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山手の家【第52話】

真の咳が聞こえた気がして目が覚めた。
真はクリニックに行ってから咳がおさまって、金曜日と週末には真珠の面会にも行けたというのに、咳がぶり返しているのだろうか。
寝室はうっすらと明るくて、隣に真はいなかった。
「おはよう。早起きだね」
真はリビングでプラごみの袋の口を結んでいる最中だった。
(そうか、月曜日か)
瑠璃はあくびをして、目頭を指先で押さえた。
「ごめん、起こした」
「5時? 真さん、何時から起きてるの?」
「わからん。救急車のサイレンで起きちゃったんだよなー。うちの近くで音は止まったけど」
真はもう着替えを済ませていて、もう、いつでも出かけられそうだった。
「昼に中抜けしてクリニックで追加の薬もらってくるわ」
「じゃあ、真珠には会うのね?」
「もしかしたら、電気屋さんに寄って、遅くなるかもしれないけど」
「ほう」
「前に話してたパンが美味しく焼けるトースター、ボーナス出たら買おうかと思って」
「……え、本当?」
「あぁ」
真は微笑みをマスクで覆って出かけていった。
閉じた玄関扉の向こうから真が激しく咳込んでいるのが聞こえた。
(ずいぶん、しつこい咳ね)
瑠璃は玄関の扉にロックをかけた。


今日から真下の部屋の工事が始まる。
瑞希から、「大輝がね、キッチンとかトイレの解体工事はちょろいけど、お風呂が厄介かも? だって」と、メッセージをもらっていた。
(うるさいんだろうな)
瑠璃の想像通り、朝の9時を過ぎた頃から、リビングのあちらこちらで小刻みに突き上げるような振動と激しい音が響いた。
キッチンのシンク下から、歯医者で歯を削る時の音を何十倍も大きくしたような音が聞こえてきた次の瞬間、「うわっ」と、男性の叫び声が上がって、ドリルの音がおさまった。
(今まで知らなかったけど、下の声もけっこう上に響くのね)
信子に盗聴されているかもしれないと思って、大きな声で話すことは控えていたが、たとえ盗聴器がなくても、上下左右に音が響きやすい家なのは確実そうだ。
足元から「そうか、これ……」と、男のくもった声が聞こえてきた。
(何か問題でもあったのかしらね)
腕を組んで床を見ていると、リビングの窓を勢いよく開ける音がした。
「あれって、外れるんですかねー」
外から男の声が聞こえてきた。どうやらテラスに出て、電話をしているらしい。
(この人、今、自分がいるテラスで人が亡くなってるなんて、知らないのかな)
男が「……わかりました」と、言うなり、ぴしゃりと窓を閉める音が下から飛んできた。
(あんたのものじゃなくて、売り物なんだから、窓くらい丁寧に閉めなさいよ)
瑠璃が溜め息をつきかけた次の瞬間、瑠璃の部屋の、問題のコンセントをコツコツとノックする音が響いた。
同時に、上の部屋からガタガタと物音が降ってきた。
(何? 下からうちのコンセントの中を触れるわけ?)
瑠璃はコンセントの前にしゃがんで目を細め、ノックの音に合わせて爪の先でコンセントのカバーを突いてみた。
ノック音が止んだ。
(こっちの音が聞こえてるのかしら)
ダイニングテーブルの上に置いていたスマホを手に取り、サイドボタンを押して音量を上げてから、般若心経をコンセントに向かって流してみた。
「うわぁーっ」
下の階から男性の悲鳴がはっきりと聞こえた。
リビングから玄関の方へ向かってものすごい勢いで駆けていく足音と、玄関扉を勢いよく閉める音が悲鳴の後に続いた。
少し遅れて、重い何かが床に落ちたような音が、上から聞こえた。
(まさか、今日のところは工事終わり?)
般若心経を止め、瑠璃は片手にスマホを持ったまま、腕を組んだ。
(ていうか、どうしてコンセントに向かって音を流すと、うちの上下と隣の部屋が騒ぐんだろう?)
この前、盗聴について調べた時に見たサイトには、『盗聴器から出ている電波は短距離しか飛ばない』ということと、『コンセントの中に盗聴器を仕掛けてしまえば、盗聴器を隠しながらも電源が供給され続け、半永久的に盗聴ができる』という、背筋がぞっとする説明があった。
(信子さんがうちの様子をうかがおうと思ったら、このマンション内のお友達の家を尋ねればいいのよね)
地道に般若心経やらデスメタルの曲を流し続けて数週間経つ。そろそろ信子も懲りただろうか。
瑠璃はタブレットを開いて、盗聴器の撤去をしてくれそうな業者を探すことにした。
検索結果のトップに、テレビのCMで見かけたことのある警備会社の名前が表示されている。
(わぁ、高いなぁ……)
盗聴器が実際に仕掛けられているか調査をして、撤去までしっかり手厚くやってくれそうではあるが、なかなかの料金だ。
他の業者はどうだろうかと、何気なく目に留まったサイトに飛んでみる。
盗聴器の撤去のサービスを紹介するページかと思いきや、盗聴器に関するコラムが掲載されていた。
(ん? 周りに高い建物がない場所に建つタワマンの盗聴電波は遠くまで飛ぶ……)
コラムの続きを読んでいる途中で瑠璃は「ヤバい!」と、叫んだ。
(もしかして、遠くに電波飛んでるかも)
マンションの両サイドは3階建ての小さなビル、裏は駐車場が隣接していて、至近距離に建物はない。
サイトに紹介されている、『遠くに盗聴電波が飛びやすい条件』に一致している。
(どうしよう、あんな高額、私には出せない)
真に相談したところで、どうせ「君はどうかしてる」と、取り合ってもらえないに決まっている。
それなら自分でコンセントの中を確認しようと思ったが、電気工事士の資格が必要らしい。
(もう、どうしたら……)
腕を組んで、コンセントに目をやる。
(そういえば、充電できなかったのよね、あそこ)
ブレーカーは落ちていないのにスマホも掃除機も充電ができなかったことを思い出す。
「そうだ、あの手で行こう」
瑠璃は見ていたサイトを閉じると、新たに検索画面を立ち上げた。
















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