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海外で物乞いされたらどうしたら良いのか [考えるヒント]

今日、セブの街中のカフェで勉強していると、物乞いの少年からお金を恵んでくれるように言われて、久しぶりにお金を渡しました。あまり普段、物乞いに応じることがないので、自分のした行為に少しびっくりしました。なぜ自分がこのような選択を取ったのか気になったので、今までの経験を振り返って色々と考えてみました。自分の中でもまだ答えが出てないので、皆さんの考えるヒントになればと思い書きます。


アメリカでの経験①: 物乞いにお金を渡したらもっとくれと言われた

初めて物乞いされるという経験をしたのは、アメリカでした。当時の僕はミズーリ州にある大学で院生をしていたのですが、大学の周りにはいつもホームレスの人がいました。それまで人生の大半を日本で過ごしていた自分にとっては、当たり前に毎日ホームレスの人を見かけるというのは最初は少し衝撃的でした。

その日もいつも通り、大学の授業を終えて学内の寮に戻ろうとしていたときだったと思います。大学の構内にホームレスの人がいて、お金を恵んでくれるように言ってきたのです。僕は少しドキドキしながら1ドル札を渡したと記憶しています。そしたら、彼はもっとお金をくれるように要求してきました。具体的にどのような会話がなされたかはあまり覚えていないのですが、自分がそのとき少しイライラしたのを覚えています。「せっかく恵んでやったのに感謝の一言もなしで、この人はさらにお金を要求をするのか」みたいな気持ちだったはずです。最終的には少し言い合いのような形になって、"You should appreiciate it!" みたいな捨て台詞を吐いてその場を去ることになりました。

アメリカでの経験②: ホームレス用にお菓子を携帯していた友達

物乞いにお金を渡しても嫌な気持ちになったという経験から、それからは物乞いに応じなくなっていました。ある日、学校から歩いて10分ほどのところにある寮に遊びに行ったときのことです。その寮の入り口に"For homeless" というメモ書きが貼られたカゴの中に、いくつかのスナックが入っていました。これはなんだろうと思っていると、一緒にいたカトリックの友達が教えてくれました。
「これ、僕が用意しているんだよね。大学まで行くまでの道って絶対ホームレスの人がいるじゃん?彼らにお金を渡すのは嫌だから、いつでもスナックを携帯して渡せるようにしてるんだよね。他の人も同じようにできるようにスナックの入ったカゴをここに置いてるんだ」
なるほどなぁと思いました。確かにお金を渡すだけだと、何に使われるか分からない。もしかしたら大麻を買うためのお金に使われてしまうかもしれない。お金をどれだけ渡していいかもわからないし、渡したとしても僕のようにさらに高い金額を要求されることもある。スナックならその日の空腹を満たすことができるし、何より気持ち的に渡しやすい。そして何よりも自分が携帯するためにスナックを用意をするだけでも偉いのに、他の人の分まで買って用意をするというのは、本当にすごい。嫌な経験をしたからそこで立ち止まってしまった自分とは違って、彼は問題を俯瞰的に捉えて、自分ができる範囲内で最も良い解決策を探していました。そこに隣人愛の実践を見たような気がしました。

フィリピンでの経験①: 市場でお金を物乞いする少年

アメリカから帰国して4年ほど日本で過ごしたのちに私はフィリピンのセブにやってきました。セブに来て1週間ほどのことです。カルボンマーケットというローカルのフィリピン人向けの市場の近くにいたときに、おそらく4-6歳くらいの少年から声をかけられて、”money, money”と言われました。悲しげな表情というよりは、どちらかというと楽しげでお小遣いをねだる少年のように見えました。基本的には物乞いに応じないことにしていたので、ごめんねって感じでやんわり断りました。僕は家に帰るためにタクシーを捕まえようとしていましたが、彼はそれからも50mほどの距離をついてきて、物乞いを続けました。最終的には彼は諦めてその場を離れました。

フィリピンでの経験②: 街中のカフェで物乞いする少年

今日の話です。僕は夕方くらいにセブの中心地にあるITパークのカフェにいました。ITパークは、オフィスが立ち並ぶビジネスエリアで、その他の地域と違い、建物も近代的で、歩いている人も小綺麗な感じです。そんなITパーク内のカフェで勉強していた僕に、一人の小学生くらいの少年がやってきて、「食べ物を買うためのコインが欲しいんだ」みたいなことを言ってきました。自分は少し悩んだのですが、財布の中から20ペソコインを取り出して、彼に渡してあげました。彼は少しだけ間を置いてから、"Thank you"と言って、その場を立ち去って店内の他の人のところで物乞いをまたしていました。

自分がお金を渡した理由について考える

普段、物乞いに応じない自分がなぜ今回はお金を渡したのかについて少し考えていました。

カフェだったから
お金を渡したときは自覚していませんでしたが、後から考えるとこれが大きいような気がします。市場にいたときは外だったので、お金を恵んでくれるように頼まれても自分が立ち去ることでその場をやり過ごすことができます。一方でカフェの場合はそうはいきません。自分は勉強中で次の予定までまだ一時間ほどそこに留まる予定でした。もし物乞いを断って、その少年がその場を離れなかったとしたら、自分は勉強に集中することができなかったでしょう。おそらく無意識的にどこかこの少年が立ち去って欲しいという願いを込めて、僕はお金を渡したのだと思います。
また、普段よくいるITパーク内だったので、警戒心が少し低くリラックスしていたことや他に物乞いをしてきそうな人がいなかったので、彼一人にお金を渡せばよかったということも理由として挙げられると思います。

コインを渡してくれるように言われたから
物乞いに応じることに決めたとしても難しいのは、「ではいくら渡すか」というかことです。普段の買い物では、値段が最初から提示してあることが大半ですし、自分で値段を決める機会というのは庶民にはあまりないでしょう。似たような場面として、ストリートパフォーマンスの投げ銭などが考えられますが、その場合は何かしらのサービス(歌を聞く、大道芸を見るなど)を受けているわけで、それに対する評価として、なんとなく「これくらい払っていいかな」という気持ちで渡すと思います。

一方で物乞いの場合は、何かしらのサービスを受けたわけではありません。また圧倒的に情報量が不足していて、なぜこの人はお金を欲しがっているのか、このお金は何に使われるかなど気になることが全て不透明です。その上でお金を渡してくださいと言われても困ってしまう人が大半ではないでしょうか。

しかし、今回は「コイン」と最初から提示されました。コインであれば、最大で20ペソ硬貨しかフィリピンには存在しません。20ペソを支払ったとしてもたった50円ほどで大した金額ではありません。単純にお金と言われた場合だと、最大で1000ペソ札まで存在するので、その場合2700円ほどのお金を渡すことになります。それだけのお金を見知らぬ人に渡すというのは少し勇気のいることです。それに大きい金額を渡したら必ずしもいいかというと、そういうわけではないと思います。慢性的な貧困に喘ぐ人々にとって急に渡された大金は、マイナスの影響の方が大きいかもしれません。

お金を恵んだからって別に偉いわけじゃないし、何かを期待してもいけない

今までの経験を振り返って感じたことですが、大切なことは「お金を恵んでやった」と思わないことかなと思います。人生で初めて、物乞いに応じたとき、私は当然、相手から感謝されるだろうと考えていました。自分の財布から貴重な1ドルを支払ったからです。でも結果は感謝されることはありませんでした。

当時、私は心のどこかでホームレスの人を見下していたように思います。「彼らは支援が必要な可哀想な存在であって、彼らは支援を受けたら当然感謝すべきだ」という凝り固まったイメージを相手に押し付けていたのです。

そうではなくてあくまで対等に接することがいいのだと思います。彼らを可哀想だと思う必要はない。同情からお金を渡すのではなくて、お金が欲しいと言われたから単純に渡したという風に考えればいい。あまり感情的にならない方がいいです。またお金を渡したからといって何かを期待してもいけない。損得勘定で考えてはいけないのです。普段、何か買い物をしたり、サービスを受けたりしているとき、我々はいつもそれが支払ったお金に対して妥当かというのを考えてしまいます。物乞いを受けたときに同じように損得勘定で考えてしまうと、後から自分の心が傷ついたり、疲れる原因になります。

損得勘定を捨てよう

損得勘定を捨てるためには機械的に対応するのが良いと考えています。そのためには事前に自分の中でルールが必要です。物乞いされたときには、いくら支払うかというのをあらかじめ決めておくのです。物乞いとは少し違うのですが、日本にいた頃は自分はカンパを求められたら、1000円支払うというルールを決めていました。小さな劇団の演劇を見に行ったときやボランティア施設に行ったときなど、意外とカンパや寄付を受け付けていることがあります。日本人は寄付をする習慣がないので、ほとんどの人がお金を入れることはないのですが、私は見かけたら必ず1000円支払うことにしていました。ルール化してあるので、機械的に自然とお金を支払うことができます。その場に人がいれば感謝されることもありますが、カンパ箱に入れるだけのときは誰からも感謝されることもありません。自分も何も期待していないので感謝されなくても全く問題がありません。この習慣はとても良かったです。変な偽善意識にとらわれることなく、自然と寄付をすることができて、時より人から感謝される。自分の心はすごく安定するようになりました。

同じようにこれからフィリピンでも事前に額を決めて物乞いに応じていけたらなと思っています。金額はまだ悩んでいますが、とりあえず100ペソ渡すことにしようかなと。自分のお金を手放せるようになるいい訓練だと思って、少し続けてみます。続けてみてまた何か思うことがあればnoteにまとめたいと思います。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。もしこの記事が面白かったという方はぜひハートマークを押してくれると嬉しいです。モチベーションになります。


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