『スクワット』#321
習慣にした、はずなのに、いつのまにか、気づいたときだけやってる、いやこれもまた習慣の形の一つかと思わなくもないけれど習慣と呼ぶにはあまりにリズム感のない、気まぐれ行動になってしまった。習慣として「シャワーを浴びている最中と、シャンプーで頭を洗っている時間はスクワットをする。スローな動きでだいたい20回くらい」をやって、膝周りや太もも、背筋と腹筋への刺激も意識しながらやっていた。ただ無頓着に脚の曲げ伸ばしをするのでなく、膝はつま先より前に出ないようにとか、腰を落としていくときはゆっくり動いて、持ち上げるときはスゥッと上げていくとか、身体を傷めず負荷は大きめにやれる作法、スクワットのお作法を意識した。習慣が崩れたにしても、この動作の作法は変わりなく守っている。
筋トレ一般に言えることなのだが、目的と手段がハッキリしてないままに、テキトーな筋トレやるとおかしな身体になる。中学の部活で陸上やってた時に、雨が降ったら校内を走ってそれから軽く筋トレをして早めに終わる、てな流れだった。そのときの筋トレはなぜか覚えている。廊下に壁向いて座ってみんな平行に並んで、腹筋をし、背筋をし、腕立て伏せをし、それぞれ50回とかだった、それから立ち上がって空気椅子。空気椅子は高校の部活でもやってたな、パフォーマンスとしてもなんかおもろいからやるんだろうな。そんで、今にも続くスクワットは、高校からだったか、筋持久力を高める目的の、筋力トレーニング。実際に、どれくらいの量が適切なのかなんてわからないまま、「キツイ…もうバテる、、はち切れる」と感じるまで攻めるような、それこそサイヤ人リスペクトという感じで、追い込んで追い込んで、限界だと思うまで頑張るって具合、マイルド体育会系。
筋力の、増強と維持のどちらに主眼をおくかによってだって方法やトレーニング量は変わるだろう、けれどその点に着目することなく「とにかくやる」は今でも根強く残っているのだろうか、当時、限界って言ったって「限界を決めるのはいつも自分だ」みたいな名言書いたTシャツに身を包むようなヤワなメンタリティでいたのだから、なおさらに非効率で非合目的的な負荷をかけていたんだろう、いまはどうなんだろう。
風呂場でやるスクワットだって、わたしの目的は「筋力維持」と「太らないためのカロリー消費行動」だ。ランの記録向上のためとも少し考えはするが、さほど気にしていなくてむしろ、「走っているからスクワットはしなくてもよいかな」と思っている。それでも、習慣を取り戻すことはしたほうがいいかな、なんて思うのが年始だ。
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