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幸村精市という「テニスを愛しテニスに愛されなかった」神の子〜幸村が「天衣無縫の極み」に辿り着けない理由〜

先月書いた「テニプリ」の「天衣無縫の極み」の記事に思わぬ反響があり、まさかメッセージまで頂けると思っていなかったので大変恐縮でございます。
最新の越前VS不二の試合についても書いてますのでそちらの方も併せてご覧頂ければ幸いですが、今回は立海大附属部長・幸村精市について語ってみますね。
「スラダン」があれだけ濃いキャラクターを持っているように「テニプリ」もその精神的後継者として色々と考察・解説が書けるように思いますので。
前回の記事では越前リョーマと天衣無縫の極みについて書きましたが、今回は逆で立海の幸村がなぜ「天衣無縫の極み」に辿り着けないのかについて書きます。

立海大附属テニス部部長・幸村精市の人となり


まず幸村精市という男は「テニスの王子様」という作品の中学テニス界最強と言われた立海大附属中等部のテニス部部長であり、今や誰しもがその存在を知るところであろう。
初登場のシーンが病院で病に伏している姿であり、それが余りにも儚すぎたことが「本当にこいつ立海大最強なのか?」と思う程だったが、それが逆にファンの想像力を掻き立てた。
若い女性ファンの間では不二と幸村をセットで「魔王」扱いすることもあり(そんな扱いを許斐先生がしたことは一度もない)、本当に今思えば一部のファンがただ騒ぎ立てただけだった。
だが、それだけ強烈なインパクトを残した人物でもあり、全国大会編になると最初に見せた儚さが嘘のように部員を嗜めるシーンで「あ、本当に立海最強の部長だ」と納得させる。

さて、そんな幸村の人となりについて解説すると、一言でいえば「穏やかに見えるが内面は厳格=外柔内剛」であり、主人公の越前リョーマとはとても対照的な性格だ。
旧作では関東と全国の決勝戦以外でほとんど彼についての心理描写がないために単なる「ラスボス」にしてただの「怖い人」としか映らず、更には「神の子」とまで称されている。
なぜ「神の子」なのかというと、テニスを通して相手の五感を剥奪してしまうというとんでもなく怖いことをしでかす選手だからであり、もはや「聖闘士星矢」の最上級レベルの戦い方だ。
この「五感剥奪=幸村のテニス」に関しては後ほど解説するとして、原作漫画を読んでいた段階ではあまりいい印象は抱かず、個人的には「こんな奴が部長ならそら立海負けるわ」と思った。

全国大会決勝の時の彼は余りにも悪逆非道であり、勝つためなら仲間たちに平然と犠牲を強いるような真似をしており、部の仲間たちへの信頼が前提にあるとはいえとても中学生らしくはない。
真田に対して「真っ向勝負を捨てろ」と真田の芯を食うようなことを言ったり、後輩の赤也には悪魔化へと導くように仕向けたり仁王には手塚や白石に扮するように指示したりしている。
そしてリョーマと戦う前に遠山金太郎との一球勝負でもやはり同じようにイップスに陥らせて金太郎に「あいつのテニス怖いわ」とまで思わせるようなことをしていた。
この悪逆非道ぶりに私は「中学生の皮を被ったフリーザ様」のあだ名を嫌味半分でつけた、実際にフリーザ様ばりのカリスマ性と悪辣ぶりをこれ以上ないほどに兼ね備えている敵キャラである。

「新テニスの王子様」でその内面や心理描写がなされるようになった今こそ彼の人となりが立体的に見えてきて「ああ、幸村も1人の中学生だったんだな」と思えるようになっが、それでも好感は持ちにくい。
しかし旧作を見ているとその描写は一面的であり、少なくとも彼に対して好感を持つことは立海大附属の熱狂的なファンでもない限りはまず不可能であり、私は少なくとも無理だった。
確かに強いといえば強いし仲間思いではあるのだろうが、その思いはどこか歪んでおり青学の越前や手塚に比べて真っ当なテニスへの愛情が感じられるものだとはいえない。
だがその「歪んだ真っ直ぐさ」こそが幸村精市というテニス選手及び彼のテニスの本質であり、そのテニスが出来上がったのは過去に起きたある出来事に起因するものだった。

「幸村のテニス」とは要するにいじめっ子のそれ


五感剥奪という形で具現化された「幸村のテニス」の本質は「いじめっ子」であり、同じくらい意地悪な越前リョーマのプレイスタイルと似て非なるものである。
許斐剛先生は「テニスの王子様」を「悪い奴が更なる「悪」を倒す物語」と定義したのであるが、その更なる「悪」の最終形態として立海大の幸村精市のテニススタイルはそれをよく表している。
関東決勝の時は手術中で病に伏していたために全貌が露わになっていなかったが、全国大会の準決勝S3ならびに全国決勝の5試合全てを見ればそれが如実に出ているのではないだろうか。
個人的な感情からいえば全国大会決勝でまともな名勝負といえるのがお互いの実力が拮抗したS3の真田VS手塚であり、この試合は真田と手塚の本気が見られたとてもいい真っ向勝負だった。

しかしこの真っ向勝負ですら幸村の「真っ向勝負を捨てろ」という無言の圧力による横槍が入ってしまい、あれさえなければもっといい試合になったし手塚も勝てたのではないかと思えてしまう。
もっとも手塚が真田に負けた理由は別に存在しているのだがそれは後ほど語ることにして、ここでは真田にそんな酷な命令をした幸村の指示の是非を問うものとして扱うことにする。
だがまあこの試合はまだいいとして問題は乾が最終的にとんでもない被害者として巻き添えを食らったD2であり、この試合は旧作の中でも最低の胸糞悪い試合であり、見返したいと思わない。
もはや「試合」「勝負」であることを捨てて「勝つためならばラフプレーも辞さない」という「アイアンリーガー」初期の敵チームの胸糞悪さに匹敵するぐらい個人的には反吐が出る試合だった。

そしてS2の仁王の戦いでは不二の精神的弱点である手塚や白石というトラウマになる相手に仁王になり切らせて不二を揺さぶって勝とうという卑劣な作戦に出る。
もちろん仁王だって納得の上でそれをやったのだとは思うのだが、不二の最も突かれたら痛い所を突いて勝とうとするのはスポーツマンシップに思いっきり反しているだろう。
D1に関しては唯一幸村のそうしたいじめっ子精神が見えていない試合なのだが、あれに関してはシンクロを取得していた黄金ペアの勝ちがもう最初から見えていたので除外する。
そしてS1では「テニスそのもの」である越前リョーマのプレイスタイルを全否定し五感も奪って「誰もがテニスをするのも嫌になる状態」へと追い込んでしまう。

こう見ていくと、実に5試合中D1を除く4試合がほぼ全て幸村の戦略に基づくものだったわけだが、とても「王者」としての誇りとプライドがそこにあるとは思えない
舞台版の「ミュージカル テニスの王子様」で「幸村」のテニスではこんなフレーズがある。

あれが幸村のテニス 奴はもう動けない あれがあいつの強さ イップスで金縛りさ
時の流れも止めてしまう 奴は未来に進めない 呆然と立ち尽くすしかない 悲惨な人形

これは五感を奪われてしまった越前の惨状を謳ったものだが、よくよく考えればこれは病に伏していた時の幸村をそのまんま歌っているのではないだろうか。
要するに「自分が辛い思いをしたから相手にも同じ屈辱を味合わせてやろう」といういじめっ子のまんまであり、そんな卑劣なプレーをしていた初期幸村が私は大嫌いだ。

常勝・立海が2度も負けなければならなかった理由


このように読み解いていくと関東決勝も含めて、なぜ「テニプリ」という作品において2度も立海が負けなければならなかったのかという理由がわかる。
立海が2度も負けていた理由は要するに「自分の本質」とはかけ離れたプレイをしていたからであり、しかも青学の怖さをどこかで甘く見ていた。
特にスーパールーキーの越前リョーマの底知れぬ可能性を真田も幸村も、そして切原も舐めていたことがそれぞれの試合を通して伺える。
ここで話は「SLAM DUNK」に移すが、決勝リーグの陵南VS海南で仙道をポイントガードとして起用したことに対して、高頭監督はこのように指摘していた。

奇策にでたか・・・田岡先輩
だが・・・この時点であんたの負けだ
奇策といわれるあらゆる作戦・・・そのほとんどは
相手のことを考えすぎて本来の自分を見失った姿にすぎない

そう、相手への対抗意識が強すぎるあまりに足元にある「自分たちはどのように戦うのか?」を忘れてしまっては意味がなく、これもまた十分な敗北の要因となりうる。
関東決勝に関してはやはり全体的にどこか青学を甘く見ていたという「驕り」があって、特に不二を「一度潰れれば案外脆い」と言っていた切原や越前を真っ向勝負で潰せると思った真田は手痛い反撃を食らった。
この時はまだ両校とも本調子ではなく、青学は手塚、立海は幸村という大本命を欠いた状態だったからどっちが勝つか分からなかったし、どちらが勝っても私は納得できると思える試合運びになっている。
しかし、これが全国決勝となると話は別であり、最終的に青学に勝ちを収めさせる物語にせねばならず、そうなると立海側に明確な「なぜ負けるのか?」という理由を用意させる必要が出てきた。

そこで出てきたのが「幸村のテニス」、すなわち高頭監督が指摘する「相手のことを考えすぎて本来の自分を見失った姿」そのものとして描いてきたのは非常に納得できる筋運びである。
幸村は要するに全国三連覇を成し遂げたいがために部員に精神的・肉体的な負担を強いてしまい、それを部員たちもどこかおかしいながらも納得して引き受けさせてしまった。
そうする内に勝ちへの執着が肥大化した結果「全国三連覇以外に何も見えない」という危険な状態に陥ってしまったわけであり、自分たちのテニスの良さすらも押し殺してしまう。
だから真田・柳・切原はそれぞれ関東決勝でのリターンマッチを果たし「個人の勝利」は得られながらも、チーム全体として臨む「立海三連覇=全国優勝」を果たせなかったのである。

そこが「仲間のためにテニスをする」ことも「自分のためにテニスをする」ことも大切にしてきた青学との違いとなっており、立海が2度も青学に負けなければならなかった真の理由ではなかろうか。
勝ちへの執着は確かにスポーツマンシップの前提条件であり「勝ちたいという思いが強い方が勝つ」のはその通りだが、その為に自分の意思を押し殺して本質を見失っては本末転倒である。
そしてその根本の原因は難病に陥ったことで精神までをも病んでしまった幸村精市の精神性にあったわけであり、許斐先生はこの辺り登場人物の心情や人となりをとても大切にしている作家だとわかるだろう。
だからこそ立海も幸村も圧倒的な「テニスそのもの」の象徴にして青学の「未来」の象徴である越前リョーマに負けることで、「テニスとは何か?」「勝負とは何か?」を見直すきっかけをもらったといえる。

「新テニスの王子様」で本質へと回帰していく幸村


真田も幸村も大きく変わるきっかけとなったのは越前リョーマに敗北してからであるが、幸村に関していえば越前敗北そのものよりもむしろ「テニスとの向き合い方」を考えさせられたことにあった。
幸村は難病を患ってテニスを諦めかけ、「テニスの話はしないでくれ!」とまで訴える程に病んでいたわけであり、一度はテニスそのものを諦めようとしていた節がある。
「新テニスの王子様」では「テニスを楽しもうと思っていたけれどそんな余裕はなさそう」と「自分にとっての「テニス」とは何か?」を再定義しようと模索していた。
そしてついに自分が五感を奪われる側になった時、幸村は越前や手塚のように「天衣無縫の極み」に目覚めるかと思われたが、答えは全く違うものとなる。

俺にはテニスを楽しむことなんて出来ない
たとえ打球が見えなくなっても……
音が聴こえなくても……
ボールの感触さえ感じられなくとも……
テニスを出来る喜びは
俺は誰よりも強いんだ!!

これこそが幸村の出した答えであり、幸村にとってのテニスとは楽しみや喜びより先に「苦しみ」「辛さ」が来るものであるとして、越前の考えには至れないことを知った。
だが、それだけの地獄を知っているからこそ逆にテニスを五体満足にできることがどれだけ尊いことか、有難いことかに関しては越前以上に知っているといえるだろう。
私が記事のタイトルで幸村を「テニスを愛しテニスに愛されなかった」と書いた理由はここにあり、彼はどれだけ頑張っても越前リョーマと違って「テニスそのもの」にはなれない。
それでも越前とは違った形で目指せる強さや高みがあることを自覚したわけであり、徳川先輩という越前と最も関わりが深い人とのダブルスで幸村は自分なりの答えを出したのである。

この時初めて「立海の部長」でも「神の子」でもない「幸村精市」という個人が自己を確立させたわけであり、ここから幸村は自分のテニスを取り戻していく。
次にあったのは真田と組んだダブルス、彼はここで全国決勝のリョーマと同じように幼少期の原体験として「テニスを始めたきっかけ」を思い出した。
真田と出会い真田とダブルスを組んだこと、そしてその時に感じた真田の熱い想いが自分のテニスの原点を作ってくれたことを思い出し、真田に「尊敬している」という。
どこか後ろめたい思いがありわだかまりがあった真田との関係も見事に修復した幸村、今度は遂にドイツへ移った手塚国光との試合の中でどんどん本質へと迫っていく。

幸村も含む立海のビッグ3が一目を置いていた手塚と幸村との試合、小学生時代の草試合を含めて幸村にとっては2度目の試合になるが、ここで幸村は自分を解放することを覚えた。
病気も完治して手塚との打ち合いの中で本来の自分へ回帰していく幸村はリョーマとは違う形で未来に向かって自分のテニスを構築していき、また切原に向けてのメッセージも残している。
そんな幸村はきっと今後も「天衣無縫の極み」という越前・手塚・遠山・鬼の4人が到達できた境地に辿り着くことはないだろうし、そんなことを許斐先生はさせる作家じゃないと思う。
しかし、それとは異なる「深い絶望を味わったからこそわかる大人の強さ」を幸村は知ったわけであり、それが彼のテニスの強さとなっていくであろう。

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