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山手の家【第8話】

買い物でもらった紙袋を使い回すのはよくあるが、今目の前にある紙袋は袋の口が開かないように、店のロゴがプリントされたシールで封がされている上に、持ち手のところに濃いブルーのリボンが結ばれている。
誰かへのプレゼントだろうか。
埃の匂いのするこの部屋の中で、その紙袋だけが清い空気をまとって、なんだか浮いた存在のように感じた。
(そういえば、信子さん、ブランドの買い物袋持ってたけど……)
瑠璃は、信子がソファに雑に置いた紙袋を思い出していた。
あのブランドは象徴的なデザインのバッグが名品と呼ばれている。最近は、中古でも高額で取引されているとテレビで取り上げられていた。
バッグや服は細々とライターの仕事をしているだけの瑠璃にはとても手が出せないし、サラリーマンの真におねだりできるようなものでもない。
それでも、香水や化粧品はわりと値段が手頃で、独身の頃から愛用しているものもある。
(あのブランドで白地の紙袋ってことは、化粧品、か)
扉の隙間から義人の声がうっすら聞こえた。
「姉さん、随分早かったじゃないか」
「そうなのよ。友達が急に用事入っちゃって。会って10分もしないうちに解散したの」
リビングの扉は閉まっていて、義人の声ははっきりとは聞こえない程度なのに、信子の声はよく通った。
「じゃあ、晩御飯は?」
「食べてないのよぉ。お茶しか飲んでないんだから」
いつだったかも似たようなことがあった。
真と真珠と3人でこの家に遊びに来た時、信子が友達と会うというので不在にしていた。
幸代が「あの人に友達なんているのかしら」と、笑い飛ばして、数分経った頃に信子が思いがけず帰宅したのだ。
あの時はタイミングが悪かったら信子に聞かれていたかもしれないと思って、瑠璃は冷や汗をかいた。
幸代は日を追うごとに少女のような無邪気さが増しているが、大人の幸代がどれくらいの割合で存在しているのかはわからない。
なので、信子に対するストレートな発言も、どこまでが少女の感覚で言っていることなのか、瑠璃にははかりかねていた。
「そうだ。忘れないうちにマコちゃんに渡さないと」
信子がそう言うと、重たい足音と振動がものすごい勢いで瑠璃に向かってきた。
(まさか)
部屋の入り口の方で何かが段ボールにぶつかる鈍い音がした。
次の瞬間、黒い棚と段ボールの隙間から信子が現れた。
瑠璃は間一髪、信子に背を向けた。
「入るならノックしてください!」
信子は悪びれもせずに「これを取りたかったのよ」とだけ言って、リボンのついたブランドの紙袋を鷲掴みして去っていった。
公園のベンチでお弁当を食べていて、唐揚げを掠め取っていくカラスのような素早さだった。
瑠璃が大声をあげても、真珠は規則正しくおっぱいを吸い続けている。
遠くで幸代の金切り声が上がった。
「瑠璃さんがおっぱいあげてるのに!」
「え? 信子さん入っちゃったの?」
真は『入らないで』と言っていた部屋に、信子が向かったことすら気づいていなかったようだ。
「ああ、そういやルリコさん、いたわね」
「姉さん、ルリコって誰? 真のお嫁さんは『瑠璃』さん」
信子は部屋の扉もリビングの扉も閉め忘れているらしい。
幸代の「うちにお嫁に来て何年も経つのに名前を間違えるなんて、ホント失礼な人」という小言まで鮮明に届く。
「マコちゃん、これ、真珠ちゃんに」
瑠璃には信子の表情まではわからないが、義人や幸代が騒いでいても、どこ吹く風といった感じに聞こえた。
真はプレゼントの詳細を確認しないまま、すんなりと受け取ったようだ。
(後で確認しよう。あぁ、めんどくさ)
瑠璃は出そうになった溜め息を呑むと、満足そうな真珠の顔に視線を落とした。

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