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山手の家【第15話】

昨夜、瑠璃たちの住む海沿いの街を濡らした雨は、夜明け前に小川家のお墓のある古都を通過したらしい。
雨雲はとうに過ぎ去って、強い日差しが照りつけていた。
海沿いの街で生まれ育ち、今もその街に暮らしていることを誇りに思っているらしい義人と幸代が、どうして小川家のお墓を電車で1時間半ほどもかかるこの古都にもうけたのかが瑠璃にはよくわからなかった。
でも、旅好きの瑠璃にとっては、定期的に古都に出かける理由があるのはうれしいものだった。
学生の頃に修学旅行で訪れた場所を、こうして親子3世代でお墓参りのために訪れる日が来るとは。
日傘の下で汗をハンカチで拭いながら、瑠璃は感慨にふけっていた。
お墓参りを済ませると、真があらかじめ予約を入れていた、お寺の近くにある割烹料理屋で昼食をとった。
真が入念に店を探してテーブル席の個室をとってくれていたおかげで、真珠をベビーカーに乗せたまま食事を楽しむことができた。
「ごゆっくりと」
和服の女性が締めのスイーツとお茶を運び終えて、個室の引き戸を閉めた。
瑠璃が抹茶の緑に見とれていると、義人がコーヒーにミルクを落としながら「真、話って何だ?」と、訊ねた。
「山手のマンションなんだけど、僕が買おうかなって」
義人が弾かれたように顔を上げた。
「買う?」
「買い手もつかないなら、放っておくよりいいだろ」
「転勤は大丈夫なのか? 本気で買うのか?」
義人は前のめりになった。
「あの家、真が買うの?」
幸代が真と義人の顔を交互に見ている。
「ただ、不動産の親子間売買って難しいらしくて」
抹茶の器に口をつけようとしていた瑠璃に、ちらりと真が視線を送ってきた。
瑠璃は慌てて器を置いた。
「親子間で不動産を売買する場合、適正な価格で売買がなされているか、不動産のプロに証明してもらった上で取引する必要があるそうです」
瑠璃の言葉に、義人が「ふうん」と、首を縦に大きく振った。
「というわけで、今、あの家の売買でお世話になっているのって西内のおじちゃんだったっけ?」
「そうだ。西内が色々とやってくれている」
西内さんは、義人の高校時代の同級生で、行政書士事務所を切り盛りしている。
義人とは昔から付き合いが深く、特に用事がなくても連絡を取り合ったり、会ったりしているらしい。
「ちょっと、西内さんに親子間売買のこと相談してくれないかな、と思って」
「相談してもらいたい点をまとめました」
「瑠璃さん、アレ、渡して」
瑠璃は真珠の乗ったベビーカーの荷物入れから、真珠のお世話グッズの入ったトートバッグを引っ張り出すと、バッグの中に入れていたクリアファイルを取り出して義人に渡した。
「なんか、いっぱい書いてあるなぁ」
義人は眉間にシワを寄せた。
「真珠のために残せるものって考えたら、やっぱりまずは家だよなと思ってさ」
義人はバッグに入れていた老眼鏡をかけると、夢中になって書類に目を通し始めた。
細かいことにうるさい義人に何を言われるだろうかと瑠璃は気になって、お茶やスイーツを楽しむどころではなかった。
「あの家、だいぶ古いはずよ? 築何年だったかしら……」
「お父さん、お母さんが訊いてるよ」
「うん? あそこは築40年だな」
「あら、私たちと一緒なのね」
義人は隣に座る幸代に向かって「そうか、同じか」と、目を見開いた。
「古い、新しいは関係ないよ。持ち家か賃貸かの差の方が、デカい」
(今まで賃貸のメリットの方を熱く語っていた人がよく言うわ)
瑠璃はふうっとひと息ついた。
「何せ建物自体は古いからな」
義人は真と瑠璃に向かって念を押すと、コーヒーカップを持ち上げた。
「新耐震基準に則って建てられた建物みたいなので、おそらく大丈夫かと思います」
「まぁ、よく知ってるわね」
「この人に言えば、なんでも調べてくれる。その書類だって、瑠璃さんが作ってくれたんだ。ね、瑠璃さん」
真に頼まれて、真の代わりに調べて、調べた結果をついでに書類にまとめただけだ。
(そんなに大そうなことをしたつもりはないんだけどな)
義人も幸代も「何かあったら、真じゃなくて瑠璃さんに頼もう」「そうしましょう」と、頷き合っている。
瑠璃は抹茶を口に含んだ。ようやく味わうことのできた抹茶は冷房の風に長く表面をさらされたせいか、だいぶ冷えていた。
「この書類を西内に見せればいいな?」
「そうだね。見せた方が話は早いと思う」
義人は外した老眼鏡をバッグに収めながら「売りに出して1年。ようやく片付く」と、つぶやいた。
瑠璃は、わらび餅に楊枝を刺そうとしていた手を止めた。
どこか清々しい表情の義人の隣で、幸代がわらび餅をひと口頬張って、うれしそうに目を細めている。
「1年? そんなわけないだろ。だって、1年前は信子さんと太一さんが住んでたんだから」
「そうですよ、お義父さん。信子さんと暮らし始めたのが今年の1月ですよ」
「いや、あの2人が住んでた頃から売りに出してる」
義人は手元のわらび餅の小皿を「あげる」と、幸代の目の前に置いた。
「どういうことだよ、それ」
義人は真の問いかけなどまるで耳に入ってないらしく、コーヒーを飲み始めた。
山手の家を売りに出し始めた時期が、たとえ太一が存命中だろうと亡くなってからだろうと、信子が住んでいる家を売却しようとしたことになる。
「オーナーチェンジって、賃貸に出してる家を売りに出すことはありますけど……」
「父さん、金が必要になる理由でもあるのかよ」
義人がコーヒーカップを置いて、瞬きせずに真を見つめた。
「あのな、信子姉さんに金の話されても断れよ」
「家の売却の話と何の関係があるんだよ」
「前に、太一さんに金の話されても関わるなと言ったけど、姉さんに頼まれても関わらないように」
義人から圧を感じて、瑠璃はひと言も声を出せずにいた。
(信子さんたちと、お金のことで揉めたのかしら)
意を決して義人に質問をぶつけたとしても、今の様子からすると、答えてはくれないだろう。
真が長いため息をついて、頭をかきむしった。
「よくわからないけど、わかったよ」
「うん。お前たちは一切、姉さんのことに関わらなくていいからな」
(お前たち、って、私も?)
真の嫁という立場の自分に、信子が無心を頼んでくるイメージが湧かなくて、瑠璃は首を傾げた。
「お義姉さんにタカられてるの?」
それまで黙って話を聞いていた幸代の表情が暗く険しくなっていく。
「母さん、誰もタカられてないって」
幸代は隣にいる義人の腕を掴んで揺さぶった。
「私たちが家もごはんもタダで用意して、ずーっとあの人の面倒見てるのに、それでも足りなくて、あの人は真にもタカろうとしてるんですか」
義人が何の反応も示さないことに苛立ちを感じているのか、幸代はさらに激しく義人を揺さぶる。
「母さん、落ち着こう」
真が腕を伸ばして幸代と義人を引き離した。
幸代は不満そうに唇を尖らせた。
「ま、そういうことだから。山手の家のことは西内に相談しておく」
義人は瑠璃から受け取ったクリアファイルをバッグの中にねじ込んだ。


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