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『電子戦隊デンジマン』第3話『油地獄大パニック』

◼️『電子戦隊デンジマン』第3話『油地獄大パニック』

(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)


導入

部下の殉職を悼むヘドリアン女王

「痛かったであろう、苦しかったであろう」

戦隊史上、こんなにも部下たる怪人の死を悼んで嘆きの声を漏らす首領などかつていただろうか?
今見ると何とも滑稽ですらあるが、同時に曽我町子が演じる悪の幹部は感情がこもり過ぎていて、逆に愛嬌というか可愛げのようなものが滲み出てしまっているのではないか。
基本的に私は曽我町子がそういう意味であまり個人的嗜好に入る女優ではなかったりする、というのも彼女の演技はあまりにも芝居がかっていて過剰なのである。
スーパー戦隊シリーズにも様々な悪の首領がいるが、私が好むのはどちらかといえば部下のことなどいざとなれば切り捨てられる非情さ・ドライさを持っているタイプだ。

この3話ほどですっかりへドリアン女王のイメージが「美しいものが大嫌いで醜いものが大好き」「外には厳しいが身内には甘い」「自分を客観視できる冷静さがない」という印象になってしまった。
脚本・演出上でもちろん一致はしていたのであろうが、ベーダー一族は確かに個々の怪人のスペックは高いし組織としても色気(存在感)はあるのだが、「脅威度」そのものはどうしても低く見える
何故そう見えるのかというと、まず目的が「地球を自分たちに住みやすい星に変える」ことであって「星を滅ぼす」ではないし、もっといえば「女首領だから」という性差の話になってしまうのだ。
現実の会社経営でもそうなのだが、男がトップを張るのと女がトップを張るのでは全く違うし、現実では女社長なども目立ってはいるものの、歴史の上で見ると女が組織のトップに立って上手く行った試しなぞあまりない

理由は簡単、「お気持ち」で判断してしまうからであり、実質ベーダー一族の経営が何とか成り立っているのは側近のヘドラー将軍がいるからこそであって、そこもまた今までの首領との違いであろうか。
私は決して「ミソジニスト」でも「フェミニスト」でもないが、現実の問題として女性がトップを張るような社会はほぼ間違いなく人並みの幸せを捨てているということである。
逆にいえばデンジマンの5人が一般人の素人戦隊でありながらベーダーという未曾有の脅威に対応できているのは、逆にいえばベーダーが組織としての脆弱さを内包しているからだ。
このこともまた終盤でのドラマへと繋がるちょっとした伏線になっているわけだが、兎にも角にもヘドリアン女王は間違いなくベーダー一族にとって最大の癌細胞である。

脚本上と演出上の不一致が見られる5人の職場設定

野球場で空手を教える赤木

さて、ここから本題に入っていくが、今回の話は内容的にはこの時代にありがちだった公害問題、わけても「オイルショック」を題材としたものなのでそこに関しては別にあれこれいうことはない。
しかし、脚本と演出の関係で若干の不一致が見られるのは5人の職場設定であるが、これがどうにも食い違っていて堪え難い違和感として残ってしまうのだが、まずはそれぞれのカットを見てみよう。

青梅のヨガ
緑川のボクシング
黄山の料理
あきらの水泳

ナレーションでは「同じ職場で働くようになった」と言われているが、5人が働いている場所は明らかに別々のセットであり「同じ職場」感が全くない
しかもあきらに至っては1・2話の段階では「テニス」だったはずなのに何故か今回からはOPでも映っていた「水泳」に変更されていて、この辺りは明らかに当時の設定の詰め不足が露呈してしまっている

まあそれをいうなら、そもそも何故赤木の空手道場が野球場なのかというのが疑問ではあるし、他の4人に関してもそれらしく見えたのは達也のボクシングとあきらの水泳くらいで青梅と黄山はセットからしてショボい。
この辺りは後のシリーズで改善が図られている箇所ではあるのだろうが、5人が同じアスレチックジムで働いているという設定は映像演出としても脚本としても有効に機能しているとは言い難いだろう。
予算の都合でそれらしいセットを用意できなかったのか、それとも敢えて意図的に仕掛けた違和感なのかは定かではないが、この設定ならもっと別の撮り方があったのではないかと思う。
「デンジマン」がスーパー戦隊の「基礎」を作ったなどと言われるが、その「基礎」の全てが決して完璧に出来上がっていたわけではなく、やはり「キャメラに何を映すか?」の部分でミスも出ていた

とはいえ、そんな中でもきちんと一貫していたのは赤木の空手道場と黄山の科学者設定であり、今回の主役は赤木の教え子たちであったし、また今回の事件で化学成分を研究するのに黄山の設定が役に立っている。
後年になると科学系よりはファンタジー系が主流となっていること、また近年は益々理科嫌いの子供が増えたこともあってか、こういう純粋な白衣を着た科学者タイプのキャラクター自体も少なくなっているだろう。
私が記憶に残っている東映特撮・アニメでの典型的な「理系」というと『ふたりはプリキュア』のキュアホワイト・雪城ほのかくらいであり、今日の視点だと逆に希少価値が高いのではなかろうか。
赤木と黄山がセットになって動いているようだが、組み合わせとしてはいわゆる軍人タイプと科学者タイプの組み合わせに近く、黄山はここで博士・参謀ポジションが自然に確立されている

逆に言うと、現段階でキャラクターがまだ確立していないのが青梅であるが、その青梅は次回しっかりと掘り下げられるので、ここでは特に言及することはない。
変身前の5人の設定に関してはシリーズ初の「民間上がりの一般人」というのを描かなければならない関係上、どうしても荒削りな部分は出てしまうのだが、正に5人の職場環境の演出上の不一致がそれである。
つまり脚本の上ではきちんと5人がチームであることが一致しているし役者さんたちもそういう体で演じているが、これに竹本監督の演出や撮り方が追いついていない。
今日であればこの辺りはうまく改善できたであろう箇所であることは指摘しておかねばなるまい。

今では撮影許可が降りないであろう工業地帯での撮影

豪華なセットと合成の撮影

さて、今回の見所は何と言ってもサブタイにある通り工業地帯での撮影だが、これがまあCGのなかった昭和特撮らしくミニチュアから実際の撮影もしっかり行われており、とにかく迫力が段違いである。
特に子供達が地下水のところで炎にやられるところは下手すれば一酸化炭素中毒でやられてもおかしくないくらいに命がけの撮影を平気で行っていて、これは間違いなくこの時代だからこそできたことだ。
今ではコンプライアンスや安全上の問題もあって、事前に承諾を得なければこういう火気を伴う撮影は許されないであろうし、3.11の余波として発生した原発問題で敏感になっている今となっては尚更であろう。
被害の規模もとても大きく、実生活で水が全て油に変わってしまうという小さなものから、果ては地割れから火災まで何でもありなところが昭和特撮ならではという感じはある。

前回が割とホラーテイストが強めの卑近なテロリズムだったこともあってか、それと差別化を図るように今回は規模の大きい事件を起こしているのだが、本作の上手いところはこういうメリハリだ
毎回規模の小さなことをやっていてもショボい敵組織という風に映りかねないし、かといって毎回大規模破壊をやっていては予算が足りないし受け手も単調過ぎて飽きてしまう。
ましてやここでは赤木の教え子たちが危機に瀕することで、それを守りに行くために出動するデンジマンたちのヒーロー性を組み立てやすいというのが映像でも伝わってくるのだ。
単純に大規模破壊を行っているのではなく、その結果としてデンジマンたちの身近にいる子供たちが危険な目にあうという卑近な具体のレイヤーにまで落とし込んで撮影してキャメラに収めている。

近年だとこういう撮影はほぼ全てCGかセットで済ませるだろうし、仮に可能だったとしても東映特撮お得意の採石場での撮影が精一杯というところになってしまうのではないだろうか。
ただ、昨年の『王様戦隊キングオージャー』のLEDがそうなのだが、「CGだからできること」と「特撮だからできること」は決して同じではないし、こういう撮影はCGならば出来て当然だと思えてしまうであろう。
一々こういう「セットだから」「CGだから」で一喜一憂するのも良くないことだとはわかっているのだが、今回の工業地帯での撮影はセットの作り込みから合成から非常に高いクオリティのもののに仕上がっている。
それらを見ていると、昔は技術こそ発達していないし限界もあったが、だからこそ作り手の創意工夫でこういう面白い絵を撮れたわけであるが、今は技術が発達しているのに現を抜かして創意工夫を凝らした面白い絵を見かけなくなった。

もちろんCGを使っても良い絵が撮れるという人も中にはいるのだが、そういう人はまずCGなんか使わなくてもそもそも普通の映画やドラマが撮れる人であることが大前提としてある。
大森敬仁や高野水登がまずもって見習うべきはこういうところであり、まずはきちんと「普通の演出」「普通の脚本」「普通のドラマ」がきちんとできるようになることではないか。
何をもって「普通」かはここでは語らないが、罷り間違っても上原正三も竹本弘一も決して最初から今のスタイルがあったわけではなく、『秘密戦隊ゴレンジャー』からの歴史を積み重ねてここに至った。
そういう創意工夫をし続ける努力が根本的に欠落している人たちにいい戦隊は作れない、そんな至極当たり前のことを教えてくれたのが今回の工業地帯のセット撮影である。

ベーダーを倒すよりも子供たちの救出が先決では?

危機に瀕している子供達

ただ、この工業地帯のセット撮影も決して褒められた点ばかりではなく、どうしてもやはり脚本と演出の不一致が5人の職場同様に見られてしまったところがある。
それは何かというとデンジマンの5人が「子供たちの救出」よりも「ベーダー怪人を倒す」ことを優先してしまっており、普通ならば逆ではないだろうかと思えてならない。
これはどこまでが脚本上の意図で、どこからが演出的なものだったかはどちらも他界されている現在となっては知りようがないが、これに関しては明確な「瑕疵」として指摘されるべきだろう。
というのも、脚本ではデンジタイガーで向かっているときに敵が仕掛けた罠にハマって「早く子供達を助けなきゃいけないのに!」というセリフまで挟んでいたからだ。

あれだけ子供達の生命の危機を演出し、それを足早に助けに向かうデンジマン5人の深刻さを煽っておきながら、現場に着くとなぜだか子供たちはベーダーを倒すまで放置されていた
最終的にきちんと救出を果たしたから良かったもののの、もしこれで子供たちが命を落としてしまっていたらどうするつもりだったのか?という話になってしまわないか?
これは物語上の論理的整合性というよりは明らかな演出と編集などの「見せ方」「撮り方」の問題であり、どのように処理するべきかに関して明らかにコンセンサス(共通了解)が取れていなかった。
じゃあどう撮るのが正解だったのかというと、まずここは分担してレッドとイエローが子供達の救出を、そして残りのブルー・グリーン・ピンクがベーダーを相手にするのが最適解である。

その上で子供達の救出に成功した上で改めて5人揃ってベーダーを迎撃するという流れにすればスムーズに進んだであろうに、なぜかその流れが明らかに断然してしまっていた
何を意図して作り手はこの流れにしたのか不明であるが、この流れだとまるでデンジマンたちが子供達を意図的に無視してベーダーとの戦いを優先したようにも思える。
もしも子供達のことを救うよりもベーダーを倒すのを優先しなければならないのだったら、そのことを受け手に納得させるだけの何かしらの仕掛けはしておくべきだった。
いわゆる「説明する必要のないものを省略する」ことと「説明しなければならないことを省略する」ことは似て非なるものであり、今回のこれは明らかに後者である。

私が1話で指摘したナレーションの無駄な饒舌とは前者を指す、明らかに映像で十分に描写できていることをそれ以上に言葉で語る必要はない。
しかし、ドラマとして演出すべき流れをぶつ切りにして後回しにするのは映像作品の大原則として明らかにやってはいけないことであり、それは単なる「手抜き」にしかならないのである。
何を自覚してこの編集でGOサインを出したのかはわからないが、この部分が明確な瑕疵である以上作品としての完成度やクオリティーはどうしても下がらざるを得ない。

したがって総合評価はC(佳作)100点満点中65点、冒頭の紹介シーンだけならともかく子供達の救出のシーンにまでミスが出たのは良くなかった。


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