A friend in need is a friend indeed.(まさかの友は真の友)を実感する機会が多くなっている今日この頃明日明後日明明後日
かつて「トム・ソーヤーの冒険」という名作児童文学を手がけたマーク・トウェインは生前にこのような格言を残しているが、これはことわざでいうA friend in need is a friend indeed.(まさかの友は真の友)である。
でも実際その通りであり、本当にその人が自分にとって信頼に値する人かどうかは自分がうまくいっている時ではなくピンチに陥っている時にこそ頼れる人であり、だから私は「友情」という言葉が昔から嫌いだ。
以前にこのような記事を書いたわけだが、私がゆでたまご先生の『キン肉マン』よりも鳥山明先生の『ドラゴンボール』の方を遥かに信頼し共感できるのは自分が原体験として生きた90年代が超個人主義、すなわち反集団主義の時代だったことと切り離しては語れない。
そもそも私は小学校入学の時に歌わされる「友達100人できるかな」からして作為的なものを感じて大嫌いだったわけであり、旧来の学校教育というものは大嫌いだったので少年革命家・ゆたぼんの気持ちにも多少なり共感できるところはある。
流石に大々的に「学校行きません!」は褒められたものではないが、私が小中時代に受けてきた理不尽な扱いを思うと、社会的問題として浮上しないだけで、実は潜在意識の部分でゆたぼんに共感するサイレントマジョリティはいるのではないか。
私は基本的に自分がうまく行ってる時であろうとそうでなかろうと基本的には人に合わずに一人を選ぶ、なぜならばその方が余計な雑音・雑念に振り回されず自分にとって本当に必要なことだけで楽に動けるからである。
90年代はSMAPの木村拓哉や女性だと安室奈美恵が新時代のカリスマとして持て囃され社会現象になったことからもわかるように、80年代までの昭和的な歪な集団主義と資本主義がもたらす抑圧に対する反動形成があった。
それこそが超個人主義であり反資本主義なのだが、『ドラゴンボール』がサイヤ人編に入って徹底したサイヤ人至上主義になり最終的に孫悟空・孫悟飯・ベジータらサイヤ人らがトップに立ったのは必然だったといえる。
『ドラゴンボール』がいわゆる古典的ジャンプ漫画に対する徹底した脱構築、ヌーヴェルヴァーグになり得たのはまずコマ割りも含めた「形式」がそれまでのジャンプ漫画にはない独特の語り口だったからだ。
そして結果的にではあるが、『ドラゴンボール』は車田正美やゆでたまご先生らが教条主義が如く大事にしていた「男の友情」に対して徹底して反抗的な超個人主義の漫画となったのである。
ベジータが語るように、孫悟空は決してヒーローとしての使命感とか義務感とか、あるいは「守るもののため」とかいったものに縛られておらず、徹底して自分の好きな「武道を通じて己を高める」ことだけをしていた。
つまり、昭和のジャンプ漫画が持っていたビルディングロマンスの中から「大衆の求めるヒロイズム」「守るべきもの」「集団主義」「仲間のため」といったありがちな動機を鳥山明は徹底して省いたのである。
確かに『ドラゴンボール』には「仲間」はいるし「親友」「戦友」もいるが、それはあくまで「自然にできたもの」であって「意図的に目的を持って作られたもの」では決してないのである。
故・鳥山明がインタビューで言っていた「悟空に友情はない」とはそういう意味であり、悟空はルフィやナルトとは違って仲間集めに必死になることはない、ただ素直に我が道を行っていただけだ。
そうしたら結果的にブルマをはじめとしてヤムチャ・プーアル・ウーロンといった「仲間」ができてクリリンという「親友」ができ、またピッコロやベジータのような「ライバル」ができていった、それだけのことだ。
実際、映画「神と神」で野沢雅子とめざましテレビで対談した時も「これ以上真っ直ぐで純粋なやつはいない珍しい主人公。結果的にいいことをしている感じを僕は出したかった」とあって、本当にそういう主人公として描かれている。
まさに鳥山明はジャンプ漫画、否、漫画界におけるゴダールと言えるかもしれない程のことをしてみせた凄い作家だったわけであり、だから古典的ジャンプ漫画を読むとそういう「押し付けがましい友情」に辟易することもあるのだ。
確かにヒーロー作品とは「理想」を体現・表現するものであって欲しいと常々思っているしそう言ってきているのだが、あからさまに作為的な感じのするものは大嫌いであり、「友情」もまたその1つなのだ。
私は基本的に友達なんか作らないしつるむこともほとんどないのだが、いわゆる「信頼できる人」「親友」、いわゆるa friend in need(まさかの友)という奴には小さい頃から恵まれてきた。
だから多数派の支持が得られなくても気にならなかったし、何だったら多数派の意見の方がよっぽど愚かで間違っている時の方が多いから、私は基本的に多数派の意見には耳を貸さない。
じゃあそんな私がなんで「王道」と言われるものが好きなのかというと、自分がその「王道」の位置には絶対に行けないしなれないことがわかっているから、そこに強い「憧れ」があるからだ。
「王道」というと「多数派が支持しているもの」と思うかもしれないがそうではなく、あくまでも「時代を映す鏡」となるものが結果的に「王道」となって多数派の支持を得ているだけである。
だから多数派の支持を得ているものが常々「王道」であるわけではない、「エヴァ」も「ガンダムSEED」も「鬼滅」も全部「邪道」にもかかわらず多数派の支持を得ているではないか。
むしろ日本だとそういう尖ったことができる奴が珍しいと思われる節があって、だから「エヴァ」「ガンダムSEED」「鬼滅」が支持されるのはそんなに難しはないのである、既存のジャンルに対する脱構築さえやればいいわけだから。
ただ、私はフィクションにおいてはわざわざ孤独な奴が鬱々となっていくだけの物語を別に見たいわけではないし、「戦い」をテーマにするのであればやはり理想をやって欲しいものであるという気持ちは変わらない。
そういう意味では私がなぜ子供向けの特撮番組の中で『ウルトラマン』『仮面ライダー』ではなくスーパー戦隊シリーズなのかというのも、理由は簡単でああいう理想のチームはなかなか手に入らないからである。
だいぶ与太話に尺を割いてしまったが、最近実は私の知人Tがいわゆるネット上で友人だと思っていたやつから裏切りを食らってしまったらしい。
TはいわゆるIT業界でエンジニアをしているらしく、そのつながりで最初はXで作られた繋がりがDiscordに発展したのだが、そのDiscordのコミュニティの権限を信頼していた人に預けとのこと。
その結果何が起こったかというと、Tに無断・無許可で不義理を働かれたらしく、コミュニティの乗っ取りが起こり、これに普段滅多に怒らないTがブチギレてブロックすることになったらしい。
話を聞いて私はTの安易に他者を信頼してしまう浅慮さに呆れてしまったわけだが、それこそ「鬼滅」で言うならこのコマが相応しいであろう。
そうなのだ、自分の命にも等しい大事なものを簡単に他人に明け渡してはならない、たとえそれがどんなに信頼できると思える人であったとしても。
普段から仲良くしてくれている人が必ずしも本当の意味で自分を大切にしてくれる人かどうかなんてわからない、だから私は自分からコミュニティを作らないし最近は自分が本当に必要な人しかフォローしていない。
そうして徹底した自分に必要な人間関係だけに引き算と圧縮を行った結果どうなるかというと、それこそ私がブロックしたMやH、最近だとKのようにかつてフォロワーだった人たちがふとした拍子に自分に牙を向けてくる。
こういう奴らは世にいう「フレネミー(友達のフリした敵)」であって、自分が思った通りの道の更に先を行こうとした時に絶対に足枷になってしまうハイエナみたいな奴らで、その本質は『ONE PIECE』のベラミーと同じだ。
善人の面して奥底では他者を見下し真っ向から土俵に立って勝負する勇気もなく、ただ自分の意に沿わない者にレッテルを貼って自分と同じ側に下げてマウントを取ろうとしてくる、その癖自分一人じゃ何もできない。
自分が何をなすのか、何が好きで何が嫌いなのか、ではなく他者よりもどれだけ上のポジションかだけを気にし、例えば自分が屈折した憧れを抱いてる人が自分を切り捨てようとすると小学生みたいにウザ絡みして自分を見てもらおうとする。
こういうやつはどこのコミュニティにも必ず1人や2人はいるものであり、それこそ学生時代私が所属していた部活の先輩にも「付き合いだろ」「空気読め」みたいなことを言ってマウントを取ってくる女狐みたいなうざい奴がいた。
その癖美貌もそこそこに良くて男に媚びることだけは上手い太鼓持ちみたいな奴だったが、そいつが部長に就任した時のスピーチでボロカスに周囲から突っ込まれてメッキが剥がれていたが、まあそんなものであろう。
会社に入ってもたとえば飲み会で「お前俺の酒が飲めないのか」みたいなことを言って強要してくる先輩や上司がいるのだが、そいつらの本質も結局はフレネミーであり、そいつ自身は無能なくせに他者を自分と同じところに下げることに関してだけは有能なのだ。
そしてそう言う奴らにこちらが向き合って反論すると「相思相愛」だのわけわからないことを言い出すか、あるいは「他人の指摘を受け入れられないお前は成長できない」といった「自分は正論言ってる」感を出してくるのである。
だが、そういう奴らのいうことなんて所詮は国民的アイドルのこのお方が言う通りだ。
そう、本当にきちんとこちらが納得できるだけの苦言を呈することができる、いわゆる「良薬口に苦し」をできる人というのは、たとえば私にとっての親友Fや黒羽翔さんがそうであるように相手に対するリスペクトが根底にあることが伝わる。
決して「こいつから奪ってやろう」の思考ではなく、本当にその人のことを思って言ってるから聞いてる瞬間は苦しくても冷静に反芻すると「そうだな」と思えるものであり、大きな違いはどれだけその人との信頼関係があるかによるのだ。
そういう人のことをこそまさにA friend in need is a friend indeed.(まさかの友は真の友)というのであって、自分がきちんと納得できる根拠を明確に提示してくれない奴の言うことなど聞く必要は全くない。
だから私も心を鬼にしてTに「だから安易に他者とつるむなって言っただろ。「優しさ」と「甘やかし」は違うんだ」と苦言を呈し、相手の人間性と信頼関係をきちんと見極めた上でシビアにやらないとダメだと言った。
どんな人間関係もあくまで相手に対する尊敬と愛・感謝の心を忘れてはならない、それらを忘れた瞬間から堕落の道が始まり、気がつけば奈落の底へと落ちていく。
少なくとも「俺たち友達だろ」「友情」なんて言葉を軽々しく口にする奴は本当の友達などではないことだけは改めて言っておこう。
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