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日虎の気まぐれインド哲学第13回 最古層の経典の思想②


 今回も引き続き、仏教最古層における経典の思想を語ってまいります。しばしお付き合いください。

●欲望と智慧(欲望を制するもの)

 欲望(kaama)が苦しみの原因であるという考え方は、ブッダ当時のインドの通念であったといって良いでしょう。『スッタニパータ』第四章は、「欲望」と名づけられた経(kaamasutta)ではじまります。

 「欲望をもち、欲求をおこして、欲望が果たせないと、人は矢に射られたかのように悩み苦しむ。」
Sn.767
  「田畑・土地・黄金・牛・馬・召使・女性・親族など、さまざまな欲望に人が執着するならば、(欲望は)力を用いることなく、その人を征服し、災難がその人を踏みにじる。それから、苦しみがその人につきまとう。難破船に水が入りこむように。」
Sn.769、770


 では欲望を制するものは何か。ブッダは欲望を制するものとして智慧を重視します。この立場は、当時勢いのあった苦行主義と対照的に異なります。後者は、欲望と欲望にもとづいて行われた行為の結果(業)を心についた物質的な垢とみなし、肉体的苦痛を耐えることから生ずる熱力によって、それを払い落とそうとします。これに対し、ブッダは欲望を心の働きとみなし、苦行ではなく、真理を悟る智慧によって、欲望は制することができると説きます。

「この世におけるあらゆる(欲望の)流れをせき止めるものは、思念である。(思念が)流れを防ぎまもる。智慧によって流れはたたれるであろう。」
Sn.1035. cf. Dhammapada 339,340.
「わたしは世間において疑惑に惑う人は誰も解脱させることができない。ただ最上の真理を知るならば、あなたはこの激流をわたるであろう。」
Sn.1064.




●実践・努力--自力主義

 ブッダの教えは、「真理を悟ること」による安らぎを究極の目的としています。そのために智慧が重視され追求されました。しかし、それは単に知識を獲得すればよいということではありません。知識があるだけでは聖者といわれません。

世の中で、善き人々は、見識、ヴェーダの学識、智慧があるからといって、(誰かを)聖者であるとはいわない。(欲望を)制し、悩みなく、無欲となった人を、わたしは聖者という。」
(Sn.1078.)


 悟りは宗教的な体験です。それは真理を「理解すること」ではあっても、「分別によって概念的に理解すること」ではありません。

 「内的にも、外的にも、いかなることがらをも知りぬけ。しかしそれによって慢心を起こしてはならない。それが安らぎであるとは真理に達した人々は説かないからである。
Sn.917.)


 智慧は分別による知ではありません。体験されるべきものです。教えにそった行いを通じて、安らぎという理想の体験に向かって努力することが求められるのでく。

「その理法を知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ」
Sn.1053.
「熱心に努力せよ。思慮深く、思念をこらして、わたしのことばを聞き、自分の安らぎを目指して訓練せよ。」
Sn.1062.




 ブッダの基本姿勢は自力主義であります。

「他人が解脱させてくれるのではない。」
Sn.773.

世俗の生活を離れ、みずから安らぎを求めて努力することが理想とされる。

「この世のものはかならずなくなるものであると見て、在家にとどまっていてはならない。」
Sn.805.


●実践のための徳目ーー無執着

 安らぎへいたる正しい生活を送るためにどのような心をもち、どのように行動すべきかが具体的に説かれます。たとえば、名声・財産・食物・衣服・異性などに対する禁欲、あるいは嘘・怠惰・怒り・後悔など心を汚す行いを避けることなどでありますが、これらを集約するものとして強調されるのが、「執着するな」ということです。

 執着は苦しみの主要な原因と考えられました。

「世の中の種々さまざまな苦しみは、執着を縁として生ずる。」
Sn.1050.
「無知なまま、執着する人は、愚か者で、くりかえし苦しむ。苦しみの生起のもとを観察した智慧ある人は、執着してはならない。」
Sn.1051.



執着とは「わがもの」という観念をもち、それにこだわることです。したがって、どんなものについても、「わがもの」という観念をもつことが否定される。

「(何かを)わがものであると執着して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少ないところにいる魚のようなものである。」
Sn.777.
「世間における何ものをも、わがものであるとみなして固執してはならない。」
Sn.922.
「何であれ、「これはわがもの。これはひとのもの」と思わない人は、わがものという観念を知らない。このような人は、「自分にはない」といって悲しむことがない。」
Sn.951.
「無所有、無執着。それが(老いと死という激流に対して避難所となる)洲にほかならない。それを安らぎと呼ぶ。それは老いと死の消滅である。」
Sn.1094.


●論争を避けること

 執着してはならないということは、自分の見解・信条についても求められます。

「自分の見解に対する執着を超越することは容易ではない。」
Sn.785.

理想として追求されるべき安らぎについてすら、こだわってはならないとされる。

「一切の戒律や誓いを捨て、(世間の)罪のある、あるいは罪のない行為を捨てて、「清浄である」とか「不浄である」とかいって欲求を起こすこともなく、それらにとらわれずに行え。----(目指すべきものとされる)安らぎに固執することもなく。」
(Sn.900.)


 したがって、自説にこだわり論争することは避けよ、と説かれます。これについては、当時のインドの思想状況とかかわりがあります。

どのようにすればこの世の苦しみから解放されるか。この問題意識はブッダと同時代のインドの思想家たちに共有されていました。
 そのため、ブッダの他にも多くの思想家が教理を立てました。その際にはさまざまな説が唱えられ、その違いから活発な論争が行われました。

「ある人々が、真実だ、正しいということを、他の人々はうそだ、間違いだと争って議論する。なぜ修行者たちは同じことを説かないのか。」
Sn.883.


 論争では、安らぎを得るための智慧の追求が、論敵に勝つための理論の追求に変わります。しかも、日常経験の範囲を越えた形而上学的な問題が扱われます。それらは経験によって確かめられません。肯定・否定の両論がならびたち、決着はつくことはありませでした。

「世の中に多くのさまざまな永遠の真理があるわけではない。ただ想像して立てられているだけである。独断的な見解にもとづいて推論を立て、これが真理だ、間違いだと両極端の教えを説いているのである。」
Sn.886.


 論争は、論争のための論争に陥ります。ブッダはこれを無用と考えました。論争を避けることは随所に説かれます。

「自説にこだわり、これこそ真理だと論争する人々はみな、非難をうけるか、あるいは、時には賞賛をうることもある。くだらないことである。心の平静のためになることではない。論争の報酬は(非難と賞賛の)二つだけである。これを見きわめ、論争を避けよ。心の平安をめざすとは、論争しない境地に立つことである。」
Sn.895,896, cf. Sn.824-834、837ー847、878ー894.


 あらゆる立場への無執着が強調され、極端説だけでなく、中間にもとらわれないことが説かれます。

「知者は両極端を知りつくし、中間にもけがされない。そのような人をわたしは、偉大な人という。そのような人はこの世で、縫いつけるもの(妄執)を超越している。
Sn.1042.


●安らぎ(涅槃、彼岸)

この世の苦しみを脱して到達される安らぎは、「涅槃」といわれます。仏教の究極の目的でもあります。涅槃は、nibbānaの音訳です。
 nibbānaは「消滅」を意味し、欲望を火にたとえて、涅槃は火の吹き消された状態として表現されます(Sn.1074.)。また、欲望が激流にたとえられ、涅槃はそれを越え渡ったところであるから、「彼岸」(pāram)ともいわれます。『スッタニパータ』第 5章は「彼岸にいたる道の章(pārāyanavagga)」と名づけられている。

 涅槃は、後には死と結びつけられますが、はじめは現世において得られるものとされていました。

「この世において、見たり聞いたり考えたり意識したりする形うるわしいものに対する欲望やむさぼりを除き去れば、不滅の安らぎの境地である。」
Sn.1086.


 我々は生きていると様々な困難な試練に遭遇します。その中で自身の命すら投げ出したくなることもあるでしょう。
なぜなら私たちが生きているこの世は地獄だからです。あらゆる欲望や執着が渦巻く魑魅魍魎が跋扈する世界です。その中でブッダの教えはこの地獄に一つの光明を授けたと言えます。
 そして、「死」は我々の何よりの恐怖であり、あらゆる苦悩の根源になります。それらを超越する状態「涅槃」の境地に達するためには、あらゆる執着を捨て去ることことが必要だと説かれたのです。
 涅槃に入る者の心は静かで安らかです。それらを送り出すものの涙に反して、涅槃に入る者の心は静謐に包まれます。


 最後に涅槃に際して愛弟子アーナンダに向けてブッダが放った言葉を同志諸君に送って今日の気まぐれインド哲学を終えたいと思います。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ、嘆くなかれ。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、---すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊されるべきものであるのに、それが破壊しないということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=コータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ。お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

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