『荒木飛呂彦の超偏愛!映画の掟』

 とはいえ、サスペンスというものは、表現の世界であまり高い評価を受けているように思えません。特に芸術にリアリティや人間の真実を求める人からは、「ただドキドキするだけで、何も残らない」と軽く見られている気がします。
 しかしサスペンスだからといって、人間を描けないわけではないのです。たとえば『ジョーズ』の、特に冒頭シーンを観て、海面下が怖いなと感じるのは、足の届かない不安感、心理を、作り手が巧みに計算し、利用しているからです。この「人間の心理を計算して、ドキドキさせるべく、ひとつひとつの要素を積み上げる作業」こそ、サスペンスの真髄とってもいい。
 また、よいサスペンスの第一条件として、謎が不可欠と先述しました。謎とは人間心理の核にある好奇心や興味の究極の形だと思います。だからきちんと人間と向きあわないと、サスペンスは生まれないのです。
 それにサスペンス映画は決して架空の話に終始せず、現実世界の人間に対しても影響力をもちます。
 前著『ホラー映画論』で、僕は次のようなことを書きました。生きていれば、どうしたって人生の醜い面や世界の汚い側面に遭遇する。そうした暗黒面を誇張して描いたのがホラー映画であって、それを観ることが現実世界と向きあう予行演習になるのではないか、と。
 サスペンス映画にも、これに近い効用があります。人というのは、お金持ちでも、モテていても、自分が幸福だと言いきれる人でも、何かしらの不安を抱えて生きています。いつかは病気になるかもしれないし、ひとりぼっちで孤独になるかもしれない。この先どうなるんだろう、というサスペンスの中を生きているわけです。この現実世界の不安を癒してくれるのが、われわれを現実とは別の胸騒ぎに誘う、サスペンス映画に他ならないと思うのです。
「不安を抱えている人がサスペンス映画を観ると、余計不安になるんじゃないか。ハッピーな物語を観ていた方が癒されるのでは?」と考える人もいるかもしれません。しかし、それは逆なのではないでしょうか。
 不安やスリルは誰の心の中にでもあるのだから、そこに蓋をして、あたかもないように扱う方が不自然です。僕自身は、ひたすら幸福な、サスペンスのない映画だけ観ている方が、ずっと不安に感じます。観ている間は楽しかったとしても、観終わった後に待っている現実世界は、そんな綺麗事で済むわけがない。そうした映画のあとには、「げっ、イヤなところに戻ってきてしまった」という幸福な夢から覚めたような虚無感があります。
 それよりもサスペンス映画の描く不安にきちんと向かいあって、どこの世界にも不安はあるし、それを感じているのは自分だけではないのだ、と共感した方が、ずっと癒されます。少し大きな話ですが、なぜ世界にたくさんの物語が存在して、その多くがただ幸福を描く話ではないのか。それは負や暗黒面を描くのが、物語の果たすべきひとつの役割だからだと思います。
 ということで、僕の伝えたいことの核は 『ホラー映画論』とかなり一致するのですが、前著では取り上げた映画をホラーという特殊なジャンルに限定したため、多くの名画を取りこぼした歯がゆさも感じました。そこで本書では間口を広げて、もう少し一般的な映画を扱い、サスペンスの正統性に迫りたいと考えています。
 僕の中では「男泣きサスペンス」というジャンルが確立しています。登場人物に感情移入して涙を流しながらも、ストーリーにハラハラせずにはいられない、贅沢といえば贅沢な映画です。
 ここ近年稀に見る「男泣きサスペンス」の傑作が、『96時間』(二〇〇八・仏)でした。この映画の何が秀逸かといえば、映画の冒頭からたった五分で泣かせる、ストーリー展開の素早さです。
 主人公は元CIA工作員のブライアンことリーアム・ニーソン。離婚歴があって、現在、元妻と娘はリッチな再婚相手と幸福に暮らしています。
 そんな娘の一七歳の誕生パーティーに、ニーソンは参加しました。自信をもってプレゼントに選んだのが、カラオケマシーンです。iPodが当たり前のこの時代に、カラオケマシーン。ニーソンは古い人間なのです。娘は元の親の手前、カラオケマシーンを嬉しそうに受け取りますが、そこに新しい父親が登場して、プレゼントを贈ります。そのプレゼントとは、太っ腹にも馬を一頭。娘は大喜びです。
 映画が始まって五分。僕は泣きました。
 奥さんと娘か離れていって、虚しい人生を送るニーソン。仕事に生きてきた男が今、家庭に目覚めようとしているのに、目の前に突きつけられたのがカラオケマシーンと馬の格差であり、男の全てを否定されてしまう現実なんです。こんなに悲しい話があるでしょうか。
 その後、親友とパリに行きたいという娘の願いに、ニーソンは危険だからと反対しますが、結局認めてしまいます。そして嫌な予感は的中。パリに着いた二人は、人身売買組織に目をつけられ拉致されてしまうのです。娘をもつ身の僕は、「だから言わんこっちゃない」と暗然たる思いに駆られました。
 しかし、ここからニーソンは元CIA工作員の本領を発揮します。携帯電話を片手に、謎の一味が部屋に乱入してきたと、ありのまま今起こったことを話す娘に対して、冷静に状況を聞きだし、べッドの下に隠れて相手の特徴を伝えろと指示。すかさず通話も録音して、カラオケマシーンにこだわったのが嘘のような最先端のスキルです。さらに電話を聞いているであろう組織に向かって、「お前を捜し、必ず見つけ出す。そしてお前を殺す」と堂々の宣戦布告。そして単身フランスへ……。誘拐事件の被害者が無事でいられるという猶予時間・九六時間以内に娘を助けだそうとします。
 目的を遂行するために、ニーソンは全くもって容赦ありません。昔の仲間に真相を吐かせようとして、目の前でその妻を撃つ。取り調べをするのかと思ったら、いきなり銃撃戦を始めて死体の山を築く。拷問も殺人も全く躊躇しないその行動力に、圧倒されました。たとえば空港で娘に目をつけた男はニーソンに追われ、逃走中、あっさりと車に轢かれてしまいます。組織の中核にいるような悪党でもないし、死ななくてもいいのにと感じる一方で、僕はその光景を「何だかいいな」と思えました。そして気がつけば、どんどんやってしまえ、と感情移入している自分がいるのです。
 断っておきますが、僕は特別残酷でも異常な性格でもありません。日常生活で人を殴ったり傷つけたりするのはよろしくないという常識だってもちあわせています。そんな僕がというより『96時間』を観ている観客が、思わずイケイケの心境になってしまうのです。
 そのカラクリは始まってから五分、先述した馬のシーンに隠されています。これだけ娘のことを思っている父親なのに、その思いは全く報われない。おそらく家族に不義理をした過去があり、その償いのためにも娘を助け、自分自身を救おうとしている。これらを観せられた後だからこそ、この映画の中では「娘を助けるためなら何をしてもOK!」というルールが確立するのです。
 そうなると映画の中でどれだけ反社会的なことをしようが、法律を犯そうが、何をしても観客は許してしまいます。男泣きのロジックが見事に物語に昇華されている、素晴らしい脚本だと思いました。
 一般道を逆走するのも、本来は危険でいけない行為のはずなのに、逆走すればするほど娘への愛情が伝わって泣けてくる。逆走のシーンを観返すたび、僕は涙が流れて仕方ありません。
 やがてニーソンは僅かな手かかりをもとに娘の居場所と思しき場所を探しあてますが、娘の友達はそこでひどい扱いを受けていました。でも親からすればああいう友達が一番困る存在であって、友達が誘った旅行なんだから、因果応報でポロポロになるのは当然。このルールの中では、娘だけ生き残れば、友達はどうなってもいいのです。
『96時間』は親の愛情を爆発させるためにベストな設定であり、脚本が実にシンプル。そして疾走感を損なわないまま最後まで一気に観せて、しかも泣けるという、何拍子も揃ったおそろしい映画です。何回観ても泣けるので、僕は泣いて癒されたいときにいつも『96時間』を観ています。
 プロフェッショナリズムは、「男泣きサスペンス」には不可欠の要素です。
 というのも登場人物が間抜けだと、「そんな行動をしたらすぐつかまるじゃないか」と思ってしまい感精移入できないからです。ニーソンも、単なる愛情をもて余した父親ががむしゃらに敵に向かっていくだけだったら、ただ無死にしにいくように見えるだろうし、死ななければ「こんなスキがあるのに、何で平気なんだろうな?」と醒めてしまうでしょう。間抜けさにドキドキすることがあっても、これでは男の涙は流れません。
 それに対してプロフェッショナルの行動には、必ず理由があります。相手のアジトに踏みこむのも、危険な場所にただ身を晒しにいくのではなく、勝算があるから向かうのです。そこに観客が共感したうえで、プロフェッショナルは相手の一層上を行こうとする。それがさらに強いサスペンスを生んでいくのです。
『96時間』は、五分で泣かせる冒頭しかり、展開がとにかくスピーディーです。ストーリーをとにかくテキパキと、次! 次! とこなしていくため、ひとつひとつをじっくり見せないことに不満を覚える人もいるかもしれません。しかし、僕から言わせればそれこそがクールでカッコいい。上映時間も約九〇分と短めですし、時間を増やしてキャラクターや事件の背景を掘り下げたら、もう少し重厚な仕上がりになったことでしょう。でも、そんな演出は余計だと言わんばかりに、話をどんどん進めていく。そのスピード感が主人公の一途さにも思えて逆に泣けてきます。エンターテイメントアクションなのに実は奥深い『96時間』。もっと評価されてよい作品なのではないでしょうか。
 ところで『96時間』でニーソンが躊躇しないのには、「娘のため」という大義名分がありました。それに対して、デ・ニーロの一味が躊躇しないのにも理由があると僕は想像します。その理由とは「彼らはここにしかいられないから」です。
 かつてのデ・ニーロの刑務所仲間が、厨房で調理の仕事をしていたところ、犯罪に加担しないかとスカウトされるシーンがありました。そこでは完全に下っ端扱いの彼が、今にもクビにされそうな環境の中、差別されて虐げられている状況がありありと分かります。それはデ・ニーロの一味も同じで、これまでもこれからも世の中からはみでたところにしか居場所がないのでしょう。だから生きるためには、迷わずにやるしかない。そんな悲哀が何気ない描写を通して伝わってくるのです。
 このように『ヒート』には全編にわたって、男の悲哀が満ちています。デ・ニーロの命令を心の拠り所として生きているヴァル・キルマーも、やがて彼と離れたとき、どうするのかと思うだけでせつなくなります。
 敵対するパチーノも、また悲しい。家庭には再婚した妻と連れ子がいて、奥さんは浮気していて、関係があまりうまくいっていません。刑事の仕事を頑張れば頑張るほど奥さんの心は離れていくし、だからといって誇りある仕事の手を抜くわけにはいかない。妻の浮気現場に踏みこんで、浮気相手に「女房とやりたきゃやるがいい」「だが俺のテレビを見ることは許さん!」とテレビをひっくり返すシーンなんて、やるせなくて言葉もありません。プロフェッショナルゆえ、仕事と家庭を両立できない板ばさみが哀れをそそります。
 『ヒート』の一七一分という上映時間を長く感じる人もいるようですが、こうして一人一人のキャラクターを見ていくと全く飽きません。
 プロフェッショナル同士の戦いに、男の悲しさがからんで、『ヒート』はクライマックスへと向かっていきます。
 デ・ニーロは、「三〇秒フラットで高飛びできるよう――」「面倒な関わりをもつな」という哲学を実践する男で、仲間以外の人間とは距離を置いて生きてきました。それが恋をしたことで引退を決意し、彼女を連れて高飛びしようとする。しかしそこで裏切ったウエイングローが空港のホテルに身を潜めていることを知ってしまうのです。デ・ニーロを追うパチーノは、現在デ・ニーロの行方を見失っている。このまま逃げれば、彼女と新しい生活を始められるのです。
 そこでどうするかといえば、デ・ニーロは危険を顧みず、ウエイングローのもとへ向かいます。決着をつけるために。
 ここが最高にいいんです。
 ウエイングローのために死んでいった仲間がいる。たとえ自分が安全圏に逃げおおせたとしても、あいつかどこかで生きていたら、成功とはいえないし、幸せにはなれない。だから危険地帯だろうと、自分かどうなろうと、とにかく奴を始末しないとダメなんです。損得で行動するのではなく、自分の人生を肯定するために戦う。この男の性! 男の決着! 悲しくて、胸か熱くなります。
 『ヒート』はストーリーもさることなから、映像もとにかくカッコいい。現代アートの直線的なフォルムにあふれていて、全てか美術的です。暗視カメラがとらえたデ・ニーロが暗間に隠れるシーンなんて、実に惚れ惚れします。
 音響も素晴らしく、市街地の銃撃戦シーンを初めて観たときは「こんな音がするのか?」と驚きました。車のガラスかバンバン割れる音や、ビルの谷間にこだまする銃声にもしびれます。撮影には実弾を使うこともあったらしいので、監督からしてプロフェッショナルだったということです。
 プロフェッショナル、悲哀、そして決着。『ヒート』は男の意地と幸せを描いた最高傑作の「男泣きサスペンス」です。

「男泣き」とサスペンス。皆さんはあまり関係がなさそうに思われるかもしれませんが、実はこのふたつは絶妙にリンクしています。
 僕が「男泣き」にとって大事だと考える要素のひとつに、得だったり楽だったりする道を選ばずに、あえて茨の道を選ぶという行動があります。なぜそんなことをするのか、とも思うけれど、妥協すると男の生き方の根本が崩れていくので、彼らは譲れないのです。まずそこに僕は涙します。
 同時にその行動の先に、「きっと困難が待ち受けているだろう」という予感が付随する。そして、これがサスペンスの大きな軸として機能していくのです。結果、男泣きしながら胸はドキドキする、という映画体験が生まれます。
『ジャッカルの日』(一九七三・米)は、この醍醐味を味わわせてくれる古典的名作でした。謎に包まれた暗殺者・ジャッカルの標的が、フランスのド・ゴール大統領であることが判明し、全権を委任された警視がジャッカルを追う。ストーリーは直球のサスペンス映画です。しかし、ジャッカルはただ闇雲に逃げているわけではありません。追われていることを知りつつ、あえて標的に向かっていく。この見えない駆け引きがスリリングなんです。ジャッカルはスイスの国境を越え、標的のいるフランスに向かいます。しかし自分の正体はすでにバレていて、包囲網がもうすぐそこまで来ているかもしれない。そんな中、車を走らせていると、イタリア、フランスへの分かれ道が現れます。右に行くか、左に行くか。しばし悩んだ末、ジャッカルはやっぱりフランスに向かうんです。
 そこで別の道を進んでいれば、ジャッカルは助かる。けれど、行く。安易な道を選ばないのは、きっとそれが宿命だから。自分が歩んできた道からそれてしまったら、やがてたどりつくのはゴールと呼べる場所ではないし、宿命に決着をつけることができなくなる。こうと決めた道から下りなければ、命は儚く終わってもいいんです。

 ここまで紹介した映画の登場人物たちはその生き方ゆえ、現代社会から排除されかけています。でも、「時代遅れの変わった人の話」で済ませられる話ではなく、僕はそこに人間の根源的なものを感じるんです。こうした古い男への哀愁が僕に『スティール・ボール・ラン』のリンゴォを描かせました。
 この項では、この展開が悲しい、あの登場人物が悲しい、と書いてきました。そして『ヒート』『ジャッカルの日』『大脱走』などなど、その中には悲しい結末で終わる作品も少なくありません。
 しかし「男泣きサスペンス」の特徴は、観ている間は随所で悲しいなと感じても、観終わった後、なぜかいい気分になることです。第四章で取り上げる情事サスペンスの「観ているときは楽しいけれど、観終わった後、暗い気分になる」と対をなします。
 というのも、登場人物の命は悲しく儚く終わり、不幸な運命が描かれていたとしても、最後まで自分の信念を貫いているわけです。僕が『ジョジョ』第五部で描いたような「運命に抗おうとする意志」に通じるものがあるのかもしれません。自分の生き方を捨てたらダメなんだ、というメッセージに、観る者は希望を感じ、すがすがしい気持ちを覚えるのでしょう。
 登場人物の悲しみが翻って観客の幸せを呼ぶ。そこに「男泣きサスペンス」の本質があると思います。
 僕が考えるスピルバーグの最大の特性は、ひとつのシーン中に、同時に複数のアイディアを詰めこむことだと思います。
 たとえば、『ジュラシック・パーク』でこんなシーンがありました。ティラノサウルスによって落とされた車が途中の木に引っかかってしまい、車の中には少年が取り残され、木の下では子供嫌いの博士と少年の姉がそれを見上げている。博士が木を登って少年を車から救出しますが、その途中で怖くて下りられないと言いだす少年。すると車の重さに耐えられなくなった枝が折れ、車が博士と少年目がけて降ってくる……。
 ここで話の中心になっているのは、まず「少年と博士が車に押しつぶされないか」というサスペンスです。しかし同時に、子供嫌いだった博士が子供を助けようとする心の変化、そして下りることを恐れていた少年が勇気を出して男になる、という成長も描いているのです。
 つまりひとつのことだけを描かないのです。ひとつのサスペンスの中で、ふたつ三つのことを同時に描くということを、スピルバーグはやっているのだと思います。
『ジュラシック・パーク』には、恐竜の暴走を止めるという大筋の中に、生命を操作しようとする人間の欲望や、それを人間のうぬぼれとして批判するメッセージ、人が管理することができない自然の脅威、といった様々な要素がちりばめられています。これをストーリーの中にパズルのごとく絶妙に組みこんでくるのです。
 スピルバーグを見習って、僕も短編漫画を描くときは、いろいろな要素を同時に含めながら、話を展開させることを心がけています。そうするとページが少なく話がシンプルなのに、厚みが増してくる。これが最初にキャラクターを描いてからバトルなりトラブルなりに突入していく展開だと、必要以上にページ数が増えて、退屈な描写が生まれてしまいますから。
 また、昔のサスペンス映画では監督のこだわりなのか、妙にゆったりした、無駄とも思えるシーンが挿入されて、これも作品に緩さを与えていました。その点、『激突!』は話が凝縮されていて、余計な部分がありません。他の監督がまだサスペンス映画の作り方を試行錯誤していたはずの七〇年代に、どうしてこんなにきちんとできたんだろう、と今観ても不思議になります。
 特に昔はスピルバーグ映画に対して、「どうせ子供向けの映画だろ?」と偏見をもつ人が少なからずいました。そういう人に、僕はこの同時にいくつものことを描く見事さに気づいてほしいと思うのです。
 世の中には人間の内面を描いた、重厚なテーマの素晴らしい映画があります。しかしそういった作品は、題材さえ見つかればそれだけで撮れるような気もします。しかし、三つも四つもある要素を一緒の車に乗せて同時に描いていくのは、驚異的な離れ業です。改めて、おそるべしスピルバーグ。それだけのことができる監督だから、何本ものヒット作を生みだしてきたのでしょう。
 第二章で、このようなことを書きました。たとえ主人公が死ぬような悲しい結末でも、観終わった後、とてもいい気分になるのが男泣きサスペンスの特徴である、と。
 それと全く逆の感情を抱くのが、情事サスペンス、そしてラブストーリーです。観ているときは楽しいし、ハッピーエンドで終わることも多い。なのに観終わった後は、澱のようにイヤな感情が必ず胸に残るのです。
 たとえば、『卒業』 (一九六七・米)。忘れられない女性の結婚式に乱入し、花嫁を奪って逃げる主人公に、おめでとう!  二人に幸あれ! と祝福の心持ちになったはずなのに、エンドロールが流れるころには、「あの二人、別れるんだろうな。だって土壇場で新郎を裏切る女だし」とどこかで不幸の予感がしている。これは『卒業』に限らず、どんなに優れたラブストーリーでも同じです。
 おそらく男の生き方を貫くというのは個人の問題だから、その信念は未来永劫変わらないだろうと思えます。しかし、男女の関係は相手次第の部分が大きくて、将来はどうなっているか予測できません。その危うさが、観終わった後、不安を与えるのでしょうか。これは男泣きサスペンスと、情事サスペンスのどちらかよいかという問題ではなく、男の友情と男女の恋愛関係の質か違うのだと思います。
 ただし、映画が終わった後も余韻か残るエロチックサスペンスは、まだサスペンスが続いているということを暗示しているのかもしれません。
 僕なりの定義では、正義を貫いて悪を倒す者でも、社会から理解されていたらそれはヒーローではありません。世間は誰も目を向けないし、仲間に慕われることも、お金が儲かったりすることもない。常に孤独。それでも社会のために行動するのがヒーローなのです。
 誰からも認められないのになぜやるのかといえば、それが人間の根底にある価値観に基づいているからです。だから場合によっては法律を破ることも厭わない。この社会から「はみだした」感じが、イーストウッド映画の主人公には必ずといっていいほどついて回ります。たとえば『ファイヤーフォックス』 (一九八二・米) は、アメリカ軍から引退しかけて隠遁しているパイロット。『硫黄島からの手紙』 (二〇〇六・米) も周りからは親米家と見なされている日本軍の軍人。『グラン・トリノ』は家族と仲良くできない老人……。
 また、ヒーローは憧れの存在ではあるけれど、襲ってくる敵を何の苦もなく倒してしまうような、ぶっ飛びすぎてるキャラクターだと感情移入できません。どこかで本当にいるかもしれないなと思わせる、微妙な日常性が必要です。
 何せ、『タイタニック』。観る側は、タイタニック号が沈んだという歴史的事実を多かれ少なかれ知っています。だからその名前を聞いただけで、突然の悲劇、抗えぬ運命、航海するロマンなどのイメージがわいてきて、観る前からワクワクします。仮に失敗するとしても、とんでもないはずし方をしいそうで、それはそれで楽しみです。これぐらいの世界のみんなが知っていて、大きなスケール感の題材は、恐竜やら火星やら、その数は限られているのではないでしょうか。
 そしてこの映画でもっとも秀逸なのは、観ていて自分も実際に沈んでいく感覚に陥るところではないでしょうか。そこにもちこむため、監督のジェームズ・キャメロンは、ありとあらゆるテクニックを使っています。
 まず、おばあさんの語りで現代から過去に誘い、ディカプリオが乗りこむシーンを描いて、乗船した感覚を共有する。そして甲板の様子やパーティー・シーンなどを映し、臨場感を盛り上げます。さらに船室、船底の部屋、エンジンルームまでこまかく観せて、船内のどこに何があるのか観る者に船の全体像が把握できるようにします。さらに船首でディカプリオがケイト・ウィンスレットを支え、飛んでいるような気持ちにさせてくれるあの名シーン。それらがじっくりと描写されているうち、僕らはタイタニック号で実際に航海しているようなを気分になるのです。
 そして、これだけ丁寧に下準備を施されてからの、沈没です。船内に水が満ちていく映像も他人事とは思えません。この船室が水びたしで、あの通路はもう通れない、とあたかも現場にいるような絶望感を覚えます。
 こうして巧妙に作品の世界に導かれた結果、僕は映画を観ている時間と、タイタニックが実際に沈んでいく時間がリンクしている感覚になりました。自分もタイタニック号と同じ時間を共有して、一緒の運命を歩むようなスリルなのです。これ以上のサスペンスはありません。キャメロンは、この感覚を生みだそうとして、後半のスペクタクルやSFXに金と力を注ぎこんだのではないでしょうか。その狙い通り、まるで「タイタニック」というひとつのアトラクションに引きずりこまれた気持ちになりました。
 それにしてもキャメロンは、これまでのキャリアで傑作しか撮っていない気がします。『エイリアン2』(一九八六・米) からして、あの『エイリアン』 (一九七九・米) を違う角度で描いて、全く別の傑作にしてしまいました。相当な腕前だと思います。
 デクスターは子供のころから殺人に関心をもっていた、筋金入りの殺人鬼です。殺しを働くのは、食べたりセックスしたりするのと同じで、本能や宿命の一部であって、逃れられないものと考えています。つまり、普通の人間と逆転した哲学をもっている。ここで、さあ殺せやれ殺せというキャラクターだったら、共感もへったくれもありません。
 しかしデクスターは、社会になじまなくてはいけないと考え、どうやって生きていけばいいのか、悩んでもいます。そこの葛藤を語っているから、物語に矛盾が生まれないのです。
 結局、社会の中で折りあいをつけようとして、殺す人間は悪者限定という『必殺仕事人』のようなルールをデクスターは作ります。殺人鬼を続けるために、自分のルール、掟に生きる。こうして書いているうち、デクスターは吉良吉影に似た人格のような気がしてきました。
 特異なキャラクターをただ特異な存在で終わらせず、その哲学と葛藤にもふれることで、人間としてのリアリティをもたせる。その結果、デクスターは本当にどこかにいるんじゃないか? と思えて、ワクワクします。
 なぜ脱獄映画がなくならないかといえば、脱獄という設定だけで、どうやって逃げるのか、成功するのか失敗するのか、という強烈なサスペンスができあがるからでしょう。さらに閉じこめられた人間の感情は一体どんなものなのか、その人生や執念がからむことで、感情移入させられ、スリルが増していく。
 それにサスペンスを描きながら、罪や刑罰、人間の尊厳など、考えさせられる問題も、同時に扱うことになります。脱獄ものに名作が多いのも、頷ける話です。
 一方で、刑務所には異世界の魅力があります。知って良そうで知らないアンダーワールド。獄中でどういう生活が営まれているのか、覗き見したくなります。
 そういうわけで本書では、物語が「サスペンス」を目的に作られているかどうか、という視点から作品を選び、その魅力について述べました。
 これは僕が、自分の漫画作りに役立つと考える視点でもあります。
 もちろん、本書では論じなかった映画にも、「素晴らしい」と強く思う作品はあります。
 たとえば『スターウォーズ』や『ブレードランナー』、あるいは『アラビアのロレンス』や『地獄の黙示録』といった (他にも沢山ありますが)、誰もが認める超名作もそうです。
 でもこれらの作品は、サスペンスのテクニックがストーリーの基本にあるというよりは、世界観や美術、ムード、あるいは各エピソードやひとつひとつのシーン、個々のキャラクターがもつ強力なパワーが集まってひとつの映画に凝縮された、本当に特別で、奇跡のように完成された作品だと思うのです。こうした作品の作られ方は、サスペンスとは全く別なのだと思います。簡単にいえば、エピソードが積み重なって、あとから物語にサスペンスが生まれた、次元の違う作品というべきかもしれません。他方、「サスペンス映画」は、最初の企画のときから、目的が「サスペンスの魅力を用いて映画を撮るぞ!」というところにあるわけです。
 だから、次元の違う「奇跡」の作品に憧れ、その作り方を勉強しようとすると、思いもよらぬ創作の「落とし穴」に足を突っ込んでしまい、抜けだせなくなりかねません。なぜならこうした作品は、またとないタイミングに、天才の術《ワザ》だからこそなせた、作られたこと自体が奇跡ともいえる映画だからです。
 本書では、そういう作品にはあえて近づきませんでした。本書が目的にする映画とは、作られ方の「質」が違うからです。
 僕は、「人間」とは、家族や仲間、友人、恋人のことを何よりも大切にしている存在で、それこそが人生に目的を与えてくれるといってもよいと思っています。しかし、何かとても大切なことを決断するとき、あるいは病気になったとき、お腹が空いたりしたときには、結局のところ人間は「ひとりぼっち」なのです。
 そして「ひとりぼっち」は、まさにサスペンス映画やホラー映画で描かれる状況そのものです。「まえがき」にも書いたように、サスペンス映画やホラー映画は、その、寂しさに打ち震える恐怖を癒してくれます。そして、そうした恐怖をほんの少しでも癒してくれることこそ、先述した、映画を観ることで得られる「理屈抜きの楽しみ」であり、有意義な時間なのではないでしょうか。
「ひとりぼっち」でいることの恐怖に打ち震えるからこそ、人は、身近な付きあいから人類の共存共栄、平和まで、あらゆる人間関係を大切に考えます。
 そしてそこに、サスペンス映画やホラー映画が存在する哲学的な意味もあるのだと思います。それらはときに、人間に与えられた恵みにさえ感じます。

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