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山手の家【第6話】

「瑠璃さん、山手の一等地で3400万。安いぞ」
電子音が割り込む。電気ポットのお湯が沸いたらしい。
瑠璃は無表情の義人に執念のような、何か不気味なものを感じて慌てて背を向けた。
3月まで住んでいた街では、旧耐震基準で建てられたビンテージのマンションでも、利便性の高い都心部なら、リノベーションの費用を含めて50平米・2LDKくらいの広さで1億円近い値段をつける物件もあった。
それに比べたら、山手の家は築40年のビンテージとはいえ新耐震基準だし、利便性は申し分なし、80平米・3LDKをリビングの広い2LDKにリフォームしているので、3400万円は安いのかもしれない。
少し離れたところから幸代の声が飛んできた。
「お父さん、せめて真珠まじゅのためにもっと安くしてあげてください」
幸代は「ねー」と、指先で軽く、寝ている真珠の頬をトントンと叩いた。
「真下の部屋は3800万で売れたのに。うちは下よりも安く、3600万で売りに出したんだぞ。それを3400万に値下げしても買い手がつかないって、どういうことなんだ」
瑠璃はホットプレートにお湯を注ぎながら「そういえば」と、切り出した。
「お義父さん、不動産サイトで山手のおうちのこと調べたんですが、売りに出されてる情報1つも出てこないですよ」
「そんなことはない。そこに貼ってるのだって、ネットに出ているのを私が家のプリンターで印刷したんだから」
義人は顔を赤くして、また、壁の1箇所を指した。
『リフォーム済み 水回り・フローリング交換済み 最寄駅徒歩10分以内、2LDK 3800万円』の文字は、南からの日差しを毎日のように浴びているせいか、色褪せ始めていた。
「父さん、瑠璃さんの言う通りなんだよ。僕らが調べても全然出てこないんだから」
「それはお前たちの調べ方が悪いからじゃないのか?」
「優子も、調べたけど何も出てこないって言ってたよ」
「そんなわけない」
瑠璃は義人の相手を真に任せることにした。
ホットプレートの電源を入れ、温まるまでの間に、キッチンから菜箸とキッチンペーパーを1ロール持って戻る。
(こういう焦げつきには重曹があると、ありがたいんだけどなぁ)
ふつふつと音を立て始めたお湯に虹色のマーブル模様が浮かんでいる。
瑠璃はミシン目で切り離したキッチンペーパーの1枚をお湯に落とす。茶色に染まっていくペーパーを箸で摘んで、頑固そうな汚れを擦る。
「ところで、お父さん。あの家、お姉さんからいくらで買ったの?」
「1000万」
「父さん、ひどいよ。1000万で信子さんから買った家を、子供に3400万円で売りつけようなんて」
「売りつけるだなんて人聞きの悪い」
玄関の方から物音が聞こえた気がして、瑠璃は顔を上げた。
真珠が急に泣き出した。
玄関の扉が開く音がする。真たちも気づいたらしく、話を中断した。
幸代が「あらあら」と、細い腕で真珠を抱き上げる。
何か重たいものが迫ってくるような鈍い足元の揺れを感じた。
幸代がまるで真珠を隠すようにそっぽを向くのを、瑠璃は見逃さなかった。
「あらあら、みなさんお揃いで」
リビングに、にこやかに現れたのは信子だった。

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