璃と真は信子の背中を少しの間だけ見送ると、日陰を探しながら家に向かって歩き出した。
顔や体に汗が滲み始めた。暑い日に子供を抱っこしながら歩くと、余計に暑く感じる。
「しかし、信子さん元気だな」
「今年おいくつだったっけ?」
「親父の6つか5つ上だったから、たしか、今年82歳とかそれくらいだったと思うよ」
それならばたしかに、元気かもしれない。
「ねぇ、真さんは信子さんと話してみて、どう思った?」
「どう、って……」
真が口ごもった。
真に向けた質問が少し抽象的だったかもしれないと思い、瑠璃が質問をし直そうと言葉を探していると、「だいぶ我慢してるのかな? とは思った」と、回答が返ってきた。
「そう」
真とは受け止め方が違うらしいと知って、瑠璃はなんだか寂しい感じがした。
「瑠璃さんは何か感じるところ、あったの?」
「信子さんが本当のことを喋ってるのか、お芝居してるのか、わからないなと思った」
「なんで?」
目の前の歩行者用の信号が青い点滅を終えて赤に切り替わる。3人は小さな日陰に身を寄せた。
瑠璃は日差しから庇うように真珠を抱っこし直した。
「矛盾してるように感じるんだよね」
信号待ちしていた車が動き出して、3人の前を次々走り抜けていく。
「お金に困って弟夫婦と我慢して同居。でも、ブランド品を買うお金はある。なんか、おかしくない?」
「あれは真珠へのお祝いだろ?」
「今日、信子さんがつけてた香水。多分、最近買ったばかりだよ。こないだ遊びに行った時にそこのブランドの紙袋持ってた」
「信子さんがプレゼントでもらった物かもしれないじゃないか」
真が珍しく声を荒らげた。普段の真が穏やかなだけに、瑠璃は突き放されたような気分になった。
信子からもらった子供服は春や秋の肌寒い時に着せるにはちょうど良さそうなパーカーだった。
今後に着せることを見越してなのか、今の真珠には大きいサイズを選んでくれる、そんな信子の心遣いをありがたいと思ったし、さすがだなとも思った。
でも、そんな心遣いの裏に、信子のどろりとした感情が隠されているような気がして、受け取りをためらってしまう。
素直に受け取ってしまったら最後、隙を突かれて信子に飲み込まれてしまうんじゃないかとさえ思う。
瑠璃はおずおずと真を見上げた。
「疑いすぎの考えすぎ」
真は目を細めて笑うと、瑠璃の頭をぽんぽんと軽く叩いた。瑠璃もつられて笑った。
「お義母さん、お線香がダメなら香水もダメって言いそうだよね」
「香水の方がもっとダメだろう。ま、出かけてから、どこかの店のトイレとかでつけてるかもしれないよ」
車の流れが緩やかになり、停止線の前でゆっくり停まる。
歩行者用信号が青に切り替わった。
「ほら、行くよ」
真も、いつもの穏やかな真に戻っていた。


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