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山手の家【第22話】

9月も末を迎えると、少しは過ごしやすさを感じる日も増えてきた。
ニュースではカメムシの大量発生が話題になっているが、幸いなことに瑠璃たちの家の周辺でカメムシを見かけることはなかった。
しかし、義人たちが暮らす海に近いエリアに来てみると、あちらこちらでカメムシを見たし、マンションのエントランスにも数匹を見かけた。
虫が苦手な瑠璃は、カメムシを見かけるたびに身をこわばらせた。
(さすがに最上階までは来ないでしょう)
リビングから臨む海と、海上を走る船を眺めて、瑠璃は伸びをした。
義人の誕生日を祝うために、車で片道30分ほどのところにある、評判の良いケーキ屋さんに寄ってから、この海沿いにある義人の家にやって来た。
車を運転すること自体は好きでも、久しぶりに慣れない道を運転したので、体が休息を欲しているように感じる。
買ってきたケーキの箱を冷蔵庫に入れるついでに、冷蔵庫の中の様子をそれとなくチェックする。
処分した方が良さそうな食材どころか、冷蔵庫の中はガラ空きで、少し背の高いケーキの箱を入れる場所に困ることすらなかった。
キッチンからベランダに出られる扉が開いていた。
幸代が、ベランダに置いている植物に水をやっているようだ。
「おぉ、そのうち寝返りできそうだな」
リビングでは、お昼寝用の冷感マットの上で手足をばたつかせる真珠を、義人と真が見守っていた。
時計は午後の3時を示そうとしている。お茶にしようと言い出す人がそろそろ現れそうな気がして、瑠璃は電気ポットでお湯を沸かし始めた。
「で、山手の家には住むのか?」
「あぁ。住むつもりで考えてる」
瑠璃は目を伏せた。
もうこれで、山手の家に引っ越すのは確定になった。
1度言い出したことを真が撤回することは、ほとんどと言っていいほど、なかった。
「いつから、あそこに住む?」
「それが、今住んでる家が会社から家賃補助もらって借りてる家だから、社宅扱いになってて」
義人が「ほう」と、相槌を打った。
「社宅の解約が認められるのが、年度末なんだ」
瑠璃は首をひねった。
(私、その話、知らない)
電気ポットが騒ぎ出した。
瑠璃は、2人の話を聞き漏らさないようにと、電気ポットのそばから離れた。
「だから、あの家に引っ越すとしたら来年の3月になる」
瑠璃の口が「え」の形に開いて固まった。声が出なかった。
「ずいぶん先の話じゃないか」
「それまでにエアコンつけるとか、ゆっくり準備しようかと思って」
「じゃあ、鍵を渡しておかないとな」
義人はゆっくりと立ち上がって、リビングを出ていった。
瑠璃は、真に近づくと、ワイシャツの肩を指先で軽く叩いた。
真が跳ね上がるように振り返った。
「真さん、私たち来年の3月に引っ越すの?」
「え、そうだよ」
「それならそうと、先に言ってよ」
「話していなかったっけ?」
真のすました顔を見て、瑠璃は片手で顔の半分を覆った。
(この強引なところ、誰に似たのかしら……)
義人がリビングに戻ってきた。
義人は「これと同じものをもう1つ、大家として、お父さんが持ってます」と言いながら、2本の鍵がぶら下がったキーホルダーを真の目の前に差し出した。
真は義人から鍵を受け取ると、「はい、瑠璃さん。預かって」と、瑠璃に向かって鍵の束を突き出した。
瑠璃がなかなか手を出さずにいると、真は「ほら」と、瑠璃の手をこじ開けて鍵を握らせた。
「僕って、切符もすぐに無くしちゃうだろ? 大事なものは瑠璃さんが預かってて」
瑠璃は仕方なく、服のポケットに鍵を滑り込ませた。
「あら、これ何かしら?」
幸代が冷蔵庫の中からケーキの箱を出そうとしていた。
「お義母さん、それ、ケーキです。美味しいと評判のお店に寄って、買ってきたんです」
幸代は目を輝かせた。
「今日は父さんの誕生日だろ?」
「え? 本当か?」
義人は疑うように真を見て、壁に貼っていたカレンダーの前に立った。
「お父さん、コーヒーとお茶、どちらがいいかしら」
「コーヒーはさっき飲んだから、紅茶にしようか」
幸代の問いに義人は淡々と答えた。カレンダーを確認するのに夢中らしい。
「お皿を用意しなくちゃね」
瑠璃はケーキの箱を幸代から受け取って、ダイニングテーブルに置いた。
頭上から、何かがぶつかる音が降ってきた。
「あらあら、いらっしゃい」
聞き覚えのある声が続き、階段を踏み締める音が近づいてきた。
見上げる真が「お邪魔してます」と、発して間髪入れずにくしゃみを2連発させた。
むせかえるような匂いが漂ってくる。
「信子さん、こんにちは」
赤い口紅を引いた信子が「あら、ケーキ?」と、目ざとくケーキの箱に手をかけた。
「姉さん、今日は私の誕生日らしい」
「そうなの?」
瑠璃は、義人に気を取られている様子の信子から、そっとケーキの箱を取り返して、蓋を開けた。
「あら、モンブラン」
信子が横から体当たりしながら箱の中を覗いた。
「今日はお義父さんの誕生日なので、まずはお義父さんにケーキを選んでもらいます」
瑠璃はうやうやしく義人の前に箱を置いた。
「お義父さん、お誕生日おめでとうございます。どれにしますか?」
「そりゃ、モンブランだな」
義人が「ほら、お母さんも選びなさい」と、お皿を持ってきた幸代に促した。
「私はこの、フルーツがたくさん乗っているケーキにするわ」
幸代がはにかみながら指差した。
信子は義人が満面の笑みで皿にモンブランを乗せるのを、眉間にしわを寄せて凝視している。
(信子さんもモンブランが好きなんて、聞いてないよ)
瑠璃は、みんなに気づかれないようにため息を漏らした。
「信子さんはどれにしますか?」
真がケーキを選ぶように勧めても、信子は「私はいらないわ」と、吐き捨てて、モンブランを頬張る義人を睨みつけた。
「ここのケーキ屋さん、実はこのガトーショコラが絶品と評判なんですよ。食べませんか?」
瑠璃が皿にガトーショコラを乗せていると、幸代が「いらないって言ってるから、無理して勧めなくていいのよ」と、微笑んだ。
信子の目の色が変わった。
「評判なら、せっかくだから、いただくわ」
信子は瑠璃の手からガトーショコラの乗った皿をひったくるように取ると、皿の上から覆い被さるようにして食べ始めた。
『食べ物の恨みは怖い』
親から教わった言葉を瑠璃は思い出していた。
(でも、たかがモンブラン1つでここまで恨むなんて、子供みたい)
信子の心情は、瑠璃には理解し難かった。
「ほんと、図々しい人」
幸代が信子を横目に嫌味を言っても、信子は姿勢を変えずにケーキを食べ続けている。
瑠璃は気を取り直して、紅茶を用意することにした。
この家にはティーポットがないので、1杯分ずつ、茶こしを使って入れていく。
「あなたたちの食べる分がないんじゃない? 大丈夫?」
「僕らの分はちゃんと用意しているから」
「本当に大丈夫?」
幸代は自分が選んだフルーツのケーキに手をつけようとしなかった。
1つめのカップを義人のモンブランの皿の脇に置いていると、「ほら、ちゃんと2人分、あるだろ?」
と、真が箱に入っていた残りのケーキを幸代に見せた。
「じゃあ、これ、食べるわよ?」
幸代がようやくフォークを手にした。
「そういえば、姉さん。山手の家なんだけど、真たちが住みたいそうで、鍵を渡しました」
真が箱からケーキを取り出す手を止めた。
「こないだ山手の家を見てきたんですけどね。家の中から玄関のロックをかける時って、どうしていました?」
ケーキをむさぼる信子の手から、フォークが滑り落ちた。
顔を上げた信子の表情は何かに怯えているようだった。


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