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山手の家【第35話】


3日経って、ようやく発熱がおさまったものの、咳がまだ続いている。
何かしゃべろうと息を吸うたびに、むせるような激しい咳が込み上げる。
真や真珠にうつすことのないように、瑠璃は家の中でもマスクをし、寝起きする部屋を真と真珠とは分けていたが、しゃべろうとすると咳が止まらなくなる症状が出てからは、瑠璃から真に話をしたい時はスマホのメモ帳アプリやメッセージアプリを使って筆談をしている。
しゃべりさえしなければ元気だからと、引っ越しの荷物が入った段ボール箱からガムテープを剥がしたら、たったそれだけで息が上がった。
「荷物の片付けはこれからゆっくりやっていけばいいんだから、今はしっかり休んで」
真に促されて、瑠璃はみんなで使う予定だった寝室に1人、こもった。
(この週末に少しでも荷物の整理を済ませたかったのにな)
瑠璃はつけていたマスクを顎に引っ掛けた。
キッチンとの壁越しに、真と真珠のはしゃぐ声が聞こえてきた。はしゃぐ声に埋もれるように、日曜のお昼に放送される番組のイントロがフルコーラスで流れた。
2人で観ているのだろうか。いつも録画ばかり観て、リアルタイムでテレビ番組をほとんど観ることのない真にしては珍しい。
(近くにいるのに、遠いな)
体調を崩してから今日までの間、真が出勤した金曜を除いて、真珠とは触れ合っていない。
真が不在で真珠のお世話をした金曜日も、食事やおむつ交換といった最低限のことをして、抱っこや遊びも短時間にとどめていた。
寝室の窓から、隣の駐車場の照明のポールにもたれるように立つ、ベージュのトレンチコートを着た男性が見えた。スマホか何かを片手に持って、熱心にその手元を見つめている。
(あの青い車の持ち主なのかしら)
駐車場には小さな青い車が1台だけ停まっている。
スマホをいじるためにわざわざ駐車場の敷地に入ることはしないだろうから、きっとあの車の持ち主なのだろう。
ポケットに入れていたスマホが震えた。
真からのメッセージを受信した通知が一瞬だけ表示されて、消えた。
<信子さんから、この高齢者住宅を紹介されたって連絡来た>
真からのメッセージには住所が記されていた。
さっそく地図アプリで住所を調べると、山手の家からそれほど離れていない、野球場のある大きな公園の近くだった。
土地勘のない瑠璃には、治安が良い場所なのかどうかだけでなく、どういう雰囲気の町なのかすら想像できなかった。
続いて事故物件情報サイトを開こうとして、スマホでは画面が小さすぎると手を止めた。
枕元に置いていたタブレットでサイトを開き、検索窓に教えてもらった住所を入力する。
少し時間がかかって、さっき地図アプリで見た地図とほぼ同じ地図が出てきた。
該当の住所に何も表示がないということは、『事故物件情報はなし』ということで良いだろう。
地図の表示を1段、広範囲に設定すると、西隣のブロックに数箇所事故物件情報が出てきた。
これくらい離れていれば問題ないだろう。
ふと、画面の端に目がとまった。事故物件を示す炎のマークが3つ表示されている。
(え、ちょっと。嘘でしょ?)
瑠璃は激しく咳込んだ。
よく見ると、瑠璃たちの住むマンションにマークが3つ表示されている。
瑠璃は慌ててスマホでタブレット画面の写真を撮り、真に送信した。
<信子さんのところは問題なし。ただ、うちのマンションに事故物件情報が出てる>
メッセージに既読マークが付くとほぼ同時に、リビングから何かが床にぶつかる鈍い音がした。
真珠がつかまり立ちに失敗して、どこかをぶつけていないかと心配していると、突然、部屋のドアが開いた。
「マジで?」
真は呆然としていた。
瑠璃は大きく首を縦に振った。
タブレットの画面を見せると、真は大股で部屋の中に踏み込んで、瑠璃の手から引ったくるようにタブレットを手に取った。
瑠璃は慌てて顎に引っ掛けていたマスクを引き上げた。
「3件って。こないだ見た時は何もなかったよな?」
瑠璃は小さく頷いて、この部屋の位置に近いところに表示されている炎のマークをタップした。
真がタブレットの画面を覗き込む。
「ええと、『2023年12月11日投身自殺 6階ベランダに転落』 投稿日はその翌日…… って、つい最近じゃないか」
瑠璃はマンションの中央のあたりの炎のマークをタップした。
「もう1件が『2023年11月10日投身自殺』投稿日は、1件めと同じく翌日…… な、何だって?」
真の声がうわずった。
何かが擦れる音と、ぺたぺたと軽いものが迫ってくる音が廊下から聞こえた。
「アー」
真珠が廊下に座って、こちらを見ている。
(1人でここまで移動できるようになったのか)
瑠璃が感慨にふけっていると、真はタブレットを置いて急いで立ち上がり、はいはいで部屋に入りかけた真珠を抱き上げて廊下に移動した。
「3件めは?」
瑠璃は残る1つの炎のマークをタップして、表示される詳細を見ずに、タブレットを持って立ち上がった。
廊下で真珠を抱っこしている真の目の前にタブレットの画面を見せる。
「えっと、『時期不明 6階吹抜け部分にて転落事故』 投稿日は2023年11月9日」
真は読み上げると、タブレットに背を向けた。










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