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山手の家【第14話】


「5日間のお盆休みが土日祝日含めて10連休になった」
そう喜んでいた真のお盆休みも中日を迎えた。
連休とはいえ、特別なことは何もしていない。
連日暑さが厳しいので真珠を連れて外出するのも気が引けてしまい、涼しい午前中に散歩がてら近所のショッピングセンターに買い物に出かけて、その日の食材を調達する日々を送っていた。
美容室に出かけると言って昼過ぎに出かけた真が神妙な面持ちで帰ってきた。
「ずいぶん時間かかったんだね」
瑠璃が冷蔵庫から取り出したペットボトルのサイダーとグラス2つを持ってテーブルにつくと、「あのさ」と真が切り出した。
「あの家に、僕らが住むのって、どう思う?」
「あの家? あの家、あの家……って、あの家? 山手の家?」
「正解」
瑠璃は激しく咳き込んだ。
これはいつもの、相談とは名ばかりの、強引な誘導だ。
もう、真は山手の家に本気で住むつもりなのだと、瑠璃は悟った。
涙が浮かんで真の顔が滲んで見えた。
真の提案はいつも、相談のような、おうかがいのような、ふわりとした感じから始まる。
でも、相談を持ちかけられた時点で真はもうすでに「こうしたい」という揺るがない着地点を決めているのだ。
真珠の名前を決める時もそうだった。
男の子は比較的早く性別がわかると話を聞かされていたものの、真珠は生まれるまで性別がわからなかった。
最新版のエコーで、お腹の子の顔立ちが、目が大きく可愛らしいとわかったので、瑠璃も真も、きっとこの子は女の子だろうと思っていた。
予定日が近づいたある日、真が会社から帰宅するなり「お腹の子の名前は真珠だ」と言い放った。
なかなかの衝撃だった。
真の真と、瑠璃の名前の王編の漢字を組み合わせて、真珠にする。
よく考えた名前だと思ったが、瑠璃は反対した。
「うちの名字は小川だよ! 女優さんの名前に似てるからやめよう」
瑠璃が懇願しても、生まれてきた我が子が男の子でも、真は譲らなかったのだ。
今回も、真は説得の弁を熱く語るに違いない。
瑠璃が深呼吸すると、真はペットボトルのキャップを開けながら「何もそんなに驚かなくたっていいだろ」と、笑った。
「よく考えたらさ、僕らがあの家を買い取ったら、この家を借りるために外部の人にお金を払っているのを、親父に払うことになる。それって、外にお金を回しているのを、家族間で回すことになるだろ?」
「へ? 買うの?」
瑠璃は面食らった。つい最近も「いつ転勤になるかわからないから、家は賃貸でいい」と、言い張っていた真が、山手のあの家を買うと言い出すなんて、急にどうしたのだろう。
目の前にいる真が、精巧に作られた真の着ぐるみを着た別人じゃないのかと、瑠璃は真を注意深く見つめた。
真はペットボトルのサイダーを半分グラスに入れ、瑠璃に差し出した。
「さっき、同期の松木くんから連絡があって、今日、将来的な給与体系の変更が役員会議で話し合われたらしくてさ」
同期の松木くんの名前は今までにも何度か、聞いたことがある。たしか、同期で1番仕事のできる、出世頭と評判のはずだ。
瑠璃はグラスを手元に引き寄せた。
「確定じゃないけど、早くて次年度には家賃補助が撤廃になるかもしれないんだ」
真はペットボトルに口をつけて、喉を鳴らしながらサイダーを飲むと、勢いよく息を吐き出した。
「真さん、ここの家賃がいくらだっけ?」
「毎月15万。今は15万のうち8万を会社、残り7万を僕が払ってる」
瑠璃は目をしばたたかせた。
「全額自腹で毎月15万円の家賃を払うのは……」
家賃の補助がなくなるのは痛手だ。大きな痛手だ。
真は「だろ?」と、つぶやいて腕を組んだ。
「ここにいつまで住み続けるかにもよるけど、長い目で見たらこの家に払う家賃よりもあっちに引っ越した方が安上がりになるんじゃないか、って」
そういう話ならば、家賃を安く上げるのを考えるのは当然だ。
でも、なぜ、あの家なんだろう。
「リフォームしても、安くしても、買い手がつかないし。空き家のままにしておくのもどうかと思って」
瑠璃の問いに、真はさらりと答えた。
ふと、瑠璃の脳裏に、かつて遊びに行った、まだ信子さんが暮らしていた頃の山手の家が浮かんだ。
「元々、信子さんや、あなたのおばあちゃんが住んでいた家でしょう? いくら今はお義父さん名義になっていても、信子さんにも私たちが住んでいいかお尋ねしないと」
「信子さんはあの家に戻るつもりないんだから、別に確認しなくてもいいだろ」
「そういうわけには……あっ!」
大事な人たちのことを忘れていた。
「どうした?」
「お義父さんたちの家から少し遠くなるのはいいの? 今は車でパッと行ける距離だけど、あの家に住んだら、お義父さんたちに何かあった時にすぐに駆けつけられないよ?」
真は「なんだ、そんなことか」と、小さく漏らした。
「今だって、毎日会ってるわけじゃないし、距離なんて大した問題じゃないよ」
「これから毎日、通う必要があるかもしれないじゃん」
「先のこと心配しすぎ」
真は少し呆れたように微笑むと、振り返った。真の視線の先にはマットの上で寝ている真珠がいる。
「なんか最近、真珠のために残せるものはなんだろうって考えるようになってさ」
真が再び正面を向いた。
「そんなのもあって、あの家、買おうかな、って」
「お金のことは大丈夫なの?」
真は伸びをしながら立ち上がった。
「とにかく。明後日、お墓参りに行く約束してるから、その時にでも親父に話してみようと思う」
瑠璃には真の表情が少し柔らかくなったように見えた。
もしかしたら、断固反対されるかもしれないと思って緊張していたのかもしれない。
瑠璃は、家のことは流れにまかせようと思った。


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