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山手の家【第3話】

ホットプレートのガラスの蓋に、幸代の覗き込む顔がうっすらと映った。
「あら、やだ。汚れてるわね」
「あ、洗います」
立ち上がると、幸代の両手が伸びてきてホットプレートを掴んだ。華奢な幸代とは思えぬほど、力強い。
「貸してちょうだい。綺麗にするわ」
瑠璃は「キッチンはその家の奥さんの縄張り」と、実家の母が言っていたのを思い出した。
この家のキッチンの主導権は幸代にある。瑠璃は幸代に従うことにした。
「……じゃあ、テーブルの上で綺麗にしましょう。運びます」
ダイニングテーブルにホットプレートを置くと、真がスマホに向けていた視線をこちらに向けて、背筋を正した。
「もう晩御飯?」
「いや、まだ準備だけ。ちなみに、今日のメニューはお好み焼きです」
「焼肉じゃないの?」
瑠璃が黙って頷くと、真は飛び上がるように立ち上がった。
「焼肉にするって聞いたから、焼肉の材料買ってきたのに」
真がスマホを握りしめたままキッチンに向かうと、幸代が「そうなの?」と、真の後を追った。
瑠璃の口から溜め息が漏れた。
ホットプレートにこびりついた焦げは、ダイニングの明かりに照らされて、黒く光って立体的な模様を作っている。
1回お手入れをサボった程度のものには到底思えない。
(根気強く向き合うしかないんだよね)
瑠璃はカウンターの隅で細い湯気を立てている電気ポットを持ち上げた。
電気ポットは異様に軽く、中のお湯は限りなく空に近いようだ。
湯気が立っているのに電源が落ちているということは、再沸騰を繰り返して、最終的に空焚き防止機能が働いたのだろう。
(電気ポットだからいいけど、これがガスコンロの上のヤカンだったら……)
一瞬よぎった嫌な想像を追い払うように、瑠璃は頭を振った。
「ほら、これ。さっき、美味しそうねって言ってたじゃないか」
真の声がカウンター越しに飛んできた。瑠璃は思わず身を乗り出した。
「私、そんなこと言ってたの?」
冷蔵庫の前で、幸代はナスの入った袋を呆然と眺めていた。
瑠璃には、幸代が叱られて怯えている幼い子どものように見えた。
瑠璃は電気ポットを片手に、真と幸代の背後に立った。
「今日はお好み焼きを食べましょう。せっかく、準備してもらったんだし」
2人が揃って振り返る。真が自分を納得させるように何度か大きく頷いた。
「そうだな、そうしようか。うん、そうしよう。野菜とお肉は明日にでも食べといて」
曇っていた幸代の表情が明るくなった。
「このナス、焼きナスとか揚げナスが美味しいらしいですよ」
「あらぁ、それは楽しみ。ありがとう」
「また同じこと言ってる。頼むよ、母さん」
「随分、騒がしいなぁ」
リビングの窓際に置いたマッサージチェアに座っていた義人が、あくび混じりにひと声発した。

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