限りある時間の使い方 を読んだ

最初ちょっと胡散臭い本かな?と思ったけど、意外にもかなり面白かったのでまとめておく。

「時間の使い方」というタイトルになっているものの、いわゆる一般的な時間管理・タスク管理のハウツー的な内容は巻末の付録に10数ページくらい書いてあるくらいで、そもそもの「時間」に対する認識を改めるようなエピソードが本の大半を占めている。

やりたいことが全て出来ることは絶対にない

曰く、時間は有限で、人生は思っている以上に短い(なんと約4,000週間しかないらしい)ので、効率よくタスクを管理して、きっちりタイムマネジメントしたとて「やりたいことがすべて出来る」ということは絶対に無い。

やりたいことに対して時間が足りないから、ついつい効率性や生産性を高めて何とかする方向に意識が向いてしまうが、そもそも「時間が足りない」という問題設定が間違っていて、正しい問いは、時間が足りないという前提を受け入れた上で、どれをやるべきか = どれはやらないべきか を考えることである。

この「時間が足りることはない」という考え方は、ビジョナリーカンパニーZERO にも書かれていた。

あなたが組織のリーダーなら、やらなければならない仕事の量は無限に増えていく。すべてをやることは純粋に不可能だ。アッチテイは著書『Writer's Time』で、それを見事に説明している。

あなたの仕事がうまくいけば、仕事はさらに増える。つまり「仕事を完了する」という概念そのものが甚だしい自己矛盾であり、誤った思考や習慣を助長してノイローゼを引き起こす危険がある。

やるべきことをすべてやるのに十分な時間がない、と感じたことはないだろうか。ここではっきりと言っておこう。やるべきことをすべてやるのに十分な時間がある人はひとりもいない(これからそうなる見込みんもひとつもない)。私たちはこれからもずっと、日々やりかけの仕事を抱えたまま床に就くのだ。生産的な人生を送っている人は、やりかけの仕事を抱えたまま死ぬだろう。

ビジョナリー・カンパニーZERO P.111

文字にすると当たり前のように感じるが、みんな心のどこかで「限界がある」という現実を受け入れたくない(出来る自分を夢見ていたい)ので、ついつい効率性や生産性の向上に目を向けてしまう。

振り返ってみると自分も、「限界がある」という制約を受け入れざるを得ない状況になって初めてやることを減らす力学が働いた気がする。具体的には子供が生まれて、自分の気の赴くままに仕事に時間を割くことができなくなってから。ただこれは一歩間違えると諦めや甘えの理由にもなってしまうので気をつけたいなと思っている。

優先順位を付けることには不快感が伴う

やることを減らすということは、要は優先順位を付けろという話だ。それ自体はよく耳にする言葉だが、この本では 優先順位を付けること(= やらないことを決めること)は不快感が伴う行為である と書いているところがとても良かった。効率性・生産性を追い求めている間は、出来るかもしれない未来が存在するので心地が良い。一方、やらないことを決めてしまうと「できない自分」という現実に向き合わざるを得ないので不快である。ただ、この不快感に耐えないと、一生ゴールに辿り着けない効率性・生産性の向上を行い続けることになってしまう。

「優先度を決めないといけない」はとても正論だ。村上春樹の 走ることについて語るときに僕の語ること というエッセイの中にもそんなことが書かれている。

ただ僕は思うのだが、本当に若い時期を別にすれば、人生にはどうしても優先順位というものが必要になってくる。時間とエネルギーをどのように振り分けていくかという順番作りだ。ある年齢までに、そのようなシステムを自分の中にきっちりこしらえておかないと、人生は焦点を欠いた、めりはりのないものになってしまう。周りの人々との具体的な交遊よりは、小説の執筆に専念できる落ち着いた生活の確立を優先したかった。僕の人生にとってもっとも重要な人間関係とは、特定の誰かとのあいだというよりは、不特定多数の読者とのあいだに築かれるべきものだった。 (中略) 「みんなにいい顔はできない」、平ったく言えばそういうことになる。

走ることについて語るときに僕の語ること P.62

ただ、頭では分かっていても「優先度を決めること」はなかなか億劫で、向き合うたびに「これであってるかな〜」「違うかな〜」「どっちもやりたいな〜」などとモヤモヤしてしまうことが多かった。そのたびに自分は優柔不断だなぁ…とマイナスのラベル付けをしてしまっていたが、そもそも「優先度を決めることは不快感が伴う行為」だとすると、モヤモヤすることは当たり前だし、それこそが健全な意思決定をしている証拠なのかもな〜と自己肯定できた。

その他面白かったところの抜粋

P61-63 タスク処理能力には意味がない

「すべてをやれるはずだ」という意識が強くなると、「何を優先すべきか」という問いに向き合わなくなるからだ。 やることリストに追加できそうな項目を見つけたとき、タイムマネジメントに自身がある人ほど、迷いなくそれを受け入れてしまう。ほかの仕事やチャンスを犠牲にしなくても、全部できると思っているからだ。 とはいえ時間は有限なので、何かをするには別の何かを犠牲にしなくてはならない。 「その犠牲に見合うだけの価値があるだろうか?」と問うことをしないでいると、やることは自動的にどんどん増えるだけでなく、どんどんつまらなくて退屈なものばかりになっていく。本当は追加しなくていいことまで追加してしまうからだ。

必要なのは効率を上げることではなく、その逆だった。 すべてを効率的にこなそうとするのではなく、すべてをこなそうという誘惑に打ち勝つことが必要だったのだ。 反射的にタスクをこなすかわりに、すべてをやりきれないという不安を抱えること。やりたい誘惑を振り切り、あえて「やらない」と決めること。そのあいだにもメールや用事はどんどんやってくるし、そのうちの多くはまったく手がつけられないだろう。それでも、その不安感に耐えながら、本当に重要なことに集中するのだ。

反射的にタスクをこなすかわりに、すべてをやりきれないという不安を抱えること という表現がよかった。取捨選択には不安が伴うということ。

P91-97 タスクを上手に減らす3つの原則

  1. まず自分の取り分をとっておく

  2. 「進行中」の仕事を制限する

  3. 優先度「中」を捨てる

という3つの方法が紹介されており、その中でも 3. 優先度「中」を捨てる の節に書いてある内容がとても良かった。

優先順位が中くらいのタスクは、邪魔になるだけだ。いつかやろうなどと思わないで、ばっさりと切り捨てたほうがいい。それらは人生のなかでさほど重要ではなく、それでいて、重要なことから目をそらすくらいには魅力的だからだ。

重要なことから目をそらすくらいには魅力的 という表現がドンピシャだなと思った。確かにそこそこの優先度のタスクにはそういう性質があって、しかも重要なタスクと比べると早く片付けやすいので、ついつい先にやりたくなってしまうことが多い。その結果いつまでも重要なタスクが進まない。

P177-181 人は強制されなければ休めない

休息とは、仕事を中断すれば自動的に得られるものではない。休息を得るためには、何らかのしくみが必要だ。それを理解していたから、宗教は休息のルールをいろいろと定めてきた。 僕の友人はニューヨークのユダヤ人街にある古い建物に住んでいるのだが、そこでは金曜日の夜から土曜日の夜にかけて、エレベーターが自動で各階に停止する。誰も乗り降りしなくても、勝手にすべての階に止まるのだ。 これは「安息日に電気のスイッチを操作してはいけない」というユダヤ教の決まりを守るためのしくみだ。(中略)なんとも不条理なルールに見えるけれど、理由もなくそうしているのではない。 人間が休むためには、それくらい細かい決まりが必要なのだ。

安息日のルールは、信者を苦しめるものではありません。休息についての洞察を伝えるものです。日々つねにおこなっている活動を中断するためには凄まじい努力が必要であり、それは習慣や社会的制裁によって強化されなければならないということを示しているのです。

昔は 仕事をしてない = 休んでいる と単純に考えていたけど、そんな簡単なことでもなくて、頭のどこかで仕事のことを考えてしまっていたりする。それ自体は別に悪いことだとは思わないが、もう少し意識的に何もしないというか、ちゃんと休む技術を身に付けられるとよいのかもしれない。

社会の忙しさに抗うため、「デジタル安息日」や「デジタルデトックス」を取り入れる人も増えてきた。ただし、まわりのみんなが動いているなかで、自分だけ立ち止まるのは簡単なことではない。意志の力をつねに酷使しなくてはならず、結果として前章で述べたように、「今を生きる」ことに捉われすぎて逆効果になる場合もある。 個人でできる対策としては「不快な感じを受け入れる」ということも大事だ。哲学者のジョン・グレイは、「現代において怠惰ほど異質なものはない」と言う。「何らかのゴールにつながらなければ意味がない時代に、どうして遊びがありうるだろうか」 こんな時代に真の休息を得ようとするなら、(中略)本当に何もしないで休もうとするならーーーそのとき感じるのは喜びではなく、深刻な不快感だと思う。

確かに、何もしていないときに不快感や不安を感じてしまうことがある。ついついその圧力に負けて slack を見てしまったり、何か少しでも為になることをやろうと積読を消化してみたりしてしまう。ただこの不快感に耐えて「何もしない」ということがちゃんと休むということなのかもしれない。

P207-209 見ることと待つこと

ポイントは「わからないという不快感に耐えれば、解決策が見えてくる」ということだ。これは芝刈り機や車を修理するときだけでなく、クリエイティブな仕事や人間関係の悩み、政治や子育てなど、人生のほとんどの場面に当てはまる。 難しい問題に直面したとき、僕たちは未解決の状態に耐えられず、とにかく最速でなんとかしたいと思う。コントロールできないという不快感を逃れるためなら、本質的な解決策でなくても気にしない。だから意味もなく相手にキレてしまったり、うまく進まないプロジェクトを投げ出してしまったり、始まったばかりの恋愛を放棄してしまったりする。 うまくいくかどうかをじっと見守るよりも、さっさとやめたほうが気持ちがラクになるからだ。

難しい問題に直面したとき、僕たちは未解決の状態に耐えられず、とにかく最速でなんとかしたいと思う はまさしくその通りで、何か問題があるとつい反射的に解決したくなってしまうが、一歩立ち止まって「何が問題か?」とたずねないと、解決策があらぬ方向にいってしまうことがある。そうならないためにも「分からない」という状態を一度受け入れて耐えないといけない。ライト、ついてますか とか 無知の技法 にもそんなことが書いてあった気がする。


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