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日虎の気まぐれインド哲学 第5回 業・輪廻、苦行、禅行、信愛について】


皆さん、こんにちわ。
今日もインド哲学の話をマイペースに進めてまいります。


●古代インド社会の変化と新思想の誕生


・都市の成立
  やがてバラモン文化は東方へ広がり、ガンジス河中流地方に伝わりました。その伝播にともなって異文化との交流から文化の融合が起こりました。また、鉄器の使用が普及するにつれて、農業生産が増大し、商工業が盛んになり、社会構造にも変動が起こりました。
 そして、商業都市がガンジス川流域に成立することになったのです。その後、ヴェーダの成立基盤となった王国は没落し、代わってマガダなど十六国が商業都市を核として起こりました。

 ヴェーダ祭式の基盤となっていた半農半牧の社会においては「人間対自然の関係」が関心の焦点となっていましたが、多様な人間関係が現れる都市においては「人間対人間の関係」に関心が移った。このような問題について、それまでのバラモンの祭式思想は無力でありました。
 また、動物の犠牲を必要とする祭式が都市においては経済的に困難になり、実行し難くなりました。このため祭式思想に代わる新しい思想、モラルの追究が起こったのです。
 この時代に現れた思想が、その後のインドの思想・宗教を特徴づけたのです。  

輪廻転生


●業・輪廻の思想


 輪廻(サンサーラ)とは、生き物がさまざまな生存となって生まれ変わることです。輪廻説はピュータゴラス派など古代ギリシアにも見られるが起源についてはいまだ不明です。ですが、インドでは、『チャーンドーギヤ』と『ブリハッドアーラニヤカ』の両ウパニシャッドに現れるプラヴァーハナ・ジャイヴァリ王の説く輪廻説(五火二道説)が、明確に説かれる最初の例として知られています。
 クシャトリヤ(武士)階級の王によって説かれるから、輪廻説は、バラモンによるヴェーダの伝統とは異なる思想系統から生まれたものとするのが通説でありましたが最近、五火二道説がヴェーダの祭式と深いつながりがあることが指摘されているそうです。

業(カルマ)とは行為のことです。行為は行われた後になんらかの効果を及ぼし、努力なしで、目的は達せられない。目的が達せられるのは、それに向かう行為があるからです。しかし、努力はいつも報われるわけではない。では、報われないことがあるのはなぜか。

 業の理論は、それを「前世における行為」のせいだとします。行為の果報を受けるのは、次の生で、この世では、努力してもうまくいく場合と行かない場合がある。その処遇の違いは、前世に何をしたかで決定されているとする。行為は行われた後に、なんらかの余力を残し、それが次の生において効果を発揮する。だから、よい行為は後に安楽をもたらし、悪い行為は苦しみをもたらす(善因楽果・悪因苦果)という原理は貫かれる。 こうして、業は輪廻の原因とされました。生まれ変わる次の生は、前の生の行為によって決定されるというのです。これが業による因果応報の思想です。
 業・輪廻の思想は、現代インドにおいてもなお支配的な観念で、カースト制度の残存と深く関わっています。

●タパス(苦行)



 古来インドを訪れる外国人の目を驚かすものに、苦行があります。苦行の原語はtapasで、「熱」を意味します。『リグ・ヴェーダ』では宇宙創造にかかわる「熱力」という意味で用いられます。後に断食に代表される肉体を苦しめる修行によって、この神秘的な熱力が獲得されるとみなされ、そのような行もtapasと呼ばれるようになりました。これを得れば超人的な能力が実現できるとして、さまざまな苦行、難行が行われるようになった。ブッダが生きた当時には、都市の近郊に苦行者の集まる苦行林が形成されていました。
手塚治虫の漫画「ブッダ」にもその苦行林が描かれていてとんでもない苦行を行なってる人間がたくさん登場します。
 『ディーガ・ニカーヤ』(長部経典)「ウドゥンバリカー師子吼経」は、多種多様な苦行者の姿を伝えています。その中には奇異と思われるものも少なくないですが、現代インドにおいてもなお、それらに似た苦行者が見られます。←かなりハードな苦行なので画像検索はあまりオススメしません。。


自らを犠牲にして生命の循環を促す


●ヨーガ(禅定)

 現在では、ヨーガは健康法として体操の一種のようにみなされているが、本来は精神統一です。現在行われてるヨーガは体術を基本とした「ハタ・ヨーガ」と呼ばれる一種です。あれだけがヨーガではありません。
  yogaという語は、「つなぐ」を意味する語根yujから作られています。この語は、古く『リグ・ヴェーダ』では、たとえば祭りに心を「つなぐ」すなわち「専心する」などというように、積極的な行為を表すものとして用いられました。
 しかし、祭式主義に代わるバラモン思想として、サーンキヤ思想が起こるとそこでは散乱しようとする心や感覚器官を思惟機能が静めて「つなぎとめる」というように、精神統一の意味で用いられるようになりました。これが、その後の「ヨーガ」の一般的な用法となった。すなわち、静座し精神を統一して瞑想することがヨーガなのです。

 断食など肉体をさいなむ行を伴うとき、ヨーガと苦行との区別は曖昧になりますが、本質的には苦行と異なるものなり、より精神的な側面が強いです。苦行においては神秘的な力、熱力の獲得あるいは発現が目指されますが瞑想では真理の直観、悟りを得て、苦しみから解放されること(解脱)が目的とされます。

 インドにおける瞑想の起源は非常に古く、インダス文明にあるのではないかと考えられています。インダス文明の遺物の中にも瞑想を思わせる座像が描かれたものが数多くあります。


●バクティ(信愛)


 『バガヴァッド・ギーター』において最もすぐれた道として説かれるのが「信愛」すなわち神に対する恋愛感情にも似た熱烈な信仰です。苦行を行うこと、善行を行うこと、あるいは知を追求し悟りを開くことも重要であるが、最もすぐれているのは「信愛」で、最高神ヴィシュヌに対し、献身的な信仰を捧げて崇拝するなら、だれでも神の恩寵にあずかることができると説きます。この思想は、その後のヒンドゥー教の信仰のあり方に大きな影響を及ぼしました。

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