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山手の家【第23話】

「姉さん、急にどうした?」
義人の呼びかけに無言のままの信子は、表情ひとつ変えずに足元に落ちたフォークを拾い上げ、空になったケーキの皿の上に乗せた。
真は信子を凝視したまま、そろりと移動して瑠璃の隣に立った。
瑠璃が真を見上げると、目が合った。
真は声を出さずに、「わからない」と、ゆっくり口を動かした。
瑠璃も首を傾げて返事をしていると、「あなた達は食べないの?」と、幸代が振り返った。
「今、お茶を入れようかと」
真も「そうそう」と、瑠璃に続いた。
「私が入れるから、2人とも食べなさい」
「でも……」
「早く食べないと、このおばさんに食べられちゃうわよ」
幸代が指差す先にいる信子は、自分のことを言われているのにも関わらず、聞こえないのか、聞こえないふりをしているのか、瞬きもせずに黙っている。
いつにも増して、信子の香水の匂いがきつく感じる。
信子の隣に真が座ってしまうと、真が香水の匂いで具合を悪くしてしまいそうな気がした。
瑠璃は真を信子から離れた席に誘導すると、意を決して信子の隣に座った。
「ガトーショコラ、美味しかったですか?」
信子が何度か瞬きをして、瑠璃の方を向いた。
「そうね。すごく美味しくて、夢中になって食べてしまったわ。マコちゃんも、ありがとう。ごちそうさまでした」
幸代が「これは真。こっちは瑠璃さん」と、紅茶の入ったカップを手元に置いていく。
「そうそう、キーホルダーに鍵が2本付いていて、1本はオートロックと玄関の鍵だと分かったんですけど、もう1本が何の鍵かわからなくて」
瑠璃は義人から預かった鍵をポケットから出して、テーブルの上に置いた。
信子は鍵には目もくれずに、赤い口紅を引いた口を開いた。
「これに付いているのは玄関とオートロックの鍵と、ゴミを置く場所の鍵の2つ。ほら、エントランスに入る手前に柵、なかった?」
「そこにゴミを出すんですね」
信子は「そうなのよ」と、瑠璃に出されたはずの紅茶を音を立てて飲んだ。
「で、家の中からドアに鍵をかけたい時ってどうしてました?」
真がショートケーキの乗った皿を瑠璃の手元に置きながら、信子に質問を投げかけた。
「あの家の扉はツマミがあるはずのところに、鍵穴があるんですよね。だから、鍵があるんじゃないかと思って」
瑠璃がすかさず補足すると、信子はうつむいた。
義人がモンブランを食べる手を止めた。
「中から鍵がかけられないなんて、普通はありえないよな。姉さん、あそこに暮らしていた時はどうしていたの?」
信子は義人の質問にも答えようとせず、席を立つと2階の階段をゆっくり上がっていった。
瑠璃は合鍵を再びポケットに戻した。
ダイニングの天井が軋む音を立てている。
(このまま部屋にこもるのかしら)
それならそれで、信子にはおとなしく部屋にこもっていてもらいたかった。
「お義父さん、改めて、お誕生日おめでとうございます」
「父さん、おめでとう」
「おぉ、ありがとう」
義人がフォークを持つ手を軽く上げた。
「お父さん、いくつになったんですか?」
「君より6つ上です」
幸代の視線が宙を泳いだ。
(70歳で認知症って診断されるのは、ちょっと早いよね)
瑠璃がショートケーキの鋭い角の部分にフォークを沈めていると、足音を立てて信子が戻ってきた。
信子は鍵が3本ぶら下がったゴールドのキーホルダーをテーブルに叩きつけるように置いた。
突然響いた金属のぶつかり合う音に、瑠璃は顔をしかめた。
「これ、私が使っていた鍵よ」
信子のひと言に、みんなが揃って息を飲んだ気がした。
義人は目を見開いて信子を見つめ、幸代と真が顔を見合わせた。
(なんで信子さんがあの家の鍵を今も持っているの?)
瑠璃は、信子の顔と、信子が叩きつけた鍵の束を交互に見やった。
「ほら、お母さんが認知症になった時に、徘徊が激しくて勝手に出ていってしまうから、大将と相談して変えたのよ」
義人がゴールドのキーホルダーに手を伸ばした。
信子が「あっ」と、かすかな声を上げた。
「じゃあ、この鍵は瑠璃さん、あんたに。どれが中から鍵をかける鍵か、確かめておいで」
義人から渡されたゴールドのキーホルダーはところどころが錆びていたが、ずしりと重かった。
キーホルダーをよく見ると、柄物のバッグで有名な、人気の高級ブランドのロゴが刻まれている。
「確かめて、合鍵作っておかないとな」
真がロールケーキにかじりついた。
(お義父さんったら、なんで真さんに頼まないのかしら)
瑠璃が重いキーホルダーをポケットに入れて顔を上げると、視界の中で何かがきらりと光った気がした。
目を凝らして注意深く見ていると、キッチンにある食器棚のガラスに緑色のボタンのようなものが張りついていた。
「わっ、カメムシ」
瑠璃の悲鳴に近い声に「ん?」と、真っ先に反応したのは義人だった。
瑠璃は真の腕に抱きついた。
「カメムシ?」
「ほら、あそこ」
瑠璃はキッチンの食器棚を指差した。
「あら、ほんとだわ」
幸代が立ち上がった。
「瑠璃さんは座っといて」
真が幸代を追ってキッチンに向かった。
キッチンから「母さん、そこの扉、開けっぱなしにしているからだよ」と、真の声が飛んできて、間も無く扉の閉まる重い音が続いた。
「母さん、握り潰したら臭いからダメだって」
慌てる真に構わず、幸代は手にしたキッチンペーパー越しにカメムシを握り潰した。
(うわぁ、潰した)
瑠璃は両手で顔を覆った。
「この子ったら、虫が苦手なんですって」
信子が大きな笑い声を上げた。
足を踏み鳴らす音が近づいてきて、笑い声に混じった。
信子の背後に影が立った。
険しい顔つきの幸代が、カメムシを潰したキッチンペーパーを固く握りながら、信子を背後から見下ろしていた。
「お義姉さんは虫、平気なんですか? もう1匹いるんですけど、退治してもらえます?」
信子が小さくなりながら、恐る恐る振り返った。
「あの、実は、私も虫は苦手で……」
口ごもる信子を幸代が睨みつけた。
「瑠璃さんのこと、偉そうに言えないじゃないですか。うちのお嫁さんに意地悪したら、私が承知しませんからね!」
潰れたカメムシを包んでいるキッチンペーパーの球を、幸代が信子に投げつける真似をした。
「ひゃっ」
信子は、本当に投げつけられると思ったらしく、幸代に背を向けて、両腕で顔をガードした。
とっさに顔をガードしたのか、信子の半袖の腕にうっすらと赤い口紅が擦れていた。
「母さん、もう1匹やっつけたからね」
キッチンから真の呑気な声がした。
モンブランを食べ終えた義人は、騒がしさなどものともせず、瑠璃が入れた紅茶をすすっている。
(もう、この人たち、なんなの……)
真珠の寝息が聞こえてきた。
瑠璃は真珠の寝顔を見て、深呼吸した。
瑠璃にとっての心の安定剤は真珠だけだった。


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