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日虎の気まぐれインド哲学第10回 ジャイナ教

さぁ、自由思想家たちの中でもとりわけ有名な方々の紹介です。
そうです、現在でも脈々と信者を保つジャイナ教という宗派です。今回はジャイナ教についての解説を行っていきます。


⚫︎ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)のジャイナ教 

 
 ジャイナ教は、ニガンタ・ナータプッタ(マハーヴィーラ)によるニガンタ派の改革から生まれた教団です。ニガンタ派は、伝説によればマハーヴィーラの200年から250年前の人とされるパーサ(パールシュヴァ)が開いた宗教といわれています。

 ジャイナ教の伝説は、マハーヴィーラ以前に23人のティッタンカラ(“[輪廻の激流を渡り彼岸に到達するための] 渡し場を作った人”、ティールタンカラ)がいたとされています。パーサはその23代目、マハーヴィーラは24代目とされています。
これがジャイナ教といわれるのは、マハーヴィーラをジナ(勝利者)と呼ぶことにもとづきます。マハーヴィーラの改革後も“ニガンタ派”の名は使われ、漢訳仏典においてジャイナ教徒は「尼乾子」(にげんし)として表されます。

⚫︎マハーヴィーラの生涯

 
マハーヴィーラは、ジャイナ教団の伝統説によれば、前599年チャイトラ白月13日、ヴァイシャーリー近郊のクンダプラで、父シッダールタと母トゥリシャラーの間に生まれました。ナータ(ジュニャートリ)族出身であることからナータプッタ(“ナータ族の子”)と呼ばれています。

 研究者は、マハーヴィーラがブッダと同時代とされることから年代を推定しています。このため仏滅年代をいつとするかに対応して、ほぼ二種の説が立てられています。パーリ語の資料に基づく、「南伝」の仏滅年代による説では、マハーヴィーラは549-477BC、漢訳仏典に基づく「北伝」の仏滅年代をとる中村元説によれば、444-372BCだそうです。

 伝説によれば、マハーヴィーラの元の名はヴァッダマーナ(ヴァルダマーナ←芦田愛菜の親戚ではない)で、結婚して娘一人をもうけ、両親との死別の後、30歳の時、一切を捨てて修行生活に入りました。
 13ヶ月で衣服を捨てて裸形となり、12年間の苦行の後、42歳の時にリジュクラ河畔ジャブラカ村で修行を完成し悟りを得て、「ジナ(勝者)」、「マハーヴィーラ(偉大な勇者)」、「アリハンタ(“敵を滅ぼした人”、あるいはアルハット、“修行完成にふさわしい人”)」などと呼ばれるようになりました。
 その後30年間、ガンジス河中流地域で布教活動をし、72歳のときマガダ国のラージャガハ(ラージャグリハ)近郊パーヴァーにおいて入滅しました。白衣派はこれをヴィクラマ暦(起点BC57orBC56年)の470年前とし、空衣派はシャカ暦(起点AD78年)の605年前としたとされています。

開祖ヴァルダマーナ

⚫︎マハーヴィーラの思想


マハーヴィーラは、パーサの「4戒」を、不殺生・真実語・不盗・不淫・無所有の五つの制戒に改め、これに懺悔を伴わせてニガンタ派の教義を改革しました。
 現代社会に生きる我々には到底不可能に近いことですね(笑)

 倫理的な生活をおくることによって心を汚れから守ることを説く点は仏教と同じ傾向を示していますが、マハーヴィーラの思想ではより禁欲的で厳格な実践が求められます。とりわけ不殺生と無所有の実行が重視されるのが特徴です。

 「不殺生」を説くのは、すべて生きものは苦を憎むので、殺せば必ずその憎しみが殺害者にふりかかり束縛の原因となるからであると説いています。
 ジャイナ教において「生き物」は6種(六生類)とされます。地(土)・水・火・風(空気)・植物・動物の6種であります。通常に生き物とされるものよりはるかに範囲が広いです。器いっぱいの水は、器いっぱいの蟻に等しいと考え、ともに生命あるものとされました。

 そのためジャイナ教の不殺生戒は、仏教よりも徹底している。ジャイナ修行僧にとって、(水中の微生物を除くための)水こし袋・(空気中の微生物を誤って吸い込まないための)口を覆う布・(道行く時に踏んで殺さないよう虫たちを追い払うための)鈴のついた杖などは、生活の必需品です。


 「無所有」を説くのは、次の理由によります。所有は欲求であり、欲求は行為を導きます。行為すれば必ず殺生することになり、殺生は最大の罪で、束縛の原因であります。
そのため「すべて」を捨てることが求められます。「すべて」に含まれるのは、ものだけではなく、家族・親類などの人間関係、欲求などの精神的なもの、さらには修行に不必要なもの「すべて」です。それ故、衣服を用いない裸形がジャイナの修行の理想とされるました。

 また、修行者の修行も中道をとる仏教より厳格で、マハーヴィーラが一貫して苦行を続けたことにならって、ひたすら試練に耐えることが重んじられました。
苦行は超自然的な験力を生み、霊魂に汚れとしてついた業を払い落とす効果があるとみなされます。特に断食が重視され、最終解脱には断食により身体を放棄することが必要とされました。

⚫︎教団

  マハーヴィーラの教団は、出身地のヴェーサーリー(ヴァイシャーリー)に多くの信者を得ました。マハーヴィーラの入滅後、ジャイナ教団はそれほど大きくは成長しなかったようですが、マウリア朝の宗教保護政策により勢力を伸ばしました。アショーカ王の碑文には仏教(サンガ)、アージーヴィカ派と並んで「ニガンタ派」の名がよく登場します。

  その後、飢饉の時、一部が南インドに移住したとされています。そして南北の教団で衣の着用をめぐって解釈が分かれ、白衣の着用を認めた北インドの教団は「白衣派」、保守的な立場を取った南インドの教団は「空衣派」と呼ばれるに至りました。この分裂は、紀元後1世紀頃には完全なものとなったと推定されています。

⚫︎ジャイナ教の聖典

 聖典の結集は、マハーヴィーラ入滅後170年、長老バドラバーフ亡き後、マガダ国のパータリプッタ(パータリプトラ)において、ストゥフーラバドラが指導者となって行われました。この時、12の「アンガ」を作成したとされています。この結集を南インド移住派は正統と認めず、以後白衣派のみが聖典を伝えることとなりました。

 5世紀、あるいは6世紀には、グジャラートのヴァラビーにおいて経典の再編が行われました。この時までに第12アンガが散逸しており、11アンガの再確認と12ウパーンガの付加が行われました。

ジャイナ教聖典「アンガ」


⚫︎現代のジャイナ教


 今日でも、インドの人口の 0.48 % がジャイナ教徒であるが、その多くは商業に従事する。商業以外の職業では、不殺生の制戒を保つことが困難であるからとされる。
やはりいくら厳格な宗派も現代経済の前にはあえなく瓦解してしまうのものなのだ。その中でもまだインド人口の0.48%の人間がジャイナ教を未だに信仰しているのだからその人たちはきっとマハーヴィラの加護を受けることができるだろう。


現在のジャイナ教徒


⚫︎【おまけ】サンジャヤの不可知論

 サンジャヤは、あらゆる問いに対して確答を避ける「不可知論」の立場をとりました。次のように答えることを習わしとしていたといいます。

「もし、あなたがあの世はあるかとたずね、
自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。
しかし、私はそうしない。
そうとは考えない。
それとは異なるとも考えない。
そうではないとも考えない。
そうではないのではないとも考えない。」

 このような彼の論法は、「うなぎ論法」といわれ、仏教の「無記」の考え方に影響を及ぼしたと考えられます。ブッダの二大弟子サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目連)は、はじめサンジャヤの弟子であったと伝えられています。
 また、この思想は、ジャイナ教のスヤード・ヴァーダと似ています。不可知論的な傾向は、ブッダ時代に濃厚にみられるが、このような思想風土が、自己と他者の思想の白黒をはっきりさせないで両立させる文化多元主義の基盤になっています。

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