見出し画像

山手の家【第24話】

夜になるときらびやかな繁華街も、土曜の昼間となると、人通りはあっても静かだった。
真が「行ってみたい」と、予約を入れた和食の店でランチを食べ、山手の家に向かって緩やかな坂を上る。
最寄り駅から山手の家に向かうには、それなりに急な坂を上らなくてはならないが、夜に賑わうエリアから家を目指すとなると、長く緩やかな坂を上ることになる。
明日から10月になる。街を歩く人を見ていると、薄手の羽織ものを着ている人が増えてきたが、生まれも育ちも北国の瑠璃にとって半袖で問題なく過ごせるほどだった。
「瑠璃さん、鍵を」
真に促されて、瑠璃は肩掛けのポシェットから、先週預かっていたゴールドのキーホルダーを出した。
「こっち、お願い」
真は押していたベビーカーから離れると、瑠璃が差し出す鍵を手にした。
瑠璃は真と入れ替わりに、ベビーカーのハンドルを握った。
真珠は「ここはどこ?」と、言いたげに、大きな目で辺りを見回している。
3本の鍵を前に、真は「どれだ?」と、首を傾げた。
(そうよね。3本もあったら、わからないよね)
そんなことを思う瑠璃の実家も、家に入るには2本の鍵が必要になる。
風よけの玄関ポーチの鍵と、玄関の鍵の2本だ。
北国に縁もゆかりもない真が、結婚の挨拶のために瑠璃の実家を初めて訪れた時には、二重の玄関を「今まで生きてて、見たことがない」と、はしゃいでいた。
「よくわからん」
結局、真は3本の中から適当に選んだ1本を鍵穴に差し込んだ。
機械音が鳴り、ガラスの扉がスライドする。
「おぉ、開いた」
真も1本目で開くと思わなかったらしい。
(何か印をつけておかないと、どれがどの鍵か、わからなくなりそうだな)
瑠璃も、すんなりと玄関の鍵を選ぶ自信はなかった。


真が701号室の扉を開けると、湿り気を帯びた重い空気がゆっくりと迫ってきた。
2人がかりでベビーカーを玄関の中に入れ、扉を閉めると、肌がじっとりと湿っていく感じがした。
「こりゃ、風入れた方がよさそうだな」
寒がりの真が先陣を切って家の中に入っていった。
(もう、私たちがこの家に住むんだから、家族以外の人には入ってほしくないな)
瑠璃は玄関先に乱雑に置かれていた、内覧者用のスリッパの中から1番綺麗そうなひと組みを選んで履き、残りを全部ひと組ずつ重ね合わせて下駄箱の中に入れた。
真がリビングの窓を開けたらしく、風が廊下を走った。
(中に知らない人がいたら、どうしよう。ま、そんなことないだろうけど)
瑠璃は、玄関からすぐの部屋の扉を開けた。
当然のことながら誰もいない。
瑠璃は開けっぱなしになっていたクローゼットの扉を閉めた。
続いて隣の部屋の扉、そして、その向かい側の洗面所の扉を開けた。
洗面所はかすかに不快な臭いが漂っていて、隣の風呂場も同じ臭いがした。
(ここは一応、異常なし、と。排水溝のお掃除した方が良さそうだな)
洗面所から廊下に出ようとして、廊下を歩いていた真と鉢合わせた。
「真珠はあのままにしておくか。すぐに出なくちゃいけないもんな」
「そうだね。優子ちゃん、もうすぐ下に来るんだよね?」
真は「あいつ、急に話したいことがあるって、何だろう」と、腕時計にちらりと目をやると、リビングに戻っていった。
いつもなら事前に約束を交わす優子が、「今日、時間をもらえる?」と、連絡をしてきたのだから、よほどのことなのかもしれない。
瑠璃は洗面所の隣の、トイレの扉を開けた。
リフォームで新品のトイレに付け替えたはずなのに、ビニールのカバーがついてないのが不思議だった。
瑠璃の妹、瑞希の旦那は水道設備の会社の3代目で、「トイレは簡単に付け替えられるっすよ」と、よく言っていた。
(今度、大輝くんに聞いてみよう)
トイレの蓋を開けてみた。封水がないということは、新品なのだろう。
瑠璃はトイレにもかすかに漂う不快な臭いに気がついて、すぐにトイレの蓋を閉めた。
(封水が切れてると、臭うんだよなぁ。封水用の水、今度持ってこよう)
瑠璃は咳払いして、トイレをあとにした。
リビングでは真が窓際で落ち着きなく、うろうろしていた。
「どうしたの?」
「僕、今、気がついたんだけどさ」
真が窓枠の上の方を指差した。
「この家、カーテンレールないんだね」
「ホントだ」
瑠璃も、前回来た時には全く気がついていなかった。
「壁紙張り替えたって言ってたから、その時に外したんだろうな」
瑠璃は窓の景色を眺めて腕を組んだ。
「向こうの建物からこっちが丸見えだと思うから、カーテンだけじゃなくて、レースカーテンも欲しいな」
「他の部屋もカーテンレール無いのか?」
瑠璃と真は連れ立ってリビングの隣の部屋に移動した。
「無いね」
さらに隣の部屋も覗いてみた。
「ここも無いね」
「ま、自分たちが気に入ったものをつけられるってことで、良しとするか」
瑠璃は窓際に立った。
通りが見えるということは、ここもカーテンだけでなくレースカーテンもあった方が良さそうだった。
真はジーンズのポケットをまさぐると「お、優子からだ」と、スマホを耳にあてた。
「下に着いた? 迎えに行くから部屋に……」
真がそわそわとし始めた。
「……すぐそこにカフェがあるから、そこで話すか」
通話を終えた真が顔を上げた。
「部屋で話しようかと思ったんだけど、あいつ、朝から何にも食べてないんだってさ」
「休みの日だから寝てたのかしら?」
真は首を横に振った。
「いや、ついさっきまで仕事してたらしいよ。お腹空いたから何か食べたい、って」
「じゃあ、鍵の確認して、出ましょうか」
「そうだな。鍵の確認しておくから、瑠璃さん、リビングの窓、閉めてきてくれる?」
瑠璃は「はーい」と、大股で廊下を進みながら返事した。
廊下とリビングの間の段差を慎重にまたぎ、開いている窓に駆け寄った。
瑠璃は窓を閉めて「ロックOK」と、窓を指差した。
「キッチン、リビングもOK」
リビングの扉を閉めて、扉に向かって指を差す。
リビングの隣の部屋の扉と玄関脇の部屋の扉を閉めて玄関に戻ると、真がゴールドのキーホルダーから鍵を1本抜き取っていた。
「鍵、これだったよ。一応、合鍵作っておこうか」
「そうだね」
「よし、行くか」
「スリッパ、私たちが履く分だけ出しておくよ?」
真は靴を履きながら「おぉ」と、返事すると、玄関扉を開けて、真珠の乗ったベビーカーを引っ張った。
瑠璃も急いで靴を履き、振り返った。
「OK」
瑠璃は家の中に向かって指を差した。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?