否定弁証法

0.啓蒙弁証法から否定弁証法へ

テオドール・アドルノ の著作は途轍もなく難解である。彼の古典への知識は半端なく、誤解を恐れず言えば、今世紀最高の知性 だと言っても過言ではない。しかも随所に縦横無尽に古典が散ばり、メタ理論を駆使しつつ抽象度の高い文章は一流の研究者であっても簡単には読めないほど、いや、理解するには骨の折れる作業になる。彼の本題に入る前に、ネット上で本当にわかりやすい解説があったので、前半部はそれをさらに砕けて整理しておく。そして後半の部分はアドルノの文体に沿ってそのままの水準での分析を加えるが、どれだけ難解であるかを吟味してほしい。

アドルノの意図を簡単に言ってしまえば、ヘーゲルの“正‐反‐合”の思考プロセスを経由して肯定的な結論を導き出す『弁証法』は、『同一性・権力(画一化・従属化の強制や抑圧)』と結果論的に相関している、ということである。これは弁証法に内在する道具的理性の所以であると。アドルノはこの同一性と結合した伝統的な『弁証法』を批判するために、“非同一性(個別性・多様性)”を担保する『否定弁証法』を提唱したのである。ヘーゲルの世界精神や弁証法を前提とする啓蒙的な近代思想は、『全体最適化・社会的利益』へと行き着きやすく、『個体(個人)の多面的な差異・個性』を抹殺する傾向をそのロジックの中に内包している。すなわち、世界恐慌・大量失業などの危機的事態においては、社会構成員がただ『同一性の無個性な主体』として生存できれば良いではないかとする価値観が優勢となり、『哲学・芸術の主体性(非同一性=権力や多数派に迎合しない主体)』が切り捨てられたり抹殺されたりすることになる。

個人が画一的・物質的な主体(=同一性)として虐殺された『アウシュヴィッツ体験』や『ヒロシマ‐ナガサキ(原子爆弾の投下)』は、近代的な啓蒙・理性の野蛮化であり倫理的堕落である。アドルノはアウシュヴィッツを偶然に生き延びた非同一性の主体として、近代的な啓蒙主義の挫折・幻滅を乗り越えるための『芸術‐哲学の可能性』を否定弁証法(画一的・機械的な結論だけに拘束されない多様性が担保された弁証法)で探求した思想家なのである。ヘーゲルの弁証法は客観的根拠と対象の同一性によって、“個人(個体)の自由”や“哲学・芸術の可能性”を合理的に抑圧する問題を持っているが、アドルノの否定弁証法はテーゼ(正)に対するアンチテーゼ(反)の衝突をどちらの言説が正しいか分からない多様性・可変性のある次元で捉えているのである。ヘーゲルの弁証法は近代的な啓蒙主義精神の根底にあるもので、弁証法が持つ『体系性・全体性・肯定性(一義的かつ合理的な結論)』の特徴は、強制的な権力と結合した『同一性の原理』として、個人(個体)を支配・搾取・虐殺するための合理的根拠に堕落してしまう危険性を常に持っている。社会全体の行動原理や義務・責任の原理を中心化してしまう作用を、『同一性+権力』は持っているのだが、アドルノはこの個人(個体)を支配・抑圧・抹消する『中心化の作用』に抵抗する思想を求めたのであった。アドルノは伝統哲学やプラトン由来のイデアリスムを『近代的な啓蒙主義の暴力・野蛮化』のリスクとして認識しており、自らの否定弁証法の哲学を『啓蒙・理性の治療』として位置づけていた。つまりヘーゲルの弁証法は啓蒙弁証法であり、否定弁証法でその内在的な矛盾を凌駕できると思うわけである。


1.思想的背景としてのフランクフルト学派を踏まえての否定弁証法

1923年にドイツのフランクフルト大学に『社会研究所』が設立され、初代所長カール・グリュンベルクが病没した1930年にマックス・ホルクハイマーが社会研究所の所長となる。フランクフルト大学の社会研究所ではマックス・ホルクハイマー(Max Horkheimer, 1895-1973)とテオドール・アドルノ(Theodor Ludwig Wiesengrund Adorno, 1903-1969)が主導的な役割を果たすようになり、西欧マルクス主義を実践的に展開させる『批判理論』を根拠として『フランクフルト学派』と呼ばれる思想家集団を形成した。フランクフルト学派は、ジョルジ・ルカーチの西欧マルクス主義の理論的系譜に位置づけられる現代思想の潮流である。しかし、『第一世代:マックス・ホルクハイマー,テオドール・アドルノ,ヴァルター・ベンヤミン,エーリッヒ・フロム,ヘルベルト・マルクーゼ』→『第二世代:ユルゲン・ハーバーマス,アルフレート・シュミット』→『第三世代:アクセル・ホネット,ヨッヘン・ヘーリッシュ,ノルベルト・ボルツ(第四世代)』と世代が変転するごとに、共産主義革命や階級闘争(プロレタリアート独裁)を掲げるマルクス主義からの距離が遠くなり思想的な多様性を深めていった。

フランクフルト学派の第一世代を代表するホルクハイマーは、機関紙『社会研究誌』に『伝統理論と批判理論』という学派の綱領的意味合いを持つ論文を発表して、近代西欧哲学の主客問題(主観と客観の二元論)にコペルニクス的な転回を迫ったのである。『伝統理論』とは、ルネ・デカルトが『方法序説』で提示した近代的自我(客体を観察する主観)が、自然世界の『所与の客体・客観』についての法則や知見を明らかにして理論化していくという伝統的な世界観のことである。伝統理論では、事物(客体)を観察する『主観(主体)』と主観(主体)によって観察される『客観(客体)』とは完全に別のものと考えられており、人間(主観)は所与の事物(客観)を観察して分析することはできるが、人間が所与の事物を自由にコントロールすることはできないと考えられていた。ホルクハイマーは、伝統理論の主観(人間)と客観(事物・社会環境)を分割する世界観に疑念を呈して、主観(人間)の労働と活動によって客観を自由に制御できるという『批判理論』を提起したのである。

つまり、伝統理論では、客観としての『所与の環境(事物)』を人間が自由にコントロールすることは出来ないという前提があり、諸科学や学術行為は既存の社会体制(制度的なフレームワーク)に従属することを宿命付けられていた。ホルクハイマーは、客観(客体)としての事物(社会環境)は『変更不可能な所与の条件』などではなく、主観(主体)の労働や活動によって歴史的・社会的に生成されるものだとする『批判理論』を展開したが、批判理論は現状肯定的(体制同調的)な権威主義的道徳観を打破する役割を果たすことになる。批判理論が示唆する世界観は、政治構造や社会環境というものが『所与の条件』として与えられているのではなく、政治体制や環境要因は『人間(主観)の労働・活動・意見・連帯』といった実践的行為によって日々作り変えられているということになる。ホルクハイマーの批判理論は、現実世界を改善するダイナミクス(力動)を喪失しかかっていた哲学・思想に、『社会環境(客体)を生成変化させる主体』という視点を与えた。ホルクハイマーが構想した批判理論をベースとする『社会哲学(学際的唯物論)』は、専門化・細分化され過ぎた諸科学分野の壁を越えて『社会的・政治的・歴史的な実践』に学術活動の総合的な知見を応用しようとするものだった。

ホルクハイマーが哲学・社会科学の諸分野をはじめとする諸科学を総合し、前進的な社会変革に貢献させようとした『学際的唯物論』の構想は、『ナチズム(ファシズム)の台頭・ナチスによる社会研究所の閉鎖・第二次世界大戦の悲劇・ユダヤ人に対するホロコースト』によって挫折を余儀なくされた。アドルフ・ヒトラーが指導するナチス体制下においてフランクフルト学派の拠点である社会研究所は閉鎖され、学派の主要メンバーはアメリカ合衆国へと亡命したが、ホルクハイマーとアドルノは第二次世界大戦中(1939-1944)に共著で『啓蒙の弁証法』を著述した。フランクフルト学派・第一世代の思想的営為を統合した『啓蒙の弁証法』は、西欧哲学の歴史を支えた『進歩主義的な啓蒙思想』と『理性的な近代市民社会』の限界を指摘しながら、『人為的な破局』の連鎖の歴史の中に人類の救済の思想を見出そうとするものである。『啓蒙の弁証法』はヴァルター・ベンヤミン(Walter Benjamin, 1892-1940)の歴史哲学の影響を受けているが、ホルクハイマーとアドルノが語る『西欧的な啓蒙思想・進歩主義の挫折』とは宗教的世界観(神話的物語・封建的道徳)を否定して人類を進歩させようとした『科学的な啓蒙思想』が、結果として第二次世界大戦とホロコースト(ユダヤ人大量殺戮)という人類史上最悪の悲劇を招来したことの反省の上に立っている。伝統的な宗教や神話・迷信を乗り越えた知的な人類(脱呪術化した人類)は、啓蒙思想に導かれて理性的判断と自然科学(科学技術)によって『より良き存在・人格・生活』へと進歩前進していくはずであったが、20世紀半ばに世界の列強諸国をファシズム(全体主義)の脅威が襲ったのである。人間の理性と科学に基づく『文明の進歩・文化の発展・人間性の向上』という啓蒙主義の前提が崩壊したのは何故なのか?戦争やホロコーストを引き起こした『理性の欠陥・限界』を求める飽くなき思想の果てに到達したホルクハイマーとアドルノの思想的地点が、『自然支配・他者支配のための道具的理性』であり、自己保存(利己的欲求)を至上命題とする道具的理性を批判することによってアドルノは新たな弁証法の境地を切り開いていくことになる。

とくに彼は、脱呪術化(迷信・誤謬の克服)を目指した理性的な近代哲学(近代市民社会)が辿りついた『ファシズム(全体主義)・世界大戦(暴力と野蛮)・ホロコースト(民族浄化)』を偶然の結果ではなく必然の結果として真摯に受け止め、『近代哲学・啓蒙主義の自己批判』によって道具的理性(自己保存を目的化する理性)が生み出す集団・社会の病理を乗り越えようと企図した。道具的理性とは自己の行動を統御して『自己・集団の自己保存』を可能にする理性であるが、道具的理性は外的世界のモノと人を『労働・活動』によって自由自在にコントロールしようとする性向を持っている。道具的理性は個人を全体の自己保存の道具と見なす『全体主義的な社会秩序(ファシズム)』へと必然的につながり、個々人を非倫理的な暴力と野蛮の行為へと駆り立てていく。その為、ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』においてファシズムを準備する道具的理性を厳しく批判し、宗教的なものや芸術的なものへ理性を投射していくことで『自己保存の欲求の強度=集団主義に誘惑される弱さ』を無害化しようとしたのである。

それに彼は『哲学のアクチュアリティ)』の中で、アプリオリ(先験的)な普遍的原理を追求して『現実の人間の生活感情』を無視する『形而上学(第一哲学)』を否定して、歴史的な“現在”や現実の“人間”の発展に実践的に寄与するドグマティズム(教条主義)に陥らない『最終哲学(ultima philosophy)』を行うべきだと主張した。彼が批判する第一哲学(形而上学)の代表的思想には、ハイデガーの『存在と時間』に示される観念論(実存主義)やフッサールの現象学があり、アドルノは『物理的な現実世界(生活世界)』から離れたところにアプリオリな普遍的原理(本来性・現存在・超越論的主観性・判断停止のエポケー)を確立しようとするハイデガーやフッサールの哲学的方法論を厳しく批判することになる。

そしてアドルノはその主著『否定弁証法』において、主観(主体)が客観を概念的に支配・統御しようとする西欧哲学(近代哲学)の伝統を批判し、ドイツ観念論における『認識作用の基礎理論(三批判書)』を構築したカントの純粋理性を『主観優位の観念論』として切り捨てようとするのである。彼は日々刻々と生成変化し続ける『非同一的なもの(現実世界の客体)』を一般的概念として把握する近代哲学の伝統に対抗し、主観のカテゴリーが客観を構成するというカント的な観念論(構成主義的主観性)を、他者支配的(環境操作的)な独善に陥る危険があるとして警戒した。『否定弁証法』では民族主義的なファシズムやナショナリズムを生み出す思想的契機となったヘーゲルの『精神現象学』も厳しく批判されている。ヘーゲルが普遍的な歴史的実在として提起した『絶対精神』は、『個人(特殊)の現実の生活や感情』を完全に無視しているという点においてファシズム(民族主義)に傾斜する危険性を胚胎している。ヘーゲルは世界の絶対的・普遍的な原理である『絶対精神』は、民族の意識によって駆動されて必然的に自己展開していくと語るが、この絶対精神の自己展開とは結局『特殊的な個人』を道具化(犠牲化)しながら発展するナショナリズムの運動のことだとアドルノは批判するのである。ヘーゲルは民族の意識(ナショナルな感情)によって集団的に自己展開していく絶対精神は、特殊性(個人)によって抵抗することはできず、特殊性(個人)は普遍的な絶対精神に従属することによってのみ必然的な自己実現を達成できるという。

つまり、ヘーゲルの思想には『個人の自律的な自由・具体的な人間の生活や感情』といった要素が致命的に欠落しており、国民国家や民族共同体の自己保存という普遍的命題のもとに『個人の生命・自由・感情』を権威的に支配する政治構造がその背景に見え隠れするのである。ヘーゲルは個人の自由や歴史の分岐(民主的な判断)という『現実的な要素』を考慮しなかったため、普遍的な民族の歴史・政治的な権力を強く肯定する『民族主義(国民国家)の排他的純化の思想』へと必然的に辿り着いてしまったのである。ナチス党員としてファシズムの思想活動の一端に関与したハイデガーに対してもアドルノは批判的である。ハイデガーが『存在・現存在・本来性』などの具体的な社会生活・政治問題と隔絶した『普遍的原理のメタファー(隠語)』を駆使したこと、形而上学的(非現実的)な本質性へと人間の心を引き付ける『存在論』によって、現実の政治権力・全体主義の危険性(暴走)を隠蔽したことを批判する。

その一方で、アドルノはヘーゲル的な弁証法の思考方法に関心を示し、ヘーゲルの『肯定‐否定‐否定の否定(正‐反‐合)』に潜む「概念の同一化作用」の危険を回避した『否定弁証法』を主張するのである。このアドルノの否定弁証法では、肯定的な命題を否定する『否定の命題』を出して更にその『否定の命題』を否定するというヘーゲルの弁証法ではなく、最初の『否定の命題』に敢えて留まって概念の同一化作用を拒絶するという『限定的否定』に最大の特徴がある。アドルノは否定弁証法における限定的否定によって、『非同一的なもの(現実世界の人間やモノ)』を概念化して支配・操作することを拒絶するのだが、この否定弁証法は普遍的なイデオロギー(観念・理念・概念)によって世界戦争(民族国家の対立)やアウシュヴィッツに至った人類の歴史の反省の上に立ったものだと言えるだろう。


3.更なる否定弁証法

 上記においてアドルノの否定弁証法を平坦な文章で紹介したものの、やはり何か物足りなさを感じざるを得ない。本項においては彼のロジックの神髄をいくつか取り上げて分析してみる。まずは、否定弁証法の端緒になる、アドルノによるハイデガー存在論の批判を取り上げる。というのも、アドルノはカント、ヘーゲル、マルクス、そしてハイデガーを取り上げつつ論を進めているからである。彼にとってハイデガーは反面教師である。なぜなら、ハイデガーは、まさに弁証法が問われている局面でそれを拒否し、主観を超越させてしまうからである。

「ハイデガーは、理性の思考内容への不適合性があらわになるような、主観と客観との差異を超えた一つの立場を採ることによって、それを処理することが弁証法の動機の一つとなるといった、そうした問題は、回避する。けれども、こうした飛躍は理性の手段をもってしてはうまくいくものではない。思考は、すべての思想や思考そのもののうちにさえ在る主観と客観との分離が、すぐさま消えてしまうであろうような立場を勝ち取ることはできない。だからこそ、ハイデガーのもとにある真理の契機が、世界観的な非合理主義のレベルに低下させられてしまうのだ。哲学はカントの時代と同様に今日も、理性による理性の批判を必要としているのであって、理性の解体や廃棄をもとめているわけではない。」(アドルノ『否定弁証法』、以下同様)「存在者なしに存在は考えられないし、相互の媒介なしにいかなる存在者も考えられないという、存在と存在者との弁証法は、ハイデガーによって抑圧される。」このようにアドルノはハイデガーの存在論の内在的な批判から射程に入れて否定弁証法を組み立てようとしている。上記の文章でアドルノは二つの弁証法を提案している。ひとつは、主観と客観との間の差異、つまりは理性の思考内容における不適合性としてあらわれるこの差異を思考することであり、もう一つは、存在と存在者との関係を思考することである。これらを展開していくためにまずは否定弁証法の前提について述べ、ついで、否定弁証法の概要を眺めて、最後に否定弁証法を導くための主としてヘーゲル弁証法の概念やカテゴリーの批判を取り上げる。

 まず、アドルノの言葉を引用する。そこから導かれる前提を探ってみたい。「『存在するもの』がなければ『存在』もない。存在という概念も含めて、およそ概念を考えるためには、その基体としての〈あるもの〉が不可欠である。それはたしかに思考とは同一化できない事物的なものを極度に抽象したものであるが、いくら思考を進めたからといって消去することができるというものではない。つまり〈あるもの〉なしには形式論理学さえも考えることはできないのである。論理学はけっしてそのメタ論理学的痕跡を一掃してしまうことはできない。『なになに一般』という形式によって、思考はこの事物的なものを振り捨てることができるという考え、つまり〔内容から独立な〕絶対的形式があるという仮定は幻想である。『事物的なもの一般』という形式を成り立たせているものは、事物的なものの内的経験なのである。これと対応して、対極である主観の例でも、思考の機能である純粋な概念を、存在者としての『私』から完全に切り離してしまうことはできない。フィヒテ以来の観念論の『根本的誤謬』は、われわれは抽象する運動において抽象される当のものから自由だ、とするところにあった。今日ではこういう誤謬は思想から締め出され、それ本来の領土からは追放されている。しかし、それ自体が否定されたわけではない。それへの信仰は、まだ魔力をもっている。」

 アドルノが上記のように述べるとき、当然ヘーゲルの『大論理学』が念頭におかれている。彼は、ヘーゲルが論理学を「有」ではなく〈あるもの〉から始めることができない、と述べていることに言及し、〈あるもの〉という観念は「有」という観念に比べて非同一的なものに一層寛大であるかもしれないのだが、ヘーゲルにあっては、論理学のはじめに〈あるもの〉という言葉をおくことで、その言葉が思い出させる非同一性の痕跡がほんの少しでもあることを我慢できなかった、というのである。ところで、私は、この上記の文で、アドルノが「思考とは同一化できない事物的なもの」と述べていることに注目したい。つまり、アドルノは、〈あるもの〉を措定することで、思考と存在が同一ではないこと、その非同一性を展開していく弁証法を構想しようとしているのである。でも、この非同一性の確認は、思考の論理と存在の様式のちがい、というところにまで進んではいない。アドルノにとっての思考と事物的なものとの非同一性とは、いくら思考を進めていっても消去できない〈あるもの〉なので、このような非同一性を追求するのは、やはり哲学の課題となる。

 これに対して存在の様式と思考の論理のちがい、という見地からは、存在の様式を捉える文化知の方法が導かれ、これはさしあたっては、人間の社会関係の存在様式の解明という内実でもって、旧来の個別科学や哲学を超えた方法が要求される。アドルノがこの非同一性を否定弁証法の前提として措定したことで、一体どのような弁証法が展開されていくのだろうか。思考と事物的なものとの非同一性は、〈あるもの〉を思考が消去できないことで思想に絶対的形式がある、という仮定を幻想に帰すとともに、他方で、主観の側でも思考の機能である純粋な概念を、存在者としての「私」から切り離せないということになる、とアドルノは述べている。この見地から、ドイツ観念論の根本誤謬が抽象していく思惟の運動が、抽象される当のものから自由であると仮定していたことにあったことが明らかに導かれる。

「根源哲学『第一哲学』というものは、必ず概念の優位という考えを伴っている。なぜなら、それを否定する者は根源から哲学すると自称する体裁をも失ってしまうからである。それでも哲学が『超越論的統覚』とか、あるいは『存在』とかに思いを馳せることによって自分をなだめることができたのは、これらの概念が、哲学にとって自分が考えている思考と同一だと思えたからである。ところが、こうした同一性などは原理的にお払い箱だと告げられることになると、究極的なものと思われた概念の自足もこの同一性の失脚に引きずり込まれてしまう。こうして、すべての普遍概念の基礎的性格は、特定の存在者の前で崩壊するから、哲学はもう全体性を望むことは許されない事になる。」

 アドルノによれば、根源哲学とは、必ず概念の優位という考えを伴っており、さらにまた、存在についての概念が思考と同一だと思っているわけで、思考によって消去できない〈あるもの〉の存在を根拠に思考を存在との非同一性という立場に立てば、根源哲学はもう全体性を望むことができなくなる。こうしてアドルノは、非同一性を出発点にして、根源哲学の批判へと向かっていく。このようにまず矛先は既成の根源哲学へ向ける。そのために、カントとヘーゲルの哲学を取り上げ、その内在的批判から、非同一性という否定弁証法の出発点を導き出そうとしている。まずアドルノはカントの感覚を「この〈あるもの〉として、けっして消去できない事物的な地位を占めている」と見なす。ところがカントは、「私」の経験を究極的なものにしてしまっている。「まるで、ある個人の意識にとって究極的と思われるものがそれ自体としても究極的であり、他の人々の局限された個人的意識が、自分の感覚にも同じ優位性があると言って意義を申し立てることはまかりならぬと言わんばかりに。」

 一般的にカントの物自体論の批判を、人間と人間との関係にあっては、カントは人間を思考という共通物で一括してしまっていて、他者の絶対的他性を見失い、その結果、自ら打ち立てた超越論的仮象批判の見地を捨ててしまっているが、アドルノも、カントが意識の同型を前提にしていることを批判した。しかしアドルノはそれに止らず、カントの感覚を〈あるもの〉と捉え返すことで、カントの主観的構成についての内在的批判を展開していく。カントは超越論的主観が機能しうるためには必ず感覚が必要だとしているが、そうであるなら、主体は単に純粋統覚だけでなく、自分の対極である質料にも固縛されることにはならないか、とアドルノは考えた。そうなると、カントが『純粋理性批判』で展開した主観的構成の教説全体が必然的に崩壊してしまう、というわけである。

 次にアドルノは同一性という観念の検討に移ろう。主観的構成の教説の崩壊は同時に自己同一性という観念の崩壊をも意味している。アドルノによれば、同一性とは、自分の内容である質料よりも恒久的であろうとした概念の支配に端を発しているが、この支配がゆらぐわけである。「概念にとって不可欠なこの非概念的要素は、概念の即自存在を頑として認めず、概念を変革する。非概念的なものの概念は、その本来の在りかである認識理論のもとに何時までもとどまっていることはできない。すなわち認識理論に強要されて、哲学はいやでも事物的内容性をもつようになってしまう。」これは後に詳しく展開される否定弁証法の概念論だが、アドルノはカントの認識理論について、感覚を〈あるもの〉の地位に定位させるだけで、概念の支配というその内容を転倒させ、非概念的要素による概念の変革という新しい認識理論が導き出される、と見ている。「だが主観と客観とは、本当はカントの構図に見られるように頑なに対立するものではなく、相互に浸透し合っているので、カントが事物をカオス的な抽象物に格下げすれば、その格下げは、このカオスに形式を与えて、それを形成するとされる〔主観の〕力をも触発して、それを格下げしてしまう。」

 アドルノによれば、根源哲学が同一性、つまりは絶対的に第一のものについて説こうとすれば、どうしてもそれに見合った相関者として、この同一性とは異なる絶対的に異質的なもののことについて語らざるを得ず、こうして第一哲学と二元論とは同じ穴の貉である。カントが「統覚の綜合的統一」を第一原理とし、そして対象がもつ規定を主観性によって投入されたものとし、そして、物自体としての対象は認識できないと主張したとき、カントは、この対象がもつ規定を主観が投入するとき、それは純粋に主観的なものではなく、対象からも働きかけられている、という点を考慮しなかった。だから、主観と客観とを対立させたカントは、肝心の主観の力をも格下げにしたとアドルノは述べている。ではヘーゲルはどうだったのか。

「主観が対象に就縛を加えると、その呪いは主観の上にも降りかかって主観の就縛となる。ヘーゲルはこの呪縛を二つながら消し去ろうと獅子奮迅の働きをした。〔彼によれば〕主観とはそのカテゴリー的働きの内で力を使い果たして、すっかり落ちぶれてしまう。主観が自分に対立するものをカント的意味における対象になるように規定し、分節できるためには、主観は、これらの諸規定の客観的妥当性に合わせて単なる普遍性に薄められ、認識の対象からと同様に自分自身からも切断されなければならない。そうなってはじめて対象は、綱領の通りその概念へともたらされ、概念を適用できるようになる。客観化する主観はどんどん収縮して抽象的理性という『点』になる。そして遂には、特定の対象から離れてそれだけでは何の意味ももたない論理的矛盾性になってしまう。当然の結果として、〔統覚の綜合的統一という〕『絶対的に第一のもの』もその相関者も、あくまでも無規定的なものにとどまる。具体的にそれに先行しているものは何かと反問しても、抽象的に対立しあった両契機の統一はけっして現われてこない。というよりもむしろ、硬直した二分法的構造が、両極のおのおのがそれ自身の反対物の契機であるという規定によって壊変する。二元論は哲学的思索につきものであり、思考が進むにつれてその虚偽があらわになるという仕方で不可避のものである。『媒介』という言葉は、たとえ不完全であるにせよ、この事態を最も一般的に言い表した言葉なのである。」

 アドルノは、ヘーゲルの弁証法を、カントの主・客二元論の両極のおのおのがそれ自身の反対物の契機であると見なすことで、それを壊変させた、と見ている。ところがこの壊変によって、主観の支配が覆されると、事物の優位性が呼び出されてくるはずだが、ヘーゲルの場合そうはなっていない。このヘーゲル弁証法の批判は、このあとずっとアドルノのテーマとなっていく。「カント哲学は絶対者の直接知という幻想を打ち壊した。この点では、それは真である。だがカント哲学は、たとえばそれが『原型的知性』であったとしても、この絶対者を直接的意識に相応するモデルによって記述した。これは真ではない。この非真理性を立証したことが、カント以後の観念論の真理性である。けれどもこの観念論もまた主観性に媒介された真理を主観とのものと同一視し、あたかも主観の純粋概念が存在そのものであるかのように振る舞った。この点でそれは、またもや偽りだったのである。」アドルノはハイデガーの言う世界・内・存在というのも、主観が閉じこもった塔の壁のことで、この壁は、外の影だけをうつし、この影は主観によって構成されているものである。アドルノによる根源哲学批判の試みは、以上のように展開されるわけだが、このような批判から一気に否定弁証法の構築に移していく。

 アドルノは否定弁証法の概要について、次のように述べることから始めています。「ある点で弁証法的論理学は、これを排撃する実証主義よりももっと実証的である。弁証法的論理学は思考でありながら、思考さるべき当の対象が思考規則に従わない場合においてさえ、対象の方を尊重するからである。対象の分析は思考規則に影響を及ぼす。思考は、けっしておのれ自身の法則性に自足していてはならない。思考は自己自身を放棄することなしに、自己自身に反して思考することができる。もし弁証法というものが定義できるとしたら、これはそういう定義の一つとして提案しなければなるまい。」なるほど、弁証法的論理学は、実証主義よりももっと実証的だ、ということはよく言われている。弁証法は具体的なものをそれに則して把握しようとするわけだから、その限りで、単なる実証主義よりも実証的でなければまやかしになってしまう。でもアドルノが言いたかったのは、対象が思考の規則に従わない場合のことだったのである。この場合に、アドルノは思考の規則に影響が及び、思考が思考としてありつつも、自分自身に反して思考できるようなものとして、否定弁証法を提案している。ひきつづいて、アドルノの次の文章を見てみよう。

「思考の武器は、けっして持って生まれたままのものにとどまりはしない。それ以上に、思考は自分の論理的要求の全体性が眩惑でしかないことを見破るに十分能力すら具えている。一方で主観性は、事実的なものを前提とし、他方で客観性は、主観を前提とするということは、一見したところ許し難い矛盾のように見えるが、それはただこうした眩惑にとってのみ、すなわち理由と帰結の関係の実体化にとってのみ許し難いものなのである。だが理由と帰結の関係は主観的原理であって、客体の経験はこれに従うとは限らない。」ここではアドルノは完全にカントの超越論的仮象論と、それをふまえた自然の合目的性論に依拠している。カントによれば、理由と帰結の関係は悟性の法則であって、人間は自然について思考するとき、あたかもこの悟性の法則が自然そのものに内属するかのように仮定して思考する。だからアドルノの言うように、この自然法則は主観的原理で、客体の経験はこれに従うとは限らない、という考え方は、カントの哲学の応用である。そして、ヘーゲルは、理由と帰結の関係を実体化することで思考の論理的要求の全体性が眩惑であることに目を閉ざしていた。つづいて、アドルノは以下のように述べている。

「弁証法とは、哲学的なやり方としては、狡知という古くからある啓蒙主義の手管を使って、パラドクスの結び目を解こうとする試みである。パラドクスがキルケゴール以後、弁証法の形態としては衰微したのは偶然ではない。弁証法的理性というものは、自然の連関と、論理的法則の主観的重圧の中に生き続けているこの連関の眩惑とを、それに理性の支配を押し付けることなしに超え出たい、すなわち犠牲も報復もなしにそれを超え出たいという衝動に衝き動かされている。」アドルノのこの衝動については、多くの研究者も直観として理解できるが、問題はこれを弁証法として規則化できるかどうか、ということである。ここでアドルノが述べていることは、カントの超越論的仮象の発見による理性批判の立場から、ヘーゲルの弁証法をひっくり返そうとする試みのように見える。でも結果が全て。いまはアドルノの取組みに期待をもって見守るしかなく、次に、否定弁証法の概要を述べた一連の文の最後の部分を引用してみよう。

「先の理性自身の本質も、敵対関係を含む社会と同様に生成したものであり、移ろい行くものである。無論この敵対関係は、苦しみと同様、社会だけに限った現象ではない。それでも弁証法は普遍的説明原理として自然にまで拡張されてはならないし、社会内の弁証法的真理とそれに無関係な真理という二種の真理を並立させてはならない。学問の分類になぞらえた社会的存在と非社会的存在との分離は、他律的な歴史の中には、眼に見えない自然的野生性が永久に生き続けているという事実を覆いあざむくのである。」ここでアドルノは、弁証法を自然の説明原理にまで拡張してはならないと述べながらも、二種類の真理を並立させることを否定している。というのも、自然的なものと社会的なものの分離は、人間の社会の歴史のうちに「眼に見えない自然的野性」が永久に生き続けているという事実を覆い隠してしまうという。このアドルノの指摘は読みようによっては、マルクスが価値形態論で展開した形態規定のことについて言及しているように思われる。「こういう弁証法は、否定的である。この否定弁証法という発想によって、ヘーゲルとの差異が名指しされている。」アドルノはこのように否定弁証法の概要をふまえて、いざ本格的にヘーゲル弁証法の概括的批判に移っていく。

 アドルノによれば、へーゲルにあっては、同一性と実定性とはひとつのことであった。だから非同一的なものと客観的なものとを「精神」へと格上げされた主観性のうちにすべて封じ込めれば、それで宥和が生み出されることになった。でもアドルノは、この考え方に反対する。というのも、全ての個別的規定の内に働いている全体の力としての思考は、単にこの個別的規定の否定であるだけでなく、それ自身が否定的なもの、真でないものでもあるからだ。「もし存在者が全部そっくり精神から導出されるとなると、この命とりな宿命として、精神は、自分とはまったく相容れないものと思っているこの単なる存在者同然のものとなるほかはない。もしそうでもしなければ精神と存在者とは一致することはない。ほかならぬ、この飽くことを知らない同一性の原理こそ、異論を唱える者を弾圧することによって敵対関係を永遠化している当のものである。自分と同じでないものは一切容認しない者は、実は宥和を妨げているくせに、自分こそ宥和だと勘違いしている。何もかも同じにしてしまうこの暴挙は、自分が除去するところの異論を再生産しているのである。」アドルノの頭の中には、ヘーゲルとともにハイデガーの顔が浮かんでいただろう。ヘーゲルの同一性の弁証法に対してこのように拒否したアドルノは、ヘーゲル弁証法と対比する形で否定弁証法の特徴について述べていく。

「へーゲルと決別しなければならない理由は、今もこうして矛盾が全体を捉えており、けっして彼の綱領通り特殊な矛盾として解消されていないことを考えれば、明白である。カント的な形式と内容の分離の批判者として、ヘーゲルは内容と分離しうる形式、事物と独立に適用されるような方法を持たない哲学を欲した。しかしそれでいて彼のやり方は、方法的だった。だが実際は、弁証法は方法に尽きるものでも、素朴な意味での実在でもない。それが方法でないというのは、思考が自分なりに何とかつじつまを合わせようと努める、あの同一性をまったく欠いたまだ宥和に達しない事態は、矛盾に満ちていて、統一的に解釈しようとするあらゆる試みに抵抗するからである。弁証法へとわれわれを誘うものは、この矛盾に満ちた事態であって、思考の持つ組織欲ではない。また弁証法が単に実在的なものでないというのは、矛盾性は反省のカテゴリーであり、思考しながら概念と事物とを突き合わせることだからである。主体的態度としての弁証法とは、いったん事態のうちに矛盾を経験したら、その矛盾のために、それにあれこれ異論を唱えながら、思考することを意味する。もし矛盾が現実の中にあれば、弁証法はこの現実に対する異論となる。」アドルノによれば、矛盾は事態の方にあり、そして、思考が事態に矛盾を認めたら、思考は思考しながら概念と事態とを突き合わせることが問われる。ヘーゲルの場合は、この概念と事物が、つまり、内容と形式が分離しないような方法、つまり双方を思考の運動ということで統一した。でもアドルノによれば、ヘーゲルの弁証法は方法的だという。それは事物の方を概念の方に同化してしまう、という意味でそうなんだろう。だからアドルノは事物の矛盾の方に思考を同化しようとしているのである。そしてそうすることは、矛盾をこの社会のうちにあると見たら、弁証はこの社会に対する異論となる、ということとなって現われるのである。

「だが、こういう弁証法はもはやヘーゲルと手を組むことはできない。この弁証法の運動は、個々の対象とそれらの概念との差異の中に同一性を求めようとするものではない。それどころか、この弁証法は同一的なものを疑ってかかっている。この弁証法の論理は、崩壊の論理である。すなわち、認識主観がさしあたりすぐ直面している諸概念の整然と組織され、対象化された姿が崩壊する論理である。これらの諸概念の主観との同一性は、偽り〔非真理〕である。この偽りとともに、現象に対する主観の先行的形式作用の方が現象のうちに非同一的成分、つまり『とるに足りない局面』よりも優先した地歩を占めることになる。」アドルノがここで「崩壊する論理」というとき、いったん思考のうちで組み立てられた体系的な論理を崩壊させていくのが否定弁証法だと言いたいだろう。アドルノによれば、この崩壊する以前の論理は偽りであり、それは個物をとるに足りないものと見て、非同一的成分としての〈あるもの〉を切り捨てている。では既存の体系を崩壊させるにはどうすればよいのか。それは先には〈あるもの〉、非同一性を弁証法の前提におくこととされていたが、ここでは、崩壊する以前の論理によれば「一見無矛盾に見える個別的規定のおのおのが実は矛盾に満ちていることが明らかになる」というところに求められている。

「全体性の総体の展開のうちにその分裂と偽りをも証示しうる人、こういう人だけが観念論の呪縛圏を超え出ているのである。純粋な同一性などというものは、主観が措定したもの、その限りにおいて外から持ち込まれたものである。それゆえ、この同一性を内在的に批判するということは、逆説的な話だが、それを外から批判することでもある。主体は、、これまで、自分が非同一的なものに加えてきた犯行の償いをしなければならない。それによってはじめて主体は、自分が絶対的な自立存在であるという仮象から自由になる。それはこの仮象そのものが、自分の造り出した種や類のサンプルへと事物を引き下げれば引き下げるほど、ますます主観的付加物のない自立存立そのものを持つことになると錯覚している、同一化する思考の産物だからである。」ヘーゲル弁証法の批判としては、非常に鋭く、かつ説得力がある。ヘーゲルは非同一的なものに対して外から(思考の方から)純粋な同一性をもちこみ、〈あるもの〉を無視する、という形で、非同一的なものを同一化したのである。そして、こういう犯行を犯すことによって、主体は、絶対精神、つまりは絶対的な自立存在であると宣言できたのである。このヘーゲルの概念のお城は、しかし、逆立ちしていた。もし、思考にとってそれと非同一的な存在を〈あるもの〉として措定し、思考がこの自らと非同一的なものに向き合って、思考の論理を崩壊させていけば、このヘーゲルの概念のお城は、錯覚であることが判明する。でも、アドルノは、強調してはいないが、カントなら、この錯覚は、思考が同一化しようとする本性を内属させている以上、思考につきものの錯覚で、思考する限りはそう見えてしまう、と付け加えるだろうが。

これまでアドルノの否定弁証法の前提、概要、そしてヘーゲル批判をみてきたが、そこに見られたものは、ヘーゲル弁証法に対するイデオロギー的批判、つまり、ヘーゲル弁証法のイデオロギー性を暴き立てる、という形になっている。それはそれで面白いが、でもイデオロギー的批判に終始したのでは一寸もの足りない気もする。もう少し議論を展開していこう。まず、同一性の弁証法について触れておこう。

「思考がさしあたり自分と対峙している概念をこのように深く省察し、そこに内在するアンチノミー的性格をかぎつけると、思考はもうこの矛盾の背後にある〈あるもの〉という考え方から離れられなくなる。思考とそれとは異質的なものとのこの対立は、思考自身の中で思考の内在的矛盾となって再生産される。普遍者と特殊者とは互いに相手を批判し合うことが、この特殊者と概念との非同一性を考えるための媒質である。すなわち、それは、一方が、概念がそのもとに包摂したものを正当に取扱っているかどうか、他方では、特殊者がその概念をちゃんと実現しているかどうかを判定する二つの確認行為である。」思考が存在と思考との非同一性に気づき、〈あるもの〉という考えから離れられなくなると、思考はどのような変化をこうむるのか。アドルノによれば、思考と〈あるもの〉との対立は「思考自身の中で思考の内在的矛盾となって再生産される」とした。その際、普遍者と特殊者とが互いに相手を批判し合うことが必要なのだが、それは平たく言えば、概念がそのもとに包摂したものを正当に取扱っているかどうか、また他方で、特殊者がその概念をちゃんと実現しているかどうかを判定する二つの確認行為だ、という。このあと、アドルノは、思考から離れ、人間の同一性、という問題で先の考え方を論証していく。

「交換原理、あるいは人間的労働の、平均的労働時間という抽象的普遍概念への還元は同一化原理と同根である。交換は、同一化原理の社会的モデルであり、同一化原理がなければ、交換もないだろう。すなわち、非同一的な個々人の存在や働きは交換を通じて共通の尺度で測れるものとなり、同一的となるのである。この原理の拡大は全世界を抑え込んで、否応なく同一的なもの、全体にしてしまう。」このアドルノの交換原理の捉え方には疑問を感じる。アドルノの見解だと、全く非同一的なものとしてある個々人の労働に対して、平均的労働時間へ還元する力をもつものを交換と捉えていることになるが、そうではないだろう。たしかに原初的交換の場合には、こういった事態は起こるが、しかし交換原理が支配的な社会では、個々人の労働自体が非同一的なものと同一的なものとの二重物になっているのである。アドルノのような交換原理の把握では、〈あるもの〉の側の矛盾を捉え損ねることになる。あるいは〈あるもの〉の側の運動を捉え損ねかねない。ここにアドルノの否定弁証法の限界が露呈しているのではなかろうか。というのも、アドルノが思考と存在との間に非同一性を見出したのはいいが、存在そのものの二重性、あるいは、非同一性と同一性とが社会関係のうちに現象している、といった見地には到達してはいない。アドルノが措定しているものは、あくまでも思考と〈あるもの〉との矛盾に限定されている。だから、アドルノが先の二つの確認行為を交換原理に適用すれば、それはまたもやイデオロギー的批判に終わらざるを得ない。例えば「等価交換の本質は古来、ほかでもなく等価交換の名のもとで等しくないものが交換され、労働の余剰価値が着服されるということだったからである。」といった指摘にみられるように。あるいは、同一化原理を単に否定するだけでは暴力が復帰するだけと見て、同一化原理を次のように批判するときにも。

「思考の同一化原理としての交換原理の批判が意図するものは、今日まで単なる言い逃れでしかなかった自由かつ公正な交換という理想が本当に実現されることである。それのみが交換を超え出させるのである。……いかなる人間もその生き生きとした労働の一部を不当に横領されることがないとなってはじめて、合理的同一性なるものが達成されるのではなかろうか。」ここでアドルノは同一性という概念が、そのもとに包摂したものを正当に取扱っているかどうか、そして他方で、包摂されたものがその概念をちゃんと実現しているかどうか、という二つの確認行為を交換原理に対して行っているのだが、その結論は、資本が廃絶されなければ、合理的同一性なるものは達成されない、という見解になっている。このような批判に終わってしまえば、それは一寸不毛である。しかし次の文はけっこう鋭い批判になっている。

「どのような綜合のうちにも、同一性への意志が働いており、同一性は、思考に内在するその先天的課題として、積極的に、かつ望ましいものとして現われている。すなわち綜合の基体は同一性によって自我と宥和する、ゆえにそれは善である、とみなされる。このことが次に主体は、その物が自分のものであると見なされれば自分とは異質的なものに服従してもよいのかという道徳的未解決問題をあっさり容認させてしまう。」ここで「自分とは異質的なもの」を資本と置き換えてみると、現代社会への道徳的批判がなされていることがわかる。ここまでで明らかとなったのは、アドルノの目標はイデオロギー的批判だった、ということである。「主体はいま自分の理性に反してまで、理性を仮定しなければならない。イデオロギー批判がけっして末梢的問題や学問内部の問題、つまり客観的精神とか、主観的精神の所産とかに限られた問題ではなく、哲学の中心的問題であるのは、このためである。つまりそれは構成的意識そのものの批判なのである。」アドルノのイデオロギー的批判とは、実は、構成的意識そのものの批判、ということであり、この批判は以下にも続くことになる。思考の自己反省というテーマとして。

カントの理性批判を継承し、批判的理性について次のように述べ、構成的意識への批判が始まる。「意識には、自分が自分を欺いていることを見破るだけの力が十分備わっている。おのれの分を逸した野放図な合理性がどこで虚偽となり、本当に神話となるかは合理的に認識することができる。合理的理性は、その必然的な歩みのうちで、たとえいかに希薄化されてもまだ残っていたその基体の消滅が、自分自身の所産、すなわち理性の抽象作用の仕業であることを見失うや否や、非合理性に転化する。思考が無意識のままその運動法則に従ってゆくと、それはさまざまな主体志向の逸失を防ぐ『思考によって〔主体的に〕思考された所産』というおのれの本分に背くものとなる。思考の自給自足を厳しく命じることは、否応なしに思考を空虚にする。そしてその空虚さは、ついには主体の態度として蒙昧さと原始的単純性になる。意識の退行は、意識の自己省察の不足が産み出すものである。自己省察を加えれば、同一性原理をも見破ることはまだできる。しかし同一化なしには思考できないし、すべての規定は同一化である。」アドルノによれば、自分が自分を欺いている、ということを意識が合理的に認識するためには、思考とは異質な〈あるもの〉を意識のうちで消滅させないことが必要。逆にこれを消滅させることで構成的意識が形成されるとアドルノは見ている。ところで意識が自己省察することで同一化原理を見破ったとしても、同一化なしには思考できない、という問題に突き当たる。アドルノはまさにこの問題に対してどのように対応するのか。

「だが、まさにこの同一化こそ、非同一的なものとしての対象の本質に迫るものである。というのは同一化は、非同一的なものをそれとして際立てることによって、自らも非同一的なものから際立たせられようとするからである。非同一性は同一化がひそかに狙っている目標である、同一化において真に救われるべき対象である。伝統的思考の誤りは、同一性が思考の目標だと思い込んだことである。同一性の仮象を粉砕する力は、思考自身の力である。つまり思考が〔ある個物について〕『それは何々である』と言うとき、一般的には避けられない〔同一性という〕思考の形式は揺り動かされるからである。非同一的なものの認識は、まさにこの認識が同一性思考以上に同一化し、かつ別な仕方で同一化するという点においても弁証法的である。この認識が言おうと欲するのは、あるものが何であるかということである。これに反して、同一性思考が語るのは、それが何に属するか、何の範例、ないし代表であるかということ、したがって、このもの自身とは別なものである。同一性思考は、対象を見境なく責め立てれば責め立てるほど、その対象の同一性からますます遠ざかる。同一性の批判によって同一性が消滅するわけではない。同一性は質的に変化するのである。そこでは対象の思想に対する類縁性のさまざまな要素が生きてくる。」同一化なしには思考できないし、すべての規定は同一化なのに、どうして非同一的なものを思考のうちに含めることができるのか。アドルノはこの問に、同一性を質的に変化させること、非同一性を同一化の目標とみなすこと、という答えを出している。このことは端的に言えば、ある個物についての認識について「あるものが何であるか」と答えようとすることだ、とアドルノは述べている。これに対して同一性思考は、あるものを「何に属するか」とか「何の範例ないし代表であるか」というようにそのもの自身とは別のものに同一化してしまう、というのである。

「伝統的哲学は自分と似ていないものを自分とよく似たものにすることによって、この似ていないものを認識できると思い込んでいるが、哲学はそれによって本当はただ自分自身を認識しているにすぎない。変革された哲学の理念は、哲学が似たものを自分と似ていないものと規定することによって、この似たものを知ることであると言えるかも知れない。」しかし、実際どうすれば非同一的なものを同一化の目標にして思考することができるのか。アドルノが客観的矛盾と呼んでいるものは、普遍と特殊の間の矛盾であり、また、自由の概念と自由の実現との間にある矛盾でもある。ということで、これは、思考と存在との間にある矛盾に他ならない。客観的矛盾など論理的に認められず、そんなものは判断の形式的一致によって除去しなければならない、といった通常の哲学的立場をひきあいに出しつつ、アドルノは次のように述べている。「しかし客観的矛盾ということは、単に判断の外に依然として残っている存在者の矛盾性を指示しているだけでなく、判断された事態そのものの内に何か矛盾したものがあることをも指示している。なぜなら判断は、その判断の中にとり込まれた特殊な存在を超えた存在者を判断すべき当のものとして常に狙っているので、そうでなければ、それ自身の意図から言って、判断などなくてもいいのである。そしてまさにこの意図を判断は満たさない。」なるほど、客観的矛盾というのは、判断の外に取り残されている存在者の矛盾性ということだけではなく、判断の形式が狙っている思考のうちに取込まれてはいない〈あるもの〉についての認識を判断が実現しえていない、ということなのである。そして、アドルノにとっては後者の矛盾、これは思考と存在との間の矛盾に他ならないが、こちらの方が問題なのである。「客観的矛盾とそのさまざまな流出物を意識は自分の方から概念的操作によって消去することはできない。矛盾を概念的に把握することはどうにかできようが、それ以外は空虚な安請け合いである。矛盾は今日、最初にそれを幻視したヘ-ゲルにとってより、はるかに重たい意味を持っている。かつてそれは全体的同一化を促進する手段だったが、今はこの全体的同一化の不可能なことを認識するための器官となっている。弁証法的認識というものは、それに反対する人たちが難じているように、上から天下り的に様々な矛盾をこしらえあげ、それを解決することによって前進するようなものではありえない。たとえヘーゲルの論理学がしばしばそういう風に進むとしても、そうではない。目下、弁証法的認識に課せられているものは、そうしたことではなく、思想と事態との不一致を追求すること、その不一致を事態に即して経験することである。」

 アドルノによる構成的意識に対する批判の方法は、ここでは思想と事態との不一致を追求すること、その不一致を事態に即して経験すること、と述べられている。この結論は正しいとしても、これを実現しようとすれば、アドルノが重視してはいない存在そのものの矛盾についてきっちりと捉えておくことが問われるのではなかろうか。アドルノは、思想と事態との不一致を事態に即して経験する、と述べているわけだから、その際に事態そのものの矛盾が捉えられていなければ、アドルノのもくろみも空虚な安請け合いにならざるをえない。アドルノが構成的意識に対する批判について執拗に述べているにもかかわらず、何かしら袋小路に入っているように思われる。

 さて、そろそろ否定弁証法の神髄まで一気に攻めていきたいところだが、まだまだ辿り着かなければならない検討が散在している。もう少しその周辺概念などを踏まえないと結論的な明晰さに乏しくなるがゆえにやむを得ずもう少しアドルノが批判している弁証法について検討していく。

 「弁証法とは、その主観的な面から言えば、思考の形式がその対象をもはや不変かつ自己同一的なものにしないような仕方で思考する、ということに尽きる。対象がこうした自己同一的なものであることは、経験に反するからである。」「弁証法とは、客観的には同一性の強圧を、その内に蓄積されさまざまに対象化した姿で凝固しているエネルギーによって粉砕することを意味する。」このように、アドルノの期待はどんどん思考の外にある事態、あるいは存在の方に移っていく。アドルノにとって思考とは対象に対して同一性の強圧をかけることに他ならないので、この思考を変えていくには、事態の側からの非同一化の要請に依拠する他はない。「同一性を通しての非同一性の意識」というように弁証法を捉えたアドルノは肯定的否定の批判、つまり、ヘーゲルの否定の否定の論理の批判に辿り着く、そしてその検討を試みることになる。「非同一的なものは、それ自身で肯定的なものとして直接に手に入れることは出来ないし、否定的なものの否定によっても手に入れることはできない。この〔否定的なものの〕否定はそれ自体、ヘーゲルの言うのとは違って、肯定ではない。……否定の否定と肯定性の同一視は同一化の最たるものであり、形式的原理が最も純粋な形式にもたらされたものである。」つまり、非同一的なものは、それ自身で肯定的なものとしては認識できないし、また否定的なものの否定によっても認識できない、と主張するアドルノは、ヘーゲルが否定の否定によって肯定的なものへと移行するとした否定の否定の論理に批判を加えている。否定の否定と肯定性との同一視は同一化の最たるものだ、というわけである。アドルノは、否定の否定はあくまでも否定的であり、もしこの否定に肯定的要素があるとすれば、それは限定的否定、すなわち批判のみであろうと述べてる。

 アドルノにあっては、「否定の否定」の最初の否定は、主観が対象に規定を与えることであり、これが主観によって対象が否定されることである。というのは、主観は対象を思考のうちに取り込むことによって、〈あるもの〉という残余を残しつつ、対象それ自体を否定するからである。では次の否定とは何だろうか。それは他ならぬ主観に対象によって加えられる否定である。これは対象による主体の認識の否定だから、思考にとっては肯定的なものとはならない。アドルノが非同一的なものそれ自身は手に入れられないと言うとき、この非同一的なものとは、思考と存在との間にある関係性である。だから、これは双方の間の弁証法のうちにひそんでいるわけで、それ自身をとり出すことはできなかったのである。このアドルノの非同一性についての考え方のなかに、絶対的他性、という考え方が欠落しているのが気になるが、ここではこの点を指摘しておくだけにとどめておきたい。

「断固たる否定の真骨頂は、いま在るものの認可に加担しないという点にある。否定の否定はこの断固たる否定を撤回するものではない。そうではなく、それはこの断固たる否定が十分に否定的でなかったことを立証する。もしそうでなければ、弁証法は最初に行われた否定とは結局何の関係もないということになる。たしかにヘーゲルにおいては、弁証法によって最初の否定は全体に統合されたが、しかしその代償としてその活力を奪われねばならなかった。いったん否定されたものは、消滅するまで否定的である。これが、われわれとヘーゲルとを決定的に分ける点である。拭いようもなく非同一的なものの表現である弁証法的矛盾をふたたび同一性によって平らに均すということは、この矛盾が意味するものを無視し、純粋な整合的思考へと戻ることと同じである。」ここでも述べているように、アドルノにとっての非同一性とは、その現象が弁証法的矛盾としてあらわれるものであり、従ってやはり思考と対象との間の関係として措定されている。だから、非同一性を思考する弁証法は否定弁証法とされている。そして、構成的思考の批判を実現するものはこの否定弁証法だという。ここまで、アドルノの否定弁証法の論理を追ってきて明らかとなった疑問は、アドルノが客観的矛盾を存在や事態そのものの矛盾としてよりも思考と存在との間の矛盾として捉えているということと、非同一性を絶対的他性と捉える観点がなく、それを思考と存在との関係のうちにひそんでいるものと捉えている点である。次はこの疑問点を全面的に展開してみよう。

 ベンヤミンの造語に、アドルノによって新しい意味が与えられた布置関係、アドルノは、〈あるもの〉について、思考の外側から追求している。「存在するものは、単にそれであるより以上のものである。この『より以上』は存在者に外から押し付けられたものではなく、自分の中から追い出されたものとして、あくまでもそれに内在するものである。その限りにおいて、非同一的なものとは、事物を同一化する諸々の識別作用に逆らう事物自身の同一性であると言えよう。対象の最も深い内面は同時にこの対象にとって外的なものであることがそれによって明らかになるし、対象の閉鎖性は実は仮象であって、同一化し、固定化する思考法の反映にすぎないことも明らかになる。あくまでも個別的なものにこだわって思考してゆけば、そういうものに到達する。つまり、個別的なものを代表すると称する普遍者にではなく、その本質としてのあの内的であると同時に外的なものに到達する。」このアドルノの展開は、存在を、思考の内にとらえられた存在と、とらえられない〈あるもの〉との二種類と捉えることで、その意味が開示されてくる。存在するものは単にそれであるより以上のものである、という場合、「それ」は思考のうちにとらえられた存在のことである。だからより以上とは、思考によって外から押し付けられものではなく、逆に存在の中から思考によって追い出された〈あるもの〉のことである。だから、存在と思考との関係を普通のように思考の側から見るのではなく、存在の方から見てみると、この関係のうちで非同一的なものとは、事物を同一化する思考の力に逆らって事物自身に同一性があり、それがたえず思考によってとらえられた事物の中から追い出されることで成立するとみなせる。
 
こうして、対象にとって最も深い内面は、実は思考のうちにとらえられた対象にとっては、外的なものとなってしまう。そこでアドルノはあくまでも個別的なものにこだわって思考すれば、個別的なものを代表すると称する普遍者にではなくて、個別的なもののうちに思考のうちにあるものと、その外にあるものとの統一が見出されると主張している。そして、この統一を見出しうる契機が布置(星座)である。「こういう一致をもたらす契機は、『否定の否定』などなくとも、まして抽象を最高原理としてそれに身を委ねたりしなくても、なくなるわけではない。それは、いくつかの概念から段階を追って、さらに普遍的な概念へと進むのではなく、それらの概念が布置関係の中に置かれることで生きてゆく。この布置関係のもとでは、分類的やり方にとってはどうでもいいもの、ないし厄介者にすぎない対象の特質が照らし出される。」ここでアドルノは思考による抽象作用や、構成的綜合作用や分類といった思考の論理にとってはどうでもよいもの、あるいは捉えられない厄介者としてある対象の特質について述べている。そして、その特質は対象についての色々な概念が布置関係(星座をイメージすれば見えてくる)の中に置かれたことで見えてくる、という。この布置関係についてのモデルを、アドルノは言語の働きに求めている。

「このことをよく示すモデルは、言語の働きである。言語は、さまざまな認識の機能のための単なる記号体系を提供しているのではない。言語が本質的に言語として現れるところ、すなわちそれが叙述となる場合、言語はその叙述に用いられる諸概念をいちいち定義しない。言語は幾つかの概念をある事物のまわりに集めて互いに関係づけ、その関係を通じてそれらに客観性を与える。これによって言語は、思ったことを完全に表現したいという概念の志向に仕える。概念がその内部でとうに切り捨ててしまったもの、概念がそれでありたいと思いながら、なることができないこの『概念以上のもの』はただ布置関係によって、外から表すしかない。認識されるべき事物のまわりにさまざまな概念が集められると、それによってこれらの概念は潜在的に事物の内面を規定することになり、思考が必然的に自分の内から排除したものを、思考しつつ獲得することになる。」アドルノの念頭に置いている布置関係は、存在の様式のことであり、これと思考の論理との非同一性ということを出発点にして存在の様式に、思考がその本性としてもつ同一性を否定し、その様式に慣らされていく、という様子を描くことを試みるためのツールとして提出されていると思われる。そうであれば、言語の働きをモデルにするのはよくないかもしれない。というのも、言語は意識の形態であるといえるので、それ自体思考に属している。実際アドルノは「認識されるべき事物のまわりにさまざまな概念が集められる」と述べているが、言語の場合、概念を集めるのは思考なのである。アドルノが布置関係のモデルに価値形態をおけば、議論はずいぶん異なったものとなった。そうすれば、布置関係とは、対象そのものの矛盾がつくり出す現象形態であることが判明する。この価値形態論を布置関係とみる見方からすれば、アドルノの提起をさらに発展させることができるのではないか。

「客観は、それが置かれている布置の意識でもあるモナド論的固執に対して自己を開く。つまり内面への沈潜が可能となるには、あの外面が必要である。だが、個別的なもののそういう内在的普遍性は、蓄積された歴史として客観的なものである。この歴史は個物の内にあるとともにその外にもあり、個物を包括して、その中に個物を位置づけるものである。事物がおかれている布置関係を感知するということは、生成したものとして個物が自己の内に担っているものを解読するのと同じことなのだ。外面と内面の離存ということ自体が、歴史的に制約されている。対象の内に累積した歴史を解放できるのは、対象の歴史的位置価すらも、その対象の他の諸対象との関係の中にまざまざと記憶しているような知だけである。いわばそれは、すでに知られているものの現在化と集中化である。既知のものは、それによって変貌する。対象をその布置関係において認識することは、対象が自己の内に蓄積している過程を認識することである。理論的思想は、こうした布置として自分が聞きたいと思う概念を取り囲むのである。」ここでアドルノは、「事物が置かれている布置関係を感知するということは、生成したものとして個物が自己の内に担っているものを解読するのと同じことなのだ」と述べているが、これは具体的事物に則して展開されていないから分かり難い。例えば、この生成した個物を貨幣と想定して見よう。そうすると、貨幣が内に担っているものとは、さしあたり購買力であるが、これを解読しようとすれば、商品の価値形態という布置関係を感知し、これを解明しなければならない。商品の価値形態にあっては、商品の内なるものとしての価値は、その外としてある使用価値との統一がお互いに対立物へとわかれ反照しあう現象形態を生成させているのである。そして等価形態にある商品は、その使用価値が形態規定されて価値の化身となり、こうして、その使用価値がそのまま購買力をもつ。アドルノは、明確にしてはないが、外面と内面との離存とは、関係として存立するのであり、かつこの関係は内的なものの現象形態なのである。これは実は本質と現象との関係でもある。ヘーゲルによれば、本質は現象するのだが、アドルノは、まさにそのヘーゲルの本質論の批判を試みている。

本質と現象について、アドルノは、本質はもはやヘーゲルのように純粋に精神的な「自体存在」として実体化できないとしつつも、他方でそれを事実の下に隠されたものとみなす考え方に対しては、その本質は非本質的なものだと述べている。なぜなら、この世界自体が人間をずたずたにし脅かすような、そういう世界だから、その下に隠されているとされる本質も非道なものに他ならないということである。ではアドルノにとっての本質とはどのようなものなのか。「本質なるものは、存在者とそれが自らそうあると主張するものとの矛盾を介してのみ認識される。もちろん、いわゆる事実と違って、この認識もまた直接的なものではなく、概念的なものである。けれども、こうした概念性は、単なる『人為的なもの』ではない。つまり、その中に主観は結局自己自身の確証を見出すにすぎないような認識主観の所産ではない。そうではなく、この概念性は、たとえその把握が主観によるものであっても、概念的に把握された世界は主観自身の世界ではなくて、むしろ主観に敵対するものである、という事実をいいあらわしている。」アドルノはここで、存在するものの概念的構造について述べようとしている。でも布置関係と同様に事態に則して述べられていないので、やはり分かり難い。では、ここでも商品を例にとってみましょう。商品の価値形態は、価値を等価商品の使用価値で表現させるが、このことは同時に、価値の大きさをも等価商品の使用価値で表している。だから商品所有者は商品価値の現象形態については何も知らなくとも自分の商品の価値がいくらか、ということは、商品を交換関係におくことで知ることができる。この時、商品の価値形態はどのような機能を果したのか。ある商品の価値がいくらかということを決定しているのだが、それは商品所有者の思考に頼らず、商品相互の関係による決定である。ということは、ある商品が等価形態に置いた商品を価値としては自分と同じものであるとみなすと同時に等しい価値に相当する分量を選択している。商品の価値形態は、あたかも思考がそうするように、分析して価値という抽象的なものをとり出し、次にそれの量的規定を行って価値の大きさについての判断を提示している。これは価値形態が概念性をもっている、ということに他ならない。アドルノも言うように、「こうした概念性は単なる人為的なものではない」。

それからアドルノは、主観的だとみなされていることも実は客観によって用意されたものにすぎない、ということに注目する。「こうなると本質と現象、概念と事物との媒介もまた元のままではなくなる。かつてはそれは客観のうちの主観性の契機だったが、もうそういうものと見なすことはできない。さまざまな事実を媒介するものは、それらを前もって形成し把握する主観的メカニズムというよりも、主観が経験できるものの背後にある、主観にとって他律的な客観性である。」存在そのものが概念的であるとすれば、人間の主観性も、実はこの客観性に媒介されそれに支配されるのではないか、というのがここでのアドルノの提起である。というのも今日の人々の判断は、あまりに主観的すぎる、と言われている場合でも、「全員の合意」を自動的に復唱しているにすぎないからである。「目下、個々の主観の内では客観化されたものが優勢を占め、個々の主観が主観となることを妨げているが、それは、また客観的なものの認識をも妨げている。これが、かつて『主観的ファクター』と呼ばれたもののなれの果てである。今日では、媒介されているのは客観性というよりも、むしろ主観性の方である。そして、こういう媒介こそ、従来の媒介よりももっと緊急に分析する必要があるのである。今や、この客観性の媒介が主観的な媒介メカニズムの中に伸びてきて、すべての主観が――超越論的主観すらもが――その中に組み込まれている。さまざまなデータが注文通りに知覚されるように取り計らっているものは、この前主観的秩序であり、この秩序そのものが、認識論にとって構成する主観性にほかならない主観性を、本質的に構成しているのである。」

つまり、主体的判断だと考えられている事柄が、実は客観性としてある前主観的秩序によって構成されている、というアドルノの考え方は、物象による意志支配のメカニズムを解くことで始めて一般化できる。アドルノのこの場での展開にとどまるならば、それは文学的、芸術的な批評か、精神分析に救いを求めるか、ということにならざるを得ない。でも、せっかくアドルノが切り拓いた地平を批評や精神分析にまかせてしまうのはいかにも残念だ。商品が概念的存在であると言っても、それは人間主体と切り離されたままではそうはならない。そもそも、商品とは人間の社会性なので、それは人間主体と切り離されたものとしては存在しようがない。アドルノの内と外の比喩を借りるなら、商品の内は人間性であり、外は物性である。だから、商品の概念性とは、商品としての物性的なものの布置関係が概念性をもっている。そして、この概念性は、商品所有者が、この布置関係に意志を宿すことで概念となる。商品をこのような人間の社会性と捉える見地から、商品世界からの貨幣の生成が顧みられなければならない。商品所有者は、誰でも自分の商品で他の商品が買えたらいいと考える。自分の商品が貨幣であれば、こんな楽なことはない。ところが、全ての商品所有者がそのように行動すれば、どの商品も貨幣になれず、従って、商品世界は交換不能の世界となってしまう。ところが商品の価値形態は、単一の商品で他の全ての商品が自分の価値を表現すれば、他の全ての商品がこの単一の商品で買えることになり、そのことで商品世界は統一的な秩序を保つことができるということを示している。この布置関係に商品所有者が自分の意志を宿したとき、貨幣が生成される。このような関係にあっては、主体である商品所有者の判断は、主体の前にある客体の布置関係の概念性に支配されたものとなっていく。

ところで、主観と客観との関係について、「認識論的反省の歩みは、その支配的傾向からすれば、客観性に関してはそれを次第に主観へと還元する歩みだった。だが、まさにこの傾向こそ逆転されるべきなのではあるまいか」ということだった。そして、客観は主観になりえないが、主観は客観に十分なりうる、とする支配的傾向がなかなか覆されなかったのは何故だろうか。アドルノはそれを客観がもつ魔力に求めている。「主観は、その支配権の行使にあたって、ヘーゲルの『主人』と同様に、自分が支配していると思っているものによって、ある面で打ち負かされる。客観を根絶しようとすると、主観はますます客観に従順にならざるを得ないということは、このヘーゲルの『主人』のうちによく示されている。主観は客観を自分の魔力の内に封じ込めたと思っているが、その主観のなすことすべてが、実は自分が封じ込めたと錯覚している客観の魔力のなせる業なのである。主観の絶望的な自己誇大化は、おのれの無力さの経験に対する反動であり、それが自己省察の妨げになる。つまり絶対的意識は、おのれを意識していない。」このように、客観の魔力について述べているアドルノは、しかし、その魔力の中味については明らかにしていない。それはせいぜい主観の魔力の批判という否定的な形で展開されているにすぎない。でも、この客観の魔力の中味こそ、商品という物象による人格の意志支配、つまり物象化が必然的に人間の頭の中に生み出す物神性のことであろう。物象による人格の意志支配がどのような観念形態を人々の頭の中に発生させるか。価値形態論の最後のツメとして、この問題をとりあげよう。商品の価値形態は等価商品を価値の化身とすることで、この等価商品の商品体そのものに購買力という社会的力を付与する。この社会的力は、商品の価値関係の内部でだけ生じているものだが、しかし、価値の現象形態は人間の感性にとっては捉えられず、そこにあるものは二つの商品体の関係だけなので商品に意志を宿した商品所有者にとっては、この購買力が物としての商品それ自体にそなわっているように見える。
 
例えば、貨幣商品金は、全ての商品が金で価値を表現する、という商品所有者の無意識のうちでの本能的共同行為にもとづいて、一般的購買力という社会的力をもつが、これが、人間の観念のなかでは、金という素材自身に購買力があるかのように見える。ところが、アドルノは、商品の物神的性格や、物象化について言及しているが、一寸ずれている。「経済の優勢な力は、けっして恒常不変なものではないからである。とにかく思考は、物象化の解体、つまり商品的性格の解体によって万事が解決すると安易に想像しがちである。だが物象化そのものは、間違った客観性の反省形態である。そして、意識形態である物象化を理論の中心に置くことは、支配的な意識や集団的無意識が批判理論を観念論的に受け入れることを可能にする。……物象化について声を大にして歎くだけでは、人間を苦しめている当の体制を告発するどころか、いつしかそれを滑り越えてしまう。災いは、人間を無力で無感動なものに貶めている諸関係、それもやはり人間によって変革されるべき諸関係のなかにあり、第一次的に人間のなかに、それらの諸関係が人間に現象する仕方のなかにあるのではない。」

ここでアドルノが言及している「物象化」の原語が、本当に「物象化」なのか、あるいは「物化」なのか、調べる余裕は今はない。しかし、この文脈では、アドルノは明らかにこの「物象化」を「物化」という意味で用いている。というのも、マルクスにあっては、物象化とは、人間の意識に現象する当の客体的な諸関係のことであり、それが、物化として意識されるから、物神性論が成立していた。ここでのアドルノの提起を物化についてさわぎたてたルカーチへの批判として読む限りでは否定すべきものはない。でも「物象化そのものは、間違った客観性の反省形態である」としてしまうと、せっかくアドルノが客観の優位を主張し、それを思考の外から捉えようとしている当の〈あるもの〉を見失ってしまう。物象の人格化と人格の物象化こそは、客観的諸関係そのもののことなのである。


4.エピローグ

アドルノの否定弁証法は、このあとさらなる展開を見せるが、今回の検討においては、更なる魅力のある内容が続くとはいえ、否定弁証法を用いての価値形態論をふまえない唯物論や社会批判に進むので、ひとまずここまでで、否定弁証法を追う作業は終わることにする。もちろん、これまでの展開の中で、否定弁証法について明確な答えを出したとは言えないが、社内のインテリジェントの向上に貢献するための目的は達成したと思う。今回検討したのは、その核心部分ではあるといえ、『否定弁証法』の5分の1にも満たない部分である。就中、アドルノの非同一性が、思考と存在との非同一性だ、という最も根本的な理解は深めたと思う。つまり、最も自分を知っいてるだろう自分さえも自分を明確には定義できないし、ましては、自分でも自分が理解できない場合もしばしばある。これこそアドルノのいう、否定弁証法的主張としての非同一的なものになるであろう。これが批判的な手段として有効ではあろうが、学知としてというより、我々は日常においても多くの差を見かけるのである。私や我々の文化の中においてさえ、しばしば違和感を感じたりするわけで、それこそ非同一性になるが、この差異こそ、ヘーゲルにおける否定であり、またその否定によって差異は統一(同一性)を目指しアウフヘーベンしていくことだった。

結局のところ、アドルノは、このような思考のうちでの差異性を「非同一性」と見たのではなく、思考と存在とを「非同一的」なものとみることで思考の同一化しようとする力を批判しようとしたのである。確か、差異といっても納得できる差異というのは同一性があるから可能になる。絶対的な他者性という言葉で表される絶対的な差異は、いや、差異という言葉自体が一つの枠内の違いにすぎないのであれば、ここでは差異という言葉を使うわけにはいかなく、むしろ、他者、しかも同質性を持たない絶対的な他者としか言いようがない。つまり、アドルノのいう差異性とは同一性を前提にしたものである。この点はたぶん、伝統的な哲学における認識論の基本図式とパラレルであろう。しかし彼はそれを前提にしつつも、存在についての人間の思考がとり込むことのできない〈あるもの〉と思考との間に非同一性を見出そうとしているのである。もう一段踏み込んでいうなら、絶対的他者性といっても実は我々にとって全く関係のないものではないのではないか。そもそも他者という概念自体が自己との対概念であり、自己との関係を前提にしている。だから絶対的他者性とは、自己が他者を思考のうちに認識したとき、この認識にとっての他者性を絶対的他者性と表現しているこの他者の絶対的他者性をアドルノは思考と存在との非同一性というところに見出したのである。だからアドルノの〈あるもの〉は、レヴィナスの顔にも匹敵する、その相当なものであるかのように思われる。ある意味において、今の時代だからこそ、アドルノの非同一性のあるものというのは、明確な形として顕現するといえよう。そして否定弁証法の威力も発揮できるようになるであろう。

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1テオドール・ルートヴィヒ・アドルノ=ヴィーゼングルント(Theodor Ludwig Adorno-Wiesengrund、1903年9月11日 - 1969年8月6日)は、ドイツの哲学者、社会学者、音楽評論家、作曲家。
2実証主義論争(positive debate ; Positivismusstreit)とは、1961年ドイツ社会学会における、ポパー、とアドルノの報告に端を発する論争の名称。ポパーの側にアルバートが、アドルノの側にハーバーマスがつき、社会科学方法論をめぐって議論をたたかわせた。ポパーたち批判的合理主義の陣営は、理論を事実による反証のテストにかける演繹的方法を科学的営為の根幹と考える反証主義の立場から、自然科学と社会科学の方法論的一貫性を主張した。それに対してアドルノたち批判理論の陣営は、社会科学においては観察対象である人間の営みと、観察という研究者の営みの双方がすでに社会関係に媒介されたものであると主張し、社会科学のもつ独自性に注意を促した」。アドルノ-フランクフルト学派による批判的社会理論による「事態をあるがままに認め、事態の示す法則を積み重ねることをもって科学の本質とする実証主義的態度に対する批判。アドルノによると、そのような実証主義的態度は、結局、個別的事態の背後にひそむ社会的関係、社会的総体性を見失っているのだという。したがって、社会科学の研究方法は、蓄積された経験を基にした概念と特定の社会的個別問題との不一致のなかで、こちらの概念への反省とともに、対象である社会的個別問題への批判や実践的働きかけをも含まねばならないとする。一方、ポパーの批判的合理主義にとっても、実験と観察によって事態の示す法則を書き記すことが科学的真理であるわけではない。われわれは多くの既得知識をもって事態に対処する。しかし、この既得知識なるものも暫定的なものでしかない。既得知識をもって提示された問題解決案(理論)は、事態に即してテストされる。もしその解決案が批判に耐えた場合、われわれはその解決案を批判される価値あるものとして暫定的に受けいれる。事態の方も固定的なものではなく、その都度の解決案によって構成される対象にすぎないものである」とした。

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