くだらない話

ここで話すのは、しょうもない男の、くだらない、ありふれた話だ。誰だってそんな話のひとつやふたつくらいはあるだろう。そんな程度の話だ。


あれはもういつの日だったか、たしか冬が終わる頃だったろう。男は、女を見た。男には既に連れがいたし不倫や浮気なんて誰がやろうと構いやしない、自分には関係の無い話だと思っていた。その女を見るのは2度目だった。なんのことはない。仕事の関係で移動になった上司の移動先がその男の地元だったという話なだけだ。仕事で世話になった上司なのだから女が既婚であろうとなかろうと、男は女に会っていただろう。実際に男は地元に帰ったその日、女に会った。

 何も無くとも、何も思わなかったろうに、その男は、何故かその女を前にするとどうとも出来なくなってしまった。背中に冷たい汗が流れ、顔が火照り、視線があちこちを泳いでいた。

「キムチが辛すぎたんだろうな。」と男は聞こえないように呟いたつもりだったが、女には聞こえたようで、「ここのホント辛いね。なんでここチョイスしたの?」などと返してきた。それから女と話したことは、あまり憶えていない。前の職場の話だったりとか、旦那の愚痴とか、そんなことだったんじゃないだろうか。よく、憶えていない。

きっとくだらない話をしていたんだろう。男にしっかりと芽生えていた取るに足らない、つまらない感情と共に。


 

夕暮れ時、女は仕事があると行って駅の方へ向かいだした。そう遠くない駅だ。だが、男にはその駅までの道程が何時間も続いているような気がした。面白くない話だ。話すことはたわいもない仕事の話なのに、なぜか何かを伝えなければならない、何を伝えるべきか、今ひとつわからない━━━━今となっては分かりたくもないが━━━━━ 心臓の音が、質の悪いバスドラムのように鳴り響いている。足音が耳をつんざく程に煩い。女が話していることなんか、何も頭に入ってこなかった。そんな男を見て、女は嬉しそうに、少し、悲しそうに笑っていた、ように見えた。

駅に着くと、電車がくるまでにしばらく時間があったらしい。男と女は座って駅のホームで待っていた。 男が女の左手を握った時、すこし冷やりとした感覚が男の右手に走った。くだらない。何をしているんだ。程なくして電車が来ると、女は乗り込むと、男に左手を振っていた。扉が閉まるまで、手を振っていた。夕焼けの光に反射してか、男には女の左手の薬指にあるそれがやけに眩しく見えた。

「またね。」

女の口が、そう動いた、気が、した。




ひとり残された駅のホームで、男は立ち尽くす。

「キスぐらいしとけばよかった………っ!!」

そんな取るに足らない、くだらない話を思い出しながら、男は今日もひとりで、働いている。あの日触れた女の左手の感触を思い出しながら。

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