見出し画像

手塚国光という青学きっての独覚者にして「自己犠牲」とは最も縁遠い天才

「テニスの王子様」で越前、不二、幸村と来たら今度は青学最強の男・手塚国光について語ることにするが、この手塚という男こそ私は青学で最も考察・解釈の別れる男はいないだろうと考える。
最初に言っておくと、私から見た手塚という男は青学の部長でありながら実は「独覚者(師の教えによらず悟りを開き、利他的な説法をしない者のこと)」であり「自己犠牲」とは最も遠い男だ。
ここが同時に他校の部長、特に立海の幸村との大きな違いにもなっており、幸村は「テニスを愛しテニスに愛されない男」であり、一度は「テニスをするのも嫌になる状態」まで追い込まれた。
だからこそ、それが全国大会決勝のあのマキャベリズム(どんな手段や非道徳的な行為であっても、結果として国家の利益を増進させるのであれば許されるという考え)に繋がっている。

その一方で手塚という男は意外にもそういう利他的な視点はなく、最低限の叱責や助言は行っても基本的にどうするかは相手に任せるという中庸のスタンスを貫いていた。
もちろん手塚もテニスは大好きだし、だからこそ無我の境地の天衣無縫の極みの扉を越前リョーマに続いて開いたわけだが、リョーマとはその辿って来たプロセスもプレイスタイルも異なる。
越前リョーマや不二周助とはまた違うタイプの「天才」にして中学テニス界の至宝とまで言わしめた手塚は果たしてどのような人物なのであろうか?

利他的に見えて最も利己的な独覚者


冒頭でも書いたが、手塚は青学テニス部部長で厳格な男として描かれているが、実は上にも書いてある通り一見利他的なようでいて実は最も利己的な男なのではないかと考える。
青学で特に利他的なのは副部長の大石秀一郎と参謀の乾貞治であり、青学がどうすれば全国優勝へ導けるのかを一番に考えて具体的な練習メニューや戦術・オーダーを割り出していた。
しかし手塚という男は部長として何をしていたかというと「グラウンド20周」、せいぜい頑張って越前に残した「お前は青学の柱になれ」という程度のものでしかない。
そう、彼はそのどっしりと構えているカリスマ性に誤魔化されがちだが、実はほとんどの部員がそのカリスマ性にくっついているだけで、手塚自身は単独主義者である。

だから手塚は青学の部員たちがはしゃいでいるその輪に混じることはなく離れたところで腕を組んでいるが、何か複雑な思考をしているのかというとそういうことはない。
プレイスタイルにも特別な策やひねりがあるわけではなく、全てがテニスの本質を理解した上で必要最小限のものだけで構成されており、完成されている。
四天宝寺の白石部長は自身のテニスを「教科書テニス」を突き詰めて昇華した「聖典(バイブル)」であり「全く無駄のない完璧なテニス」と言っているが、本当に無駄のないテニスをやっているのは手塚だ
まずは手塚ゾーンで徹底した守りを固めて相手が追いつくことができない零式ドロップにパワーテニスに対しても百錬自得の極み、更に千歳戦では知略の面で才気煥発の極みも開眼させた。

しかもだからと言って他のメンバーに対して細かく指図することはなく、「俺たちの代では青学を全国へ導いてやろうぜ」も決して利他的な視点から発された言葉ではない
単純に手塚はテニスが好きで自分がその高みを見てみたい、そのステージに登ってみたいから言っているだけでチーム全体をどうこうなんてところまでは考えが及んでいないのである。
なぜこんな人物なのかというとそこで趣味が「登山」という設定が生きてくるのだが、登山とは誰に教えを請うわけでもなく自分で登る山の目標やハードルを設定し行うものだ。
だから自分に嘘をつくことはできないし他人を当てにすることはできず、手塚は自分がどうすればその高みへ登ることができるかを考えて行動している。

実は青学の中で最も他者に影響されることなく、本当の意味での「自分軸」で生きているのが手塚国光という男であり、彼のプレイは「他者に影響を与える」ことはあっても「他者に影響される」ことがない
そこが他のプレイヤーとの大きな違いとなっており、同じ天才の越前や不二、また氷帝の跡部や立海の幸村と真田とも違うところであり、だから手塚のプレイは常に安定しているのである。
スコアの上で試合に負けたとしても手塚自身のプレイスタイルやメンタル面が大きく変わることはなく、また「油断せずに行こう」にあるように手塚には油断も慢心も一切なく常に中立的だ。
このようなタイプのプレイヤーは現在やっている「新テニスの王子様」を含めて見ても他に類を見ないものであり、彼は人をまとめる立場でありながら実は最も利己的で自分本位な男である。

悪意に最も鈍感な天然


ここだけを見ると手塚はいかにも凄く強そうな男に見えるし実際強いのだが、その強さは「鈍さ」と紙一重の天然ぶりにあるということを理解しておく必要があり、そこが強いて挙げられる手塚の欠点だ。
中学一年の時、手塚はその天才性故に本気を出すと嫉妬や反感を買ってしまうと思って敢えて利き手じゃない右手で本気を出さずに勝負していたのだが、それが先輩や同期の不二の反感を買っている。
手塚は左肘を潰された時に「あなた達は何年テニスをやってんだっ!!ラケットは人を傷つける為にあるんじゃない!!」と怒りを露わにするのだが、「お前が言うな」としか言いようがない。
確かにその左肘をラケットで潰した先輩がやったことは決して褒められたことではないし手塚の言い分は正論ではあるが、その原因を作ったのが自身のやった行いにあることをわかっていないのだ。

そのあと「勝負しよう」と言ってきた不二を無下に断ることもできず手を抜いて惨敗して今度は不二の怒りまで買っており、さらに勝手に「部を辞める」と言い出して今度は大石に怒られている。
そう、手塚は天才過ぎるが故に他者に対する気持ち、特に嫉妬や怒りのような負の感情に対してあまりにも鈍感であり、「天才」であると同時に極度の「天然」としても描かれているのだ。
ここが越前や不二、幸村との大きな違いにもなっており、例えば越前は悪意に敏感だからそのような嫉妬や反感を買ったとしても「だったらテニスで黙らせてやるよ」で反撃して黙らせる実力がある
また不二は天才であるが同時に腹の底を見せないミステリアスさもあり悪意に敏感であるから、越前のように反感を買わずに手を抜いたことを悟られず器用にやり過ごす(故に最もタチが悪い)タイプだ。

そして幸村は前回の記事でも述べたように「悪意」そのものであり、自分が辛い思いをしたから五感剥奪という形で相手の最も触れて欲しくない嫌なところを突いて勝つマキャベリズムがある。
最もそれは跡部も真田も似たようなものなのだが、跡部や真田はそのマキャベリズムの裏に「真っ向勝負」「帝王学の誇り」という「美学」があるため、それが決して悪印象にならない。
その点手塚という男は確かに天才だが性格面は極度に鈍くて不器用なために自分のした行いが相手の反感を買うものであることに対してあまりにも無自覚で相当に危なっかしいのである。
しかもその天然ぶりで越前や不二まで振り回して自分はさっさと次へ向かっているのだから、そりゃあリョーマも不二も跡部も「ぶっ倒したい」と思うのも無理はないだろう。

特に越前に対する「お前は青学の柱になれ」は一見良いシーンのようではあるし、越前がやる気に満ち溢れて燃えたからよかったものの、はっきり言ってかなり自分勝手ではないだろうか。
託された越前からすればありがた迷惑であり、なぜ一年生という新人の立場で実力が高いからという理由で青学を部長から託されなければならないのか?と越前が思ったとしてもおかしくはない。
不二に対してもテニスを諦めようとした不二の気持ちをわかっていながら「本当のお前はどこにある?」「道標は自分で作れ」とこれまた自分勝手な突き放し方をしているのだ。
その気持ちにさせたのは自分である癖にその自分がした行いに対する相手へのアフターフォローを一切しない畜生の天然、それが手塚国光という男の短所である。

「青学の柱」という「自己犠牲」を背負ったが故の敗北


ここまで見ていくと手塚国光という人間の人となりが見えてきたわけだが、手塚を語る上で最も外せないのは旧作だと関東大会初戦の跡部戦と全国大会決勝の真田戦だ。
どちらも結果は手塚の負けという形で終わったのだが、なぜこの二試合は負けたのか、負けなければならなかったのかというとそれは「青学の柱」を「自己犠牲」として背負ったからである。
前回の幸村の記事で「手塚が真田に負けた理由は別に存在している」と書いたが、その「別の理由」が手塚が越前の為に時間稼ぎをするという「らしくないこと」を選択してしまったからだ。
これは幸村が真田に言った「真っ向勝負を勝利のために捨てる」と似ているものであり、あの試合は実力こそ拮抗していたがどちらも自分を押し殺して戦っていたといえるだろう。

そして手塚がなぜそんなことをしたのかというと上記した「青学の柱」が手塚が1年の頃に大和部長から一方的に託されたものであり、長らく手塚を雁字搦めにした呪縛となった。
上記したように手塚は最も利己的で自分本位の独覚者だから、利他的なことには興味がないし説教だって似合わない男であり、越前や遠山と同じく「テニスが楽しいからテニスをする」男の筈である。
それを大和部長が「青学の柱」などという見えない枷というか重りを手塚に嵌めてしまい、ここから手塚は不愛想で笑うことをしなくなり厳格な人間に立場上ならざるを得なくなった。
そしてだからこそ左肘をかばって跡部戦では左肩を壊し、更に宮崎に療養しに行った時にイップスに陥ってしまい、さらには真田戦で手塚ファントムに零式サーブの連発で再び左肘を痛めている。

幸村が越前に負けて立海三連覇を成し遂げられなかった理由を「相手のことを考えすぎて本来の自分を見失った姿」と書いたが、手塚も実は「青学の柱」を「自己犠牲」という形で背負ってしまった
最も利己的な男がしてはならない利他的な選択をしてしまったわけであり、だから自分のためではなく青学の部長であることを優先した跡部戦も越前のために時間稼ぎを優先した真田戦も負けたのである。
「テニスの王子様」において負ける条件は基本の「情報不足」「慢心」「思い込み」があるが、それに加えて「自分本来のテニスができているか」という側面も実は大きく勝敗に影響している。
手塚の場合は自分が辛い思いをしたからといって幸村のような「他者に同じ苦しみを味合わせよう」なんて苛虐趣味はなく、むしろ逆で他者が犠牲になるなら自分が犠牲になることを選ぶ人間だ。

だから跡部戦にしても真田戦にしても無理をせず自分を大事にして棄権しておけば良かったものを、チームのために自分を犠牲にするなんてらしくないことをするから負けたのである。
大石も不二も乾もそんな手塚の不器用さをただ黙って見ているしかないわけだが、要するに手塚は越前と違って「青学の柱」という呪縛をうまく消化できずにずっと苦しんでいたのだろう。
越前は「青学の柱」を「あんたから奪い取る」と決して重荷に感じることなく勇猛果敢に奪い取りに行き、自分本位のプレイをブレさせることなく青学の柱を自分なりに消化できた。
また、更に遠山との出会いや二度の喪失を経験したことで越前はいち早く天衣無縫の極みに到達できたのだが、手塚は残念ながら不器用であったがために旧作ではそれができなかったのである。

本来の手塚国光が戻ってきたのは「新テニスの王子様」から


長きにわたって「青学の部長」という「公」を優先して「手塚国光」という個人をずっと押し殺してきた手塚が解放されるのは「新テニスの王子様」の大和部長との再会と再戦だった。
ここで手塚は「幻夢夢現」によりありもしないボールを追いかけていたわけだが、ここで大和部長は改めて自分が手塚に対してしてきたことへの責任を取ることとなる。
「ボクみたいになって欲しくない」と大和部長はガッツリ手術した肘を見せるわけだが、要するに大和部長は「手塚国光がなっていたかもしれない姿」であるわけだ。
利他的な選択のために自分を置き去りにした戦い方をしてしまった結果取り返しのつかないことになり、大和部長はおそらくプロではやっていけないほどになってしまったと思われる。

だからこそ手塚もこのままではその罠に陥ってしまうことを大和部長は見抜いていて「君自身のために戦っていい」「ほら、笑って」と手塚国光を本来の利己的で自分本位な独覚者に戻す役割を果たした。
手塚はそう言われた瞬間自分の重荷にすらなっていた「青学の柱」という呪縛から解放され「俺のやるべきことは終わった」と、そして「もっと楽しませてもらっていいですか?」という。
そう、「俺たちの代では青学を全国へ導いてやろうぜ」と言っていた明朗快活な手塚国光がやや大人びた表情で戻ってきたわけであり、ここでようやく手塚は「自分のためにテニスをする」という喜びを知った。
その時手塚は越前リョーマに続いて天衣無縫の極みを開眼したわけであるが、手塚と越前は同じような道を辿っていながら、天衣無縫の極みを開眼するタイミングも条件も似て非なるものであるのが面白い。

越前は「青学の柱」を託されながらまずは「南次郎のコピー」から脱却して「勝ちたい」「強くなりたい」「うまくなりたい」と志し、内に秘めるテニスへの熱い想いを出して行くようになる。
その「勝ちへの執着」が先にあって真田や跡部と戦い勝利することによって「青学の柱」としてチームを背負って戦う利他的な越前は完成したが、ここまでだったら手塚と大差はない。
しかし、リョーマは幸運にも自分の幼少期の姿そのものである遠山金太郎と出会い一球勝負をしたことで天衣無縫の極みへのヒントをもらい、軽井沢の特訓と五感剥奪によって2度の喪失を経験した。
その末に「勝つため」でも「仲間のため」でもない「テニスが楽しい」という原体験を思い出し本質に回帰したことによって天衣無縫の極みという高みに到達できたのである。

一方で手塚は小学6年生の段階で既にプレイスタイルとしては完成していて勝ちへの執着もあったが、左肘と左肩の故障、「青学の柱になれ」という呪縛によって長い間利他的に戦うことを義務付けられた。
テニスを嫌いにはならなかったもののチームを背負うことは手塚の本質から外れたものであり、だからこそ1度は臆病になってイップスにもかかるわけだが、見事にそれを乗り越える。
後は「青学の柱」というしがらみから自分を解放することであり、越前が遠山金太郎と出会って本質に回帰できたように手塚は大和部長との再戦で本質へと回帰し、自分を解放することで天衣無縫の極みに覚醒した。
現在の手塚はドイツで伸び伸びと楽しそうにテニスをしており、隙が全くない男になったわけであるが、この完成した最強の手塚を不二を破った越前がどう倒すのかが今後の1つの見所ではあるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?