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越前兄弟と不二兄弟を比較すると見えてくる越前リョーマと不二周助の違い

今日は本来なら海堂と赤也の悪魔化に関する記事を書こうと思っていましたが、昨日書いた記事からもう少し越前と不二の違いについて考察できないか掘り下げてみました。
昨日も書いたように越前と不二の関係は手塚と不二のそれとは違って先輩後輩だけど近過ぎず遠過ぎずの絶妙な距離感にある何とも言えない関係です。
そして先月いよいよ2人の試合に決着がつきましたが、私はリョーマが周助に勝てた理由を「才能」ではなく「意識」の差だと書きました。
今回の記事はその2人の内面をもう少し背景設定や物語の流れから読み解けないかと思いましたが、両者は似て非なる存在であることが暗示されています。

旧作の初期段階(青学入学〜不動峰戦)をよくよく見返すと、実は越前リョーマと不二周助には大差がないことがわかります。
越前リョーマがテニス部に入部した理由は「やっつけたい奴がいるから」であり、不二周助の場合は手塚国光に対する尊敬と憧れがあったからです。
どちらも物語序盤の段階では「個人の執着」を抱えており、リョーマにとってはそれが父親の南次郎、そして不二の場合が手塚でした。
そしてリョーマはまず青学の色んなテニスを倒して最後に父親の南次郎を倒すつもりであり、不二は2年間の校内ランキング戦で手塚以外のレギュラーは全て倒していると思われます。

だから立ち位置や実力の上では違うものの、特定の相手を目標としてテニスをしていた訳ですが、大きな転換点は「手塚国光との戦い」であり、ここからが越前と不二の分岐点となりました。
全国決勝で明らかになりましたが、不二は1年生の頃に左肘を痛めた手塚と戦い勝利を収めていますが、手塚が本気を出していなかったことを知ると激昂して手塚の胸ぐらを掴みました。
それ以来「どちらが上か決着を着けるのが怖かった」という理由で手塚を敬遠するようになり、青学No.2というポジションに収まっていたのです(それを幸村は「敢えて二番手に甘んじてきた」と評した)。
不二周助が勝ちへの執着を持てなかったのは決して才能に恵まれて本気を出す必要がないだけではなく、手塚との戦いで勝負に対して臆病になってしまったトラウマも影響しているのでしょう。

つまり不二は一度手塚国光と戦ったことによりかえって近寄り難くなってしまい、手塚に対して「憧れ」を抱く反面本気を知るのが怖くなりテニスに対して及び腰になってしまいました
ではその一方で越前リョーマの場合はというと、これが逆で不動峰戦後に手塚と高架下のコートで草試合をし、まだ本調子じゃなかったとはいえ1-6で惨敗するという経験をしたのです。
手塚から「青学の柱」を託されましたが、越前は不二と違って「何が何でも強くなってコイツを倒したい!」と思い、奥底に眠る闘争心を引き出して勝ちにこだわるようになりました。
そしてそれは同時に父親の南次郎が願っていたことでもあり、リョーマは不二とは違い「負ける悔しさ」を思い知ることでかえってテニスに対して本気で勝ちに行くようになったのです。

ここから更に物語が進むと越前はかつての自分と同じ境遇の不二裕太と出会い「アンタの兄貴だけじゃないだろ強いのは」との言葉をかけ、「俺は上に行くよ」と言い放ちます。
「全員かかってきやがれ」とも言っていましたが、越前は手塚に惨敗したことで視野を広げ、自分の父親以外にも圧倒的な強者はいることを知り上を目指すようになりました。
勝ちへの執着を得ただけではなく「出会う奴全員がライバル」という意識の変化が起こり、それらを全て倒して最終的に手塚と南次郎を超えることが越前の目標となったのです。
これに対して不二周助と裕太はどうかというと、勝ちへの執着を手にするようになっても視野が広がることはなく、目標とする人は結局変わりません

現に裕太は氷帝戦で越前に対して「俺の目標はやっぱり兄貴だ」と言っていましたし、四天宝寺戦でも「新テニ」で最初に戦った時もやっぱり兄の背中を追い続けています。
一方でそれは勝ちへの執着を手にした本気モードの兄・周助も同じことで、「同じ相手に2度負けない」と言うようになったものの不二のテニスの視野が広がることはありませんでした。
あくまでも不二がテニスを続ける理由は「手塚への執着」であり、手塚からの自立は果たしたものの手塚への思いが彼のモチベーションになっている点は同じです。
この辺り血は争えないというか、不二兄弟は性格も才能も全然違う筈なのにテニスに対する屈折した思いや動機の部分では酷似しています

そして「新テニ」に入ると今度はリョーマの兄・リョーガが登場するのですが(設定自体は劇場版が初出)、ここでもやはり越前兄弟と不二兄弟は大きな違いがあるのです。
越前兄弟はリョーガがリョーマにスーパースイートスポットを教えたりアメリカチームに誘ったりしており、リョーマも遠慮なくそれを受け入れますが、最後は日本チームに帰ってきました。
一方で不二兄弟は同じ日本チームに居続けながらも決してお互いに何かを教え合うことはなく、兄を超えたい裕太と手塚と戦いたい周助という平行線がずっと続いているのです。
この辺り同じ兄弟でありながら見事なまでの好対照になっているのですが、越前兄弟と不二兄弟の違い、そして越前リョーマと不二周助の違いは「憧れ」の有無なのかなと思います。

越前リョーマは兄のリョーガや父親の南次郎に対して「憧れ」は一切なく、だからこそ力を借りることに抵抗はなく、でもコートの上に立ったら一切の容赦はしません。
リョーマの中には相手が誰だろうが対戦相手は全員ライバルであり、仲間が好きであることと対戦相手としてぶつかり合うことはあくまで別物なのです。
それが手塚国光だろうが跡部景吾だろうが幸村精市であろうが真田弦一郎であろうが、それこそ徳川であろうが平等院であろうが甘い感情を抜きにして戦えます
越前リョーマの中には相手に対する「尊敬(客観的な人間性とプレイスタイルへの敬意)はあっても「憧れ(こういう人になりたいという理想)」はないし、リョーガも同じでしょう。

しかし不二兄弟はその点手塚に対する「尊敬」と同時に「憧れ」があって、だからこそ自分の理想と現実のギャップに苦しむしここぞという時に本気になりきれないのです。
不二は手塚と自分を比較して「テニスに誠実に向き合ってきた君と比べて自分がちっぽけに感じる」と独白していましたが、これは手塚みたいになりたいから生まれた劣等感でした。
憧れと劣等感は表裏一体であり、だからこそ不二は手塚以外の相手とテニスをするのに一々理由が必要となり、だからこそ確変するには大変時間がかかったのです。
それは弟の裕太も同じことで、裕太も結局は兄と自分を比較してしまうからこそ憧れも抱くし、同時に兄のようになれない自分への劣等感を抱いてしまうのでしょう。

そしてそれはプレイスタイルや成長・進化の仕方にも現れていて、越前リョーマはテニスへのモチベーションこそ高いものの、意外にも1人で強くなることは苦手です。
ここぞという時には青学の仲間達や父親の南次郎、また兄のリョーガが手を貸している部分があり、それがリョーマの精神の強さにも大きな影響を与えています。
一方で不二周助はテニスへのモチベーションはいまいち薄いのですが、越前とは対照的に強い相手が目の前に現れればそれに応じて勝手に1人で進化可能です
越前はその時その時でライバルが変化していくからこそその相手を倒すことで強くなりますが、不二周助の場合は手塚国光を超えることありきで強くなります。

つまり不二周助にとっての最大の目標が「手塚を超えること」ならば、そこまでに負けを経験しようとその相手に2度目で勝てるようになれば自ずと手塚に近づくのです。
一方で越前リョーマは相手の得意技や本質を見抜いた上で敢えてその土俵に乗っかり、力の差に苦しみながらもそれを覆し相手を上回ることで強くなっていきます。
同じ天才でありながら越前リョーマと不二周助、そして越前兄弟と不二兄弟は正反対の性質であるとも言え、それが同時に不二が越前に勝ちきれなかった理由にもなっているのでしょう。
そう考えると最近黒星が続いてうなぎ登りだった不二が越前に負けるという経験をしたことは手塚と戦うだけでは気付けなかった別の衝撃を経験できてよかったんじゃないでしょうか。

先輩後輩とか関係なく本気でぶつかり、全てのカウンターも風の攻撃技も攻略して超えてこようとする、そしてリョーマもまた不二の底知れない天才性から多くのものを吸収する。
越前兄弟と不二兄弟を比較してみると、ミステリアスな空気感を醸し出している不二周助の人間性や思いが見えてきますし、許斐先生が特にこの2人にこだわって描くのも納得できるというか。
そんな不二周助を超えた越前リョーマが決勝でぶつかる相手は越前リョーガだと思いますが、その越前リョーガは幸村の五感剥奪とは違う「能力剥奪」を得意とする選手です。
まだリョーガの全貌が露わになっていないのでベールに包まれていますが、五感剥奪を超えたリョーマが今度はどうやって能力剥奪を超えてリョーガに打ち勝つのか、楽しみでなりません。

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