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山手の家【第33話】

脳のMRI画像の診断の結果、義人にも幸代と同じように初期の認知症の診断が出た。
義人は「なんで私が」と、納得がいかないらしかった。
クリニックの医師から勧められて、2人揃って要介護の認定調査を受けることになったが、調査は1ヶ月待ちだという。
義人と幸代の住む家に一旦は戻った信子も、市営住宅の申し込みを済ませたと優子経由で知らせがあった。
とにかく小川家のみんなが、この春にそれぞれの落ち着くべき場所に辿り着いて、平穏に過ごせることを瑠璃は願った。
2月の中旬を過ぎた。とうとう山手の家への引っ越しまで、あと1ヶ月に迫ろうとしていた。
「トイレットペーパーとか、こっちでそんなに使わないものをそろそろ向こうに運ばないか?」
真が即決した引っ越し業者のプランは激安の代わりにもらえる段ボールの数に限りがあった。
自分たちで運べるものは運んでおきたいというのが真の考えらしい。
「ちょっとでも荷物を運び入れる前に、家をちゃんと清めて、家の神様に捧げ物をしてご挨拶したい」
「そうなの? 好きにしたら」
瑠璃の提案に、真は全くと言っていいほど興味を示さなかった。
在宅勤務の真に真珠を預けて、瑠璃は酒や米、塩といった捧げ物と掃除道具を持って、1人、朝早い電車に乗って山手の家に向かった。
真には黙って、この日に合わせて水道と電気、インターネットを使えるように手配していた。
ガスは給湯器やコンロを使う予定が無いので、引っ越し直前の開栓で良いと判断した。
(水道が使えれば、アイツとおさらばできる)
瑠璃はトイレの便器の中に今もいる、あの物体を思い出していた。


朝の山手エリアは人通りも車通りも少なく、静まり返っていた。
時折、紺色のスーツにベージュのコートを合わせた男性が坂をゆっくり上がっていく。
マンションの居住者用の入り口を進むと、オートロックを解除するための鍵穴が待ち構えていた。
瑠璃は4本の鍵の中から1つ選んで鍵穴に差し込んでみたが、ガラスの扉が開くことはなかった。
2本目、3本目の鍵も扉はうんともすんとも言わず、結局、最後の4本目の鍵でようやく扉がスライドした。
(出入りするたびにこんなことやってられないわ。わかりやすく印をつけておかないと)
エレベーターの到着を待っていると、エレベーターホールの掲示板に真新しそうな書類が3枚、並んでいるのを見つけた。
どれも『室内リフォーム工事のお知らせ』という見出しがつけられ、工事期間はそれぞれ異なるが、901号室、801号室、601号室にリフォームが入るという。
(あれ? 601号室に誰か住んでいたよね?)
玄関先に置かれた電動のママチャリと、ピンク色の子供のヘルメットが脳裏によみがえる。
そういえば年末にみんなと一緒にここに来た時から、あの玄関先にあった自転車を見かけていない気がする。
601号室のリフォームの内容は、『キッチン・浴室・洗面・トイレの改修工事』と記されている。
(実際に暮らしてみて、気に入らなかったのかな?)
家の水回りを徹底的にリフォームするとなると、さすがにそこで生活するのは難しそうだった。
瑠璃はエレベーターで7階に上がって、吹き抜けから601号室を見下ろした。
玄関の入り口や、廊下にブルーシートが敷かれ、ガムテープで留められているのが見えた。


約束の9時にやってきたインターネットの工事業者の男性は、モジュラージャックを見るなり「あー、だいぶ古いんですね、ここ」と、溜め息をついた。
「玄関横の、水道とかのメーターが入ってるところから、インターネットのケーブルを通すんですが、部屋側の出口が電話線を通すだけの出口になっているんで、出口を変える必要があるんですよ」
男性は「車に資材を取りに行ってきます」と、出て行った。
瑠璃はその間に、せめて便器の中の物体を流しておこうと、照明をつけてトイレに入った。
トイレの照明の下、例の物体はスマホの薄明かりで見た時と、ほぼ同じ色味で瑠璃と対面を果たした。
(やっぱり、この白いつぶつぶ、未消化の何かではなさそう)
瑠璃はトイレの蓋を閉めて、『水流・大』のボタンを押した。
もう1度蓋を開けて、流れていったことを確認してから、瑠璃はトイレを後にした。
ちゃんとしたトイレ掃除はインターネットの工事が終わってからにするつもりだった。
(あのつぶつぶ、どこかで見たことなかったっけ)
考えていると、突然、インターホンが鳴った。
さっきの業者の人だった。
「どうぞ」
オートロックの開錠ボタンを押すと、業者の男性は一礼して、エレベーター前にたった。
こんな風にモニターに映るのかと眺めていると、業者さんが何やら振り返って、振り返った先の方に吸い寄せられるように歩き出す。
瑠璃が身を乗り出すと、モニターの映像が切れた。
再びインターホンが鳴ったのは、それから少し経ってからのことだった。
「すみません。お願いします」
業者さんは、さっき通過したはずのオートロックのところから再びインターホンを鳴らしていた。
業者さんがすでに1階に到着していたエレベーターに乗り込むのを瑠璃はモニター越しに見守った。
そろそろエレベーターが到着する頃だろう。
瑠璃が出迎えのため玄関に近づくと、廊下から男の人同士が揉めている声が聞こえた。
ドアスコープから廊下の様子を覗き見る。いるはずの人影が見えない。
「あんた、どこの業者だ。許可取ってんのか」
「や、僕は701号室のインターネットの工事に来た者で……」
「ここに台車を置かれたら、こっちは仕事にならなくて困るんだ」
瑠璃はおそるおそる扉を開けた。
そこには、業者の彼しかいなかった。しゃがんで、黙々と工具ボックスの中を確認している。
「今、そこに誰かいませんでした?」
「えぇ、ここの管理人さんに勝手に台車を置くなと怒られちゃって」
そう言うと、業者さんは、長いケーブルのようなものをいじり始めた。
(そんな、業者さんをちょっと呼ぶだけでも許可取らないといけないわけ? てか、どこに許可もらうの?)
義人からも信子からも、業者を呼んで工事をする時にどこかに連絡するようにと言われたことはなかった。


インターネットの工事は1時間ほどで終わった。
瑠璃は持ってきた掃除道具でトイレはもちろん、家中のフローリングを磨き上げた。
(来るたびに床を拭いてたのに、なんでこんなに埃が溜まるんだろう)
瑠璃は真っ黒になった雑巾をゴミ袋に入れ、持ってきた石鹸で丁寧に手を洗うと、キッチンのカウンターにいずれも封を切っていない新品の酒や米、塩を置いた。
瑠璃はカウンターに向かって頭を深く下げた。
(この家の神様。ご挨拶が遅くなりました。この家に住まわせてもらいます、小川瑠璃と申します。夫は小川真、息子は小川真珠、家族3人健やかに穏やかに過ごせますよう、お力添えよろしくお願いいたします)
何かが、背後を通り過ぎたような気がしたが、振り向いてもその先にはレースカーテンを吊るした窓しかない。
(今さら神頼みなんて、むしが良すぎるかな)
瑠璃はカウンターの神様への捧げ物をそのままに、各部屋の扉をいつものように閉めては指差し確認をして、家をあとにした。


1階のエレベーターホールに着くと、管理人室の扉が開いていた。扉の近くには水を張ったバケツと、壁にモップが立てかけてある。
瑠璃は、改めて掲示板に目をとめた。
掲示物の中に、『このマンションは当社の管理物件です』と、管理会社の連絡先が掲載されているものを見つけて、瑠璃はスマホで写真を撮った。
同じように、ゴミ出しのルールに関する掲示物もスマホで撮影した。
スタッフジャンパーのようなものを着た初老の男性が管理人室からゆっくりとした足取りで出てきた。
「こんにちは」
瑠璃が挨拶すると、男性は不思議そうな表情を浮かべながら「どうも、こんにちは」と、返した。
「あの、今度701号室に入ります、小川と言います。よろしくお願いします」
男性が目を見開いた。
「あぁ、701号室の。僕は管理人っていうか、管理会社からここの掃除を任されてる者です」
「さっきはすみません。事前に工事が入ることお伝えしなくて」
「いやいや、僕らも掃除が仕事だからさ」
男性の声の感じからして、さっき業者さんと揉めていたのはこの男性のようだ。
「そういえば、前に住んでいた伯母からゴミはそこの扉の内側に入れるようにって、扉の鍵を預かったんですが……」
瑠璃は、オートロックの扉の向こうに見える、居住者用の入り口の脇にあるシルバーの柵状の扉を指した。
「あのね、ゴミはね。これにも書いてあるんだけど、ここを出て右手にゴミを集める場所があってね。立札が立っているから、行ったらすぐわかると思うよ」
「最近そこに捨てることになったんですか?」
瑠璃が訊ねると、男性は首を横に振った。
「いや。ずっと昔、ここができてからずっとだよ。だって、そこは見てもらったらわかると思うけど、僕らの仕事道具が入ってるからさ」
(じゃあ、この鍵って、どこの鍵なの?)
他に鍵が必要そうなところなんてあっただろうかと、記憶を辿っていると、男性が急に「そうそう、引っ越しの日はもう決まってるの?」と、話を振ってきた。
「はい。3月19日です。本当は3月末が良かったんですけど、19日だったら安くできると引っ越し屋さんに言われて」
「そうかそうか。そうしたらね、そこに書いてある、管理会社に一応連絡してもらえるかな」
男性は瑠璃がさっきスマホで撮った、管理会社の連絡先を指差した。
「わかりました。そうだ、入居する家族全員の名前とか年齢とかお伝えした方がいいんですよね?」
「あぁ……」
男性の目が泳いだ。男性は少しの間考えると、「そうだね。連絡した時に伝えておいてもらえるかな。うん、伝えた方がいいな」と、頷いた。
「ほら、子供とかがさ、マンションの共用のところで倒れてて、救急車呼ばなくちゃって時にどこの誰なのかわからなかったら困るからさ」
「わかりました」
「じゃあ、よろしくね」
「はい。お仕事中、すみませんでした。今後ともよろしくお願いします」
男性はモップを手に取ると、もう片方の手でバケツを握ってエレベーターで上に上がっていった。









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