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山手の家【第26話】

雲が空を埋め尽くしている。
街全体が、どことなく影がさしているように見えた。
この2週間で急に涼しくなった。
「涼しくなった」というよりも、「寒くなった」という方が合っているかもしれない。
瑠璃は数ヶ月ぶりに厚手のパーカーを引っ張り出して、袖を通した。
真珠には、真が「せっかくもらったんだから」と、夏に信子からもらったパーカーを着せた。黒を基調に、惑星とロケットの細かい絵柄が散りばめられていて、肌の白い真珠によく映えた。
「今日は窓を開けなくても良さそうだな」
真は下駄箱の扉を支えにしてスニーカーからスリッパに履き替えると、廊下を歩き出した。
「ちゃっちゃと測って、ちゃっちゃと買いに行くぞ」
真は今朝目が覚めた時から、「今日はカーテンと、カーテンレールをオーダーする」と、決めていたらしい。
真が一歩踏み出すたび、フローリングの床から「ミシッ」と、小さな音が立った。
真がいなくなってできたスペースに移動して、瑠璃もスニーカーを脱いでスリッパに履き替えようとした。
(何これ? どういうこと?)
瑠璃は足元を見て血の気が引いた。
真珠のベビーカーを玄関に入れるのに気を取られて気が付かなかったが、玄関の上り口にスリッパが4足、1列に綺麗に並んでいた。下駄箱に近い方の端は1足分空いている。真が履いたスリッパがそこにあったのだろう。
(こないだ、使わないスリッパを下駄箱に片付けたよね?)
瑠璃は鳥肌の立った腕をパーカーの上からさすった。
(これ、履いて大丈夫かな)
瑠璃はスリッパを1足手に取って、異常がないか、目を凝らした。
スリッパに特に変わった点がないのを確認しても、瑠璃はなんだか履く気にはなれなかった。
「瑠璃さん、メジャー持ってきてるよね?」
「う、うん」
顔を上げて返事をすると、廊下に埃が溜まっているのが視界に入った。
(靴下が汚れるのは嫌だし、真さんも履いて問題なさそうだから……)
瑠璃は意を決して手に持っていたスリッパに足を入れた。
リビングでは、真が窓枠の前で腕を組んで何やら考えているようだった。
瑠璃が真の隣に立って、肩にかけていたポシェットからメジャーを出していると、「ねえ」と、真が窓を指した。
「この窓、外についてるはずの網戸が家の中についてるんだよ」
「本当だ。内外、逆だね」
「こないだ窓開けた時、こんなだったっけ? と思ってさ」
「いやぁ、ごめん。あんまり気にしてなかった」
瑠璃は持っていたメジャーを真に渡した。
(こないだ窓を閉めた時、違和感なかったけどなぁ……)
記憶を巻き戻してみても、リビングの窓に対する変な印象はない。
瑠璃は対面キッチンに向かって歩き出す。
ふと、カウンターの上に白いものを見つけた。書類と封筒のようだ。
近づいてみると、それは『水道管掃除のご案内』という書類と、『701号室にお住まいの方へ受信料のご案内』と印字された文字が宛名のように記された封筒だった。
「真さん、ちょっと、これ見て」
「えぇっ?」
真は窓のサイズを測ろうと、目いっぱい背伸びをしている最中だった。
「ねぇ、この前はこんなの無かったよ」
誰かが部屋に入っている。
誰が? なぜ?
瑠璃の胸が早鐘を打ち始めた。
書類の内容は一部が封筒に隠れて見えない。
封筒をよけようと指先を伸ばす瑠璃を「触らないで」と、真が制した。
真は瑠璃の隣に並ぶと、握り拳の側面を滑らせるようにして、書類の上の封筒をよけた。
「……作業日が昨日になってるな」
真の言う通り、水道管掃除の日程に昨日の日付が記されていた。
「各戸、入室の上作業を行います、か……」
真の声がかすれた。
「住人が立ち会った上で作業するのよね?」
「あぁ、多分」
「留守だったら、入らない、よね?」
「わからない」
「この、受信料のご案内って、郵便受けに入るって言うじゃない?」
瑠璃は封筒を指差した。
「ここのマンションは郵便物って、エントランスの郵便受けに入るんでしょう? ほら、お義父さんが郵便受けの開け方をメモしてくれてた」
真は「そうだね」と、消え入りそうにつぶやいた。
「そうなると、『誰かが郵便受けを開けた』っていうことにも、なると思うんだけど……」
「だとしたら、親父じゃない?」
真があいまいに笑った。
(そうだ、真珠!)
瑠璃は真を押しのけて走り出した。
「瑠璃さん、どうした?」
真の声が追いかけてくる。
廊下との段差を飛び越えたところでスリッパの片方が脱げたが、瑠璃は構わず廊下を駆けた。
真珠は、玄関に置いたベビーカーの上で寝返りをしようと体を動かしていたが、ベルトに固定されて思うように動けず、「ぶー、ぶー」と、不満そうに声を上げていた。
「真珠、ごめんね」
瑠璃は身をかがめてベビーカーのベルトを急いで外すと、真珠を胸に抱いて頭を撫でた。
(こんなドアロックもかけられない、誰が入ってくるかもわからない家で、真珠を1人にしちゃ、ダメだ)
真珠を抱っこしてリビングに引き返す途中、廊下に細くぼんやりとした光がひと筋さしているのに気づいた。
立ち止まって光の先を目で追うと、リビングの隣の部屋の扉がうっすらと開いていた。
(こないだ、全部のドアを閉めたはずなのに)
瑠璃は両腕で真珠を強く抱き、小走りで真のもとに駆け寄った。
「ごめん、真珠を抱っこしてもらえる?」
真は瑠璃から真珠を預かると、「いいけど、何か、あった?」と、瑠璃の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、確認したいことがあって」
瑠璃は荒い呼吸を整えながら、再び廊下に戻った。
もしも誰かがこの家に入ったとしたなら、この家の鍵を持っている、義人であってほしい。
知らない誰かが勝手に上がっているなんて、気持ち悪すぎて考えたくなかった。
薄暗い廊下に、脱げたスリッパが片足分、取り残されていた。
瑠璃はスリッパを履き直すと、リビングの隣の部屋の前で立ち止まった。
深呼吸をして、うっすらと開いている扉を押し開けた。
部屋は特に変わりない様子で、駐車場を挟んで隣の建物の屋上、タンクのそばに人がいるのが見えた。
誰かが隠れていたら嫌だと警戒しながら開けたクローゼットも、誰かが潜んでいた形跡はない。
瑠璃はクローゼットの扉を閉めると、部屋を出て、扉を丁寧に閉めた。
「よし、OK」
瑠璃は閉めたばかりの扉に向かって指を差した。
その部屋の隣、玄関脇にある部屋の扉の前に立った。
扉はちゃんと閉まっている。
中に入ろうとして、瑠璃は息を飲んだ。
前回来た時に閉めたはずのクローゼットの扉が、開いていた。
(やっぱり、誰か入ってる)
瑠璃は大きく深呼吸すると、クローゼットの前に勢いよく飛び出した。
当然のことながら、中には誰も、何もなかった。
(お義父さんが掃除の立ち会いに来たとして、こんなところ開ける必要あるかな?)
クローゼットの扉を閉めようとして、向かって左側の扉がうまくスライドせずに引っかかった。
扉を上に浮かせるようにして引っ張ると、どうにか閉まった。
ふと、誰かに見られているような気がして、瑠璃は窓の外に視線を向けた。
さっきまで駐車場を挟んで隣の建物の屋上にいた人は、見当たらなかった。
「気のせいか」
瑠璃は廊下に出て部屋の扉を閉めると「ここも、OK」と、指差しした。
(さて、これも片付けて、と)
瑠璃は玄関扉の方を振り向くと、足元に目を落とした。
残されていた3足スリッパをひと組みずつ組み合わせて、下駄箱の中に入れる。
(もしもお義父さんがスリッパを出したとして、なんで5足も並べる必要があったのかしら)
不安になるような想像を繰り広げても、ただ時間を消費するだけだとわかっていながら、瑠璃の頭の中は『誰が家の中に入ったのか』に対する答えを探すことで忙しかった。
瑠璃はリビングに戻りながら、洗面所と廊下を仕切る引き戸を開けた。
湿った臭いがゆっくりと廊下に漏れ広がる。
(この臭い、苦手だな)
瑠璃はスマホをライト代わりにして、洗面所を照らした。
奥にある風呂場も扉を開けて確認したが、どちらも変化らしい変化を見つけることはできなかった。
洗面所の扉も他の部屋の扉と同じように閉めた後に指差し確認をすると、最後に、トイレの扉を開けた。
洗面所や風呂場と同じようにスマホの光で照らし、トイレの蓋を開けた。
(そうだ、封水用の水を忘れてた)
瑠璃は心の中で「しまった」と呟いて、トイレの蓋を閉めた。
出かける時はいつも、真珠の支度に追われて、自分の支度すらままならなかった。
あらかじめペットボトルに入れておいた水を玄関にでも置いておけば良いのかもしれないが、もっと優先順位の高いことで頭の中がいっぱいになって、つい忘れてしまう。
(これから真珠が保育園とか幼稚園に通い出したら、『つい忘れた』で済まないこと、いっぱいあるんだろうな。気をつけないと)
トイレのドアを閉めると、真が「そろそろ出ようか」と、声をかけてきた。
「ねぇ、真さん」
真は真珠の顔を覗き込んだまま「なぁに?」と、呑気に返した。
「玄関の鍵、交換してもらわない?」
「え、今?」
瑠璃は大きく頷いた。
「できるだけ早い方がいいと思う」
真が何度か瞬きを繰り返した。
「……変えるなら、引っ越しの直前で良くない?」
「それじゃ遅いと思う」
「別に、今ここに住んでるわけじゃないんだし、急がなくたっていいだろ」
「お義父さんじゃない人が合鍵を使って中に入ってたとしたら?」
真は面倒くさそうに真珠を抱っこしたままリビングを出ようとした。
(まただ)
昔から、大事な話をしようとすると、真は面倒臭がって、その場を離れようとするか、寝てしまう。
「私たちのいない時に誰かがここに入って、何かを仕掛けるかもしれないじゃない」
「誰が何を仕掛けるんだよ」
真は立ち止まると、振り返った。いらだちの感情よりも、瑠璃に対する呆れや侮蔑の感情の方が真の心の大部分を占めているようだった。
「そんなの私にもわからないよ。でも、閉めたはずの扉が開いてるの。それも、1箇所だけじゃない。下駄箱に片付けたスリッパも履きやすいように綺麗に並べられてるし。お義父さんじゃない誰か、入ってるかもしれないよ」
「気のせい、気のせい。もし、入ってるとしたら親父だって」
「指差ししながら、閉めたの確認してるのよ? 何もなかったカウンターに手紙が乗ってるし、それに、スリッパは『私たちが履く分だけ出しておくよ?』って、あなたに言ったじゃない。お義父さんが入ったなら別に下駄箱のスリッパ、全部出さなくたっていいじゃない。それでも気のせい、って言う?」
勢いにまかせて言い終えると、真は瞬きをして、吐息を漏らすように笑った。
「僕はこないだのこと、よく覚えてないな。記憶違いって可能性もあるし……」
「ひどい! 私の記憶違いだって、決めつけるのね」
「誰もそんなこと言ってないよ。『人の記憶ほどあてにならないものはないよ』って、言ってるだけだ」
「同じでしょ! 『私の記憶はあてにならない』って、言いたいんでしょ?」
「何もそんなにカッカすることないだろ」
(自分の考えが絶対的に正しいと思われてる以上、真さんとは大事な話はできないな)
瑠璃は口を閉ざした。


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