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恋の終わりとnoteの終わりと

恋は終わるものだ。

そんな言葉を読むたびに思う。

私はきっと「終わる」なんて考えないで、恋をはじめる人間なのだ。

元カレが言ってた。
「モノゴトには必ず終わりがある。コトを始めるときには、終わる覚悟もする」と。
でも、そんなこと言われても良くわからなかった。

終わらせなければ良いじゃん?
覚悟なんて必要??
て思ってた。

それでも。
恋は終わる。

望み通り終わることもあれば
知らないうちに終わることもあれば
望まなくても終わることもある。

「終わらない恋をしよう」と恋人だった人が言ってくれたことがあった。

でも。
それでも。

恋は終わるのだ。

終わらない恋が終わる覚悟なんてしてなかったから…。
まだ吹っ切れてない。笑


長続きするからって良い恋とは限らないし。
早く終わったからって悪い恋とは限らない。

だいたい、恋に、良し悪しなんてあるのか?

想いが強いか弱いか。
違いはそのぐらいなのじゃないのか?


ちなみに余談。

結婚も離婚も2度したけれど。

最初から。
結婚は終わるもの。
だと思って、した。

そして2度とも終わった。
終わらせた。

結婚不適合者…。

いや?
ある意味、適合者か?笑


「終わることを考えないで始める」のは恋だけではない。

noteも。
終わりのことなんて考えないで始めた。

最初は。
娘の不登校を、記録に残したくて、文字を連ね始めた。
長男の不登校を記録に残さずに後悔した過去があるから。
まあ、長男が不登校になったときの私は、記録を残せるような精神状態じゃなかったんだけどね…。

それで。
noteに。
娘の不登校について書いているうちに。

他のことも書きたくなった。

シングルマザーとしての恋愛。
それからエロネタ。
子どもたちに対する愛。

思うさま文字を書き連ねて、自分の気持ちを垂れ流した。
すごくすごく気持ちが良かった。

読んでくれる方が増えて。
たくさんの方々との交流が生まれた。

新しい恋を始めようと決めたことも。
前の恋を泣きながら手放したことも。
自分の気持ちを正直に書き殴った。

とにかく気持ちが良かった。

いっときは、リアルとnote のどちらに存在しているのが自分なのか、わからなくなった。

私は。
「さくらんであること」に夢中だった。

それが…。


最後の恋のつもりだった恋が終わり。

リアルでの意識がはっきりし始めた。

「さくらんであること」から意識が離れるようになった。

ひとり、バイクに跨がる時間。
母親として家族と過ごす時間。
社会人としての生活を営む時間。

私の主軸がリアルの私に戻った。

noteの終わりを考えたことはなかったし、終わらせるつもりもないけれど。

娘の不登校が終わり。
終わらない恋が終わり。

モノゴトは、こうやって、終わっていくのだなぁ。
と、感じている。

私はもう「さくらんであること」に夢中ではない。

だけれども。
割合は反転しても。
私が「さくらんであること」に変わりはない。

また、私の人生でなにかが始まるとき。
私にはnoteが。
いや、さくらんの存在が。
強く必要になるんだろうな。

そんなことを考えている、このごろの私。

はじまりたいな。
なにか。