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スーパー戦隊シリーズ第25作目『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)

スーパー戦隊シリーズ第25作目『百獣戦隊ガオレンジャー』は25作目という節目の作品として作られることになりました。
本当の意味での「00年代戦隊」はここから始まるのであり、前作「タイムレンジャー」は概念的にはあくまでも「90年代戦隊」です。
前作の「タイムレンジャー」とは正反対にひたすら子供向けの作風としてわかりやすさを前面に押し出した痛快な作風となっています。
かなり頭を駆使してロジカルに物語を成立させて重厚なドラマを作っていた前作までと比べ、本作は一気に子供向けへの揺り戻しが行われたのです。

本作の目的は「数字の回復」にあり、玩具売上と視聴率を大幅回復させることができればひとまずシリーズとしては安泰ということになります。
だから前作「タイムレンジャー」までのようなしっかりした整合性のあるドラマ路線とは大きく趣向を変えてきたのがこのシリーズなのでしょう。
下手すれば「ターボレンジャー」「ジュウレンジャー」辺りにまでハードルを下げており、当時私は「ガキ向けに走った」と視聴を1話で切ってしまいました。
ただ、「オーレンジャー」の時とは違いきちんと結果は出て、玩具売上はかなりのメガヒットを叩き出し、平均視聴率もニチアサ枠でNo.1の記録です。

どうしてここまでの人気が出たのかというと、1つには「タイムレンジャー」までのスーパー戦隊シリーズが長い間ドラマ性や物語重視で作られていた反動でしょう。
そしてもう1つはお隣の「仮面ライダーアギト」との差別化というのもあり、本作からスーパー戦隊シリーズはお隣の平成ライダーシリーズとの差別化を意識するようになります。
コミカルでライトな児童向けの路線をスーパー戦隊シリーズが、そしてシリアスでヘビーなハイティーン向けの路線を平成ライダーシリーズが請け負うようになりました。
ただ、こんな極端なことをした代償は大きいもので、当時は高年齢層のファンからかなり批判も多く、人気は得られたものの「名作」とは評価されていません。

そんな本作ですが、私は正直「まあシリーズにはこういう作品もあるよね」とは思うものの「高評価」でも「好き」でもないので、どうしても辛口になります。
その理由について、ヒットした要因の分析と共にお送りしていきましょう。


(1)なぜファンタジー戦隊だったのか?

本作を語る上でそもそも「なぜファンタジー戦隊だったのか?」という疑問から出発しますが、結論を述べると「玩具売上を回復させるため」でした。
モチーフや世界観、ビジュアル自体が「ギンガマン」と完全に丸被りな上、ストーリーやキャラクター、世界観の完成度などは完全に「ギンガマン」より下です。
しかも「ギンガマン」から3年しか経ってないうちにこれですから、もはや完全に作り手はプライドを投げ捨ててしまったと言ってしまってもいいでしょう。
そもそも「ガオレンジャー」というタイトル自体が「ギンガマン」の時に出た仮題の没案を拾って再利用したものですから、相当に安易な選択だったと言えます。

実際当時は「タイムレンジャー」との比較もあってめちゃくちゃ批判されていましたが、そういうプライドだけでは食っていけなかったのです。
子供向けの商売と言っても作るのは大人ですから、決して綺麗事では回っていないわけで、批判が来ることをも承知の上で日笠プロデューサーはかなりドライに割り切っていました。
実際のところ、玩具売上さえ回復して大ヒットしてしまえば、別にファンタジー路線じゃなくてもよかったわけですが、ファンタジー路線にした方が玩具売上は出しやすいのでしょう。
これには実際「ジュウレンジャー」「ダイレンジャー」「カクレンジャー」「オーレンジャー」でストーリーはボロボロでも玩具売上を叩き出したという実績があります。

本作では合計25体も販売され、しかも最終回では本当に100体ものパワーアニマルが出たのですから、ファンタジー路線にした方が子供達にとっても親しみやすく玩具を買いたくなるでしょう。
そこで「ジュウレンジャー」の時に試験的に行われた「バラ売り」が本作では戦略的に用いられ、これが大受けして回復し、東映もスポンサーも首の皮一枚でなんとか繋がりました。
ただし、この時の成功体験がまさかこの後さらにズブズブに癒着していくことになる東映とスポンサーの将来を暗示していたなどとは、その実誰も思わなかったのでしょう。

(2)完全にどうでもいい変身前のキャラクター


これは昨年(2020年11月)の東京国際映画祭で行われたガオレンジャートークショーで日笠Pが述懐してましたが、本作は玩具売上さえ回復すれば後のことはどうでもよかったのです。
CGによって表現されるパワーアニマルもいま見直すとこれが実にチープでショボいのですが、これでも当時としては新しいことをやっていたので視聴者にはかなりの大人気でした。
逆に言えば、そこさえ表現できてしまえば変身前の獅子走たち5人のキャラクターを掘り下げる必要は全くなく、簡単に数字を叩き出すことが出来てしまうのです。
実際これは演じていた役者さんたちも相当自覚していたようで、本作に出てくる役者たちは前作「タイムレンジャー」までと比べてあまりにもヒーロー役者としての「華」がありません

今でこそ金子昇氏や玉山鉄二氏は役者として大成していますし、それこそ歌唱ユニット・純烈のリーダーである酒井一圭氏も大物になりましたが、この当時はそんな存在感はなかったのです。
一番ビジュアルがかっこいいと言われる玉山氏と金子氏ですらも演技力ははっきり言ってお粗末なレベルで、こんな演技でよく1年間も持ったなあと思ってしまいます。
しかも、ガオレッドの金子氏に至っては玉山氏と人気を二分するほどのイケメンだったにもかかわらず、本編中に結婚するという前代未聞のことをやらかしていたのです。
挙げ句の果てにその金子氏と酒井氏は大量の借金をこさえていて自己破産寸前で、儲けた金の一部をくすねて借金返済に当てていたのですから、とんでもないことをやらかしています。

これだけのスキャンダルやハプニングがありながらもなぜ批判されずに済んだのかというと、本作で前面に押し出したのは「玩具を売りつけること」にあったからです。
これが例えば「ギンガマン」「タイムレンジャー」「シンケンジャー」のようなドラマ性重視の戦隊だったら、確実にそんなことをした時点で炎上していたでしょう。
しかし、本作は変身前のキャラクターやドラマなんて完全に背後に追いやられていますから、視聴者からの批判が飛んでこないで済んだのです。
まあ逆に言いますと、この時の変身前のキャラクターや役者たちは完全に大人たちからは存在を無視されていた、ということの裏返しでもあるのですが…。

(3)「熱血」と「わかりやすさ」の一体化

そんな本作ですが、変身前のキャラクターがどうでもよくなった原因は決して玩具販促を前面に押し出しただけではありません。
6人のキャラクターが全員一様に「熱血」というくくりで大雑把にまとめられてしまい、それが「わかりやすさ」と一体化したのです。
本作の「牙吠」というアメコミテイストや車田漫画みたいな吹き出しの安っぽい表現の多用もその表れだと言えるでしょう。
こういう昔懐かしのジャンプ漫画風の表現を用いて世界観を表現していることもまた本作の特徴を大きく規定しています。

なぜこのような表現が多用されるようになったのかというと、1つは同じ日笠Pと武上純希氏のコンビで誕生した「ゴーゴーファイブ」にヒントがありました。
あの作品ではマトイ兄さんの「気合だ」が目立ちますが、あれはあくまでも西岡竜一朗氏が考えたアドリブであって、当初のマトイのキャラクターにはなかったものです。
しかし、その「気合だ」というわかりやすいストレートな熱血表現が意外にも視聴者に受けており、複雑化しがちな「ゴーゴーファイブ」の世界観をシンプルにしました。
ギンガマン」「タイムレンジャー」と比べた時の深みのなさをマトイ兄さんの「気合だ」というストレートな熱血要素でカバーして突破していたのです。

そしてもう1つにはこの時期ジャンプ漫画でも「ONE PIECE」のルフィや「NARUTO」のうずまきナルトみたいに、目標を口にするヒーローが人気を出していました。
目標を口にしてどんどん前向きに行くことによって道は切り開かれると信じられており、そういった少年漫画的なキャラ造形や熱血表現スーパー戦隊にも入れようとしたのでしょう。
本作以前でそんな少年漫画的な熱血要素が見られた作品はせいぜい「ダイレンジャー」くらいのもので、しかし「ダイレンジャー」でその熱血キャラは亮と将児の専売特許でした。
つまり昔はそういう安っぽい熱血表現を使わずに内面の熱さで表現していたわけであり、それが大きく変わって本作から全員が一様に熱血キャラと化してしまうのです。

実際後半に入ってガオシルバーが仲間になった辺りからひたすら雄叫びを上げて突っ込むだけという思考停止同然の作劇ばかりを繰り返すようになってしまいました。
ただ、こんなことばかりやっていては単調になってしまい飽きられますから、作り手としては必死に盛り上げるための手段を用意しなければなりません。
そこで作り手はとうとうやってはならない禁じ手に手を染めてしまうことになるのです。

(4)奇跡の乱発

本作最大の特徴にして問題点として批判されまくっていたのが「奇跡の乱発」であり、これが最初に起きたのがQuest31、ウラ究極体にレッドとシルバー以外の4人が殺された時でした。
なぜこんな展開にしたのかというと、ガオファルコンを復活させるパワーアップ展開のためなのですが、そのためには一度死んで地獄の世界に行かないといけません。
そこで4人を死なせてレッドとシルバーに持ちこたえさせ、ガオファルコンの復活とともになぜだか奇跡のおすそ分けで4人まで復活してしまうのです。
これは当時前代未聞の展開であり、奇跡という安易な手法を用いただけではなく、そのための理由づけすら放棄してしまったことに批判が集まりました。

もちろんスーパー戦隊シリーズもヒーローものですからそういう「ヒーローものならではの奇跡」が悪いわけではありませんし、実際「ギンガマン」でも奇跡は肯定されています。
ファンタジー戦隊ですから奇跡はあってもおかしくないのですが、大事なのはその奇跡を起こすまでの頑張りや努力、布石といった「重い代償」を描くことです。
本作は「死」という重い代償を払ったまではよかったものの、そこから死者蘇生に至るまでのメカニズムが全然できていないので、ただただ困惑だけが募ります
連載当時散々「死人が簡単に復活できてしまう」と叩かれた大ヒット作「ドラゴンボール」ですら、その辺りのメカニズムはきちんとできていたにも関わらずこの有様です。

そうして一度レッドゾーンを振り切ってしまった作り手はもはや開き直ってしまったのか、その後もこうした奇跡を乱発するようになり、終盤では百獣が全滅します。
しかし最終回で「ネバギバだぜ!」と叫んだだけで奇跡が発動して百獣復活、最後は100体のパワーアニマルでラスボスをフルボッコという完全な弱いものいじめです。
もはやヒロイズムも美学もクソもあったもんじゃないですが、こんなにひどいことをやっていても大人気だったというのは凄いといえば凄いのでしょうね。
ただ、この作品で作り手は「売れるためならば何をやってもいい」と味を占めてしまったのか、安易な玩具の大量販売という易きに流されてしまいます。

(5)まとめ

こうしてみると、「ガオレンジャー」という作品は確かに21世紀最初のスーパー戦隊として、色々後世の作品に残すべきものは残したのでしょう。
大量の玩具販促のために物語やキャラクターを犠牲にしても構わないこと、盛り上げるためなら奇跡を乱発すること、稼いだお金を借金返済に当てることなどなど…。
まあそれで数字はきちんと出たからいいのでしょうが、このようなアコギな手段に走って魂を悪魔に売り渡した東映はその後「アバレンジャー」までとんでもない手段へ走ります。
とはいえ、これだけのヒットを叩き出したということだけは評価して総合評価はE(不作)としておきましょう。

  • ストーリー:F(駄作)100点満点中0点

  • キャラクター:F(駄作)100点満点中0点

  • アクション:D(凡作)100点満点中50点

  • カニック:A(名作)100点満点中85点

  • 演出:D(凡作)100点満点中50点

  • 音楽:D(凡作)100点満点中50点

  • 総合評価:E(不作)100点満点中39点

 評価基準=SS(殿堂入り)S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)X(判定不能)

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