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「スラムダンク」の三井寿に象徴される平成初期の「落ちたエリートの再生(新生)」

現在YouTubeでアニメ「スラムダンク」が無料公開されており、現在海南戦まで来ているが、リアタイした思い入れ深い作品ということもあってか今見直しても相当に面白い。
改めて見直してみたときに気付いたのが主人公・桜木花道の所属する湘北高校のメンバーたちの成長物語が密に入り組んでいることである。
中でも途中からバスケに復帰した3年のエース・三井寿というキャラクターがとても人間臭く、リアリタイム当時でも彼のようなキャラクターは斬新だった。
何故なのかを考えてみたが、彼をはじめこの時代の作品群にはいわゆる「落ちたエリート」というテーマが盛り込まれていることに気づいたのだ。
そこで今回は三井寿という男を中心に、この時代に特に顕著であった「落ちたエリート」について語ってみよう。

武石中学エース・スーパースター三井寿

スーパースター三井寿

「SLAM DUNK」の三井寿は元々武石中学の絶対的エースであり、圧倒的なバスケのセンスと才能に裏打ちされた絶対的な自信を持っていた男だった。
その才能の有望さに、大会を見に来ていた田岡監督が陵南にスカウトをかけたほどであったが、唯一の弱点は体を壊しやすいということである。
実際、最後の決勝戦でも膝を壊して諦めかけていたが、そこで現在の恩師である安西先生の言葉によって希望を取り戻し、チームを優勝へ導いた。
この時三井の中で「安西先生へ恩返しがしたい」という決意ができ、彼は強豪である陵南のスカウトを蹴ってまで湘北高校に入学したのである。

湘北高校に入ってからもその絶対的な自信とセンスを活かし、1年の中で早い段階で頭角を現しており注目を集めていた。
そして面白いのは、そんな三井とは対照的に圧倒的な体格とパワーを持っているが、ドリブルすらもまともにできない赤木剛憲が入学したことである。
オフェンスやドリブルでは経験値も含めて三井が上だが、ゴール下を務められるのは圧倒的な身体能力を持った赤木だけだった。
赤木は三井の才能とセンスに嫉妬し、逆に三井は赤木の持って生まれた身体能力とパワーに脅威を感じていた。

このパワーの赤木にセンスの三井という対照的な図式は1年生の桜木花道と流川楓のそれと酷似しており、いうなれば桜木と流川は赤木と三井の上位互換といえるだろう。
このままうまくいけば、赤木と三井も桜木と流川のような切磋琢磨できるライバルのような関係性になり得たかもしれなかった。
ところが、三井は練習中にまたもや足を怪我してしまい、入院を余儀なくされた中でどんどんバスケに対するモチベーションを失ってしまう。
いわゆる「燃え尽き症候群」とはまた違う、高校に入って初めて期待されていたエリートが初めての挫折を味わった瞬間であった。

不良に落ちた三井と湘北バスケ部壊滅の危機

不良に落ちた三井

バスケ部に来なくなった三井はそこから2年もの間不良の道へと落ちぶれてしまい、そこにはかつての絶対的エースとしての面影は微塵もない。
制服をだらしなく着崩し、とても似合うとは言えないロン毛をして鉄男の傘下に入って湘北高校を壊滅の危機に追いやろうとする。
この湘北バスケ部壊滅未遂事件はリアタイで読んでいた身としてはとても恐ろしく、未だに若干のトラウマがあって私は苦手だ。
ここでもう三井はどうしようもないほどに落ちぶれてしまったが、かつての仲間たちはそれでもまだ三井のことを決して見捨てはしなかった。

同期の赤木は鉄拳制裁、木暮からは「大人になれよ、三井」「夢見させるようなことを言うな!」という叱咤、そして宮城からは「過去に拘ってるのはあんただろ?」との鋭いツッコミ。
どんどん不良に落ちながら、それでも諦めきれないバスケットへの思いを隠しきれなくなり、そこにまた救いの神のように安西先生が現れ、三井はカタルシスの涙を流す。

安西先生に救われた三井

安西先生に再会し「バスケが……したいです」と言った時、不良に落ちてしまった三井のメッキが剥がれ、再び角刈りのスポーツマンに戻って来た。
意を決して湘北バスケ部へと戻って来た三井寿の顔は紛れもない中学時代の絶対的なエースとしての顔つきである。
いや、挫折を知っている分人一倍優しさや苦労もしっており、未熟さがなくなって大人の顔つきになったといえるだろう。

翔陽戦から輝きを取り戻していく三井寿

輝きだした三井寿

バスケットマンとして戻って来た三井は2年間のブランクを抱えながらも、段々と全盛期のキレを取り戻していく。
そのきっかけが翔陽戦の後半、「ワンボックスでつかせてくれ」と三井をマークした長谷川に凄まじい闘志を燃やす。
腰を屈めて相手選手を気迫でたじろがせる三井の姿は「鬼」のようにも見え、窮地の中で凄まじいエースの片鱗を見せつける。
後半でどんどん3ポイントを決めていく「諦めの悪い男・三井寿」がこの瞬間に新生し、原作最後の山王戦まで三井を象徴する個性となった。

しかし、その一方でやはり2年間のブランクは簡単に埋められるものではなく、翔陽戦と陵南戦では終盤ガス欠で退場を余儀なくされている。
「なぜ俺はあんな無駄な時間を……」という戻って来ない空白の2年間に対する嘆きの言葉はどこか乾いた切なさがそこに感じられた。
この屈折ぶりが読者の共感を生み出し、「挫折したものであっても頑張り次第でやり直せる」という一縷の望みを与えてくれたのではないだろうか。
そんな複雑な思いを抱えながらプレイしている彼は中学時代の全盛期の自分を過剰に美化してしまう傾向があり、それを山王戦で木暮も指摘していた。

そんな「落ちたエリート」の象徴であった三井が山王戦で他ならぬ安西先生から「過去の自分は超えている」と肯定してもらえたのは大きいであろう。
安西先生にガッツポーズを見せる三井の姿はそんな過去の後悔から来る屈託を乗り越えて一人前のバスケットマンとして完成した。
また、後半になるともはや体力なんぞ残っていないのに、退場することなく精神力だけで己を持たせて3ポイントを決める。
残り1分という状況で4点プレイのバスケットカウントワンスローという奇跡的なプレーまでやってのけたほどだ。

赤木・三井・木暮の友情

そんな中で赤木・木暮との友情も一つの完結を迎えたわけだが、面白いのは桜木と流川の成長だけではなく他の選手たちの成長も相乗効果で成長していくところである。
新入りの桜木だけが成長するのではなく、流川も三井も宮城も、そして赤木もそんな桜木の成長を受ける形でどんどん変化していく。
その中でも三井寿は下手すれば湘北で一番その人間性とプレイスタイルの変化と成長が激しかったキャラクターだといえるであろう。
それぞれに違う形で個々のメンバーが成長し、それが最後に1つにまとまっていくプロセスが素晴らしいからこそ「スラムダンク」はあらゆるスポーツ漫画の中でも破格の名作となったのだ。

平成初期の作品群に見られる「落ちたエリートの再生(新生)」

さて、三井寿以外にも平成初期の作品群は多かれ少なかれこの「落ちたエリートの再生(新生)」というテーマが盛り込まれているように思われる。
例えば「ドラゴンボール」のベジータも結果的にとはいえ「落ちたエリートの再生(新生)」を背負ったキャラクターであった。

新生したベジータ

ベジータについてはこちらの上田氏が語っておられるように、初期(サイヤ人編〜ナメック星編)と後期(人造人間編〜魔人ブウ編)でまるで違うキャラクターになっている。
初期はフリーザ軍の配下だったこともあり徹底した極悪人であり、共感は一切できないが悟空とは対極にいる戦闘民族サイヤ人の象徴として物語を盛り上げてくれた。
特にナメック星編での第三勢力としての働きぶりたるや目を見張るものがあり、悟空がいない間弱小組の地球人の代わりにキュイ、ドドリア、ザーボンと撃破していく。
この時のベジータはピカレスクロマンとしての格好良さがあるが、フリーザに殺された時にこの極悪人としてのベジータは死に、地球に来てからはまるで違う別人28号となった。

また、「幽☆遊☆白書」の蔵馬などもこの「落ちたエリートの再生(新生)」に当てはまるキャラクターといえるかもしれない。
彼は元々宝石専門の盗賊として魔界で生計を立てており、元々は妖狐として生きていたが人間界に来てからはそのキャラクターが大きく変化した。
人間界に来てからは南野志保利が妊娠していた胎児に憑依融合して南野秀一として生きているが、この設定はどこかある種のウルトラマンという気がしないでもない。
逆に主人公の浦飯幽助は「ドラゴンボール」の孫悟空のように戦えば戦うほどどんどん手が付けられない化け物・戦闘狂へと変質していくのだが……。

「落ちたエリート」の象徴である天堂竜

そして何より「落ちたエリートの再生(新生)」として私の中で一番印象的だったのは、特撮作品だが「鳥人戦隊ジェットマン」のレッドホーク・天堂竜である。
「ジェットマン」はどうしてもその複雑に入り組んだ人間関係や修羅場の多さに誤魔化されがちだが、よくよく見ていくと「落ちたエリートの再生(新生)」を天堂竜を通して描いていたのだ。
天堂竜は物語の冒頭では葵リエという恋人がいたが、バイラムの襲撃で彼女もスカイフォースの正規メンバーも全てを失ってしまい、一気に復讐鬼へと落ちてしまう。
メンバーの前では「俺たちは戦士だ!」と虚勢を張るが、それは忘れられないリエへの思いとそこから生じた復讐鬼としての情念を悟られまいとしての自己防衛であった。

そんな竜の仮面は後半で剥がれ、後半では「葵リエの救済」が目的となったがそれすら叶うことはなく、最終的にはラディゲと共に復讐鬼として心中しようとする。
それを仲間たちの説得によってギリギリのところで踏み止まり、リエを失った悲しみを乗り越えてようやく真のヒーローとして最終回手前で再生(新生)した。
このように、特撮にしてもアニメ・漫画にしても90年代初頭は「落ちたエリートがいかにしてアイデンティティを再生するのか?」が描かれている作品が多い。
これはある意味でいうと、バブルが崩壊して昭和の絶対的正義や価値観が音を立てて崩れたこの時代ならではの特徴だったのかもしれない。

落ちたエリート自体は昭和の作品でも描かれていたが「再生(新生)」はなかった

誤解のないようフォローすると、「落ちたエリート」自体はもちろん90年代以前にも沢山いたし、それこそ70年代の作品で見ると「仮面ライダー」をはじめとする石ノ森ヒーローも「落ちたエリート」だろう。
本郷猛だって将来を期待された青年科学者であったにも関わらず、ショッカーに連れ攫われて人造人間にされてしまい、人並みの幸せを手にできない悲劇の英雄へと落ちてしまったのだから。
他にも富野作品や長浜作品で描かれている美形悪役はまさに「落ちたエリート」であり、特に「機動戦士ガンダム」のシャア・アズナブルなんぞは典型的な「落ちたエリート」である。
仮面の下にザビ家への復讐という情念を隠し、淡々と振る舞いながらもザビ家に関わっていた人間を皆殺しにするということを見事にやってのけた男だった。

復讐鬼に落ちたシャア・アズナブル

しかし、この時代の作品群では一旦エリートが落ちてしまうと、そこから這い上がって戻ってくることが許されないという空気やお約束があった気がする。
正義は何があっても崩れることはなく、ヒーローは無条件にヒーローであり悪は徹底した悪人であって、一度落ちてしまえばそこから戻る道はなかった。
この時代のヒーローものにおいてはたとえダークヒーローだろうがなんだろうが、悪党として落ちた者には幸せになる道なんぞ用意されていない
また、圧倒的な強さを手にした正義の味方であるヒーローたちも圧倒的な強さを手にする代わりに人並みの幸せを望んではいけないという自己犠牲を伴っていた。

それが大きく崩れて相対化され、たとえ悪の道に一度落ちた者であってもやり直しが効くという風な変化が起こったことは今更ながらに興味深い。
これは地の時代の昭和から風の時代へ向かうまでの平成の変化として見られており、この辺りを考察する動きが出ても良さそうではある。
そんな時代の変化を経ての「風の時代」である令和では果たしてどのような変化が見られるのか、非常に楽しみである。

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