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山手の家【第18話】

見覚えのある配色のマンションが通り沿いに見えてきた。
マンションは13階建だが、それよりも高く見えるのは、周りが3階建程度の小ぶりなテナントビルばかりだからだろう。
「わっ」
マンションの敷地に入ろうとした真が突然声を上げた。
歩道とマンションのスロープの継ぎ目のわずかな段差にベビーカーが引っかかって、前に進めずにいた。
「昔から何度も来てるのに、こんなところに段差があるなんて初めて知ったよ」
「見た感じ大した段差に見えないのにね」
瑠璃はベビーカーの車輪の、少し上のところを掴んで持ち上げた。
義人と幸代がマンションの居住者用の入り口で瑠璃たちを待っていた。
義人の表情はどこか険しい。
(だいぶ待たせちゃったかな)
詫びの言葉を口にしようとしたが、義人が無言でオートロックを開錠する方が早かった。
瑠璃はひと息つく間すらなく、みんなに続いてエレベーターホールに進んだ。
エレベーターの脇にある掲示板には、ゴミ出しのルールが細かく書かれたプリント数枚のほかに、管理会社の連絡先が書かれたプレート、それに、『民泊禁止』『居住者以外立ち入り禁止』と大きく印字されたプリントが貼られていた。
(居住者以外立ち入り禁止って貼り出すなら、オートロックの手前に貼り出しておけば良いのに)
「瑠璃さん、エレベーター来たよ」
声の聞こえた方を向くと、エレベーターにはもう瑠璃以外の全員が乗っていた。
わずかな隙間に滑り込むと、エレベーターがほんの少しだけ沈み込んだ。
ベビーカーを乗せると、大人4人がギリギリ乗れる程度のスペースしかないとなると、他の住人とエレベーターのタイミングが重なった時は乗るのを見送った方が良いかもしれない。
エレベーターが7階で停まった。
「瑠璃さん、先に出て」
真に促されるままエレベーターを降り、ベビーカーを降ろそうと振り返ると、奥にいたはずの幸代が「あら、ごめんなさい」と、ベビーカーを押しのけて出てきた。
ベビーカーを降ろしきらないうちに、義人もベビーカーとエレベーターの扉との隙間から慌ただしく出ていく。
義人が立っていたところの後ろに『民泊禁止』と赤字で書かれたステッカーが貼られていた。
エレベーターの『開く』ボタンを押し続けていた真が最後に降りて「まったく、せっかちな人たちだ」と、ぼやいた。
降ろしたベビーカーをエレベーター前で回転させて顔を上げると、頭の奥がざわざわするような感じがした。
エレベーターを背にして立つと、マンション裏手にある平置きのコインパーキングの、さらにその向こうに建つ古びた背の低いビルの屋上のタンクや外壁が見えた。
居住用の6階から13階まではエレベーターを中心にして通路が左右に分かれ、カタカナの『コ』の字を描いている。
義人が信子から買い取った701号室の玄関は、コの字の書き出しの位置にあった。
701号室の前では、真が、鍵が開かないと手こずる義人に代わって玄関を開けようとしているところだった。
幸代は702号室の玄関扉の前で、通路の手すりから身を乗り出して下の階を見ている。
ベビーカーのタイヤをロックして、瑠璃も雑に塗られた通路の手すりから顔だけ出して階下を覗くと、5階まであるテナント棟の屋上に白とグレーのまだら模様のハトと、グレーっぽい色のハトの2羽がとまっているのが見えた。屋上についた無数の白色の斑点は、近寄って確認するまでもなく、ハトのフンだろうと察しがついた。
701号室の真下、601号室の玄関先には電動のママチャリが置かれている。自転車のハンドルに引っ掛けられているピンク色の小さなヘルメットは、おそらく子供のものだろう。
瑠璃は少しだけほっとした。
子供のいる家族が下に住んでいるなら、真珠がぐずって泣いたり暴れたり騒いだりしても、少しくらいなら大目に見てくれるかもしれない。
「開いた、開いた」
真が扉を大きく開けて、閉まらないように手で押さえた。
「同じような鍵が2つついているけど、片方は違うのか」
義人は真から返された鍵を見つめて、玄関前で立ち尽くしていた。
「まぁ、とにかく中に入ろう」
真が義人を中に入るよう促していると、ついさっきまで階下を見ていたはずの幸代が、真と義人の間をすり抜けて中に入っていった。
ベビーカーのロックを解除して通路を進むと、船が波に大きく揺れるような目眩を感じた。
「ここ、段差があるから一緒に上げよう」
扉を押さえて待っていた真が中腰になって、ベビーカーのフレームを掴む。
部屋の中から「あら、ずいぶん綺麗になったのね」と、幸代の弾むような声が飛んできた。
「いくよ、せーの」
「よいしょ」
真珠の乗ったベビーカーを玄関に入れると、義人の履いていたスニーカーの片方が、ベビーカーのタイヤに当たって音を立ててひっくり返った。
「意外と狭いんだな」
「ここの段差、結構キツいね」
今は真がいるから良いものの、自分1人だったらと想像しただけで瑠璃はしんどい気分になった。
「今住んでるところの玄関に段差なんてないもんな」
まだ出来上がって1年も経っていない大手住宅メーカー施工の最新式のマンションは、目の前の通りからエントランスを通過して家に入るまでの間にベビーカーが引っ掛かるような段差は1つもない。
瑠璃は家の中に入ろうとして、玄関が意外に狭いことに気がついた。
扉を開けた正面の壁一面に天井まで届くシューズボックスがあって、その分、玄関の奥行きが狭くなっていた。
太一と信子が住んでいた頃にはこんな立派なシューズボックスはなかった気がする。
あったとしても、もう少し縦にも横にも、奥行きも、小さかったはずだ。
「そうか、ベビーカーに真珠を寝かせたまま入ると、扉が閉まらないのか」
「いや、扉はギリギリ閉まるけど、窓か下駄箱のどちらかに寄せないと、私たちの靴を置く場所がない」
瑠璃はすりガラスの窓がはめ込まれた壁側にベビーカーを寄せ、ひっくり返った義人の靴を揃えて端に置き、幸代が脱ぎっぱなしにしていた靴も後で履きやすいように向きを変えて義人の靴の隣に揃えた。
それでも、瑠璃と真の2人分の靴を並べるのがやっとで、隙間に子供の靴を1足か2足、置けるかどうかといったところだ。
「これでも広い方なんだろうけど、なんか今住んでるところと比べると……狭いよな」
真が玄関扉を閉めると、重く大きな音が立った。
「気をつけて閉めないと、音、響くだろうね」
「なんで分譲なのに、こんな団地の玄関みたいな扉なんだ?」
真はぶつぶつ言いながら、床に置かれていた白いスリッパを履いて奥に消えていった。
(通路は外気にさらされてるし、きっと冬は寒いんだろうな)
真が団地の玄関みたいと喩えた扉は、外から郵便物が入れられるようなポケットがついていた。
瑠璃は玄関扉を見て違和感を覚えた。
そして、よくよく扉を観察して、違和感の正体に気づいた。
「真さん、この扉、アレがない」


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