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日虎の気まぐれインド哲学第3回 宇宙開闢

 今回はリグ・ヴェーダ第10巻に記されている宇宙開闢の話をしたいと思います。

 今後、このシリーズでは「梵我一如」という言葉が多く登場します。この言葉が登場するようになるのはもう少し後の話になるのですが、リグ・ヴェーダにおいてもその萌芽となるような宇宙創造について述べられています。

以下、リグ・ヴェーダ讃歌第10巻〈宇宙開闢の歌〉の中村元氏の訳を引用させていただきます。

そのとき無もなかった、有もなかった。空界もなかった、それを覆う天もなかった。なにものが活動したのか、どこに、だれの庇護のもとに。深くして測るべからざる水は存在したのか。

そのとき死もなかった、不死もなかった。夜と昼との標識もなかった。かの唯一なるものは自力により風なく呼吸した。これよりほかになにものも存在しなかった。

宇宙の最初においては暗黒は暗黒に覆われていた。一切宇宙は光明なき水波であった。空虚に覆われ発現しつつあったかの唯一なるものは、熱(tapas)の威力によって出生した。
最初に意欲はかの唯一なるものに現じた。これは思考の第一の種子であった。聖賢たちは熟慮して心に求め、有の連絡を無のうちに発見した。
(中略)
だれが正しく知る者であるか、だれがここに宣言し得る者であるか。この展開はどこから生じ、どこから来たのか。神々は宇宙の展開より後である。しからば展開がどこから起こったのかを、だれが知るであろうか。
この展開はどこから起こったのか。かれは創造したのか、あるいは創造しなかったのか。最高天にあって宇宙を監視する者のみがじつにこれを知っている。あるいはかれもまたこれを知らない。

「中村元選集第8巻『ヴェーダの思想』」中村元 春秋社

 中村氏の先達でもある辻直四郎氏はこの〈宇宙開闢の歌〉について、リグ・ヴェーダの哲学思想の最高峰を示すものであり神話の要素を除外し、人格化された創造神の臭味を脱し、宇宙の本源を絶対的唯一物に帰していると述べている。
 しかし、中村氏は「いやいや、それはちょっと言い過ぎ!」という見解を示しています。神話の要素を除外したのも古代インドの民(アーリア人)が哲学的思考に目覚めたことは否定はできません。
 ですが、第2回で私が述べたように神々への絶対的な服従というよりも一種の愛着形成をした結果、神話的な要素が他の地域と比較して薄いのではないかと思います。

広大なるインド


 世界の神話の中でも混沌(カオス)あるいは無の状態から神や火や水が生まれて世界が創造される話はよくあります。これはインドも例外ではないですね。
 そして、インドではこれが後に仏教の「無明」の観念にも繋がっていくのだと考えます。すなわち、私たちの中にも小宇宙があり混沌(カオス)なものは暗く閉ざされていて、それが知識や経験によって明らかになっていくというものです。

 それがもし、アーリア人らが原初の頃よりその思考に至っていたならば辻直四郎氏の述べた通り、それは最高峰の哲学と言っても差し支えないかもしれません。
 ですが、哲学的思考のために〈宇宙開闢の歌〉を作ったにしろそうでないにしろ、広大なるインドの地で育まれたインダス文明で編纂されたリグ・ヴェーダが我々にとって尊きものであることに変わりはありません。

 

 

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