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『侍戦隊シンケンジャー』が真に最高傑作たり得ないのは「主人公性の喪失」を形式的に突きつけた作品だからである

「シンケンジャー」をリアルタイム当時「最高傑作」と断言した人の言い分のほとんどは山本弘という元と学会の作家・批評家のこの文章に集約されるだろう。
要するに「ギンガマン」から「電王」までやってきた小林靖子脚本の集大成として褒めており、「画面の運動」としてのそれを論じてなどいない。
殆どがやはり人見て見たものを一旦抹殺し、その上で「読む」という意味内容やメッセージ・心理に帰着した認知意味論的批評となってしまう。
本来ならもっと大事な部分は引いた目で見たときの「形式」、いわゆる「シンケンジャー」の統語構造がどうなっているのかを見なければならない。

それに近い読み解きをしているのがGMS氏のこちらの評論である。

基本的に今作は、 “主人公であるレッドが実は本物のレッドでは無かった”という戦隊フォーマットにおいてアンフェアといえる大ネタを遂行する為に作られているのですが、 そのフォーマットの破壊に際して、まず初期設定においてメンバーの関係を「仲間」ではなく「殿と家臣」の1対4にするという小さな破壊を行い、 その上で終盤、もっと大きな破壊を行うという仕掛けが秀逸。
 そしてまた、約3クール分の物語を「殿と家臣」から「仲間」になっていく、という結局は戦隊フォーマットに準じた流れだと見せておきながら、 実はその“「仲間」になっていく事”そのものが丈瑠を追い詰めていた、とする実に三重の仕掛けとなっています。
 ここで今作が優れていたのが、姫が登場し、丈瑠を巡る影武者計画の真相が明かされる第44話以降、 “主人公であるレッドが実は本物のレッドでは無かった”という衝撃を物語として補強する為に、 様々な戦隊ものの王道要素を“ひっくり返し”に使っている事
 特に、戦隊において団結の象徴といえるロボットに乗り込みながら、姫レッドと4人のメンバーがそれぞれバラバラの事を考えている、 という表現は優れた演出であり、戦隊であるが故の衝撃を描いただけで満足するのではなく、 戦隊である事を使い尽くす事でその衝撃を出来る限り鮮烈に研ぎ澄ました、というのが今作最大の長所であるといえます。

『侍戦隊シンケンジャー』感想総括&構成分析

そう「シンケンジャー」が「ガオレンジャー」以降の「スーパー戦隊を名乗る別の何か」と化したシリーズの中でも一風変わっていたのは、歴代の形式を完全な裏返しとして用いていることにある。
それは物語的というよりも画面の運動として、すなわち「意味内容」ではなく「形式」として優れていることにあるのだが、ここがわからないと終盤の展開の真意は見えてこない。
単純に終盤で重要人物の謎が解き明かされ、それが物語の終盤に関わるというどんでん返しの構造自体は珍しくも何ともない、古くは『科学戦隊ダイナマン』の夢野博士から使われた古典的手法だ。
昭和戦隊最高傑作と謳われる『電撃戦隊チェンジマン』でも終盤で伊吹長官と星王バズーの正体が明かされていたし、90年代戦隊でもいくつかこの形式は用いられており、それ自体が驚きなのではない。

結局のところ、殿様は家臣たち4人に嘘をついていたわけだ、要するに丈瑠は最初から真の当主が来るまでの使い捨てであり、姫が表舞台に立つと同時に御役御免という次第である。
殿が最初から前面に立って戦わなくとも姫が戦っても良かったわけであり、元々丈瑠自身は志葉家の血筋でも侍でもない無関係な一般人だったので、本来なら戦う資格はない。
序盤からキーワードとして提示されていた「封印の文字」を習得してしまえばいつでもドウコクを封印可能だったわけであり、影でしかない丈瑠が前線から退いたところで大勢に影響はない。
つまり丈瑠はお役御免になった時点で「主人公」ですらなくなってしまい、もはや「ヒーロー」でも「侍」でもなく単なる生物兵器として十臓との死闘に明け暮れること以外できないのだ。

この構図が示すことは何か?丈瑠はあくまでも「動かされる傀儡」であって「主導権を握る主人公」ではないことを示したという意味で真に悲劇的たり得るのではないだろうか。
「シンケンジャー」の悲劇性とはここにあり、歴代戦隊で「ヒーローの敗北」を突きつけた作品はいくつか存在するが、「主人公が主人公ですらなくなる」のは本作が最初で最後である。
よく「試合に負けて勝負に勝った」「勝負に負けて試合に勝った」とあるが、志葉丈瑠の場合は初期から5人の中で最強格として描かれていながら最終的に勝負にも試合にも負けた
この場合の勝負とは自分が本物の当主ではない偽物であるという嘘を貫き通すことであり、そして試合というのはいうまでもなく血祭ドウコクにトドメを刺すことである。

志葉家十九代目当主という肩書きも薫姫の戦略的思考に基づく合理的な判断によって「外」から与えられたものであり、「自由意志」としての決意ではない
同じ小林靖子メインライター作品でも『星獣戦隊ギンガマン』のギンガレッド/リョウマ、『未来戦隊タイムレンジャー』のタイムレッド/浅見竜也と違うのはまさにここである
リョウマも竜也も最初は正規戦士ではないところからスタートしたが、最終的にリョウマが二十六章「炎の兄弟」、竜也がCaseFile.44「時への反逆」で正式なレッドの資格を自由意志で勝ち取った。
実は「主人公が主人公ですらなくなる」のは竜也も経験したわけだが、あくまでもそれは自分の意思があれば乗り越えられる試練にして真のヒーローたる通過儀礼としてそこに設定されている。

しかし、シンケンレッド/志葉丈瑠にはそのような「自らの意思でヒーローの資格を勝ち取る」という展開が一切なく、最後までかっこいいヒーローならではの名言も与えられない
なおかつ、最終決戦で血祭ドウコク(の一の目)にトドメを刺したのも丈瑠ではなく二番手の流ノ介であり、ここにおいてまさかの下剋上なるものが引き起こされてしまったのである。
これは決して序盤で家臣たちに対して厳しさというのはあまりにも不当にぞんざいな扱いをしたことへの信賞必罰ではなく、丈瑠をむしろ最強の殿様の座から引き摺りおろしたのだ。
そう、第九幕の段階では丈瑠に剣の腕でも侍としての器量としても劣っていた流ノ介が中盤で殿の代理をした経験を経て、最終的にドウコクへのトドメを任されたのである。

タイムレンジャーお姉さんことMC Yurikaもこちらの動画で解説しているが、実は「シンケンジャー」は侍としての力量と人間性とが反比例の関係にある。
人間として一番まともなのがすれた現代っ子である千明であり、そして丈瑠が一番人間味が希薄かつ侍としての自分に揺れていたという逆構造だ。
だからこそ終盤ではその形式が崩れていき、千明やことはらがどんどん侍としての価値観に染まって行くのに対して、丈瑠はむしろ家臣たちの位置に降りているようだ。
それもそのはず、シンケンレッド/志葉丈瑠は上記のギンガレッド/リョウマ、タイムレッド/浅見竜也ではなく黒騎士ヒュウガやタイムファイヤー/滝沢直人の系譜にある。

初期二作をご覧いただければお分かりだが、「ギンガマン」にしろ「タイムレンジャー」にしろ最終的に主人公は勝負にも試合にも「勝ち」を収めることで主人公たりえた。
リョウマはチーム全体としてバルバンを倒し星を守りギンガの森をもとに戻し、更に私的動機として闇落ちしかけたヒュウガを救済することで見事な兄超えを果たす。
竜也もまた自らの明日を変えることに迷いがなくなり、父親への理解を示したことである意味父超えを果たし直人と対等であった関係から一気に突き放して大消滅を食い止める。
そう、小林靖子が初期に描いた作品はしっかり主人公が主人公たり得るだけの面目躍如を果たしたわけだが、シンケンレッド/志葉丈瑠と志葉薫はこれと逆なのだ

薫はまず家臣たちの人心掌握に失敗した挙句に封印の文字も効かず、丈瑠も丈瑠で戦線に復帰したはいいもののそれら全て他人のお膳立てで、トドメは二番手に譲る。
表面上の形式、すなわち戦隊という大枠で見た時の使命、すなわち「外道衆からこの世を守る」ことに関しては果たし得たかもしれない。
だが、その為に計画していた当初の戦略は悉く失敗に終わり、また初登場時は最強であった筈の2人が形式的な「主人公」「ヒーロー性」を喪失してしまった
私が「シンケンジャー」を歴代最高傑作といえないのも、そしてシンケンレッド/志葉丈瑠が歴代レッド最強候補だと言い切れないのも全てはここにある。

「シンケンジャー」を評する時、どうしても終盤の一連の展開を抜きにすることはできないが、実はシンケンレッド/志葉丈瑠が最終的に主人公という記号すら喪失したことはさほど論じられない。
やはりほとんどの人がどうしても丈瑠をはじめとする登場人物の心理への同情・共感といったところに帰着してしまい、それを超えた「画面の運動」という客観的かつ形式的なところで見られない。
だが、この統語構造をきちっと分析したときにどれだけ「シンケンジャー」が十臓が指摘する通りの歪な構造をしているかを論じて初めて「シンケンジャー」の真の批評となり得るのではないか。
歴代最高傑作と断言するのであれば、それくらいのことを具体的に論証すべきだと私は考える。

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