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山手の家【第55話】

「親父に訊いてみたけど、『小川』に戻ったのは知らないって」
真珠の面会を終えて遅くに帰ってきた真は、真っ先に信子の名前の話題を口にした。
「認知症の症状で、信子さんから聞いたのに忘れてる、っていうことはない?」
真は「そういう可能性もないわけじゃないけど……」と、言いかけて、激しく咳をした。
瑠璃は冷蔵庫で冷やしていたお茶をグラスに入れて、真の手元に置いた。
「信子さんに会って確認する、って。手紙も、その時に渡したいってさ」
「てか、あの預かってる物も1ヶ月近く経つし、そろそろ返したいよね」
真がグラスのお茶を一気に飲み干して、「あぁ」と、頷いた。
「あれはあれで、僕たちが直接、信子さんに引き渡そう」
真が再び咳込む。
「てか、この手紙……」
封筒の表面に毛筆で書かれた『小川信子様』の文字は、ところどころ節張っていて主張が強い。
文字が人となりを表すのだとしたら、この字を書いた人は、頑固で我を通したがりな人に違いない。
瑠璃は少し厚みのある封筒をひっくり返して、部屋の灯りに透かしてみた。
差出人の名前が書かれていない真っ白な封筒は、地が厚いのか透けることなく、中の手紙をしっかりとガードしていた。



下の部屋は今日も工事が入る予定だと言っていたのに、静かだった。
家事を終え、いつもより早めに真珠の面会に行こうかとバッグに荷物を詰めていると、インターホンが鳴った。
義人と幸代が肩を並べてモニターに映っていた。
家に上がってお茶でも飲まないかと誘ったが、義人が頑なに「玄関先でいい」と首を横に振った。
「これから姉さんに会って、名前の件、聞いてみようと思ってな」
幸代が「真珠は静かね。ねんねしてるの?」と、靴を脱いで家に上がろうとして、義人に止められた。
「母さん、真珠は入院中だ」
「あの子、入院してるの?」
「今、お持ちします。待っててください」
瑠璃は信子宛の封筒を取りに、リビングに入った。
玄関先から、幸代の「この家の名義は、今、誰になってるの?」と、前に何度も聞いたことのあるフレーズが聞こえてきた。
「ここは私の名義です」
「お父さんの名義になってるの? いつ買ったの?」
いつものお決まりのやり取りを始めた2人の前に封筒を差し出した。
「お義父さん、これです」
「うん。姉さんに渡しておく」
義人が肩にかけていたバッグに封筒を入れようとすると、横から覗き込んだ幸代が「ずいぶん、達筆な字ね」と、感心した。
「お義母さん、書道部だったんですよね? 私、この筆の字は荒々しい感じがして男の人が書いたように思うんですけど、どうです?」
「そうね。使ってる筆の太さのせいかもしれないけれど、男の人の筆づかいっぽいわね」
封筒をバッグに入れ終えた義人が、瑠璃を見つめた。
「姉さんから何か言われても、あんたたちは構わなくていいから」
関わらないようにしたくても、信子と親戚である以上、難しい話だ。
それに、いつかは預かっているものを返すために直接会わなくちゃいけない。
「……わかりました」
「瑠璃さん、頼んだよ」
義人は瑠璃の肩を軽く叩くと、隣に立つ幸代に「じゃあ、行こうか」と、声をかけた。
















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