客観性の隘路

やったら「客観的に」とか言う奴らへ

0. 客観性の隘路
果たして我々は「客観性」が何か明晰な形で知っているのか?なんとなく、いろんな場面で使ってしまったりするが、実に多様な意味を含んでおり曖昧なままで、なんとなくまるでインテリジェンスで明晰明瞭な立場に立っているかのように使ってしまう。「客観性がない」とか、「客観的にいうと」とか…等々。例えば『広辞苑』にはこうある。【客観】(1)主観の認識および行動の対象となるもの (2)主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの。客体。……【客観的】特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつことについていう語。また、『社会学辞典』においては、客観性objectivityとはほんらいには、認識や判断が歴史的・社会的に制約された当事主観に固有の関心や意見や評価などから独立していることを指した。しかし、判断のみならず認識においても「客観そのものの正確な模写」という真理概念が反省され、認識がそれに先行する関心に不可避に制約されると理解されるようになると、客観性の基準は、むしろ、当の認識や判断が成立する際の条件や論拠の普遍妥当性のことを指すようになりつつある。この場合には、客観性は、その基礎として何らかの相互主観的な諒解を前提にしている。と。これらの定義には、必然的に発生する根源的な問題がある。大きく分けると、問題は二つに分けられる。①「主観の作用とは独立に存在すると考えられたもの」の「考えられた」は、そもそもそれ自体、主観の作用ではないのか?②「特定の個人的主観の考えや評価から独立で、普遍性をもつ」の「普遍性」は、どうやって確かめるのか?③条件や論拠の普遍妥当性は、結局は、歴史と社会と地域に制約された「存在被拘束性」の問題であり、それを客観的と言っていいのか?なるほど、このように客観性とは、「物事をありのままに認識している percept things as they really are」状態、の客観性は「主観の働きとは独立している」状態で、また、主観に左右されない物事それ自体が有する状態だからこそ、普遍的であると言っている。
しかし、この客観性は定義からして、実現不可能な、矛盾した客観性である。何故なら、「物事をありのままに認識している」という言明のうちに、既に「認識」という主観の働きが入り込んでいるからである。つまり、根本的な矛盾点は、「ありのままに」という事物の存在の仕方と、「認識している」という認識者の認識の仕方、即ち「存在論的側面」と「認識論的側面」とが、同時に定義に入ってしまうという逆説にある。「事物のありのまま」は決して認識者に左右されてはならない以上、それは具体的な個々の認識者によって認識されるものであってはならない。その結果、「事物をありのままに認識している」状態とは、「何処にもない場所からの視点」ということになってしまう。このように、客観性の純粋さを突き詰め、一切の主観性を排除した認識を行おうと目指した場合、避け難い逆説に落ち込んでしまう。「認識」という以上、それは「わたし」の認識を超えることはあり得ないのだから。すると、その認識を判定する基準を目指して「妥当性の基準」を満たした場合「客観的」と言ってみよう。ただ、この妥当性の基準という発想の根底には暗黙の前提があり、つまり、「妥当であると皆が認めざるを得ない」状況が成立する必要条件としての、「我々人間の持つ普遍的理性」の存在がある。換言すると、先の「何処にもない場所からの視点」が到達不可能である以上、今度は「万人から見た視点」によって客観性を基礎づけようというわけだ。万人から見た視点であれば、必定、普遍的であるはずだから。
従って、「万人から見て妥当であると思わざるを得ない状況」という普遍的客観性といえるだろう。確かにそれは、厳密な意味では主観の働きから独立したとは言えないが、理性的存在者全員がある特定の「同一の」主観的働きを持っていると考えれば、その働きが引き起こす経験の「普遍性」は確保できる。絶対的客観性が認識される客体の側に客観性と普遍性の基準点を求めたのに対し、普遍的客観性は主体の側にその基準を求めるよう、視点を反転させたのである。ただし、これらの客観性においては、獲得できると期待される知識が普遍的な経験に由来する以上、必ず一つに収斂するはずである。この点で、基準点の移動はあれ、普遍性の志向という点で両者は共通した性格を持っている。
しかし、理性的存在者全員がある特定の同一の主観的働きを持っているとしても、皆同一の主観的働き「しか」持っていないとしたならば、我々の間に認識や経験の違いなど生まれるはずがない。となると、主観的働きの中には、文字通り「主観ごとに差のある」働きも存在するに違いない。こうした主観的働きが関わる領域においては、一体どのような客観性が成立するのだろう。先の普遍的客観性が理性的存在者全体を包括していたのに対し、我々各自の主観の働きがもつ不確実性を認めるのと引き換えに、「個々の学問という特定領域内部での合意」が強調されることになる。つまり、普遍的客観性では無制限だった妥当性の基準の適用範囲に、限定を加えるのである。
先の客観性に比べると、これを客観性と呼べるのかという疑念はもっともである。しかし、近代以降の学問の分化状況を考えれば、こちらのほうが「現実的な」客観性であるとも言えよう。無論、学問ごとに妥当性の基準の根拠は異なり、また、時代を追うごとにそれが変化してきたことは言うまでもない。そのため、この意味における客観性は、決して安定した客観性ではない。しかし、先の客観性とこの客観性には、なお共通点もある。それは、学問内での客観性が依然として「知識の統一性」を志向していることである。もし、そうした志向がないならば、個別の学門内での合意自体、必要ないのだから。また、学門内客観性は「普遍的な理性の機能」を一切認めていないかと言えば、実際はそうではない。何故なら「学問という特定領域内部での合意」が成立するためには、しかも、それが「正しいと思われる学説への合意」という形でなされるためには、そこに参与する人々の間で「真摯な討議」がなされねばならないはずだからである。こうした「討議的理性(コミュニケーション的理性)」の働きだけは、なお普遍的なものとして確保すべきだという主張は根強い。逆に言えば、この討議的理性の働きの普遍性が失われたとき、この客観性は瓦解することになる。
さて、これまで議論した客観性に共通していたのは、程度の差はあれ、とにかく主観の働き、つまり認識論的問題との関係が考慮されていたという点である。これに対し、手続き的客観性になると、話は全く異なってくる。手続き的客観性は、文字通り、研究の手続きのみを支えとした客観性である。即ち、「同じ手続きを踏んだこと」、ただその一点にのみ、客観性の基準を収斂させるのである。故に、ここにおいては、「認識論」それ自体が問題とならなくなる。手続き的客観性は「同じ手続きを踏まえた」ことのみが客観性の保証となる以上、「手続きの対象」に左右されることはない。従って、一方の対象と他方の対象に別の操作を施すことは、たとえそれが同じ結果になるとしても、決して許されない。従って、手続き的客観性は研究対象を「標準化 standardization」することになる。しかし、研究対象と同時に、もう一つ標準化されるものが存在する。それは、研究者自身である。何故なら、「同じ手続き」であれば、理念上、誰がしようと関係ないし、何度でも再現可能なはずだからである。この意味で、手続き的客観性は、極めて「無人間的なimpersonal」客観性である。こうした理念だけを追求するのであれば、やはり機械にまさるものはあるまい。
ただし、ここで重要なことは、手続き的客観性が客観的と言われる所以は「同じ手続きを踏まえた」という点に存在するのであって、手続き自体の正当性の保証にはならないことである。従って、手続き的客観性は、完全に無人間的な客観性を貫徹することはできない。何故なら、ある手続きを採用すること自体は、どこまでも人間的決断なのだから。
さて、手続き的客観性は、場合によっては手続きの「結果」とは無関係になることがある。また、既にある現象が完了してしまってその結果しか残っておらず、手続きを施すという能動的所作がそもそも下せない場合もあろう。そこで、「ある現象の観察結果に対して同じ基準を当てはめる」ことで得られる客観性を結果的客観性と呼びうる。例えば、湿度何%以上と未満をもって、現象を区別するといった具合に、特定の不変の基準によって現象を裁定していくのである。この結果的客観性は、以下の三点で手続き的客観性と共通性を持つ。第一に、「同じ基準を等しく適用」という意味での「対象の標準化」作用。第二に、我々の内なる認識ではなく外在的な基準に客観性の基礎を置く点、即ち、その無人間的性格。第三に、「当てはめられる同じ基準」自体には、それを正当化できる根拠がない点。逆に、両者の違いは、手続き的客観性が手続きの結果には何ら興味を示さないのに対し、結果的客観性は手続きといえば観察のみで、むしろ観察の結果に適用される基準にのみ興味を示す点にある。ただし、実際にはこの二つの客観性が結びつくことも多いし、また、あまり見分けがつかないこともある。
しかし、ここまで見てきて、具体的ケースを想定してみると、話はそう単純にはいかないことが多い。特に問われるべきは、「認識論的問題の捨象」が、実際に可能なのか、という点である。何故なら、手続き的客観性に関して言えば、手続きが当てはめられる対象自体、人間の経験の中で立ち現れてくるという言い方も、不可能ではないからである。また、結果的客観性にしても、そこに「観察」という行為が介在している以上、認識論的問題を回避したとは言いがたい。となると、観察という基礎的経験の対象それ自体が、主観の働きによって構成されているとの駁論も可能になる。
このように、対象objectそれ自体が主観の積極的な働きによって生成されるという意味での客観性object-ivity、これを綜合的客観性と呼ぶことができる。或いは「綜合的対象性」と訳した方が適切だろうか。この客観性は、単なる主観の働き以外の何者でもないように思えるが、それでもなお「外界からの触発」という契機は残しているため、いちおう客観性と呼ばれる理由もなくはない。しかし、これまでの客観性に比べ、普遍性にも欠いており、また、そもそも対象それ自身の発生に関わる以上、対象の標準化という要素も存在しないため、やはり最も低い意味における客観性になるだろう。

1.客観性の螺旋
ここで、絶対的客観性が「認識論的側面と存在論的側面が同時に定義に入っている」ものであった点を思い出そう。そうなると、普遍的客観性から学門内客観性に至る系列とは、絶対的客観性のうちの認識論的側面のみを引き継いだものと言える。その系列は、主観の働きの存在は認める点では共通しつつ、その主観の働きによる認識の普遍性をどこまで認めるかという点で違いが生まれる「認識論的系列」と呼ぶことができるだろう。そして、この系列から離れるにつれて、認識の普遍性の度合いが弱まるのである。
他方、手続き的客観性から結果的客観性に至る系列は、主観の働きを極力排除し、主観から独立して外在するもの、即ち研究の手続きや観察結果を測る基準のみに客観性を依存させる無人間的客観性の一群である。無人間的という点では、絶対的客観性のうち、存在論的側面を継承したものともいえなくはないが、絶対的客観性における存在論的側面が認識の対象の存在に関わるものであったのに対し、手続き的客観性や結果的客観性のそれは手続きや基準の存在に関わるものであるため、同一の資格を持つわけでもない。そこでとりあえず「非認識論的系列」と呼んでおこう。そして、一旦袂を分かった認識論的系列と非認識論的系列は、それぞれのメルクマールだった普遍性と無人間性とを否定することによって、綜合的客観性において再会するのである。
どころで、認識論的次元と非認識論的次元は、それぞれが別々の側面(認識論的側面/存在論的側面)に依存しているため、現実においては二つの次元にまたがる形で客観性をみたすことは十分考えられる。例えば、統計処理は、数学的演算という普遍的客観性と数学的操作という手続き的客観性を同時に満たしている。或いは、手続き的客観性が依拠する手続きや、結果的客観性が依拠する基準を保証するものが学門内での合意、つまり学門内客観性によって保証されている、ということも多々ある。何故なら、手続き的客観性や結果的客観性は、自らの客観性を自らの手で保証することはできないからである。
このように考えると、「理念的」には二本の系列が平行する様相を呈する客観性の次元だが、「現実的」には、認識論的次元と非認識論的次元が二重螺旋のようにねじれ合っていると考えられる。事実、日常的に客観的という語が用いられる場合、認識論的次元か非認識論的次元のいずれか一方の意味に重きをおきつつ、他方の次元の意味まで含意してしまうことが多い。では、このように、次元の理念上の姿と現実の姿を区別して描写したことに、どのような意義があるのだろうか?
しばしば、学問の客観性を求める主張に対し、「どうせ我々の認識なんて全部主観的だし…」とか「どうせ我々の分野はやっていることが人それぞれだし…」といって、即座に否定的な態度を示すことがあるが、そうした態度は、私の挙げた認識論的系列と非認識論的系列を不用意に混同している態度である。確かに、現実において両者が混在することは否めないとしても、理念的には、仮に認識論的系列に属する客観性が得られなくとも、他方の非認識論的系列に属する客観性を確保する可能性は残っている。従って、「どうせ我々の認識なんて全部主観的だし…」という嘆きは、非認識論的系列を考慮した嘆きとは呼べまい。また、逆に研究の手続きや評価基準に画一性がないからといって、まだ普遍的客観性や学門内客観性の可能性が排除されたわけではない。従って、「どうせ我々の分野はやっていることが人それぞれだし…」という嘆きは、認識論的系列を考慮した嘆きとは呼べまい。このように、一方の系列に期待できなくとも、理念上は他方の系列に属する客観性を得られる可能性が残っていることを示唆すること、これが客観性の次元の理念上の姿と現実の姿を区別して描写した第一の目的である。
しかし、逆にこうした理念を曲解し、二つの系列の一方だけが特権視されてしまうことがある。例えば、「ある手続きを踏まえた、だからこの研究は客観的だ」と非認識的系列だけが突出する方法論至上主義や、「皆が認めた、だからこの研究は客観的だ」と認識論的系列だけが突出するコンセンサス至上主義など、その最たる例であろう。一方の系列だけを特権視するこれらの立場は、現実的には研究には二種類の系列がねじれあっていることを忘れた立場と言えよう。現実的には、一方の系列に属する客観性だけを満たして満足できるわけではない。一方の系列を確保できたとしても、現実には他方の系列に属する客観性も考慮せねばならない余地が残っていることを示唆すること、これが次元の理念上の姿と現実の姿を区別して描写した第二の目的である。
つまり、絶対的客観性は実現不可能だが、その一部の側面のみを継承した認識論的系列と非認識論的系列へと思索を展開することは可能である。それらの系列が理念上は弁別できる以上、いずれか一方の系列に属する客観性を確保できないからといって、もう他方の系列に属する客観性を直ちに諦める必然性はない。故に、我々は絶対的客観性の実現不可能性をもって、直ちに主観性の深淵へと堕するとは限らない。同時に、それらの系列が現実的にはねじれあっている以上、いずれか一方の系列に属する客観性を確保できたからといって、もう他方の系列に属する客観性を直ちに無視できる必然性はない。故に、我々は一つの客観性の実現可能性をもって、直ちに客観性の光へ高められるとは限らない。深淵と光の懸隔は、決して決定的断絶ではない。思いの外、その懸隔は漸移的なのだ。
いずれにしても悪しき相対主義に没落してしまうような諦めは真理を追求する好奇心からの逃避である。この桎梏から抜け出す術はないのか?以下において客観性の桎梏から抜け出す術を求める冒険に出よう。

3.客観性の桎梏からの冒険
「物事のありのまま」の状態である絶対的客観性においては、それに対応する正しさもまた、文字通り絶対的真理と呼びうるものであるに違いない。しかし、なるほどそうしたものが手に入るのであればめでたいことなのだが、絶対的客観性は「何処にもない視点」という実現不可能な客観性である以上、当然この絶対的真理も実現不可能である。まずは、非認識論的系列について思考を深めていきたい。
まずは、手続き的客観性における正しさとは何か?既に述べた通り、手続き的客観性が客観的たる所以は、それが同じ手続きに基づいてなされたという一点にある。従って、その手続きから引き出される結果とは、真/偽といった言葉で論じられる類いのものではない。また、そもそもその手続きを何故採用したのか、その根拠は手続き自体からは決して導き出せない。その上、手続きが同じだからといって、その手続きが適用される対象や状況まで同じである保証だってどこにもない。従って、手続き的客観性によって保証される正しさとは「どれだけ手続きに厳密に則ったか」という正しさに限定される。これはtruthではなく、correctnessという語によって形容されるべき概念だと言える。しかし、手続き的客観性によって保証される正しさとは、いつでも再現可能であり、かつ特定の人間に限定されない点は、いくら強調してもしすぎることはあるまい。
次に結果的客観性における正しさもまた、手続き的客観性の正しさとほぼ同様の性格を持つ。結果的客観性は、観察結果を同じ基準によって裁定したという点に客観的たる所以が存する以上、そこでの正しさもまた、全てその基準次第、ということになる。そして、この基準の設定それ自体には、何の根拠もない。つまり、基準の設定自体は、何ら結果的客観性に由来する正しさを持つわけではない。よって、結果的客観性における正しさは「どれだけ公正に基準を当てはめたか」という正しさに限定される。これはtruthではなく、fairnessという語によって形容されるべき概念だろう。
このように、非認識論的系列の保証する正しさとは、ひとたび手続きや判断基準が確定してしまえば、それ以降は揺るぎ無い正しさとして評価を得ることができる。その点で、学問においては、そうした正しさはやはりどこまでも目指されるべきだと思われる。積極的に言えば、非認識論的次元において発生する正しさとは、過去の研究の手続きや観察結果を「確かめる」際に生成する正しさ、「検証的正しさ」として評価することができるだろう。
しかし、紛糾を極めるのは、その手続きや判断基準を確定するまでの道程であり、かつ恐ろしいのは、ひとたび手続きや判断基準が定まってしまった後におこる「正しさの絶対化(ないし不動化)」である。特に、この正しさの絶対化については、注意が必要である。既に論じたように、手続き的正しさや結果的正しさを保証する手続きや基準は、その根拠を他に依存する以上、場合によっては変わりうるはずである。従って、それらの正しさは、無時間的ないし超時間的真理ではなく、あくまで「現在まで」の正しさに留まらざるをえない。つまり、決して将来の身分までもが保証された正しさでもなければ、将来何が正しいとされるかを指し示してくれるガイドラインでもないのである。故に、我々は絶えず、「正しさの絶対化」に陥らないよう、手続きや判断基準を見直し、必要とあらばそれを改訂していく必要がある。つまり、非認識論的系列においては、それらが自己根拠をもたない以上、そこに一度足を置いたとしても安住することはできず、絶えず足場を踏み固めなおさねばならないのである。
ただし、このような理想論を掲げるのは容易だが、全体論holismの観点から一つ、理論的留保を付け加えねばなるまい。それは「手続きや判断基準だけを改訂するのが困難であり、かつ、そもそも根本的解決にはならないこともある」という点である。何故なら、個別の手続きや判断基準は、それを支える全体的知識によって基礎づけられており、その支えの構造を変えずに個別の手続きや基準だけ変える場合、矛盾をきたす恐れがあるからである。従って、「正しさの絶対化」が思った以上に手強い問題である点は付け加えておきたい。
以上の非認識論的系列に比べると、普遍的客観性によって保証される正しさは、万人が認めざるを得ないという点で、いわゆる真理と呼ぶにふさわしい正しさ、無時間的な正しさであると言えよう。が、問われるべきは「万人が認めざるを得ない正しさ」を持つものなど果たして存在するのか、という点である。少なくとも、1. 論理形式、2. 数学的真理、この二つは普遍的客観性に属する真理だといえるだろう。従って、たとえ狭い面積とはいえ、普遍的客観性の段においては、足を置ける堅固な場を見出したと考えられる。
しかし、ここで強調せねばならないのは、その足を置ける面積の悲しいまでの狭さである。ここでは試しに論理形式について考えてみよう。端的に言えば、普遍的客観性を有する論理形式とは、同一律や矛盾律といった、ごく原理的なものに限られる。要するに、「A=BかつB≠Cならば、A≠C」といった、論理の形式的操作が普遍的に正しいと認められるに過ぎないのだ。ここで注意を要するのは、普遍的客観性を有する論理形式とは、「=」や「≠」といった命題間の「関係」について言われているのであって、命題Aなど主語・述語概念の「内容」の正しさとは関係ない、ということである。例えば、
大前提:土から生えてくるものは全てキノコである
小前提:ネギは土から生えてくる
結論:よって、ネギはキノコである
といった論述も、論理的には正しいのである。結局、論理形式の普遍的正しさとは、突き詰めれば、「~は…である」という叙述の「である」の働きに還元される。その「~」とか「…」に入る内容については、何ら語れないのである。しかし、こう主張されるかもしれない。「確かに普遍的客観性では正しさの面積は狭いかもしれないが、それでも論理的操作(例えば演繹など)でそれを少しずつ広げられるじゃないか」と。確かに、論理的操作自体は普遍的に正しい操作である以上、一つの命題から別の命題を、当初の真理性を損なうことなく導くことは可能に思える。しかし、そうした操作は、表面上はともかく本質的には足場の面積を広げることにはならない。一例として、演繹について。演繹とは、既に真とみなされている法則や仮定から、必然的に別の命題が引き出されることを示す操作だが、これは、基本的には何ら新しい内容を引きだせる操作ではない。以下の例を見てみよう。
前提:タマは猫である
命題:よって、タマはニャーニャー鳴く
さて、この例では一見すると新しい内容を持つ命題を引き出せたかに見える。しかし当然ながら、この論証は、決して演繹と呼べる代物ではない。何故なら、「猫である」ことが「ニャーニャー鳴く」ことを含む必然性はどこにもないからである。つまり、猫であることがニャーニャー鳴くことを含むという判断には、何の普遍的真理性もないのである。従って、クワインの論法を借りれば、タマが論理的にニャーニャー鳴くためには、以下のような演繹以外にはあり得ない。
前提:タマはニャーニャー鳴く動物である
命題:よってタマはニャーニャー鳴く
確かにこの論証は演繹であるが、こんな論証をしたところで、正しさの足場の面積が広がったわけではあるまい。
要約すれば、普遍的客観性において確保できる正しさとは、文字通り論理の形式や操作のみであって、もととなる命題そのものの正しさではない。つまり、主語や述語の内容については、何ら正しいという保証はできない。このことは、詳述は省いたが、論理形式のみならず、数学的操作についても同様である。数学的操作自体は普遍的に正しいが、その操作に投入されるデータの中身や操作の結果については、何ら保証できるものではないし、況や、その結果に対する解釈の正しさとは無関係であることなど言うまでもない。これが普遍的真理性の特徴である。無論、こうした普遍的真理性を損なっているようでは、学問として問題外であるが、それだけで真理に十分であるとは、どう考えても言い難い。カントの顰みに倣えば、「[論理学の解明する]真理の基準は真理の形式面にしか関わらない。故に、この基準はその限りで完全に正しいのではあるが、十分というわけではない」。
以上を見るにつけ、普遍的客観性での正しさは非常に狭く、非認識論的系列のそれは、根本において自己根拠のない正しさでしかなかった。となると、正しさの足場を確保するための空間として最も重要になるのが、この学門内客観性である。というのも、手続き的客観性や結果的客観性を根底において支えているものこそ、この学門内客観性なのだから。それでは、学門内客観性において保証され、かつ目指される正しさとはどのようなものなのか?実は、その問いに答える容易ではない。ただ、少なくとも言えることは、しばしば学門内客観性の目指す正しさが、1.循環論に陥る、2.「正しさ」が倫理的・社会的意味へ変化する、といった現象が見られるということである。
例えば前者「循環論に陥る」について言えば、こういう事態である。手続き的客観性が依拠する手続きPを採択することを決定したのは、学門内での同意(つまり学門内客観性)である。では、手続きPを採択した根拠は何かと言えば、手続きPが正しい手続きだと思ったからである、といった事態。つまり、手続きPの正しさを説明するはずが、それを手続きPの正しさによって説明してしまっているのである。ただ、H. アルバートの指摘する通り、(実践ではなく理論による)「真理性の基礎付け主義」は、1. どこかで判断停止、2. どこかで循環論法、3. 無限遡行、のいずれかに落ち込まざるを得ない。従って、ここで挙げた循環論法を即座にあげつらうのは、いささか短絡的な態度であろう。むしろ重要なのは、学門内客観性を主張する者が、こうした「構造上の自己根拠の欠如」を自覚し「反省」しているかどうかという点にある。
いずれにせよ、学門内客観性が参加者同士の合意によって形成されるものである以上、そこから生まれる正しさもまた、その合意を超えるものではない。従って、学門内客観性において正しさの足場を踏み固めようとするならば、普遍的真理の持っていた無歴史性・超歴史性といった恒久的性格を望むのはお門違いである。ここにおいて見いだせる足場もまた、決して安住できるものでもなければ安住すべきでもなく、討論や合意の展開次第で、何度でも踏み固め直さねばならない足場なのだ。少なくとも、学門内客観性の正しさが手続き的客観性や結果的客観性を根底において支えている以上、学門内での合意を「健全に」成立させるため、我々には「健全な討論」を行うことが望まれているのは間違いない。

4.意味論的な実在論から導く偉大なるクレージー思考

 以上のように客観性問題は社会(科)学の中でも非常に厄介な問題であり、その方法論はまさにこの問題を解いていくことでもあった。主観と客観、主観性と客観性、最近は、相互主観性や間主観性、共同主観性等、むしろ客観性を担保できないとしてあえて主観性に重みを置くようになる。かつては、ナイーブにも学者や知識人は客観的であると信じた時期もあった。そもそもこの問題は、歴史や社会における存在被拘束性Seinsverbundenhei tと関わる。

マルクスのイデオロギー論から、あらゆる知識には歴史的・社会的な文脈により条件付けられ、議論や理論の絶対性を回避するための相対主義relativismがオルタナティブとして定義されたが、相対主義とは、経験ないし文化の構成要素やそれに対する物の見方が、その他の複数の要素や見方と相対的関係(is relative to)すなわち依存関係(is dependent on)にあるという考え方である。ある相対主義者の主張によれば、人間は、感覚などの認識上のバイアス、言語などの記号上のバイアスまたはその他の人々と共有する文化的バイアスのせいで、信念や振舞を自己の歴史的・文化的文脈においてしか理解できない。つまり、相対主義の主張とは、ある要素は特定のフレームワークないし観点との相対的関係においてしか実在せず、そのフレームワークや立場は全ての人々において異なるという考え方である。反対に、歴史的・文化的文脈に依存せず、どのような観点から見ても必ず真であるかあるいは正しい命題というものがあるという考え方は、絶対主義と呼ばれる。物の見方一般についてではなく、特定の主題について相対主義を主張する場合には、例えば文化相対主義のように特別な名前が付せられていることもある。例えば、背が高い人は、彼よりも背が低い人がいなければ想定しえない。逆に、背が低い人も、彼より背が高い人がいなければ想定しえない。このため、相対主義の前提に立てば、他者に全く依存しない絶対的に背が高い人は存在せず、背が高い人と背が低い人とは相互依存関係にあると言うことができる。しかしこのような立場は、その内部論理によって、自己言及のパラドックスに陥るために、立場として矛盾を含んでいる、あるいは完全ではない、というものである。

換言すると、次のようなものである。相対主義は典型的には「いかなる命題も、絶対に正しいということはない」というような主張を含んでいる。しかし「『いかなる命題も、絶対に正しいということはない』という主張自身は果たして絶対に正しいのか、それとも、絶対に正しいということはないのか」という点をめぐる矛盾が発生する。もしも相対主義が正しいとしたら、いかなる命題も絶対に正しいということはないはずなのだが、それならば、「いかなる命題も絶対に正しいことはない」という命題も絶対に正しいということはなく、したがって「絶対に正しい命題」が存在するはずで、それは相対主義の基本的な主張と矛盾するため、相対主義は間違っているというものである。そこで、悪しき相対主義を乗り越えるべく相関主義Relationismusという視座が主張される。それぞれの視座の拘束性を相互に観察するという方法をとる。

この発端としての存在被拘束性の議論は、マックス・シェーラー(Max Scheler, 1874-1928)とともにマンハイムが築いた知識社会学Wissensoziologie[ただしシェーラーは「文化社会学」といい、その文化概念は社会哲学あるいが神学的なハイカルチャーに属するものである]であり、その代表的な著作は『イデオロギーとユートピア』(1929)である。このアイディアを受け継ぎ北米での社会学理論を展開したのが、ロバート・キング・マートン(Robert King Merton, 1910-2003)――中範囲理論や予言の自己実現の概念でお馴染み――である。また時代の診断学として、現代がどのような状況におかれているのかについての現代学Gegenwartskundeを提唱したのが、ハンガリー生まれの亡命ユダヤ人としての「境界人」経験(=マージナル・マン[ママ])が生かされているという。マージナルという意識は、ベルリン大学時代に学んだゲオルグ・ジンメル(Georg Simmmel, 1858-1918)からの強い影響もうかがわれる。マンハイムは、第一次世界大戦後のハンガリー革命[~1919]に、ルカーチやバラージュ[Balazs Bela, 18884-1949;脚本家・作家、詩人。映画評論『視覚的人間』1924が有名]とともに参加する。悪しき相対主義を乗り越えようとしたのが相関主義である。
相関主義の特徴は、まずあらゆる思想が特定の歴史的・社会的条件に根ざしたものであるということを、積極的に評価する。次に、いくつもある部分的な真理を、全体的な観点から相互に関連・総合させていく。マンハイムは相対主義を乗り越えるために、相関主義を考えた。それぞれの視座の拘束性を相互に観察するという方法である。相関主義が相対主義(ある思想は特定の条件に根ざしている考える立場)を評価するのは、そこで得られた知見は机上の空論ではなく、現実に根ざしたリアルな認識であるからであり、より真実性が高いからである。こうした部分的な真理を、全体的な観点から相互に関連・総合させていくことによって、部分的な真理が蓄積していき、より全面的に正しい真理へと徐々に近づいていける。
彼のいうインテリゲンチャとは、いわゆる「知識人」のことである。マルクスが述べたように、特定の階級が特定のイデオロギーをもっている。そうしたある階級に有利なイデオロギーが強化されていくことは、社会全体としては害になりうる。富裕層だけが富むような社会や、暴力的な人間だけが権力をもつような社会は、ときには害になるのだ。そこで、そうした特定のイデオロギーから自由に浮いて動ける、つまり部分に縛られずに全体的な観点から物事を考えられる人間を「知識人」であるとマンハイムはいう。いわゆる不可知論は、あらゆる文脈を離れて妥当する絶対的・普遍的真理の存在を前提にし、それを知ることはできないとするものである。これは相対主義と類似している。相関主義の場合は、「客観的価値」の存在を認める。しかし客観的価値は、それが関係している具体的な状況から導き出されてくると考える。特定の社会的・歴史的文脈に拘束されていることを自覚したうえでの認識のあり方なのである。単なるイデオロギー同士の相互批判では、不毛な事態になってしまう。あるいは「それぞれ」という見地に帰結してしまう。我々は「自分自身の立場もイデオロギー的なものだということを認める勇気」をもつべきであり、自分の立場を超えて全体的な立場から物事を考えていく必要がある。
「マンハイムは、あるべき知識人を『浮動するインテリゲンチュア』だとした。そのなかでトータリテート(全体性)という概念を出す。あるべき知的存在がフロート(浮動)しなければならない理由は、何かに帰属するとステイクホルダー(利害当事者)になるからだ。そうならないよう絶えずフロートする必要がある。普通は『中立性を保つために不可欠だ』と言うところだが、マンハイムは『全体性に近づくために不可欠な立場取りだ』と言う。マンハイムは、哲学で一般的ヘーゲル的な全体性概念―<世界>―の全体性とは別に、<社会>の全体性を問題にした最初の人だ。しかしこのように浮揚することができるのか?なんで知識人だけがそうなれるのか。これは実は、M・ウェーバーの価値自由と類似している。利害当事者になってしまうことを自覚するということが、価値自由であった。具体的にどういうことなのだろうか。利害当事者とは具体的にどのような人か。神を絶対的に信じている人間が社会を考える場合、神との関係の中で社会を考えてしまうかもしれない。神を批判するような言説は害と考え、神を賞賛するような言説を利と考えてしまうかもしれない。神は絶対的に良いという信念からいったん離れること、あるいはそれを自覚すること、浮動することによって、社会を考えることが全体性を考えることにつながっているということだろう。中立性を保つためではなく、全体性に近づくという点が重要だ。私のイメージとしては、あなたはこういう考えで、私はこういう考えだ、みんなちがってみんなそれぞれいいね、というのが中立性を考えることだ。それに対して、みんなの考えがあるけれども、全体の中で重要なこと、あるいは全体を通してどのような考えがなぜ生まれたのか、どのような考えになっていくのかということを考えるのが全体性を考えることではないか。中立性を保つよりも、全体性を考えるほうが難しい、あるいは中立性はある意味で無責任で、全体性は責任を負う。社会を設計する側は、責任感が強くないとやっていけない。
さて、客観性について長らく検討してきたが、いまだに明晰な形で結論を出すことはできない。それはそうだ。社会(科)学の中でも未解決の問題であるから。ただし、ここまで議論を進めてきて言えることは、客観性を導き出すのは様々な次元で様々な立場があるってことだ。真理をあきらめるわけにはいかない。とは言っても悪しき相対主義で片づけるわけにはいかない。相関主義だといっても立場の説明の次元であり、そのものを明確に説明したわけではない。しかし私なりの結論はある。しかしその結論を出すためにはもう一つの論文を書く必要がある。ここでは、その流れだけを明記しておこう。つまり、社会をそもそも存在論的ではなく、認識論的、つまり意味論的な実在であるとしたら、やはり形式などに拘らず、その意味を、換言すると、その意味の背後に潜む意義を積極的に求めることで絶対知に近づける絶対的な客観性をコンセンサスをもって築き上げることではなかろうか?そもそも主観には客観が染み込んであるから。自己の認識がすべてドグマに汚れた認識ではなく、客観によって飼い慣らされた主観でもあるからだ。

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