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山手の家【第50話】

どこかの家の物音で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む光は弱い。
隣に寝ているはずの真の咳が遠くで聞こえた。
リビングに向かうと、真が身支度を済ませて出勤しようというところだった。
「おはよう。ごめん、起こした」
真は激しく咳込んだ。
「今、何時?」
瑠璃は目を凝らして時計を見た。
「5時10分」
真は話すたびに苦しそうに顔を歪めた。
「5時? 真さん、一体何時から起きてるの?」
「4時くらい。上の部屋だと思うんだけど、うるさくて」
続けて、真の口から咳が漏れた。
「真さん、咳、ひどくなってない?」
真は瑠璃の脇をすり抜けて玄関に向かって歩き出した。
「今日は早く切り上げて、真珠に会いに行くよ」
「咳の症状がある人は病棟に入っちゃいけない、って」
真は飛び出しそうになる咳をこらえて「マジで?」と、振り返った。
「20時で面会時間終了だから、昨日と同じ改札前で、同じくらいの時間を目指して集合にしない?」
「……わかった」
真は残念そうにうなだれて、下駄箱に入れていたスニーカーを玄関に放った。
「忙しいかもしれないけれど、真珠に会うためにも、タイミング見つけてクリニックで診てもらわない?」
靴を履くために下を向いていた真が、ゆっくりと上半身を起こした。
「ま、考えておくよ」
ペットボトルや缶の入ったゴミ袋を片手に、真は出て行った。
扉越しに、真の咳が遠のいていく。
(病院嫌いはお義父さんに似たんだろうな)
瑠璃はふと思い出して、玄関扉の郵便受けに目を落とした。
昨夜、帰宅した時に音を立てないようにするために、あえて取らなかった書類が郵便受けに入ったままだった。
取り出した書類には太字で『601号室、水回りの解体工事のお知らせ』と書かれている。
(え、また工事が入るの? しかも、また水回りの工事?)
工事の期間は翌週の平日5日間、工事内容の欄には『キッチン・洗面・浴室の解体工事』と記されている。
リビングに戻ると、瑠璃はスマホを手に取った。
<うちの下の部屋が『キッチン・洗面・浴室の解体工事』をするらしいんだけど、こないだも解体工事してるのね。解体工事って、そんなに頻繁にやるものかな?>
瑞希も、朝早く現場仕事に出かける大輝を見送るために起きているだろう。
瑠璃は瑞希に打ち込んだメッセージを送信した。



昨日できなかった家事を済ませると、時計の針は11時を少し過ぎたところを指していた。
(そろそろ出かける準備をしないと)
病院で真珠が待っている。
面会に出かける前にシャワーを浴びようと浴室に向かいかけて、ふと足を止めた。
(シャワー浴びている間に、あれ、やっておくか)
瑠璃は久しぶりにコンセントに向けて般若心経を流そうとして、スマホの充電が減っていることに気がついた。
スマホの充電器を問題のコンセントにさす。
いつもなら、スマホが小さく震えて充電開始を知らせるのに、何も反応がない。
スマホの画面を見ると、充電中に表示されるはずの雷のようなマークが表示されていない。
(電気が、通っていない? そんなわけないよね)
洗面所にあるブレーカーを見ても、ブレーカーが落ちているということはなかった。
瑠璃は納戸代わりに使っている玄関脇の部屋から掃除機とその充電器を持ってきて、問題のコンセントにさしてみた。
充電中は紫色に光るランプが点灯しない。
(ここだけ、通電していない?)
瑠璃は掃除機の充電器を抜くと、スマホで般若心経を流した。
鐘の音が鳴る。
天井と、隣の家と接している壁、2つの方向から同時に、振動と何かが床の上に転げ落ちるような音が響いた。
(なんで上も?)
瑠璃は天井を見上げて腕を組んだ。
振動と音は一瞬でおさまって、部屋には般若心経だけが流れている。
掃除機と充電器のセットを玄関脇の部屋に戻して、瑠璃は浴室に入った。
(なんか、におうな……)
湿気がこもったニオイとは違う。
シャワーからお湯が出るまで浴槽に水を流しながら、もしかしてと足元の排水溝に目をやる。
(ここも排水溝の掃除が必要なのかな)
流している水に温かみを感じて浴槽に向けていたシャワーを自分に向ける。
ごぼ……
(何の音?)
瑠璃は音の聞こえた方、浴槽の中を覗いた。瑠璃のくるぶしくらいまで溜まった水が渦を巻いて吸い込まれていた。
ごぼ…… ごごぉぉぉ……
(もしかして、ここも詰まってる?)
真がまとめ買いした排水溝掃除の薬剤のことを思い出しながら、瑠璃はシャワーを浴びた。



シャワーを出た後に問題のコンセントとは別のコンセントで充電していたスマホを手に取る。
スマホの画面に『12:07』と時刻が表示されている。
スニーカーを履き、真珠のおもちゃや歯ブラシなどの日用品を詰めたバッグを肩にかけて、いざ外に出ようとドアガードに手を伸ばすと、外から足音と振動が迫ってきた。
ドアスコープを覗き込むと、隣の家の扉がガタンと音を立てて閉まって、ドアロックをかける音が続いた。
少し間を置いて、瑠璃はそっと家を出た。
エレベーターは7階に停まったままで、乗り込むとバジルと油の匂いがした。
(お隣さん、ランチのテイクアウトでもしたのかしら)
1階に到着して、ホールに降り立つと、掲示板の下に真新しい掲示物があった。
『601号室リフォーム工事計画書』と書かれたその書類には、リフォームの施工業者と、所有者名の欄に施工業者とは違う法人名が記されている。
(どこかの会社が買い取った?)
所有者の会社が何の事業をしているのか、後で調べようと瑠璃はスマホのカメラを起動して、書類の全体を撮影した。
誰かがオートロックを開錠してマンションの中に入ってきた。黒い大きな影が瑠璃の横を通り過ぎた。
影に見間違ったその人は、背が高いだけではなく、全体的に体が大きい男性で、無地の黒いTシャツに黒いハーフパンツを着ていた。
(もしかして、703号室の人?)
エレベーターに乗り込んだその人の顔を確認したかったが、鋭い視線を感じて瑠璃は振り向けなかった。
















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