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山手の家【第12話】

青い空の下、山肌の緑が輝いていた。
交差点の角にあるカフェは冷房が効いていて、真夏の暑さから逃れるように客がひっきりなしに押し寄せていた。
真が選んだ席は店の入り口に近い、窓から交差点が眺められる場所だった。
瑠璃が真珠を抱っこして外の景色を見せていると、隣に座っていた真が入り口のドアに向かって片手を上げた。
正面を向くと、紅をさした信子が「まこちゃん、今日はお仕事だったんじゃないの?」と、言いながらゆっくり近づいてきた。
デパートの化粧品売り場の香りにスパイシーさを足したような香りがふわりと漂ってきた。
(あれ? この香りって……)
瑠璃が愛用していた香水の香りによく似ているけれど、クセの強い香りが重く主張している点が違う。
この香水のブランドの紙袋を持って帰宅した信子の姿が、瑠璃の脳裏に浮かんだ。
「少し早いお盆休みです。お盆は上司が休むから、僕はいつも前か後にずらしてて」
真が咳込んだ。
「あぁ、もうそんな時期なのね」
信子が目の前に座ると、香りはより一層濃くなり、むせかえるような感じがした。
(やっぱりそうだ。多分、パルファンの方だ)
この香水には香りの強さや持続時間の長さ別に3種類ある。
パルファンは強い香りが長く残り、オードトワレは軽すぎてすぐに香りが消えてしまう。
瑠璃は独身の頃からこの香水の、『オードパルファン』というパルファンよりは香り立ちが軽やかなタイプを好んでつけていた。
きつい香りが苦手だという真と出会ってからは、お風呂上がりにこの香りのボディクリームを使うようになったが、真珠が生まれてからは1度も使っていない。
長年寿司屋の女将をしていて、香りの強いものをつけることなどなかったのに、どういう風の吹き回しだろう。
「信子さん、いい香り」
「でしょ?」
信子がイタズラっぽく微笑んだ。
「若い男の子から『おばさん、臭い』って、何度か言われて気になっちゃって」
白いブラウスに黒いスカートのユニフォーム姿の店員が、水の入ったグラスをトレーに乗せてオーダーを取りにきた。
瑠璃は紅茶、真はブレンドコーヒーを頼んだ。
「信子さん、何にする? 好きなもの選んでよ」
真が声をかけると、信子はメニュー表をテーブルに置いて「私、カレーセットにするわ」と、店員を見上げた。
出かける前にミルクを飲み終えていた真珠は機嫌良く瑠璃の腕に抱かれている。
「そういえば私たち、太一伯父さんに最後のお別れしていないんで、せめて初盆には手を合わせたいんですが……」
「ありがとう。きっと大将も喜ぶと思うわ。でも、大将のお骨を前の奥さんとその息子さんに取り上げられてしまって、どこに埋葬されたのかわからないのよ」
「え、伯父さん、お墓買ってたのに?」
信子が悔しそうな表情を浮かべてうつむいた。
瑠璃は思わず真の顔を見た。真は信子を見つめていたけれど、その顔は血の気が引けているように見えた。
「義人から聞いたかどうかわからないけど、お葬式の時に、大将の前の奥さんと息子さんが来て、揉めちゃってね」
「僕、その話、聞いてないです」
瑠璃も首を縦に振った。
信子は「そう」と前置きして、静かに深く息を吸った。
「前の奥さんと息子さんに『葬式は出させてやるけど、お骨は渡さない』って、お骨を取られちゃったのよ。あちらの宗派に従って共同墓地に埋葬すると言われて、場所すら教えてもらえなくて」
真珠がむずがる。それに気づいた真が瑠璃の腕から真珠を取り上げて抱っこした。
さっきまで真珠の温もりを感じていた腕が、冷房の風に当たって少しずつ冷えていく。
太一がバツイチで、真よりも少し年上の息子さんがいるらしいというのは義人から聞いていた。「お骨を渡さない」と言われるなんて、信子が恨みを買うようなことをしたのだろうか。
信子は瑠璃たちの様子を気に留めることなく話を続けた。
「だから、せめてお線香だけでも毎日あげようと思って。亡くなった母の分も合わせてお線香を焚くんだけど、幸代さんに『ニオイが出るからやめてください』って言われて……」
「あの、僕の母の話なんですけどね」
信子が言い終わらないうちに、真が割り込んだ。
「お線香の件もそうですけど、母が信子さんにご迷惑をかけていないかと思って」
信子は何かを思い出そうとしているのか、視線が泳いだ。
どんな話が飛び出すのだろう。
瑠璃は身構えた。
「最近、ちょっと、感情のコントロールができなかったりっていうので、私に対して風当たりが強いな、とは感じるわね」
信子は一拍間をおいて「でも、一緒に住むと決めたんだから、うまく付き合っていかないと」と、笑った。


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