ブライアン・マクギネス『ウィトゲンシュタイン評伝』

第一章 家族的類似

〔…〕

 たぶん絵画と彫像の家である以上に、あるいは召使と富の家である以上に、アレーガッセ(と、この家族は自分たちの家を呼んでいた)は音楽の家であった。F・R・リーヴィスの記憶によれば、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、子どもの頃この家には七台のグランドピアノがあった、と語っていたという。ノイヴァルデッグにあったカールの別の家やホーホライトでの台数を勘定しなければ、三台ないし四台以上あったということを証明するのは難しいのだけれども、そのように強調したという事実は興味深い。ブルーノ・ワルターはウィーン社会をほとんど見ていないが、それでもウィトゲンシュタイン一族の音楽に対する本物の感性が彼をアレーガッセへ招き寄せたのである。ヘルミーネ・ウィトゲンシュタインの感じていたところでは、彼らはロマン派の音楽家たちだけでなく、古典後期の作曲家とも接触があったという。ヨアヒム弦楽四重奏団がこの家で演奏したが、メンデルスゾーンのもとで学んだこのヨアヒムもベートーヴェンを見知っていた音楽家の演奏をここで聴いている。カールの姉や妹も、すでに見たようににクララ・シューマンの教えを受けており、ブラームスもこの家族をよく知っていた。アレーガッセの絶頂期は、おそらく一八九二年の一夕、すでに一度だけ公開演奏されたクラリネット五重奏曲をブラームスが聴きたいと言っていると聞いて、カール・ウィトゲンシュタインがその私的演奏の機会を設けたときだったろう。ブラームスはそのあともしばしば尋ねてきたし、ヘルミーネとその母も後日彼の最後の病床を見舞っている。ブラームスの訪問は記憶すべき情景であった。娘たちが戸口で彼を出迎え、その手をとって階段を上り、彼が一人の娘の髪に注ぐシャン ペンが必要だと言えば一瓶持ってこられ、老音楽家が踊り場に一人座って音楽を静かに聴いている。画家だった伯父パウルはそのときの彼を一幅の絵に描いている。ブラームスはこの家に非常にうまく適応していた。英雄視されることは確かに嫌っていたが、しかし子どもたちが実際に『マイスタージンガー』を暗唱しているようなアレーガッセに〔単なる〕社交の精神を見たわけではないし、彼がウィトゲンシュタイン一家のもつ崇敬の気持ちに抗し難かったのは、その気持ちがかくも明らかに一家の深い音楽性に根差していたからであった。彼らは人間の種類を偉大な人間(娘の目にはカール自身がそうであった)と通常人とに分け、人格における発展とか矛盾とかを(他の場合でも見るであろうように)容認しなかった。偉大な人間のあらゆる特徴はその偉大さの一面であった。おそらくはそれに劣らず、ブラームスの気難しさも、当人自身むしろ誇りに思い、カールのおべっか嫌いと共通する所の多いものであったろう。「こんなのは屑籠行きだ!」という、自作の楽譜を見せたある作曲家に対するブラームスの評言は、二人ともよく使ったことであろう。だが、偉大さそのものは、彼らの特殊な歴史的状況に対応している。ブラームスはハイドン以来彼らのための音楽を本質的に構築してきた一時代の最後の代表者であった。彼の音楽は管弦楽的音色への効果には依存せず、家の中で聴いたり弾いたりできるような室内楽とか連弾のための編曲とかとして作られる構造音楽であった。そのうえ、彼の明るい側面と並んで、いつ吹き出すかわからない彼の悪魔的センスがあった。たとえばルートヴィヒはそれを四重奏の一つに聴いたのだが、第一次世界大戦中、前線からの休暇期間中聴くことに熱中したのは、こうした二面を持ったブラームスの音楽であった。ブラームスは、ウィトゲンシュタイン家の年長者たちと同じように、自分の本性の中のあまりにも真剣な要素、あるいはメランコリーの要素を補正してくれるような環境をウィーンの街に見出したドイツ人であった。そうした彼の要求はハンガリー音楽とシュトラウスのワルツに対する彼の憧れの中に見出される。しかし、とりわけブラームスが代表していたのは、受け継がれてきた諸形式に対する反抗なのではなくて、そうした諸形式の内部で、つまりルートヴィヒの言う地についた様式によってではあるが明らかに彼の時代に一段と即したやり方で、ベートーヴェンの直面した諸問題を解決しようとする試みなのであった。ウィトゲンシュタイン一家は音楽作品のあらゆる楽節の意義を演奏家の感覚で理解できたし、ブラームスが素晴らしいのは「それぞれの主題が表現さるべき情緒の状態にぴったりと適合している」からであった。
 アレーガッセは音楽的な家庭であった。ブラームスの訪問があり、若きカザルスや、ロゼ弦楽四重奏団や、ヨーゼフ・ラーボルによる演奏があった。ブラームスの好きだったバイオリニスト、マリー・ゾルダート = レーガーや、ピアニストのマリー・バウマイアー(二人ともクララ・ウィトゲンシュタインの女友達で、事実上その庇護を受けていた)もこの家では特権的な地位を占めていた。しかし、とくにオルガンとグランドピアノは家族専用であった。カールはどこででも自分のバイオリンを取りあげて、休日には妻とソナタを演奏し、ビジネス旅行のあいだには無伴奏組曲を弾いた。ある楽節が目に涙を浮かべさせると、それについて冗談をいうのが彼のやり方だった。しかし、音楽は最後の闘病生活のあいだ彼にとって必要欠くべからざるものだった。厳しい手術に直面せざるをえなくなったとき、彼はその直前の一夕を妻との音楽演奏に費やしたのである。
 レオポルディーネ・ウィトゲンシュタインにとっては、音楽はたぶん彼女の生活を潤す源泉であった。音楽は夫と子どもたちとの真の触れ合いの主要な手段であった──音楽と、おそらくは彼女が子どもたちとの真の触れ合いの手段であった──音楽と、おそらくは彼女が子どもたちに美しく話して聞かせた物語が。痩せぎすで率直で、一オクターブにも届かない手とペダルにも届かない脚を持ちながら、彼女はピアノでもオルガンでも、あらゆる肉体的ハンディキャップ、歳と共に加わるあらゆる調整の失敗を乗り越えた。知的な模倣、あるいはそのように見えるものもまた、音楽のことになれば消え失せてしまったから、娘の批評では複雑な音譜をたどるのが遅かった彼女でも、手の込んだ音楽作品を初見で演奏することができた。ゴルトマルクの弟子であり、ブルーノ・ワルターとの連弾演奏のよきパートナーであり、楽譜を視読し、移調し、見事に即興演奏できたのに、彼女は決して専門家でも大家でもなかったのである。彼女はオーケストラの譜面から演奏することができなかった。彼女の音楽は一九世紀の家庭音楽であった。あらゆる力点は楽想の表現におかれていて、ウィーン・フィルハーモニーのコンサート終了後、そのつどアレーガッセで行われた長い論評の際、最小の術語と教養ある明敏な同席者の語彙によって議論されたのは、まさにこの点であった。ポルディが妻として母としてその役割を最もよく発揮したのはピアノの傍らにおいてであって、彼女の担当部分は父親と息子たちが室内楽を演奏するとき双方を調和させることであり、歌唱を導く伴奏をすることであった。今やほとんどの人が彼女の演奏を覚えていない。それがコンサート・ピアニストになった息子の演奏よりも優れていたと考えた人もおり、音楽家になることを許されなかったもうひとりの天才音楽家よりも優れていたと言われている。とりわけ彼女の演奏は誇張とか、効果を目指す努力とか、音楽の論理の歪曲とかを避けるという点に特徴があった。その他の領域では、彼女は実際自分自身のしなくてはならないことに確信を持ってはいたが、他人の失敗を見とがめたり正したりすることには、おそらく奥手であっただろう。ただ、音楽については彼女は絶対の信念を持っていた。すなわち、どうして自分はこんな音楽白痴と一緒に演奏できようか、ピアノというものは叩きつけなくてはならないものなのか、というのである。この前者の評言は彼女の孫に対して言われ、あとのほうは彼女の息子について(息子の聞いていない所で)言われたことである。
第二章 幼少年期と学校時代

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 ルーキないし「ルー坊」と呼ばれていたルートヴィヒは、すべての兄姉──これまでは彼らの性向を見てきたわけであるが──の目には、守ってあげねばならない存在のように思われた。それは、兄姉たちと彼との年齢差のためばかりではない。というのは、パウルに対しては、誰もそうした態度で接しはしなかったからである。ルートヴィヒは気質の点でも、おそらく身体的な面でも、デリケートで繊細な子どもであった。一四歳まで、学校では体育を免除してもらわなければならなかったし、病歴としては、第一次世界大戦の苦難が始まる以前にすら、ちょっとした手術を何回か受け、何度か外科的処置を講じてもらったことなどが知られている(彼には両側性鼠蹊ヘルニアがあったようである)。この時期までの彼は、愛情を必要としていたし、実際に愛されもした。
 子ども時代についてのルートヴィヒ自身の発言は、単純に真に受けることができない。もちろん、発言時の彼の精神状態を示す徴候としてなら別である。発言の中には、明白な矛盾は何らない。自らの性格上の欠陥が不幸の原因となることもありうるのだから、最良の父・最良の姉たち・最良の環境に恵まれながら、なおかつ不幸であることも起こりうる。そしてルートヴィヒは、不幸の原因の解釈として、この可能性を退けるどころか、それを信じて疑わなかった。彼は、子ども時代のあらゆる事件と欲望の中に罪と過ちとを探し求める聖アウグスティヌスにも似たまなざしで、自らの子ども時代を振り返る。実際、彼がこの頃のことを語ったり書いたりするときには、しばしば洗いざらい告白するような状況においてであった。しかし他方で彼は、自ら伸ばした能力や、自分が身を置いていた知的道徳的文化に対しては、誇りを持っていた。この誇りは、フランスのある政治家の自己肯定にも似て、自分のアイデンティティに対する肯定だとも言える。ルートヴィヒが引用するところによれば、この政治家は、フランス語は考える順番に言葉が並んでいる唯一の言語だと言ったそうである。
 優れた精神的養育──「精神のよき育児室」──ルートヴィヒは自分の少年期をよくそう呼んでいた。この言葉は、彼が家で過ごした一四年間を(それだけではないが)指している。概して言えば、それは彼の家庭教師たちが優れていたという意味ではない。彼らの能力はまちまちであったし、何よりも彼らは誰からも監督されることがなかった。よほどの正直者でないかぎり、自分には怠惰でやる気のない子どもたちを矯導する能力がないなどと雇主に知らせる者は、いないであろう。ピアノですら、ルートヴィヒはまともな仕方では教えてもらえず、レッスンは中止されてしまった。この件は、若干腑に落ちない。というのは、この件を語っているのはパウルであり、彼はルートヴィヒの並はずれた楽才を力説しているのだが、その彼自身はピアノを弾けるようになったのだからである。ルートヴィヒは、のちに独力でクラリネットを習得したように、独習できる科目を好んだようである。また、音楽に関するかぎり、自分で演奏するよりも、他人の批評をしたり指揮をしたりする役割のほうが、彼の好みに合っていたらしい。ともかく、音楽に関しては、彼は家庭の音楽生活によるほかはなかった。すなわち、しばしば家族でコンサートに行くとか、家でコンサートを開くとか、あるいはメンデルスゾーンの合唱曲や二重唱、シューマンの三重唱、室内楽やソナタ──この二つは両親や兄たちがよくやった──などを家族の者が上演する、といった生活ーである。彼は大変正確かつ情感豊かに口笛を吹くことができたし、音楽の専門的知識を苦もなく習得した。家庭で外国語を身につけたのと同じように、それは彼にとってぞうさのないことであった。
 さて、家での教育は、主として読書と討論であった。特定の章節が解説され、暗記させられた。各人に適切だと思われる作品が選ばれた。文学を素材にして、いつも人生に関する討議がなされ、簡潔で飾らない文体が称揚された。あるとき、ルートヴィヒは友人に次のように語ったことがある。「君が何をしたかは、重要ではない。君が人を殺したという場合でさえそうだ。重要なのは、それについて君がどのように語ったのか、そもそもそれについて語ったのかどうか、ということだ」。これは、彼が文学作品の中で問題にしていた点でもある。彼はラッセルにトルストイの『ハジ・ムラート』を、姉の一人にはクライストの『ミヒャエル・コールハース』を薦めている。そこではいずれも、主人公は非運に対して超然としたストア派的な無頓着さを示すのではなく、アリストテレスにおける有徳の人間のように、辛いことでも自ら進んでなし、身に受けようとする。というのは、そうせざるをえないときには、それも自ら選んだよい生活ないし高貴な生活の一部を成すものだからである。「主人公の生活は破壊される」、しかしそれでも非運を通して高貴さが輝く。このことは、語られる出来事からわかるだけではなく、文体からも知らされるのである。実際、これらの人物がどのように運命を受容するのかは、文体からしか知りえない。ウィトゲンシュタイン自身の言い方を借りれば、それについては語りえず、示すことしかできないのである。
 これらの作品については、ルートヴィヒがそれらを第一次世界大戦前に読んでいたということしかわかっていない。少年期に彼がどのような作家と作品に触れるようになったのかということについては、手がかり程度のものしかない。ゲーテ、シラー、メーリケ、レッシングなどといった偉大な作家たちには、彼は終生傾倒していた。彼らは太陽のようだ、と彼は言っていた。それは、彼らが文化の中心に位置し、文化を規定している、という意味である。なかんずくゲーテは、西洋文化の諸問題を取り扱った。確かにベートーヴェンほどではないにせよ、それまで哲学者が扱ったことのない問題と取り組んだのである。もしかすると、ニーチェがそれと取り組んだと言えるかもしれない。しかし、ニーチェは哲学者というよりも、むしろ詩人であった(これもウィトゲンシュタインが言っているのであるが、悪い意味で言っているのではまったくない)。西洋文化に関するこうした発言は、一九三〇年代からなされ始めるのであるが、西洋文化は人類史の一局面でしかないというそこに見られる意識は、シュペングラーの考えに対する彼の尊敬と軌を一にしている。ルートヴィヒは、自らが体現している文化は過去の遺物だという考えに取りつかれていたわけではない。彼はそれをもっと単純に受容していた。すなわち、生の意味についての自分の理解を形成し、表現する際の媒介手段として受容していた。その好例が音楽である。彼とその家族にとって、音楽とは、ハイドンからブラームスまでのウィーンの音楽のことであった。彼にしてみれば、この音楽に変更を加える必要などなかった。だからたとえばベルクの作品などは、恥ずべき代物のように思われた。人生について考えるのに十分すぎるほどのものが、すでに古典音楽の中に含まれていたのである。それゆえ、音楽に対する彼の関わり方は、母国語に対するそれと等しかった。彼には、その外部に表現手段を探し求める必要がなかったのである。音楽に対する彼のこうした態度は、終生変わることがなかった。そしてある種のドイツ文化に対する関わり方も、成人するまで、また第一次世界大戦を通して彼の感受性に新しい局面が訪れるまでは、これと同様であった。学生として渡英したとき、彼は前述した主要な作家の作品を多数たずさえていった。それらは豪華本ではなかったが、しゃれた版であった。第一次世界大戦後、彼はそれらの本を売ってしまい、のちにイギリスでもっと廉価な版を古本で取り揃えた。明らかに彼が好んで用いた言い方をすれば内的および外的理由がこれに関与していた。
 彼は多読家であるよりも、精読家であった。彼は「自分に意味のあることを語っている」章句や詩に繰り返し立ち戻ろうとした。これはレコードで音楽を聴く場合も同様であって、彼は、そこにすべてがこめられていると思う移行部へ何度も針を置き直したものである。文学、さらには哲学に対する態度もこのようであって、それは友人エンゲルマンの報告に適切に述べられている。「ウン、そこまではわかった、それで次は?」などと言うのは、彼の反応の仕方ではない。彼は意味深長な表現の箇所で立ちどまり、自分での理解を深めようとするのである。それゆえ、当然の結果として、彼の覚え書きはゲーテやシラーの引用で埋まることとなる。
 他の作家たちとその作品も、のちに重要になってくる。ここでは、常に変わることなく彼の精神の彼の言う精神的「育児室」の構成要素となっていたものを取りあげょう。ルートヴィヒの目には、レッシングは倫理と美学とが不可分であることを示す実例と映った。この点で世界は別の方向へと動いてしまい、ルートヴィヒは、文化はすでにこれら二つのものの統一を喪失していると考えるようになった。彼の考えでは、この統一は、ある時代の最良かつ最強の人物が芸術へと向かう際には不可欠なのである。しかし、そう考える彼自身が、時代遅れの考え方をする前時代の生き残りであった。彼は、自分はシューマンの死と共に終わった世界の住人だと、しばしば口にしていた。シラーに対する賛美の中にも、どことなく時代遅れのところがある。理想主義、そしてシラーを引きつけた自由への情熱は、ナポレオン戦争以前の時代に特有の形式を取っていたからである。メーリケの長所は、言葉づかいの簡潔さと自然さとにあった。それは、表現が抑制されているというのとは多少異なる。むしろ感情が状況に、そして当然、言語が状況に正確に適合している、ということなのである。まさにこの性質を、ルートヴィヒはゴットフリート・ケラーの中にも見出した。(偶然わかったことであるが)ルートヴィヒは彼の作品もイギリスへたずさえていったし、またエンゲルマンの報告によれば、彼を深く崇敬していた。ケラーの語調は、感情の深さを考慮すれば、いささかも仰々しくはない。これは、ルートヴィヒが好んで友人に薦めた『チューリヒ短篇集』──「グライフェンゼーの代官」と「馬子にも衣装」──において明らかである。これらはいずれも、ルートヴィヒが簡明な警え話を愛好したことを示す好例である。しかし、『緑のハインリヒ』に出てくるハインリヒ・レーの形象も、ルートヴィヒ自身を彷彿させる。さらにそれは、青春期の背信行為に対する羞恥心という点でも、また、機会が提供されるたびにいつも自分は尻込みして逃げてきたという思い(ハインリヒの場合にはこれは正当化される)においても、ルートヴィヒの自己評価と一脈通ずるところがある。
 ルートヴィヒはゲーテのどのような点を賛美していたのか。それを語ることは、彼が人生のどのような点に素晴らしさと価値を認めていたのかを語るに、ほぼ等しい。だから彼の思想の中には、ゲーテに由来するテーマや立場が数多く出てくる。ゲーテを賛美していた点としては、たとえばアカデミックな学問に対する軽蔑とか、比較の斬新な基礎を求め、ニュートンのような権威にすら満足しない豊かで独創的な精神などがあげられる。さらに一般的な点をあげれば、登場人物の完全無欠な調和である。それはゲーテの書く一行一行にはっきりと刻印されていて、そのため「ここに人間がいる」と言う代わりに、「ここに文体がある」と言ってもよいほどであった。自らは官能主義者ではなかったが、ルートヴィヒは『ローマ悲歌』も軽視しはしなかった。おそらくそこに見られる解放感に引きつけられたのであろう。何よりもゲーテは啓蒙主義の子であり、混乱・変動の時代と人生とのさまざまな葛藤を自らの手で解決したのである。
 しかし、ルートヴィヒがもっと強い親近感を抱いていたのは、やはりオーストリアの作家だったようである。グリルパルツァーについて彼は、「どれほど彼が素晴らしいか、われわれはわかっていない」とは言っている。彼が魅力を感じたのは、グリルパルツァーの古典主義だったらしいということは、彼がゲーテの『イフィゲーニェ』をラッセルに薦めたことからもわかる。さらに、『主君の忠実なしもべ』(これは彼がとりわけ気に入っていた戯曲である)の主題も、彼の心に訴えるところがあった。そこでテーマになっている忠実なしもべは、最悪の不幸は自ら悪事を犯すことだと考えて、どんな侮辱をも耐え忍ぼうとするのである。これは、法に認められた権威に対するルートヴィヒ自身の態度と正確に符合する。グリルパルツァーの戯曲はすべて、アレーガッセでよく知られていた。その中には、ハプスブルク家の高潔な雅量を述べているものもあれば、オーストリアの独特な道徳的役割に関する考えを述べたものもある。その役割とは、諸民族を統治するというより、ドイツ文化に適切ではっきりした真の道徳性を与えるという役割である。これと関連してエンゲルマンは、理性感情、頭心ということを言っているし、グリルパルツァー自身は、オーストリアを児童期にあるイタリアと円熟のドイツとの中間にいる青年として論じている。

子どものイタリアと成人のドイツのまん中に
お前はいる、紅顔の若者よ。

グリルパルツァーが言うには、ライン地方やザクセンには、本を読んで多くのことを知っている人々がいるであろうが、肝心の事柄については、オーストリア人のほうがずっと先を行っているのである。オーストリア人は、神に最も喜ばれるもの、つまり澄んだ目と偽りのない真実の心とを持っている。オーストリア人はすべてのことに自分なりの考えを持ち、他の人々には語りたいことを語らせるのである。
 風刺詩や覚え書きになると、グリルパルツァーはドイツの国民精神に対して一層批判的になる。その理由は、一つには、それらの多くが一八四八年の野蛮の勝利(彼はそう考えていた)後に書かれたからである。政治・文学・思想のいずれの点でも、ドイツの特徴となっていたのは、うぬぼれ、抽象性、そして仰々しさであった。こうした特徴の多くに責任があったのはヘーゲルであり、彼の風刺詩も多くは──あるときは腹立たしげに、またあるときは的を得て──ヘーゲルに向けられていた。彼はダーフィト・フリードリヒ・シュトラウスとの関連で「ヘーゲルを信じるくらいなら、むしろその十倍の奇跡を信じたほうがましだ」とか、「ヘーゲルの体系にも優れたところがある。世界そのものと同じくらい理解不能だ、というのがそれだ」などと語っていた。これに対して、オーストリア文学の特徴となっていたのは、慎みであり、良識であり、純粋な感情であった。グリルパルツァーによれば、喜劇詩人ライムントは、芸術の課題が理念の提示にではなく、理念に命を与えるところにあることをドイツ人に示す好例である。ナショナリズム・発進・進歩等に対するクリルパルファーのこうした反対のうちに反映しているのは、たいていの場合明らかに,ハプスブルク帝国を分割せんとする諸勢力に対するオーストリア人の怖れであった。しかし同時に彼は、ドイツ本国では今や無視されているワイマール古典主義の真の継承者をもって任じていた。彼がより所としてカントに訴えるのも、同じ精神からである。こうした感情は、何もオーストリア人だけものものではない。ショーペンハウアーもニーチェも、それを共有していた。この二人、そしてライムント、ネストロイ、さらにグリルパルツァー自身(すべてルートヴィヒが賛美していた著作家である)は、ドイツ文化の中の主流ではないにせよ、一つの流れを示している。グリルパルツァーは、この流れに属しているという自覚を持っており、またこの流れの中にいたからこそ、一八四八年以前の時代に郷愁を抱きもしたのである。オーストリアにおける古典主義の典型的な生き残りとしては、さらにシュティフターもあげられるが、ルートヴィヒは彼のことがとりわけ気に入っていたというわけではない。たぶんそれは、彼の過度の単純性が不自然に思われたからであろう。彼の欠点は、エンゲルマン言うところの「人為的な平凡さ」、すなわち悪い意味での「単純性」である。ルートヴィヒに感銘を与えたもう一人のオーストリア人作家、レーナウは、さらに別の系統を代表する。彼のファウストは、ゲーテのファウストに対峙する力トリック的ファウストであって、それはちょうどブルックナーの第九交響曲がベートーヴェンのそれに対峙しているのに似ている、とルートヴィヒには思われた。二つの対立項のうち、ルートヴィヒは啓蒙主義の人間のほうを一層賛美していたが、しかしカトリックの側にも共感を覚えていた。レーナウのファウストは、絶望がどんなものかを、また人間がどれほど無力であるかを示した。ルートヴィヒは、こちらのファウストと自分自身とを、そしてこのファウストの孤独感を自らのそれと重ね合わせて見ていた。
 ルートヴィヒがこれらの作家をなぜ熟知していたのかは、特別な説明を要しない。彼らは彼にとって文化的伝統の一部であり、彼は父親の書庫の中で彼らの作品に取り囲まれて育ったからである。彼の独特な好みは、姉グレートルの影響下で形成されたようである。兄のルーディ、そしてルーディの友人にして情熱的な俳優でもあったツィトコフスキー兄弟と並んで、グレートルはウィトゲンシュタイン家の文化的刺激剤となっていた。家庭内で古典劇が上演されたが、それはおじやおばにも気に入られた。そしてルートヴィヒがモリエールやシェイクスピアを初めて知るようになったのも、そこにおいてである。彼にとって、モリエールは常に道徳の教師であったが、シェイクスピアは、彼の考えでは、西洋文化における独特な人物で、道徳の教師ではなく自然や風景のようなものであった。彼は詩人というよりむしろ創造者であった。もちろんルートヴィヒは、グリルパルツァーの家庭内での上演にもしばしば臨席した。『祖先の女』の中の、はからずも近親相姦を犯すベルタの役をグレートルが演じたが、これはとりわけ人々の記憶に残った。尊敬をかちえていたこれらの作家と並んで、現代的な作家や思想家も、家庭内の若い者たちには愛好された。グレートルが弁をふるってそれらの人々を擁護した。おばのクララはそれを分別と理性をもって受け容れたものの、他の年輩の家族成員たちはそれを押しつけがましいと感じた(自分たちの好みに合わない主張があからさまに擁護されるときには、よく見られる反応である)。ルートヴィヒが現代文学に興味を示すようなそぶりを見せたことは、ほとんどなかった。ホーフマンスタールは遠い親戚にあたり、当時の文化的衰退からの逃避としてバロックへの回帰を構想していた。そこにはどこか人を引きつけるところがあったが、ともかくルートヴィヒは、次のような彼の言葉を好んで引用した。

恥ずかしくない振舞いをせよ
いつか、どこか、何らかの形で、それは報いられる。

しかし総じて言えば、ルートヴィヒは「若きウィーン派」のことをよく知らなかったし、一九一四年に芸術家のための寄金をしたときも、フィッカーの選んだ作家たちの名をほとんど知らなかった。しばしば比較の対象とされるムージルも、彼はおそらく読んだことがない。少なくとも一九〇六年以前に読んだことがないのは、間違いない。基本的には現代文学はこのように軽視されていたが、そこにも例外があり、彼はカール・クラウスを尊敬していた。一九三〇年代に彼は、自分の思想に影響を与えた主要な人物の一人としてクラウスの名をあげ、影響を受けた人の名をボルツマン、ヘルツ、ラッセル、クラウス、ロース、ヴァイニンガー、シュペングラー、スラッファという順番で列挙している。おそらくこれは、影響を受けた時代順であろうが、彼はクラウスを思春期の頃から知っていたようにも思われる。『破壊された文学』、『道徳と犯罪』等の小冊子は、初版本が家の書庫にあったし、姉のグレートルは(そしておそらく家の他の者も)自分の父親を激しく攻撃している雑誌であるにもかかわらず、『ファッケル』を全巻揃えていた。彼がクラウスのどんな点を好ましく思っていたかは、まったく明瞭である。それは、またもや、文体人物なのである。風刺、道徳的に卑しい態度の摘発、冷笑などが、文学的というよりむしろ倫理的と言うべき言語使用と言語批判によって表現される。ルートヴィヒは、相手の言葉をひとまずそのままに受けとめ、たった一つの無分別な文からその者の道徳的性格全体を読み取るというクラウスの習性を終生持ち続けた。さらに、クラウスが尊敬し、読者を親しませようとした作家たちは、まさにドイツ文学の中の前述した流れに属する人々であった。ルートヴィヒが『論理哲学論考』のモットーを取った文芸欄作家キュールンベルガーは、その一例である。おそらく彼は、ルートヴィヒに影響を与えたというより、趣味が一致した人物だったのであろう。実際、かのモットーが載っている『文学的情事』も、家の書庫にあった。もう一人の例はリヒテンベルクであり、彼の『選集』の一九世紀初めに出された版が揃えられていた。ウィトゲンシュタイン家は、信頼のおける校訂版よりも、出版されてまもない美しい装丁の版を所有する傾向があったからである。ルートヴィヒはフォン・ウリクトに、リヒテンベルクは「すごい」と語り、また第一次世界大戦のずっと前に、ラッセルのためにリヒテンベルクの古本を捜してやった。言語の誤用ないし誤解に起因する、あるいはそれらのうちに現れている過誤と過失というテーマが、リヒテンベルクにおいても顕著に認められる。のちにルートヴィヒ自身のやり方ともなるアフォリズム的な書き方も、同様である。体系を信用せず、「瞬間の閃き」に信をおく者にとっては、また、問題は言語の不適切な使用から生じ、正しい言いまわしを見つけてやることによって解決できると考える者にとっては、アフォリズムは自然な方法であった。それゆえルートブィヒは「救済の言葉」を、すなわち解決を与えてくれるキーワードを、自分を解放してくれる力ある言葉を、切望するのである。エンゲルマンに宛てた手紙の中で、彼は次のように言っている。

きらめく才気が究極の善でないことはわかっている。それでも今の私は、精神がきらめく瞬間に死ぬことができれば、と思う。

リヒテンベルクの思想は、疑いもなくルートヴィヒにとって重要であったし、それゆえ吟味されねばならない。それに対して、クラウスの思想は彼にもっと間接的な仕方で影客を及ぼした。というのは、彼はクラウスに思想があったことなどほとんど認めていなかったからである。彼は次のように述べている。「干しぶどうはケーキの最上の部分ではあろう。しかし干しぶどうが一袋あるからといって、一個のケーキよりも優れているわけではない。私は、クラウスと彼のアフォリズムのことを考えているのだ。と同時に、私自身と私の哲学的な発言のことも考えているのである」。ルートヴィヒ自身は、自らの発言を手直しするのに膨大な時間をかけねばならなかった。しかし、後期になされた上述の言葉通り、彼はいつも干しぶどうとしてクラウスを読み、かなり残酷な冗談に腹の底から笑った。ある人物に対する賛辞に、次のような一節があった。「彼は鉄と鋼の男である」。クラウスはこれを次のように修正した。「彼は鉄の男であり、盗みを働いた」。
 現代の思想家について言えば、自殺する頃にルーディが学んでいたのは自然科学であり、グレートルも心理学に向かう前には化学と数学を勉強していた。そのほかに、哲学やそれに類するものを読むことも、一般的教養の一部を成していた。ルーディが持っていたエミール・デュ・ボア・レイモンの『世界の謎』は、グレートルの本棚に残されていたが、形而上学の問題を科学によって解こうとしたり、科学によって解決済みと見ようとするレイモンの企てに対して、ルートヴィヒは否定的な態度しか取らなかったようである。のちに彼は『論考』の中で、「謎は存在しない」と述べるに至る。科学は説明を含まないし、われわれの問題に触れさえしない。彼は説明の機能を科学に認めなかった。その点で彼は、彼が若かった頃に人々の崇拝を集め、そしてもちろん彼自身もよく知っていたマッハの立場に近づくことになる。しかし彼は、ラッセル宛の手紙で、マッハの文体にはむかつくと述べた。この発言の底には、重要な意味がこめられている。というのは、またもやここでも、文体は思想を反映し、思想の弱点を共有しているからである。マッハの著作では、事例が積み重ねられるものの、中心テーマが見られず、組織化もなされていない。これは、現象は皆同等であるという考え、そして、科学は経済的な思考形式であって、ひとえに諸現象の反復に基づき、われわれを駆って進化的に歩ませるという考え、また、自我さえもろもろの印象の特殊な結合にすぎないという考えに対応しているのである。マッハの書いたものの中には個性が見られず、風刺のきいた寸言もなければ、印象深い比喩もない。それは、彼が自分を哲学者とは考えていなかったからである。自分の役割はまったく自覚しないまま、彼は自らの時代の科学を固定的に保持しようとしていた。彼の業績は印象深く、影響力もあった。しかし、自らの由ってきたる過去の歴史への最良の案内人ともならなければ、独創的な思想家にとって最善の助けとなるわけでもなかった。ルートヴィヒは、ヘルツとボルツマンからはもっと多くのことを学んだ。彼はこの両者のうちに、科学はしばしば最も大胆で自由な精神が生み出した像ないしモデルであるという考えを見出した。のちに彼は、いろいろ異なる基本的仮説──これを彼はネットワークと呼んだ──も等しく世界にあてはまるというボルツマンの考えを用いるようになるし、これら二人の着想を利用して、科学のみならず言語に関するもっと一般的な説明を展開するに至る。彼はヘルツの次の文を好んで引用した。「哲学の全課題は、われわれを不安にするもの(つまり問題)が消え失せるような表現を見出すことである」。彼が学校を卒業する前にボルツマンを知っていたのは、間違いない。というのは、ボルツマンのもとで勉強するつもりであったが、一九〇六年に彼が自殺したため、だめになってしまったという話が(あまり確かな話とは思われないが)残っているからである。ボルツマンの『通俗著作集』は一九○五年に出版され(もちろん個々の著作の多くはそれ以前に入手できた)、シラーの霊にささげられている。ボルツマン自身の考えでは、彼の人となりを形成したのは、まさにシラーであり、ベートーヴェンがそれに次ぐのである。音楽・文学・哲学のこうした融合は、ルートヴィヒ自身の思考習慣と完全に軌を一にする。彼は大学に入る前にヘルツを知っていたらしい。ただしこれは、自分が影響を受けた人物としてヘルツの名を真っ先にあげていること、そしてヘルツとマクスウェルはアレーガッセでよく読まれていた著作家であったこと、この二つに基づく推測である。
 これらの科学者は別にして、彼が最初に読んだ哲学者は、ショーペンハウアーであったらしい。フォン・ウリクトの報告に従えば、ルートヴィヒは、フレーゲの著作によって方向転換するまでは、自分の最初の哲学はショーペンハウアー式の観念論的認識論だったと語っていた。確かに、のちの彼は『意志と表象としての世界』を知っていたし、『処世術箴言』からの引用を好んだ。実際、このあとのほうの本から彼はしばしば、そのモットーにもなっているゲーテのエピグラムを孫引きした。アンスコム女史は、彼が『充足理由の原理の四つの根基について』をも読み、それを利用していたと述べている。しかし、ルートヴィヒは学者の美徳(見方を変えれば欠点)を持っていなかった。つまり、まだ曖昧で原初的な形しか取っていないものを何でもかんでも読んでしまいたいなどとは思わなかった。それゆえ、もしこの書に独自な価値があったなら、そして彼がショーペンハウアーの諸著作から特別な感銘を受けていたのなら、彼はこの書に向かったかもしれない。しかし、このいずれの条件も満たされていなかったように思われる。第一の条件については、読者の中でドイツでの論争に興味のある人は、自ら判断すべきであろう。第二の条件について言えば、ショーペンハウアーに関して、のちのルートヴィヒは通例留保をつけていた。「ショーペンハウアーは明解で、底まで見通せるが、バークリは奥深い」(比較のためになぜバークリが出てくるのかと驚かざるをえないが、彼らしい選択ではある)と彼は友人のドルーリに言った。同様に次のようにも書いている。「本当の深みが始まるところで、ショーペンハウアーは終わっている」。彼は自らの著作の中でショーペンハウアーの考え方に厳密な解釈をほどこすようになるが、それについてはのちに触れたい。ともかく、およそ青年にとって、そしてとくにルートヴィヒにとって、ショーペンハウアーの魅力と映った点は明瞭である。時折大仰な表現が見られるものの、エレガントな書き方、ルートヴィヒの好きな言葉の引用が随所にちりばめられていること、哲学教授たちの学者ぶった哲学からほど遠く、それに対する軽蔑で満ち満ちていること、一行一行がおのれ自身の独創的な言葉で書かれていること、誇り高く孤独な精神の力強い表現、一方では世界に対する清澄な展望に、また認識対象としての世界の可塑性に心を奪われつつも、他方では世界と自らのうちに働いている暗い無機的な力に畏れおののく心。こうした孤独、恍惚とした心、ものに憑かれたかのような熱中、それはルートヴィヒのものでもあった。彼も手紙の中でしばしば自らの「悪しき諸霊」について語り、そしてショーペンハウアーと同じく、芸術が、とくに音楽がそれらの諸力を具体的に表し、それらを一層よく理解させてくれるのだと、また、人生の安寧のためには、何らかの形で意志を捨て去り否認することがそれらの諸力から解放される唯一の道なのだ、と考えていた。
 ヴァイニンガーの『性と性格』が公刊されたのは一九〇三年であり、ルートヴィヒが彼に引かれたのは、同じような問題をかかえ、生の態度の点で類似したところがあったからである。一九〇六年に死後出版され、もっと抑制のきいた著作、『究極的なことについて』の中に、ルートヴィヒとの相似を探すことは魅惑的な試みであろう。その中でヴァイニンガーは、たとえば次のように言っている。「真実で永遠の問題は、同様に真実で永遠の罪である。すべての答えは贖いであり、すべての認識は改心である」。しかし、最初に主要な衝撃をルートヴィヒに与えたのは、そしてのちに彼が友人たちと論じ合ったのは、『性と性格』のほうであり、そこに表明されている立場である。ショーペンハウアーの場合と同じく、ここにも学問的な観点から論ずべき事柄がある。すなわち、要素論はヴァイニンガーがマッハおよびアヴェナリウスから受け継いだものであるし、論理と倫理を同一平面に置くのは『論考』の中に反映している。しかし、重要なのはむしろ個人的な側面である。性格についてのヴァイニンガーの思想は往々にして浅薄に流れるものの、その淵源は、自らの生の倫理的な問題に寄せる深い関心にあった。のちにルートヴィヒが、彼の本は提起している問題のゆえに重要なのだと言った理由が、ここからわかる。彼によれば、ヴァイニンガーの答えをすべて否定してしまうこともできるが、それでも彼の本は熟考に値するのである。ヴァイニンガーは、人間の性格のうちに二つの倫理的な極を見る。一つは積極的・創造的な極で、現実と真理に関わる。他方は消極的・非道徳的な極で、客観的な真理や善にではなく、衝動、とりわけ性的なものと関わりを持つ。ヴァイニンガーが一方の極ないし類型を男性に、他方を女性にあてはめて考えたということは、この書の最も顕著な特徴ではあるが、重要な点ではない。彼がすべての人間を、「男+男+男+女」とか「男+女+女+女」などのように、男性と女性の混合と考えたこと、また、この混合の原因は細胞の構造にあると考えたこと、さらには、感情生活を性に還元するという点でフロイトの先駆をなす、あるいはよく言われるようにフロイトを剽窃しているということ、これらについても同様である。この書の主要なメッセージは、こうした突飛な主張、およびそれにつきまとう馬鹿馬鹿しさにあるのではない。この書の価値は、真・善・美および賛嘆に値するすべてのものを含む道徳的理想を見きわめ、それを表現し、しかも同時に、この理想に真っ向から対立する諸原理が人間本性の中に、ときにはまさしくわれわれが尊重しているものの中に存在するのを見ていた、というところにある。のちのアフォリズムの中で、ヴァイニンガーは自分の理想を次のように表現した。

あらゆる道徳性の最高の表現はこれだ。「生きよ!」
人はあらゆる瞬間に自らの個性の全体が見られるように行為せよ。

背理的ではあるが、まさにこうした表現に反抗するような要素が人間のうちにはある。ヴァイニンガーの考えでは、確かにそれらは魂の構造にも反した要素で、自我に属するわけではなく、だからこそ原罪だの悪魔などといった観念がそれらの要素を表示するために持ち出されたのである。ともかく、そうした要素は実在する。ヴァイニンガーの第二の功績は、学問的な観点からではなく倫理的な観点から、それらの克服が不可能に近いこと、それどころか、彼が天才と呼ぶような人物の英雄的行為を除けば、時間のうちに生きる人間がそれらを克服するのは事実上不可能なことを指摘した点にあった。自殺に対する考え方でも、ヴァイニンガーはルートヴィヒにとって重要な意味を持っていた。自殺は、自分が最後的に邪悪になってしまったと感じたときにおもむく、立派な男の退場門である。ヴァイニンガーはそう言った。そして彼の行為は、それとはほんの少しばかり違っていた。というのは、本が出版された直後に彼は自殺したが、その理由は、自らに課した道徳的要請は自分の持って生まれた遺伝形式をもってしては満たしえないから、というものであった。
 ときとしてヴァイニンガーは、その心理学理論は馬鹿げているが、彼自身の生の問題をなまなましく提示したということで、擁護されることがある。こうした賛辞は不十分である。ヴァイニンガーは、心理学の教科書に載っているような症例などではない。すべての独創的な著作家と同様、彼が一定の成功を収めえたのは、

私個人のではなく、人間一般の
悲しみ……

を表現したからである。とはいえ現実には、実直な人の多くは、ヴァイニンガーの言うような罪責感や無力感を何ら感ずることなく、むしろ排斥しさえする。それは彼らが宗教に触れたことがないためなのか、それとも宗教へと至るとしても別の理由でそうするからなのかは、問題ではない。ある場合にはたぶんヴァイニンガーの場合がこれにあたる──罪責感や無力感はまったくと言ってよいほど悪い影響しか及はぼさないように思える。またある場合にはたぶんルートヴィヒの場合がこれにあたる──友人や親戚の者は、見たところ立派な生活を送っている者がなぜ良心の呵責に苦しむのかを必死に理解しようとし、その者がただちに何かよい仕事に従事するわけでもなく、自らの欠陥に思いをこらすことに対して苛立ちを覚えさえする。だからといって、彼らの本性が劣っているわけではない。単純な人々も能力に応じて、ただちに事態にかなった正しい認識と振舞いに至ることもある。彼らは、誰しもが持っている人間的限界の内部で、無価値感や挫折感に打ちのめされることもなく、必ずしも単なる因襲的あるいは功利的な道徳判断ではなく、真の道徳判断に到達することがある。しかし、思想家──それも知識人とか科学者ということでは必ずしもなく、人生一般について、そして自己自身の生について思案をめぐらし、それらを理解せねばならないと思っている人の取る道は、これとは違ったものであらざるをえない。それは本質からして一層優れた道というのでもなければ、幸福と呼ばれるにはほど遠い道でもあるが、人間生活の重要な一部である。というのは、この道は、単純な人々の生において働いている諸力に関しても何事かを示してくれるからである。だからこそ、安逸な生活をしている人々もアウグスティヌスやトルストイを読むのである。この二人のたどった道は、ヴァイニンガーとルートヴィヒの道でもあった。
 ヴァイニンガーは卑しい境遇に生まれ、父親にいつも称賛され、容姿の点ではあまり見栄えがせず、明らかに狂気と紙一重であった。しかしそのような彼とルートヴィヒとのあいだに、二つの重要な共通点がある。まず第一に、ヴァイニンガーはユダヤ人であった。彼はその事実に悩んだ。彼は(彼の理論で言うところの)女性的・消極的なものをすべてユダヤ的なものと同一視した。それは何をもってしても拭えない恥であり、彼が嫌悪した性的なものと同じく、彼が自殺によって逃れようとした性格のあの根源的劣等性を成していた。生活と思想のうえに押されているユダヤ的刻印というテーマは、ルートヴィヒの後のメモにも頻繁に出てくる。もっとも、ルートヴィヒはそれを道徳的限界としてより、むしろ知的限界として見ているという違いはある。もっと実践的な面で、すでに子どもの頃からルートヴィヒの頭を占めていた事柄があった。それは、社会的な理由から、同時にまさに道徳的な理由から、オーストリアにおけるあらゆる階層のユダヤ人社会と絶縁することである。のちにわれわれは、彼がそのためにどれほどの呵責に苦しんだかを見るであろう。また、それによって、絶縁への欲求がどれほど激しいものであったのかも知るであろう。ユダヤ人であるというこの強迫観念よりも一層重要なこととしては、二人とも人間の性格を逃れえないものとして重視していたということがあげられる。「性格は人間にとってダイモーンである」。ヘラクレイトスのこの言葉を彼らは、そしてゲーテは、そのように解釈した。これは、ルートヴィヒにとってのヴァイニンガーの魅力を理解する際に重要になってくるヴァイニンガーの第二の特徴と関わりがある。外的というより、明らかに内的な理由から、ヴァイニンガーも孤独な青春を過ごした。彼は内省的というより、(知的な意味で)自己中心的、いな独我論的にすらなっていった。すなわち彼には、世界全体を自分の視点と関連するものとして見る傾向があった。彼は世界全体を映すミクロコスモスであった。それゆえ(おそらく最も重要な帰結として)彼はこの世にあるかぎりのすべての悪をおのれの罪と感じたのである。
 ヴァイニンガーは、性に関して特別な罪悪感を抱いていた。いくつかの報告によれば、それは非常に強かった。ユダヤ人であったことと並んで、同性愛者であったために、彼は自らを最も女性的な男と考えたからである。しかし、ルートヴィヒがこの罪悪感を抱いていたことを示す徴候は、ほとんどない。性への関心は青年期につきものである。ややのちの時期、第一次世界大戦の頃からの日記が残されていて、その中で彼は、しばしば「肉欲」を覚えると書いているが、それに罪悪感を感じている様子は見られない。彼によれば、それは、気を散らせるが憤慨しても仕方のない生の単なる事実であった。彼の考えでは、性関係の危険性はそれ自体のうちにあるのではない。むしろ彼にとっても大部分の人間にとっても、危険なのは、それがこそこそと陰湿に営まれること、あるいは相手や第三者に対する嫉妬やさもしい心をもって営まれることであった。
 ルートヴィヒが一八歳までに親しんでいた文学と思想を論じた際、われわれは宗教用語を用いて語りたいほどであった。明らかにある意味では、それらの著作家たちが取り組んだ問題は宗教的な問題なのであって、われわれは本書全体を通じて常に、その「ある意味」とはどんな意味であるかを明らかにしたいと思う。ルートヴィヒは、正式な宗教教育を受けた。のちに司教となり、それゆえウィーン社会ではかなり高い尊敬を受けていたと思われる一人の司祭が雇われて、宗教教育を授けたのである。しかし(友人のアルフィト・シェグレンに語ったように)ルートヴィヒは姉グレートルと会話を交わすうちに、子どもらしい信仰を失ってしまった。当時の彼女は、知的にややませた少女で、伝統・外面的形式その他欺瞞的なものはすべて排撃しようとする強い傾向を特っていた。ずっとのちに、ルートヴィヒにはキリスト教信仰が欠けているというフォン・ウリクトの発言に反論して、彼女は「私の祖父とその多くの娘・息子たちの厳格で強い、そして若干禁欲的でもあるキリスト教」の影響を指摘し、ルートヴィヒについては「私の見るところでは、彼はまぎれもなくキリスト教徒だった」と述べた。晩年には、彼女と二人の姉は、ある力強い霊的な指導者の感化を受けて、以前よりずっと自分たちの教会に近づいていった。しかし、アレーガッセから教会に通うことはほとんどなかったし、(彼女が示唆しているように)宗教的に最も強い影響を及ぼしたのは祖父とおじ・おばたちであって、この人たちは教籍上もカトリック教徒ではなかった。ルートヴィヒは、終生、公式の宗教とは距離を置いていた。彼が言うには、頭を下げるのが困難だったのである。のちに触れるが、第一次世界大戦中には彼は神に祈ったし、熱心にキリスト教関係の本を読んだ。しかしラッセルの言によれば、これは著しい変わりようであった。戦前のルートヴィヒは宗教を敵視していたという印象を、ラッセルは持っていたからである。変化を認めたという点で、確かにラッセルは正しい。しかし、ルートヴィヒの内面を垣間見せてくれるものを遡れるかぎりで調べてみると、彼は罪と罪責、そしてよい霊と悪い霊について思索をめぐらしていた。宗教組織の大部分や終末論は、彼には道徳的現実の自然な表現であるように思われた。
 われわれの知るかぎり、ルートヴィヒの受けた精神的養育、すなわち彼が知るようになり、尊敬するようにもなった、そしてたいていの場合、終生彼を支え続けた音楽・書物・思想家は、以上のようなものであった。児童期・思春期については、彼自身最も肯定的に語っているにもかかわらず、われわれはこの時期にも陰鬱な色合いを認めざるをえない。受けた教育については、彼自身はほとんど語っていない。姉の一人が、気難しくて無能な養育婦について語っており、また兄のパウルも次のような報告を残している。それによれば、家庭教師たちも、労を厭うことはないが必ずしも有能であったわけではなく、腕白な少年たち(ここではパウルは明らかに主として自分自身のことを語っている)を諭して一生懸命勉強させるのに大変難渋した。とうとう彼らの中でいちばん正直な者が、息子たちが何も学んでいないことを父親に直に告げ知らせた。親の監督不足が招いた当然の結果に驚いて、カールは今や熱心に介入するようになり、まずテストをやらせて息子たちの無知を確認すると、次には教育方針を変えて彼らを普通の学校に入れた。方針の変更に関しては、見落としてはならない点がある。すなわち、今やカールは、三男に教育を受けさせたときよりもかなり年をとっていた、ということである。(パウルとルートヴィヒは下の二人の息子であって、上の三人とは結構年が離れていた。)さらにちょうどこの頃──一九〇三年に──ハンス自殺の知らせが届き(のちにルーディの自殺がこれに続くことになる)、それまでの教育方法の欠陥がいやがうえにも明らかになったのである。
 息子たちが何も学ばなかったというのは、決してパウルの誇張ではない。実際ルートヴィヒは、のちになってようやく学校の諸科目に一定の能力を示し始めたほどである。すでに述べたように、彼の家族には才能が遅い時期に開花するという傾向がある。ただしルートヴィヒは、父親と同様に、どんな事柄であれ当面の目的に必要なことはすばやく習得する能力を示した。たとえば数学の基礎に関する(当時、非常に斬新な)諸問題に、彼はすばやく精通するようになった。これより些細な点ではあるが、ウルガタ訳聖書とアウグスティヌスの『告白』が彼の精神生活にとって重要になったとき、彼はたやすくラテン語が読めるようになった。彼は、期待がかけられているからとか、他人と張り合うためとか、知識・情報に対する一般的・無差別的欲求からとか、そうしたことのために多様な事柄を学ぶのには向いていなかった。そうした動機のためには正規の学校教育は好都合であるが、彼がそれを受け始めたのは遅すぎたということかもしれない。しかし、ともかく彼のような子どもには、父親の方法のほうが精神的に合っていた、と言うべきではなかろうか。彼の精神には、非常に実践的な傾向がある。多くの学者とは違って、彼は、いつ役立つとも知れぬ膨大な知識をやたらと蓄えておくなどということはしなかった。彼の精神は、打ち捨てられたゴミが丹念に蓄積され、ついには肥沃のもとになるような堆肥の山ではない。また、接した情報をことごとく収集・整理・蓄積し、そして再び取り出すためにとりわけ効率的な機械ですらない。確かに彼は、こうした不可欠の能力をすべて備えていたし、一般教養も幅広く持つようになった。しかし彼の精神のとりわけ卓越した点は、集中力である。ひとたびある問題と関わると、彼は必要なあらゆる技術をたちどころに習得できた。逆に言えば、進歩するためには、問題と関わっているのでなければならなかった。父親の願望とも一致するのだが、彼の精神は工学者の精神傾向を備えていた。それは、問題を根本的・具体的に分析し、また、問題を解決してくれそうなありうるかぎりの観察と探究を行うのに適していた。こうした傾向を持っていたにもかかわらず、彼が関わり合うようになった問題が、普通に考えれば、彼自ら言うようにおよそ最も抽象的な問題であったというのは、一つの逆説ではある。しかし同時に、それが彼の豊かな生産力の源でもあったのであろう。
 彼はまた、文字通りの意味で工学者になれる素質をも持っていた。姉のヘルミーネは、彼が花・動物・風景といった自然に興味を持っていたパウルとは対照的であるのに気づいていた。技術に対する関心は高く、一〇歳の頃には木と針金で、実際に少しは縫える家庭用ミシンの模型を作ったほどである。終生彼は機械の仕組みに対する関心を失わなかったし、生涯の最後の数年間には、蒸気エンジンを調べるためにサウス・ケンジントンの科学博物館によく行ったものである。彼は機械と取っ組み合って考えるのを好み、その働き方を一つ一つ詳細に理解しようとした。なぜ彼が旧式で単純明快なタイプの機械に関心を寄せていたのか(彼は自動車に興味を持たなかった)、また、故障した機械をどうして修理できたのかということが、ここからわかる。彼が機械を修理するときにはいつも、まずあらゆる面から機械を細心に観察し、その原理が会得できるまで精神を集中し、深く考察をめぐらしてから取りかかるのが常であった。これと同じように、彼はアレーガッセでお針子の仕事ぶりをじっくりと観察したため、変な目で見られた。そしてまた、これと同じようにして、彼は探照灯やボイラーなどをよく検査・吟味したものであった(しかしそれは、はたで見ている者を時々苛立たせた)。彼は、患者を診る熟練の医者のように、これからの経過が完全に明らかになったときにだけ、手を出そうとした。彼の残したノートとスクラップブックには、しばしば機械の略図が出てくる。その中の一つは、哲学的な記述の中に出てくるのであるが、とりわけ興味深い。思春期の彼を彷彿させるからである。それは、父親の思いついた原理による、一見非常に能率がよいように見えるが、実際にはまったく作動しない機械のスケッチである。それは、ルートヴィヒお気に入りのテーマを扱った初期の一例である。そのテーマとは、人間の精神には、ある事態に関して自ら描いた像と、自らが熟知している他の諸像とのあいだに外見的な類似があると、それにまどわされる傾向がある、というものである。大切なのは、真に錯綜した事態にすべての点で対応するような像を正しく作り、かつそれを理解することなのである。家族の中でそうした関心を父親と共有していたのは、ルートヴィヒだけだったようである。
 さて、ルートヴィヒが一四歳まで過ごした文化的・精神的環境、彼の受けた教育、彼の示した興味は、以上のようなものであった。ウィトゲンシュタイン家についてこれまで述べてきたことからも明らかなように、彼の過ごした生活は、大部分が一族の内部での生活であった。おじやおばの所へ行くのを除けば、たいていアレーガッセの陰気な邸で過ごすのが常であり、春と秋にはひと月ほどノイヴァルデックに滞在した。カールはそこに二軒の家を所有していて、その広大な庭は裏の山々にまでのび、個人所有のウィーンの森という趣を呈していた。夏には家族でホーホライトに行った。ルートヴィヒが五歳のときに、カールはそこに地所を取得したのである。ルートヴィヒが子どもの時分には、いつもカールは、道をつける・家を建てる・植物をうえる・邪魔なものは取り除くなど、取得した地所の手入れに余念がなかった。そこには、家族および親しい知人以外は、誰も入ることができなかった。近くにザンクト・エーギトという小さな町があったが、そこもウィトゲンシュタイン家の世界の一部であった。というのは、カールはかつてそこに工場を持っていたし、また尊大な地主のように、自分の教派の教会を、しかも彼の好みの様式、すなわち当時すでに派手な感じを与えていた分離派様式の教会を建てたからである。環境は豊かで変化に富んではいたものの、閉鎖的であった。それがさまざまな点でルートヴィヒの孤独感を強める結果となった。第一に、それは彼を狭いサークルに閉じこめた。その中では、すでに見たように、父と母は善意には満ちていたものの、その性格と多忙のゆえに、ルートヴィヒを温かい心で守り包んでやることがなかった。確かに、兄や姉たちは愛情を寄せてくれた。パウルはややぶっきら棒な男性的愛情を、姉たちは率直で強い愛情を、善良でかわいいルーキに寄せた。明らかに彼女たちは、ルートヴィヒのためにあらゆるよいことを願った。あるときグレートルが言ったように、彼が自分でも望むことができないほどのよきものを願ったのである。しかし彼女たちはまさしく姉であり、ルートヴィヒとのあいだには、普通姉と弟とのあいだにあるような緊張があった。そしてこの緊張は、身体的健康は言うに及ばず、精神的な幸福に関しても家族同士が互いに積極的に気づかっていたことで一層強められた。さらに彼女たちは、(子どもの頃の、そして思春期のルートヴィヒから見れば)ずっと年上であった。ルートヴィヒには友人が必要であったし、実際いつも彼はその必要を感じていた。しかしここで、彼の家庭環境に由来するもう一つの事柄が影響を及ぼしてくる。それは、彼が道徳的にも文化的にも、さらに交際の面でも、非常に気難しい基準を持っていたということである。そのために、彼はほとんどの人間関係にうんざりしてしまった。そしてこの傾向は、明らかに彼が幼少の頃に多様な人間関係にさらされなかったために、一層強められたのである。第一次世界大戦中、彼はショーペンハウアーのヤマアラシの比喩を好んで引用した。ヤマアラシはある冬の日、寒さから身を守るために体を寄せ合うが、互いの針を避けるために再び離れ、かくして我慢できるほどよい距離がわかるまで右往左往するのである。人間に関しても同じことがあてはまる。

人々は、共同生活していけるようなほどほどの距離をようやく見出した。それが礼節であり、よきマナーなのだ。

もちろんそれは、温かさを求め合う欲求を十分に満たすことはないが、その代わりに針で刺されることもない。しかしうちに温かさを備えた人(つまり卓越した人)ならば、他人に嫌な思いをさせることも、他人からそうされることも望まず、他者との交わりを避けるであろう。そのような人間はいるかもしれないが、ともかくルートヴィヒはそのような者では決してなかった。彼は一方では愛情や温かさへの欲求を、他方同時に、どんな人間関係にもつきものの不和と軋轢に対する感じやすさを人一倍持っていた。しかも、通常の意味で幸福でありうるためには度を逸して強く持っていた。彼の持っていたこうした性質を、あるいはそれを持っていた度合いを、病的と考える必要はない。いかなる中庸の教説も、ここに単純にあてはめることはできない。どちらの性質も、人間の質としては望ましく思える。ただし一定の限度を越せば、確かに人生は多難にはなろう。どのような仕事をやる際にも彼が示した情熱と集中力と並んで、これらの性質のためにも、常に彼は「風変わりな人間」、常軌を逸した人間と見なされることになったのである。
 のちのルートヴィヒは、子どもの頃について自分から話すことは滅多にしなかった。彼は常々、それが幸せな時期ではなく、孤独であったと語っていた。しかしそこには他人を、わけても両親をとがめるような傾向はなかった。すでに見たように、彼は自分の受けた精神的養育を誇りに思っていた。同様に、彼は「基準」を持つような人間に育てられたことに喜びを覚えていた。それは、知的な仕事にも出版物にも、最も重要なことから最も些細なことに至るまで、あらゆる文化的・道徳的な事柄に適用される基準であった。彼の人生を多難にした(のではないかと思われる)当の事柄を、彼は受容し、肯定してもいたのである。
 先に触れたように、彼はアウグスティヌスの目をもって自らの過去を振り返り、当時ほとんど自覚することもなかったような過誤と動機を探り出し、(時折)友人の身振りや言いまわしを分析したときと同じ冷厳さでそれらを分析の対象とした。そうした詮索の一つが、彼の遺稿の中にある覚え書きのうちに典型的な形で残っている。彼が身内や友人に対する告白を用意していたのか、それとも(かつて彼は鑑定を受けねばならなかったことがあったので)精神科医のためにこれまでの生涯について説明を用意しようと思っていたのかは、定かではない。いずれにせよ、目的とするところは一つであった。すなわち、

私は自分に対して辛辣であろうとは思っていない。むしろ公正であろうと努めているのだ。

下書きには、まず、まとまったいくつかの節があり、そしてメモに変わっている。末尾にあるリンツ時代について述べた部分は、のちほど引用する。

遡りうるかぎりでの記憶によれば、私は優しい子ではあったが、同時に性格が弱かった。
 とても幼い頃から、私は兄のパウルが私より強い性格の持ち主であることに気づいていた。彼が軽い病にかかったのち回復し、もう起きたいか、それとももっと寝ていたいかと聞かれたとき、彼はこのまま寝ていたいと平然と言ってのけた。それに対して、同じ状況にあったとき、私は本当でないことを(つまり起きたいと)言った。まわりの人に悪くとられるのを恐れたからである。
 八歳か九歳の頃、私の将来のあり方を決めるようなとは言わないまでも、少なくとも当時の私の本性を示すような経験をした。どういう経緯だったかはわからない。ただ私は家の戸口に立って、「嘘をつけば有利になるときに、どうして真実を語らねばならないのか」と考えていた。嘘をついていけないわけは何も見出せなかった。
 嘘そのものを悪魔的と呼ぶのでないかぎり、そのときの私は、悪魔の邪悪さでもって行動し始めたというわけではない。私は邪悪だったのではなく、私の嘘の目的は、他人の目に私をよく見せることにあった。それは臆病から出た嘘にすぎなかった。
私は自分に対して辛辣であろうとは思っていない。むしろ公正であろうと努めているのだ。
一○歳から一一歳までについては、次のことを覚えている。
 ビンタをはる
 体操教室を探したこと  アーリアの出自
 体操教室  エーリヒへの愛
 喧 嘩
 パウルとの関係
 グレトールとの関係
 ルーディとの関係  よい思い出
 ヴォルフルム  私は彼を打ち負かそうとし、彼を兄から引き離そうとした
 夢中になっていた  パウル  不和をもたらす者
 無邪気な表情
 卑 猥
 パパのためのラテン語の勉強  自殺への想い

たとえ他人を喜ばせるためであれ、真実からのどんな逸脱をもひどく気に病むというのは、いかにもウィトゲンシュタインらしい。少なくとも、この覚え書きが書かれた二〇代ないし三〇代のウィトゲンシュタインの特徴をよく示している。実は姉のグレートルも、この種の問題に心をわずらわせていた。会話においてはどのようなことが相手の人を喜ばせるのか、またそれをどのように言うのが最も適切なのかに絶えず気を配るようしつけられたので(これは現代のしつけ方というより、おそらく一九世紀のしつけ方であろう)、彼らはこの貴族的な礼節と、ありのままに真実を言うという厳格で、たぶんプロテスタント的な伝統とを融和させねばならなかった。そのやり方について、グレートルはしばしば語ったり書いたりしている。それによれば、誰かを、たとえば子どもを叱責するときには、自分はむしろ称賛したいと思っているのだということを相手が感じ取れるようにしなければならない。批判をするときには手紙でしてはならず、面と向かってすべきである。そうすれば、批判が呼び起こした反応に対して適切に対応できるし、批判の背後にある善意も示すことができるからである。ルートヴィヒはこうしたやり方をいつも取っていたわけではなく、のちの彼の非難はしばしば苛烈にすぎたように思われる。彼の回顧によれば、子どもの頃の彼はあまりにも他人を喜ばせようとする逆の過ちを犯すほどであっただけに、それは一層きわだつ。(さほどのちではないが)のちの彼が抱いていた、耳ざわりであっても真実を語るという欲求は、人の機嫌をとるという以前の傾向に対する意識的な反動であった。自分にこの傾向があるのではないかと与えた点で、また(後が上記の覚え書きの中で示しているように)子どもの時期をすぎるとその傾向のほとんどを振り捨ててきたと考えた点で、おそらく彼は正しかった。子どもの頃の彼は、しきりに人を喜ばせようとする感じやすい人間という印象を与えた。性格の真の強さは(それは多くの人にとって驚きであったが)、のちになって初めて生じてくる──というより、徐々に発達してきたのであろう。多大な犠牲を払って、どうにか彼は自分の人生を納得のできる形に整えることができた。そのために彼は大分苦労したが、翻ってそれが、多少とも彼と親しくなった人々をもひどく苦しめた。
 自分に期待されているのを知りながら怠り、しかもそのことを隠蔽しようとする自分に対する不満、また、弱点を告白しないで、何食わぬ顔をしてそれをおおい隠そうとする自分に対する不満、そのような不満がこの覚え書きから垣間見える。しかし多くの細々としたことを補うことは、もはやできない。体操教宝を探す件についての逸話は、彼が友人のアルフィト・シェグレンに語っている。のちの時代もそうだっのたが、当時その種のクラブは極度に民族主義的で、たいていの場合はアーリア人であることが要求された。少なくとも、パウルとルートヴィヒが入りたいと思った体操教室はそうであった。ルートヴィヒは、アーリア系を装うのは簡単だと思っていた。しかし年上でもっと現実的だったパウルは、それでは決して済むまいと見ていた。彼らは結局、別の体操教室を見つけたのである。ヴォルフルムというのは、父親が親しくしていた同僚の名前である。ラテン語の勉強は、明らかに個人教育が終わったときから開始された。これは、個人教育の不適切さに父親が気づいたというパウルの報告と一致する。ルートヴィヒは、この種の義務には相変わらずひどく敏感だった。だから大戦中に彼は、オーストリア = ハンガリー帝国の歩兵連隊の構成とか軍隊組織に関する些末なことについてそれまで学ぶのを怠ってきたとき、「おれはげすだ」といういつものセリフを吐きながら、自らを厳しく責めたのである。
 これまで言及してきた出来事の大半は、今日より厳格だった当時の男女の区別を考えれば、青少年期にはかなりありふれた経験であったと思われる。自殺への想いでさえ、一九〇三年──オットー・ヴァイニンガーが自殺した年である──の一四歳という年齢では、とくに異常というわけではない。当時オーストリアの著名人のあいだで自殺が流行していたことを取りあげ、その現象を社会のアイデンティティ喪失と結びつけて説明するということが、よくなされる。その際、社会のアイデンティティ喪失とは、社会生活の諸形式と、社会の中で実際に作用している力とのあいだに生じていた大きな乖離を指す。自殺を脱出口として承認している社会の一員だったことが、ルートヴィヒと兄たちに影響を及ぼしていたことは明らかである。しかし、むしろ彼らの自殺ないし自殺への想いは、彼らの社会の道徳構造の間接的な現れだったように思われる。すでに見たように、彼らの家庭は一種の孤島であり、周囲の堕落と欠陥に対して固有の厳格な道徳的基準でもって武装した要塞であった。しかし彼らのうちの何人かは、この基準に合った気質を備えてはいなかったように思われる。わずかのことしかわかっていないが、それでも他の者よりかはよく知られているルートヴィヒの場合について言えば、彼はこの基準に異様に強い共感と愛着を感じていたようである。通常は見過ごされるようなありきたりの人間的欠陥も、この基準に照らすと目につき始め、許容されることがない。そればかりか、著しく柔弱で優しい性格も、この基準とは相容れないのである。自殺への想いと父親のためになされた(明らかに不十分な)勉強とが並記されているとはいえ、ルートヴィヒは、父親の要求を満たしえないところに自分の問題があるとは見ていなかった。彼の問題は内面の葛藤であり、そのために彼は、一九〇三年以後何年ものあいだ、自分は価値のあることを何もなしえないのではないかという疑念に絶えずさいなまれ、それゆえまた、あるときは自殺に、またあるときには(待望していた)迫りくる死に思いを馳せたのである。一九一二年に彼がデイヴィド・ピンセントに語ったと-ころによれば、

昨年のクリスマスまで九年間ものあいだ、彼はひどく(物理的ではなく精神的な)孤独に苦しんだ。その頃にはいつも自殺することを考えたが、そうするだけの度胸がなかったのを恥ずかしく思っている。彼が言うには、彼は自分がこの世で無用の存在であることをそれとなく感じ取っていたのだが、卑劣にもそれを無視してきたのである。

こうした思いは、一九一二年以後も繰り返し生じてきた。あとで触れるが、彼は少なくとも一度は、自殺寸前までいった(怖れだけではなく、引きとめる多くの要素があった)。
 さて、一九〇三年に、パウルとルートヴィヒを公立学校にやることが決まった。パウルはウィーナー・ノイシュタットにあるギムナジウムへ、ルートヴィヒはリンツの「実科学校」に行った。ここからうかがえるのは、実科学校は理科教育ないし工業教育の下地になり、ルートヴィヒはパウルよりもその種の教育に向いていると見なされた、ということである。同時に、彼はギムナジウムの一層厳しい学力基準には達していないとも見られた。そこでは西洋古典の教育がほどこされるからである。リンツが選ばれたのは、。適切な学年に入れてもらうのに、ウィーンよりもリンツのほうがはるかに容易に試験に受かるであろうという考えからでもあった。しかし同時に、二人の息子を別々にすること、および彼らがたいして学びもせず、さほど幸福にもならなかった家庭の雰囲気から二人を引き離してやること、これらのことも望ましいと考えられたに違いない。ルートヴィヒは、予期される変化を当初は歓迎した。実際、のちに彼は、アルフィト・シェグレンに次のように語った。リンツはウィーンのはるか西にあったので、自分はリンツへ行くことを望んだ、と。
 そこには学寮がなく、彼は当地のギムナジウム教師であったシュトリグル博士の家に住んだ。このためシュトリグル家はウィトゲンシュタイン家の庇護を受けるようになり、気のきいた贈り物をもらったり、娘がウィーンで勉強するとか二度の手術を受けねばならないなどといった重要な折に、援助を受けたりしていた。ここにはウィトゲンシュタイン家の気前のよさがよく現れている。ルーキ(シュトリクル家の人々にもこう呼ばれていた)は、この下宿を選んだという点で幸運であった。彼はここで大いに好かれたからである。彼は引っ込み思案で、人を喜ばせたいという欲求を持っていたが、この二つの性質には独創性という特質が付随していた。そのためにシュトリグル家の人々は、彼の意見・言葉を永く心にとめることになった。彼の堅苦しさにも魅力があった。彼はこの一家の息子ペピ──ルートヴィヒは最初彼を「ペピさん」と呼んでいた──とことのほか親密な、しかし波瀾にとんだ関係を結んだ。
 リンツの「帝立・王立実科学校」は、歴史の一コマに登場する。アードルフ・ヒトラーが一九〇〇年から一九〇四年までそこに通っていたからである。ヒトラーはルートヴィヒより数日前に生まれたが、彼らが共に在籍した一年間には、ルートヴィヒは第五学年にいたのに対し、ヒトラーは第三学年にいた。通常よりヒトラーは一年遅れ、逆にルートヴィヒは一年進んでいたようである。この学校はドイツ民族主義の拠点として重きを成していた。そしてヒトラーは『わが闘争』の中で、輝かしきよきものはすべてゲルマン民族に由来すると言ったある歴史教師に言及している。ユダヤ人の生徒も若干いて、彼らは孤立してはいたが、生徒たちの粗暴さを考慮すれば、決して迫害されていたわけではない。以前ここの生徒だった者の話によれば、ユダヤ人が喧嘩のときに「ユダ公」と呼ばれるとしても、それはお決まりのやり方にすぎず、バイエルン人がプロイセン人を「プロ公」と呼ぶのと同じであった。ヒトラーは特定の生徒をではなく、在校生全体を軽蔑していた。彼は「将来こっぱ役人になるこの連中と、私は席を同じうせねばならなかった」と言ったと伝えられている。この報告は、いささか正確さを欠く。というのは、生徒の大半は技術系ないし商業系の職に就くことになっていたからである。しかし報告ではなく、ヒトラーのほうが不正確だったのかもしれない。ヒトラーは学業面で怠惰な生徒であり、美術でも器用なだけであった。当地で少しばかり音楽生活の一端に触れたことを除けば、リンツ時代に彼が得たものはほとんどない。そこでの音楽生活の水準は高度であったが、それも、ウィーンとではなくパッサウと比べればの話である。
 同級生に対するルートヴィヒの当初の反応は、ヒトラーの場合よりも激しかった。「糞ったれ!」と彼は思っていた。姉がある同期生から聞いたところでは、彼はまったくの別世界からきたようだったという。彼の生活様式は他の生徒とはまったく異なり、彼は彼らに「あなた」と呼びかけ(明らかに意識的に距離をおこうとする言い方である)、彼の読書や関心もまったく違っていた。一緒に授業を受けるのは、彼にとって(当時もそしてのちの時期にも)苦痛であった。そしてともかくも無事三年間を修了するのではあるが、教科の成績はお世辞にも優れていたとは言えない。パウルは、ルートヴィヒの主たる関心は物理にあり、彼が五段階評価で「最高点」をもらったのはこの教科だけだと思っていた。確かに物理はルートヴィヒの関心と一致していたかもしれない。しかし実際には、彼が「マトゥーラ」でもらった成績は、当時の五段階評価で最高の5は「宗教」だけであり、4は「行状」と「英語」、3は「フランス語」、「地理で、および歴史」、「数学」、「博物学」、「物理」で、「ドイツ語」、「化学」、「画法幾何学」、「自在画」は2であった。「宗教」を教え、試験をしたのは、専任の教師というより司祭であって、しばしばかなり甘い点をつけた。のちにルートヴィヒは、伝統的なキリスト教のいくつかの要素の意味について、いわばその背後にある道徳的真理について、しばしば思索をめぐらした。彼はキリスト教の教理の伝統的な規定や定義を機械的・自動的に受け容れるということがなかったので、それだけ一層自由に思索をめぐらすことができたようである。現在でも通常行われている仕方でキリスト教の教理を徹底的に教え込まれると、その副産物として、人々はキリスト教のもろもろの規定や定義を機械的・自動的に受け容れてしまうものである。「マトゥーラ」での他の教科の成績は、それ自体としてはよくも悪くもないが、これらの諸分野での彼ののちの知識と比べると、笑いを禁じえない。子どもの頃に理系科目の教育を受けなかったとはいえ、それだけでは三年間の通学後に修めたこの成績に対する十分な説明にはならない。むしろ、独特の背景と気質とを引きずっていたために、学校のつめ込み方式に嫌気がさした、というところであろう。単なる速さではなく、深さこそ、彼が本能的に求めたものであった。こうした気質上の理由がどれほどもっともなものであったとしても、彼はそれを自らの欠点と見なしていた。一九一三年に、彼は次のように述べている。

若い頃、一八か一九歳になるまで、私は単語の綴りをよく間違えた。これは(勉強が苦手だという)私の性格全体と関係がある。

このように、彼は語を正しく綴るのがことのほか不得手であった。おそらくそのためであろう、彼はドイツ語の筆記試験で「不十分」=1の落第点をつけられてしまい、「口述試験」で「称賛に値する」=4を取ってようやく及第したのである。語を正しく綴るのに、彼はいつも努力を要した。そして彼の推敲されていない草稿の中には、かなり多くの綴りの誤りが、ときには非常に特徴的な誤りがある。彼の英語の書き方は、当然、イギリスに滞在した期間ないしイギリスを離れていた期間の長さに応じてさまざまである。しかしどんな場合であれ、綴りは熟語表現以上に心もとない。親ゆずりとも思えるこの些細な欠点は、ルートヴィヒの吃音傾向(エンゲルマンはこれに気づいていた)と関係があるのかもしれない。どもりは、二〇代までには直った。その頃、彼は高いはっきりした声で話したが、それはどもりを克服した人々にあっては、めずらしいことではない。断片的ではあるが、内面生活を伝えてくれる彼の覚え書きを見ると、彼がある友人に愛情を傾けたことや、罪を洗いざらい告白しようと初めて試みたことなどがうかがわれる。

「実科学校」のクラス、第一印象。「糞ったれ」。ユダヤ人に対する関係。ペピに対する関係。愛と誇り。帽子をはたき飛ばす。Pと絶交。
 クラスでの受難。
Pと半ば和解、そして再び絶交。見せかけの無垢、僕は人生に目を開かされた。宗教心、僕に対するGの影響、仲間たちと懺悔について話す。Pとの和解そして優しさ。
 発 明
ミニングに半ば告白、しかしそれは、何とかして僕が優れた人間に見えるようにする告白だった。
 ベルリン。

ルートヴィヒは、学校には言うまでもなくローマ・カトリックとして登録された。だから彼の素性は、リンツではほとんど誰にも知られていなかったであろう。おそらく彼は、自らユダヤ人の血を否定した、あるいはできるだけ言わないでおいた、という思いを抱いたことであろう。というのは、これこそ彼の告白に一貫するテーマだからである。のちに触れるが、第一次世界大戦中および戦後の数年間、彼は自分が徹頭徹尾オーストリア人であり、文化的な意味ではドイツ人であると感じていた。
 ルートヴィヒは、真の友人を得ようと何度も試みた。ペピはこの試みの最初の対象であった。そのほかにはデイヴィド・ピンセント、アルフィト・シェグレン、フランシス・スキナーなどが最もよく知られている。ときに友人は同年齢であったり、多少年下であったり、またずっと年少だったりした。友人を求める際には、ルートヴィヒの側には激しい熱意が伴っていたし、恋愛的要素さえもあった(しばしば相手の側はそれに気づかず、たいていはそうした感情を持っていなかった)。少なくとも一度は、女性が相手である。しかしどの場合にも、ルートヴィヒは怒りを爆発させることがよくあった。それは、相手がときとして彼の友情に最高の価値を置かず、彼がどのような感情を抱いているかを何にもまして考慮しないとき、彼がそれをあまりにも繊細に感じ取ったためであり、またそれが彼の自尊心を傷つけたからである。友人関係を保つ際の困難は、これだけではなかった。ルートヴィヒは相手の幸福とよき振舞いとをいつも気にかけていたが、しかしそのために、ルートヴィヒがさほど強い友情を持っていたわけではなかった場合でも、交友関係は相手にとって重荷となったのである。友人関係が破綻するか否かは、相手の平静さと愛情の深さ次第であった。ルートヴィヒは、自分より素朴な心を持った友人を必要としたし、ときには得もした。ペピとの関係がどうなったのかは、おそらく今後もわからないであろう。彼は一九一四年八月に戦死したからである。ルートヴィヒ自身は、ピンセントを最初の友人と見なしていた。
 グレートルの影響と子どもらしい信仰の喪失については、すでに述べておいた。上記の覚え書きだけからでも明らかであるが、代わりにもっと暗い宗教心が生じている。贖いに対する何らの希望も持てない罪意識がそれである。それゆえ、おのれの身を正すこと(「自分にけじめをつけること」)、そしておのれの本性の弱さと暗い部分とを心底憎むために、まずそれらを認識することが重要な目標となった。これこそ彼が告白をする際の目的であった。のちに彼は、甥の精神分析治療に関連してこの点を示唆している。すなわち、精神分析が自分に与えてくれる益は、分析家にすべてを話さなければならないときに感じる自己嫌悪である、と。告白のもう一つの目的は、少なくとも一つの悪い要素を除去すること、つまり他人を意識していないかのような見せかけを除去することであった。しかしながら、ここにはさまざまな誘惑があった。その一つが過ちを誇りうるもの=「輝かしき過誤」であるかのように見せたいという誘惑である。姉のミニングに向かってした初期の告白において、彼はこの誘惑に負けたと思った。将来の苦悩の種をはらんだこのような精神状態にあって、彼はオーストリアを離れ、ベルリンに向かった。
第三章 工学研究

 ルートヴィヒは一九〇六年の夏、実科学校を卒業した。フォン・ウリクトに語ったところによれば、そのときから一九一二年の末頃にかけての数年間は絶え間ない不幸の歳月であったという。この不幸は、彼の職業選択における苦悩にはっきりと現れており、またおそらくはほとんどがこの苦悩に起因するものであったろう。職業を選ぶという点では、彼を束縛するものは何もなかった。というのも、父親の財産のおかげで、いつでも研究場所や研究テーマを変えることができたからである。本来はウィーンのボルツマンのもとで研究することを願っていたのだが、卒業のまさにその年にボルツマンが自殺してしまったともフォン・ウリクトに語っている。この話の詳細は定かではない。というのも、ボルツマンが教鞭を執っていたのは総合大学であり、ルートヴィヒの実科学校の「マトゥーラ」証明書では「工科大学」の入学許可を得るのが精一杯であったからである。総合大学に入るには、もう一年どこかほかの学校に籍を置く必要があった。
 ボルツマンのもとで研究したいというのは、たぶん漠然とした希望にすぎなかったのであろう。だが、工学教育を受ける準備はボルツマンが自殺する前からすでにできていたのである。ボルツマンのもとで研究したいという願いは、職業選択におけるジレンマの最初の現れとして興味深い。彼を引きつけたのはボルツマンの科学哲学であったに違いないからである。ボルツマンの厳密に物理学的な著作に対して、その数学的な簡潔さを正しく評価するのに必要な知識は、まだ備えてはいなかった。」
 結局、ルートヴィヒは機械工学を学ぶことになる。そして、シャルロッテンブルクの「工科大学」が選ばれた。理由は簡単である。そこはドイツの工科系の学校の中では最も有名で最も優れた学校であり、またルートヴィヒは、こと工学に関するかぎりドイツの優位性を長いことずっと信じていた。一年か二年ののちに、彼はマンチェスターでの友人工クルズに、イギリス主導の時代はとうに終わりを告げ、いま工学の教育を受けるにはドイツに留まることが必要だ、と語っている。もちろん、(リンツでの学校に関して見たように)ウィーンを離れたいという欲求も当然あったろう。その生涯を通じ、折々の居住地の欠点がことさら目につくというところが彼にはあった。確かに、一九一四年には、また束の間とはいえ一九三八年にさえ、自分はウィーンの住人でありウィーンと運命を共にしなければならないと感じてはいた。しかし、第一次世界大戦以前には、技術のドイツ・人文のイギリスということは彼にとって自明の理であった。
 こうして、ベルリンへと彼はやってきた。当時一七歳と六カ月、身長約五フィートハインチの「ウィトゲンシュタイン坊や」は、その愛らしさは子供時代のままながら、とくに正装して真剣な面持ちで臨んだのだった。もちろん縁故者とは連絡がついていて、シェグレン家の親戚であるリーダー家の人々を頼ることもできたし、教授の一人のヨレス氏が彼を自宅に置いてくれることになった。
 一九〇六年一〇月二三日、「機械工学」の学生として「工科大学」に登録され、三学期間──ドイツの教育制度では一年半──在学することになる。「卒業証書」は一九〇八年五月五日に授与されている。履修に関する記録は残っていないようである。彼は最初から航空学に関心があり、一九〇八年、すでに航空学に関する研究計画をたくさんかかえてマンチェスターにやってきたのは確かだ、と姉のミニングは述懐している。いつからかはわからないが、彼はほとんど自分の意志に反して哲学のとりこになっていた、と「彼女は語っている。もちろん、どういう形でそうなったのかは知る由もない。確かなことは、当時、彼の将来には多くの可能性があっただろうということだけである。一九三〇年にヨレス夫人は、彼が哲学者は彼として有名になったと知って、やはり同様のことを述べている。「工科大学」では、工学の多くの専門分野ばかりではなく、総合大学と同じレベルの数学や物理学の理論的な研究にも接する機会があっただろう。しかし、哲学の講座などあろうはずもなく、シュトゥンプやディルタイの講義を聴くために|動物園テイアガルテンを通ってベルリン大学まで出かけていったというのも考えにくい。
 ウィトゲンシュタインには、当時から知られていた──というのも、何とも不躾なベルリンの流儀でご婦人たちの噂の俎上にまで載せられていたのだから──ように、過去の暮らしを思い込みで誇張し、無邪気に自慢してしまうところがあった。前述〔三〇頁〕の、七台のグランドピアノの話もその一例だろう。この性癖のおかげで、ベルリン時代についての最初の伝記項目を書くことができる。彼は、ベルリンにいるあいだに『マイスタージンガー』を三○回も聴いたとつねづね言っていた。この数は誇張に違いないが、偉大な作品を一つ集中的に聴くというのは彼らしいところであり、蓄音機の針を重要な一節へとしきりに戻していたのを、やはり思い出さずにはいられない。ウィトゲンシュタインの受け取り方は、「『マイスタージンガー』は偉大な作品である。ヴァーグナーの作品をもっとたくさん聴かなくてはならない」(あるいは学者風に、「ヴァーグナーの発展過程を研究しなければならない」)というのではなくて、「『マイスタージンガー』は偉大な作品である。それをもっとたくさん聴かなくてはならない」というものであった。実際、のちにはコンサートの演目に『トリスタン』や『パルジファル』からの曲があるだけで行くのを避けたり、そこだけ聴かないこともよくあった。なぜ『マイスタージンガー』だけがそんなにも彼の琴線に触れたのか、推測することはできる。一つには、どんな特質があれば彼の家族はそれを気に入るようになるのか、ということはわかっているからである。この作品は音楽の問題と人生の問題とを同時に扱っていた。そしてその解決には、音楽や人生に対する崇拝の気持ちがあってのことだが、自然発生的なものにさえ見出すことのできる規則というものが必要なのであった。このオペラは、このことを実地に示すと共に、はっきりとしたメッセージを伝えるのに必要なハッピー・エンドになるよう作られてはいるが、どんな偉業にも諦めはあるのだし、また人間的な観点からすれば失われるものもあるのだ、ということをも見て見め振りはしていない。この一般的なテーマが、音楽──それはウィトゲンシュタイン家の人々にとっては単に人生を映したものではなく人生の一部であった──と結びついて、しかも、神話的な舞台設定ではなく普通の市民生活という舞台設定の中で展開されるということは、彼らの嗜好や思い込みにまったくかなったことだったのである。この作品の真価は、こういったテーマが、ときに陳腐になるとしても、きわめてたくみに捉えられ、感じ取られ、統一されているところにある。つまりこの作品は、上演されている月、六時間のあいだ、一つの世界が現出しているようなオペラなのである。ほかの作品のほうがはるかに、ヴァーグナー的かもしれないが、この作品がヴァーグナーの創作中最も完成されたものであることに異を唱えるものはいないだろう。しかしながら、おそらくこの作品は少しく作為がすぎるのだろう。そのテキストがよく引用されるのも、それが格言風だからである。四〇年後にウィトゲンシュタインは、ヴァーグナーに高い地位ではあるが二流の地位を与えるという趣旨のことをノートに数多く書き込んでいる。それによれば、ヴァーグナーはベートーヴェンの模倣者であり、ベートーヴェンの恐るべきアイロニーあるいは宇宙的アイロニーもヴァーグナーにあっては現世的あるいは通俗的なものになってしまっている。それに、ヴァーグナーのモチーフは一種の音楽的な散文であって、そこからはメロディーが生まれてこないし、こまた同様に、そのドラマもただ出来事の連なりがあるばかりで、そこから霊感が与えられることもない。とくに『マイスタージンガー』への前奏曲については、次のように批評している。

天才も薄っぺらであれば、器用さが透けて見える。

過度な技巧、十分にはこなれていないテーマ、おそらくはこなれようのないテーマ。こういった批判は耳新しいものではないし、あながち不当とも言えまい。しかし、ベルリンにいた数年間は、この作品が「純ドイツ的なもの」、すなわち彼の属している文化そのものをすべて表現し、説教しているように思われたのである。
 この時期ウィトゲンシュタインは、自分の人生についての考えを書きとめておくという習慣を身につけ、その後も折りに触れ続けられることになった。

こんなにも長い年月のあいだ、日記をつけたいという欲求をほとんど感じなかったというのも不思議な気がする[一九二九年か一九三〇年の記入]。ベルリンにいた最初の頃に私自身についての考えを紙片に書きとめ出したのだが、そのとき初めて欲求が起こったのだった。それは私にとっては重要な一歩であった。のちになるとその欲求は、一つには人のまねをしてみたいという衝動から(以前にケラーの日記を読んだことがあった)、また一つには自分自身について何か書きとめておきたいという欲求から生じた。だから、それはおおむね虚栄心であった。しかし、それは秘密を打ち明けることのできる人間の代わりでもあった。のちにはピープスの日記のまねも取り入れた。もちろんここでも、いつもながら、公平であることは難しい。私がしようとしていたことの中には、自然な動機と虚栄心とが完璧に混じり合っていたのだから。

ひどく意気消沈して、それ以外には書くべきことが何もない日にも、また幸福で順調な日にも、ともかく自分自身について何か書きとめておくという考えは、実際、ケラーの主要な目的の一つであった。ウィトゲンシュタイン自身の説明によれば、この動機はむしろあとになって出てきたもので、本来の目的は、あたかも心を許せる友人に対するかのように自身を語ることにあった。のちには、考えが心に浮かぶとまずそれを紙片に書きとめておき、あとでそれを大きなノートに記入するというやり方をとった。そうした記入をしたり書き写したりということに内在する虚栄心の問題にはしばしば悩まされたものの、書くことは明らかに彼のやみ難い欲求だった(「紙がなければ、砂にだって書くだろうね」と第一次世界大戦中にある友人に語ったように)。そして、その根本的な目的は、彼の自覚しうるかぎりでだが、あるがままの人生を正しく理解し、それを受け容れること、自分自身を納得させることであった。

もし日記がまっとうなものであれば、私はいわば、そこから戸外へ──人生の中へ──踏み出していかねばならない。あえて地下室のような所から光の中へとよじ登ることも、高みから再び地上へと飛び降りることもないのだ。

第一次世界大戦以前のこの種の日記や覚え書きは、知られているかぎりまったく残っていない。
 ウィトゲンシュタインの家族や友人たちには、どうして彼がベルリンを去る気になったのかわからなかった。いずれにせよ彼らは記録として何も残していない。おそらく彼は、単に航空学の実験や研究をイギリスで続行したかっただけであろう。しかし兄のパウルは、ある失望がその誘因となったのだという印象を持っていた。事実、いつのことかははっきりしないが、下宿先の家族とのあいだにある痛ましいエピソードがあったということは、間接的にだが知られている。これだけの歳月を隔てた今なら、彼と下宿先のヨレス教授夫人とのあいだで一九三〇年に交わされた手紙のやりとりをここに再現しても、公正を欠くことにはならないであろう。(その婦人はどうやら感情の起伏の大きい人で、知的生活に魅せられた、ドイツ風に言えば「芸術好みの」女性であった。)もっとも、こういった人物に対し、彼も若い頃はまだ我慢が利いたのである。最初の手紙は、ベルリン・ハーレンゼー、クールフュルステンダム一二〇番地から出されたもので、一九三〇年九月二〇日の日付がついている。

拝啓 ウィトゲンシュタイン様
 もうずいぶん永いこと本当に永いこと──あなたにお手紙を差しあげませんでした。確かあのとても不幸な出来事のあとに差しあげたきりですね。ですから、よく承知していますが、あなたは私の手紙などご覧になってもお喜びにはならないでしょうね。あなたがウィーンで困った顔をなさっているのが見えるようです。「このよそ者たちをいったいどうしたらいいんだろう」──この「余計者」でしょうか?──「どうやったら逃れられるんだろう」。ここ数週間というもの、あなたにお手紙を差し上げたくてたまらないという気持ちをずっと抑えて参りました。あんなにきっぱりと、しかもこれが最後というふうに私たち昔の友達から別れていってしまった方なのに、どうして私のことを思い出させることができましょう。それでもそうしようというのは、もちろん私のつむじ曲がりなところなんですけど。あなたにはあなたの流儀がおありでしょうし、それは私が口出しすべきことではありません。でも、あなたのではなく、私の流儀で振舞ってどうしていけないことがありましょう。たとえ、あなたが「もうたくさんです」と私におっしゃったことで、ご親切にも引っ込んでいるよう指示なさった舞台裏からちょっと顔を覗かせなくてはならくなるとしても、私のプライドが再び一撃を受けざるをえなくなるとしてもです。もうまもなく、決定的な「もうたくさんです」が発せられることでしょうし、手紙を書いても書かなくてももう手遅れで、プライドも蝕まれることになりましょう。前置きは、もうたくさんですね。さて、私たちは、本当に永いあいだなかったことですけれど、再びある学術会議──ケーニヒスベルクでした──に行って参りました。そこで、ウィーンからきた学会の人たちに大勢お会いして、私たちの以前のお友達──「お友達だった人」と申しあげたほうが、不躾ではありますけれど正確な言い方でありましょう──あの「ウィトゲンシュタイン坊や」が今や田舎教師以上の者におなりで、学会でとても高く評価されていると知りました。あなたがこのことをどうでもよいこと、それどころか望ましくないこととさえお思いでしょうとも、私がどれほど、本当にどれほどうれしかったかお話ししないわけには参りません。あなたの前途が──どう言ったらいいかしら──まだ全然定まっていなくて、あなたの「梯子」があなたをどこに連れていくのか少しもはっきりしていなかったあの頃でも、やはり私はあなたのことを信じていました。先にも書きましたあの(「もうたくさんです!」という)事情、あなた自身はそんなことは言っていないと主張なさるあの事情がありましても、いえそれだからこそ、年に一度定期的に近況をお知らせくださるような手紙のやりとりを気楽に申し出たいくらいです。でも、それはしないでおきましょう。ずっと昔に、あなたの手紙を燃やして灰を風に散らせるなんてことをしてしまったのですから。それはそれで仕方ありません。主人は、ご存知のようにあなたのことを父親のように愛しておりました。ですから、あなたにはすっかり失望しておりました。けれども、それは主人のことで私のことではありません。本当にあなたのことは、私にとって数少ない晴れやかで大切な思い出としていつまでも残ることでしょう。言葉を換えて申しますと、今のあなたではなく「ウィトゲンシュタイン坊や」、あのかわいい子のことはずっと残るでしょう。といっても、あなたはその人のことをもはや思い出したくはないのでしょうけれど。私には、現在のウィトゲンシュタインのことはわかりません。変わらぬ真心というものは、きっと、動きのないこと、死んでしまった人や去って行ってしまった人への執着、同じところに留まっていること、進歩や成長にとっての障害、なのでありましょう。そんなことはすっかりわかっているのですけれど、それは私の病気みたいなものなのです。ですから、実際のところ私は少しも進歩しなくて、ずっとしんがりに居座ったままです。──さて、こうしたこともすべて過ぎ去ったこと、変えようがありません。
 隣の部屋で、従姉妹のマルガレーテ・Jがブラームスの変ロ長調のコンチェルトを弾いています。あの有名なピアニストが今私たちの所にいるのです。ああ、あれから時代はどんなに変わってしまったことでしょう。(私たちがその曲をどうやって三手で弾いたか覚えておいでですか。)生きることは辛いこと……。

この手紙に対する返事には鉛筆で書いた下書きが残されている。ウィトゲンシュタインはそれを書類のあいだに挟んだままにしておいたのである。

拝復
 今日お手紙受け取りました。もちろん、本当に驚きました。でも、あなたのお思いになっておられるような不愉快な驚きではありません。それどころか、あなたと再び親しくする機会を運命が与えてくれたことに、ちょっとした幸運を感じております。けれどもいざ返事を書き始めてみると、あなたに返事を出すだけのために、言ってみればとにかく何か返事を出すということのために、私にとってはまったく不自然なことを書くか、それとも、私が実際に考えていることではあってもあなたには少しも理解できそうにないことを書くか、という問題にぶつかってしまいます。多少もっともらしく聞こえはするけれど、真実ではないために結局は理解できないことを書くよりは、私にとって自然で、たとえ難しくてもあなたに理解できそうな仕方で書いたほうがよいように思われます。
 何よりもまず、ケーニヒスベルクで私が高く評価されたかどうかは私にはどうでもよいということ、これはまったくあなたのおっしゃる通りです。どうひいき目に見ても、私には自分を高く評価することはできませんし、(例外もありますが)哲学や数学の教授たちの高い評価は、励みになるというよりは、私自身に対する批判的な判断を一層強くするだけです。(確かに、その二、三の例外的な人たちの高い評価で、私が自分自身と自分の研究について判断を誤ることはないでしょう──また、そうあってほしくないと思っています──。しかし個人的な好意としては、その評価を感謝して受け容れます。)ところで、あなたが学術(?)会議に出席したというところを読んで、私は激しい反感と嫌悪を覚えました。その反感や嫌悪は、教授夫人たちが会議に参加して「学会員たち」と議論を交わすということに対して、私が常々感じていることなのです。とはいっても、私がこんなことを書きますのも、そのことが私にはまったく無縁のものとなってしまった特質事柄一つの現れだから、というにすぎません。ベルリンにいたときにも、またのちになってさえ、私はこんな反感を覚えたことはありません。もっとあとになって、その反感が私の中でとても強くなり、それであなたとの相互理解や交際がとてもできなくなったのです。実際、今日いただいた手紙の一つ前の手紙、あなたのとても不幸な出来事のことをお知らせいただいた手紙を受け取って、あなたの不自然で新聞記者のような──こんな言葉をお許しください──お気持ちの表し方に、はなはだしい反感と、私たちのあいだには相容れないものがあるという感情とが起こり、理解し合おうなどという考えは馬鹿らしくなって捨ててしまったのです。
 けれども、まず最初に感謝と忠誠心とを抱かなくてはいけないのに、あんな感情に身を任せたのがいけなかったのだと、今ではわかっています(そして、そのときだって今ほどはっきりとではありませんがわかってはいたのです)。ですから、遺憾ながら、あなたに不実と責められても、たとえ事実はあなたの想像なさっていること──それももっともな想像なのですが──とはまったく違っていたとはいえ、仕方のないところがあります。ご主人を失望させるに違いないことは承知していましたし、また遺憾にも思っておりました。しかし、私の咎はそこにあるのではありません。と言いますのも、正しいことをすることが、まさしく多くの人々を失望させずにはおかなかったのですから。私の言いたいことは、私の咎は相互理解など問題外だと見なしたことにあるのではない、ということなのです。というのも、それは実際──また、おそらくは今でもやはり問題外だったからです。そうではなくて、感謝と忠誠心とをお互いの理解よりも重要ではないものとしたことに、私の咎があったのです。感謝と忠誠心に比べれば、お互いの理解などは少しも重要ではないのに、です。そういうわけで、結局私は礼儀正しくは振舞いませんでした。ですから、もし心からそうしていただけるなら、あなたとご主人に私の無礼を許していただきたいと願っております。さらに、あなたのお手紙の三つの箇所に感動したことも申し添えておきたいと思います。その一つは、私には私の流儀があり、それはあなたが口を出すべきことではないし、あなたもあなた自身の流儀で振舞わざるをえない、とお書きになっていたことです。それは真実ですし、私もよく同じことを考えます。次に、ケーニヒスベルクでの私の成功を喜んでくださったという一節もうれしく思いました。もっとも、それは「学会員たち」の評価について誤った値踏みをしているのですけれど。そして最後に、「生きることは辛いこと」というあの言葉。それは、私の心に響くものがありました……。

ウィトゲンシュタインは、このほかにもヨレス夫人の二通の手紙を保存していた。一つは、彼の率直なもの言いに感謝する旨の、前よりはずっと落ち着いた調子の返事であり、もう一通は一九三九年の手紙で、ウィトゲンシュタインがベルリンにきているあいだに会おうという計画(実現しなかった)について記されている。その際に彼女は、家族の思い出の品をいくつか、他の人ではなくまさしく彼に委ねたいと考えていたのである。その手紙は、老齢の寡婦暮らしの中で、しかも忍び寄る戦争の影に脅えながら書かれたものなので、やはり感情的になってはいる。しかし、それは諦めと永遠の別れへの予感という意味での感情である。

心よりあなたに挨拶を送ります。そして、ご多幸を祈ります。私が死んだら、親しみをこめて思い出してください。それと、あんまり悪口は言わないでください。
 時々あなたをうんざりさせたものは、たぶん無意識の愛情だったのでしょう。あるいは、意識的なものだったのかもしれません。

 これらの手紙からは、二人の交友関係についての漠然とした印象しか得られないが、この印象からでも、ウィトゲンシュタインに特徴的な多くのことが明らかになる。一緒に音楽を奏で、その際ウィトゲンシュがタインは一つのパートしか受け持たなかったものの、指揮の大部分はおそらく彼がしていた。ヨレス夫人の強烈な愛情は、最初こそ求められ歓迎されもしたが、その後かなり激しく拒絶されるようになった。彼女のもったいぶった仰々しさ(それこそ彼らを近づかせたものの一つであったのに、あたかもそうではなかったかのように)が嫌で、というのが表向きの理由だが、これはある程度は本当であった。しかしもっと深い理由は、彼女が彼のブライバシーを脅かしたからであった。そしてさらに次の段階では、彼は自分が愛情と忠誠心を欠いていたと自ら認めたのだった。彼はこのことをある手紙の中で慎重に、当然のことながら痛々しく表明し、彼が何に憤慨していたのかを、そしてそれは正当であるということを説明している。彼の手紙の中に見られる告白的な要素でさえ、ある意味ではその目的を半ばで撤回している。なぜなら、そこで目指されたことは、自らの冷淡さを認めることではなくて、暖かさを示すことであったからである。こうした特徴のために、親戚の中には、彼が罪の告白をしたときにはそれに対して批判的であった人もいた。彼らには、彼の告白は自分の欠点を直すというよりは、それを記録することを目指しているように見えたからである。それでもヨレス夫人の場合には、すべてを率直に説明するというやり方が効を奏し、その結果として以前より穏やかな第四の局面、つまり実際に親しくするというのではなくて、そうした関係を追憶するという局面を迎えることになった。こうした率直さによってのみ、自分との友情は可能となると考えていた点で(彼は多分にこれと似た手紙をたくさん書いているのだが)、ウィトゲンシュタインは正しかったのかもしれない。そして(今回がおそらくそうであるように)しばしば彼は、率直に語ることによって、文通の相手はどの程度の理解力があるかを正しく判断することができた。しかしながら、一般的に言って彼自身も理屈としてはわかっていたのだが──こうした友情の修復には手紙ではなくて実際に会うことが必要であった。しかも実際に会ったときでさえ、それは口で言われうる領域によりはむしろ示すことしかできないものの領域に属しているのである。どんな込み入った感情があってウィトゲンシュタインがこれらの手紙を保存していたのかは、想像することしかできない。しかしそれらは、それ自体がウィトゲンシュタインの態度における矛盾を証している。それらの手紙全体の主題もその証となっているが、そこからは彼が受け容れることのできる以上の愛情を求めていたということ、さらにはこの緊張状態を十分に自覚していたということもうかがい知ることができる。
 上に述べた印象は主に、ウィトゲンシュタインののちの発言から得られたものである。しかし、彼にはそのあいだに、先に引用した手紙の中で自ら語っているように(またそのほかにもしばしば言及しているように)、ある変化が生じた。その変化は、一つには、年齢的に成長して自分の能力を一層確信するようになり、自分の望むことがより明確になった、ということであるにすぎない。学生になって最初の数年間は、彼は明らかにヨレス夫人からの心づかいと親しい交際とを、そして彼女の夫からの愛情と期待とを受け容れていた。しかしその後、彼は自分の道を行かねばならないと思い至り、そのためヨレス教授は、前途有望な生徒が自分の指導を払いのけ、自分のとはまったく異なった一連の研究や実験に夢中になるのを目のあたりにすることになったのである。そして、その研究や実験はどれも、いかなる成果にも達しないうちに新しい問題を次々に生み出していくような類のものであった。ウィトゲンシュタインはこの過程を進み、戦争によって歪められるというよりはむしろ促進されることになったある発展を経て、ついには学校の教師となったのであった。『論考』の成功や価値、あるいはその存在すら知らない人には、こうした発展過程は意味のない回り道だったと思われるであろう。ところが実際には、命題を像として捉えるというこの著作の中心的な考えの一つは、ヨレス教授の専門に関する考察に負うところが大きい。彼の専門は、画法幾何学(立体やその他の図形を一つの平面内に描くことによって、三次元的に表す方法の研究)と図式力学(力の体系を図式的に還元し、その合力や偶力や平衡を示す方法)であった。ヨレス夫人に関して言えば、ありそうなとは言っても単なる推測にすぎないのだが、彼にとってベルリンから離れることは彼女のうっとうしい愛情から離れることを意味したのであろう。それでも戦争中はまだ、彼女の愛情も喜ばしいものだった。心のこもった彼女からの手紙は、イギリスにいるケインズからの事務的でそっけない便りを受け取ったあとでは、慰めとなったからである。しかし、戦後彼は自らの人生の問題を解決しようとしゃにむに努め、彼女との縁を他の多くの人のつながりもろとも最終的に切ってしまった(ように思われる)。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインがグロサップの研究観測所にきたのは一九〇八年の夏で、どうやらシャルロッテンブルクを去ってすぐのことのようである。当然のことながら、観測所には夏の数カ月間はいつもより十分な人員が配置されており、また凧や気球の上昇実験もより頻繁に行われていた。どうも取り決めがあったらしく、それによるとウィトゲンシュタインは自分の凧で実験するために機械類を使用してもよいが、ささやかなお返しとして、計器を積んだ凧を制作したり飛ばしたり回収したりするのを手伝うことになっており、そして実際、そういった凧はその夏中ひっきりなしに揚げられていたのである。観測所はグロサップから三マイルほどの所にあり、近くには当時ぽつんと一軒「雷鳥荘」という旅館があるだけだった。そこは主に猟場として使われていた荒れ地の中に位置しており、その荒れ地をとぼとぼと歩いて凧や引き綱を回収しに行くことが科学者には許されていた。道路はほとんどなかったし、あってもめったに使われていなかったのである。観測員たち──と科学者たちは呼ばれていた──は、よくその旅館に泊まって居間を共同で使ったものだった。一九〇八年五月二九日付の姉ヘルミーネ宛の手紙(現存するウィトゲンシュタインの手紙の中で最も古いものと思われる)の中には、彼と気象観測員のリマー氏、それに宿の主人夫婦だけとの暮らしぶりが書かれている。食べ物と洗面所の設備がかなり「田舎風」で、これにはなかなかなじめないと彼は不平をこぼしている(こういった不平は、総じて見れば、少なくとも食べ物に関しては、のちの彼にはまったく見られない)。彼自身の仕事はと言えば、これまで外注に頼っていた服を自前で調達することであった。それまではただ観測するばかりだったのが、今や凧を制作することができるようになったのである。その頃の彼は友達がほしいと思っており、日曜日に観測所にやってくる学生たちに期待をかけていた。また、彼はよく眠れており、(彼らしい手紙の結びであるが)「私自身の自我が私を始終さいなみさえしなければ、ここでは当分快適に過ごせるはず」であった。友達ができたのは、ウィリアム・エクルズが交替観測員としてやってきたときと思われる。このときエクルズは、ウィトゲンシュタインの本や書類で散らかり放題になっているテーブルを見るや、それらをすっかり整頓し本をきちんと積み重ねたのだった。こうした気取りのない振舞いにウィトゲンシュタインは引かれるところがあり、また同時にそれを喜んだ。こうして二人は、数週間のあいだ小さな旅館で生活を共にするのに必要となる程度を越えて、友情が深まったのだった。
 エクルズは、ウィトゲンシュタインより四つ年上の専門技術者であり、表向きは確かに気象学上の研究計画の手伝いをしながら研究を行っていたものの、適当な職を待つというのが主なところであった。一九○九年の八月に突然ウェスティングハウス社就職の話が持ちあがり、その後定年まで勤めることになるのだが、最初の数年はマンチェスターが勤務地であった。ウィトゲンシュタインがエクルズに語ったところによると、自分たちが一緒にとてもうまくやっていけたのは、エクルズが彼の心を和やかにしてくれたからだという。(当時工学部にいた)J・バンバーの言もその事実を裏づけている。彼によれば、エクルズや、あの荒れ地でウィトゲンシュタインが出会ったもう一人の友人であるブラッドリも、ウィトゲンシュタインとはまったく正反対の気性であったという。エクルズは確かに類を見ないほどあけっぴろげで快活で、しかも人なつこいたちだった。決して愚かというのではなくて、こだわらない性格なのだった。もっともそれは、行動を起こす際に他人の思惑といったものを考えて人生を込み入ったものにしたりはしない、という意味である。世間で言われていることを鵜呑みにするのではなく、物事をあるがままに捉えた。だから、彼にとってはウィトゲンシュタインも滑稽な外国人などではなく、外国なまりのアクセントにもわざわざ耳をそばだてたりはしなかった。ウィトゲンシュタインが物思いにふけって邪魔されるのを嫌がっをたとしても、それもエクルズにしてみればウィトゲンシュタインについての一つの事実であって、誰でも十分簡単に合わせてやれるはずのことであった。彼らはよく技術的な問題について話し合ったが、そうした問題としては、ウィトゲンシュタインの研究から生ずるものよりは二人が共同で携わっている研究からのもののほうが多かった。エクルズにはウィトゲンシュタインがどの学科にもそれほど精通しているとは思われなかったけれど──一九歳で精通していたらそれこそ驚きである──ウィトゲンシュタインの発明の才には感服していた。彼はよく、鍵は掛かっていないのに知らない人には開けるのが難しいドアのことを例にあげていたが、ウィトゲンシュタインはこういう場合、取手は押し下げるのではなく引きあげればよいとすぐに閃くのである。この点でエクルズは、自分のほうもウィトゲンシュタインにそうした印象を与えていると考えていたし、また、問題を分析しその本質を明らかにする能力によって事の真相に迫ろうとするという点で、いくぶん自分は彼に似ているとも考えていた。
 ウィトゲンシュタインはエクルズに、君はこれまでの生涯でただ一人の友であると語っていた。これはウィトゲンシュタインが以前よくやっていた類の告白であるが、また実際、その頃の二人は共にかなり孤独であった。二人の友情がどのくらい深いものであったのかを判断するのは難しいとしても、ウィトゲンシュタインが友人(のちには一家の使用人になった)のポスルに次のように説明したことは、彼自身の特徴をよく示している。つまり、「僕は善人の収集家なんだ」と語ったのである。彼は気取りのなさと率直さをとくに好んだのであり、彼自身もそうありたいとずっと努めてきたのであった。二人はもちろん個人的なことについても語り合った。ウィトゲンシュタインはエクルズに、母や(当時の彼の生活の中では重要な位置を占めていた)姉のヘルミーネのこと、そして、あまりに聡明で何でもできたために自殺してしまった兄(おそらくはハンス)のことも語った。とは言っても総じて二人の話は、とくに将来のことや今後の計画のことになると、エクルズの身の処し方のほうに重点があった。エクルズはどこに働きにいったらよいのか、家はどんなふうにしつらえたらよいのか、というのが、エクルズが書き写しておいた戦前の手紙二通の話題である。若いほうが主導権を握っていながら、気にさわることなどなかった、というのは特筆に値する。つまり、こうした関係が二人には合っていたのである。
 エクルズの報告には、ウィトゲンシュタインの友人関係の中に繰り返し現れるもう一つの特徴も示されている。つまり、彼の友人関係は長い期間共に過ごすかどうかにかかっている、あるいは、共に過ごすことから生じてくるのであった。観測所での仕事は骨の折れるものであるうえ、休む間もなかった。ときには日に八回から一〇回も凧を揚げ、夜の九時一〇時になることもよくあった。凧は五千フィートの高さまで揚げられ、そのため当然、連凧にする必要があった。凧はよく切れて飛んで行ったり落ちたりしたから、それだけの長い距離を歩いて回収しに行かねばならなかった。また、嵐の危険もあった。エクルズとウィトゲンシュタインはペタヴェルと同じように、そういう危険にもさらされていたのである。
 一九〇八年の夏、最初の友情の期間はこのようにしてすぎた。けれども、二人がマンチェスターにいた翌年も友情は続いていた。ウィトゲンシュタインはエクルズのおばムーア夫人の家に彼と連れ立ってよく出かけたものだが、彼女は、テレビ番組「戴冠式通り」で今も知られている、あのマンチェスターの貧民街に住む医者の妻であった。どちらかと言えば慎ましく、質素で実質を重んじるそこの人たちの暮らしぶりは、ウィトゲンシュタインの心に訴えるものがあった。彼は無心の友情やちょっとした気づかいが好きだった。ささやかだが心をこめて選んだ贈り物に、彼らしさがよく表れている。エクルズは、一風変わってはいるがどこか人を引きつけるビスケットの小箱を生涯とっておいたが、それはウィトゲンシュタインからムーア夫人への贈り物の空き箱であった。二人はよく一緒にちょっとした遠出にも出かけた(徒歩旅行はしなかった。というのも、あの荒れ地での仕事はもっぱら歩くことだったから)。語り草になっているのは、ウィトゲンシュタインがブラックプール見物に行きたいと言い出したときの出来事である。そのとき彼は、定時の列車に都合のよいのがないので、特別列車を仕立てようとしたのである。それはエクルズに説得されてやめにしたが、その代わりマージサイドまで行って船遊びをするという(当時はかなり高くついたに違いない)贅沢にふけった。あげくにはさらに足を延ばして、アイルランド北部にあるエクルズの家族の家まで訪れることになったのである。
 二人には合わないところもいくつかあった。エクルズにしてみれば、ウィトゲンシュタインはたいして読書家ではないという印象(もっとも、これは誤った印象であり、あの旅館「雷鳥荘」についての彼自身の話とも一部矛盾する)を持っていたし、エクルズのほうも音楽に対してはあまり耳のあるほうではなかった。それでも時々はウィトゲンシュタインと一緒にハレ管弦楽団のコンサートに行ったり、エクルズにとっては「交響曲全曲」と思えるものを、ウィトゲンシュタインが口笛で吹き通すのを最後まで聴いたりはしていた。見たことのある人は皆そうなのだが、エクルズもウィトゲンシュタインが音楽に耳を傾けるときのあまりに激しい集中度に感銘を受けている。おそらく、二人の性格やものの考え方が違っていたために、かえって関係が荒々しいものとはならなかったのだろう。二人とも、自分と同じ嗜好やものの受け取り方を相手に期待しようという気は起こらなかったのである。ことによっては、エクルズが自覚していた以上に二人には共通点があったのかもしれない。エクルズは、通のウィトゲンシュタインとは違って自分はまったくの芸術音痴だと思っていたが、エクルズの新しい家の設備のことで二人が議論したときは、装飾を排するということで意見が一致している(たいていはウィトゲンシュタインのほうが批評家で指導者であった)。たとえば、ウィトゲンシュタインは一九一四年六月に、エクルズに次のような手紙を出している。

僕にはベッドの図面なんか想像もつきません。それとも、君は家具職人が出してきた図面を採ろうというつもりなのですか。そうだとしたら、あの下品な飾りのついた端っこはみんな切り取ってしまうよう強く主張なさい。それに、どうしてベッドにキャスターなんかいるんです。まさかベッドに乗って家の中を動きまわろうというんじゃないでしょう? このあたりは、ぜひとも君の設計で別のものを作ってもらってください。

このとき同時に、ウィトゲンシュタインは洋服箪笥や救急箱などのためにエクルズが作った、きわめて単純で何の装飾もない引き出しをほめている。彼が望んだのは(当時としては一層伝統に反したことであったが)、ドアの水平な棧を真ん中に取りつけて、上下の鏡板が同じ長さになるようにすることぐらいであった。あとになって──少なくとも、これがのちの時期に属すというのはエクルズの回想なのだが──部屋の装飾に関しては、ウィトゲンシュタインはエクルズ家の人々を説いて、部屋のカーペットはロイヤルブルー一色に、木の部分は黒に、そして壁は黄色にするよう計画させた。ウィーンの工房をまねたのである。
 ウィトゲンシュタインはエクルズの性格ばかりではなく、彼のようなタイプの知性をも素晴らしいと思っていた。実際、この二つは、何事にもとらわれることのない探究心旺盛な精神の二つの側面であった。ウィトゲンシュタインに言わせれば、エクルズは十二分に経験を活用することのできる人であった。というのも、彼は自分の経験をいつもしっかりと活かしていたからである。率直・冷静・円満、それに、幸せや本物の男の友情を追求しうる能力──ウィトゲンシュタインが友達になる人というのは、こういう性質を持つ人たちであった。のちの友人から例をあげると、レイモンド・プリーストリがそうである。エクルズには生来、世の中の有為転変にも自分を失わず、自分を評価してくれる人にはいつでも応えるだけのものを備えていた。これは確かにその通りであったろうし、また自分の写真をエクルズに贈る際にウィトゲンシュタインが添えた言葉の意味でもあったろう。もっとも、エクルズはその言葉の本当の意味について気にかけることは決してなかった。それにはこう書かれていた。

時は多くを与え、また奪うもの。けれども君の勝ち得たこんなにも素晴らしい友人たち、その友情がいつまでも君の喜びでありますように。

ウィトゲンシュタインにはこの友のことがよくわかっていた。印象的なことに、いくぶん愛情をこめすぎた戦時中の手紙にエクルズが返事を書かなかったのは、(書けない事情はいくらもありえたのだが)実際のところ、敵との文通にためらいを感じたからだとウィトゲンシュタインにはすぐにわかった。そのようなためらいは、ウィトゲンシュタインとケンブリッジの世慣れた友人たちとのあいだでは、少しも考慮に値しない類の配慮なのであった。
 エクルズとウィトゲンシュタインが出会ったのは、一九〇八年の夏の、あの荒れ地でのことであった。次年度には、ウィトゲンシュタインは週に五日勤務する研究生としてマンチェスター大学の工学部に登録された。この間の事情について、エクルズとメイズは次のように説明している。

凧を使った彼の実験研究は長くは続かなかった。ある形式のエンジンが利用可能となるまでは、航空機の開発には意味がないと彼はすぐに悟ったからである。幸運にも、彼の試作エンジンの設計図が現存している。プロペラの羽根一枚一枚の先端に反動推進ジェットを取りつけるというアイデアに、彼がどのようにして到達したのかは知られていない。しかし間もなく彼は、ジェットの噴出ノズルが何よりも重要であることに気づき、それにつれて関心も、グロサップの荒れ地から工学部の研究所へと移っていった。研究所で彼は、近くのクック商会に容量可変型燃焼室を組み立ててもらい、さまざまな燃料噴霧器やガス噴出ノズル用にそれを調整してもらったのである。
 その装置全体は職人的なたくみさで目的にふさわしく組み立てられており、上部の噴出ノズルから出る高熱ガスの噴流はそらせ板〔デフレクター〕にあたるようになっていて、そこでその反動を測定することができた。この装置はうまく作動したものの、それを使った実験研究がそれほど行われないうちに、ウィトゲンシュタインはプロペラの設計に興味を持つようになった。しかも、これは完全に数学的処理の問題であったために、数学に対する彼の関心が深まり、とうとう今度はプロペラまで忘れ去られてしまった。
 プロペラの羽根の先端に接線方向むきに反動ノズルを取りつけ、これと燃焼室をつなぐというウィトゲンシュタインのアイデアが実用化されたことは注目に値する。第二次世界大戦中にオーストリアの設計技師ドブルホフがヘリコプターの回転翼として実用化し、現在ではフェアリー社などでジェット・ヘリコプター〔ジャイロダイン〕用に採用されている。

この説明は図式的にすぎる。しかも、エクルズはウィトゲンシュタインがやっていたことを何もかも知っていたわけではないということも、思い出してしかるべきである。ウィトゲンシュタインは研究所での研究を始めてからもなお、凧にはいくらか興味を持ち続けていたようである。というのも、一九○九─一〇年の大学便覧には、あの観測所の「無給観測員」として彼の名が載っているからである。それに、すぐあとで見るように、彼は一九〇九年四月以前に数学の基礎について考えていた、ということもわかっている。おそらく彼の進歩は、エクルズが想像していたほど直線的なものではなかったのであろう。結局のところ、飛行機械にはエンジンが必要となるということは、マンチェスターに行く前から気づいていたと考えねばならないし、また、マンチェスター時代の終わりにケンブリッジに行ったときにもまだ、自分のことを航空士あるいは飛行家志望と称していたのである。ともかく、航空学の研究をしているかぎりは、機械を自分で設計・製作して飛ばすことが彼の目的であったように思われる。当時は、そういう抱負を持つこと自体はもっともなことであった。ウィトゲンシュタインがこの計画を開始したのは、ライト兄弟が従来のものよりも数百倍も長い距離を飛ぶ動力飛行をなし遂げて名声を博する前のことである。だが、理論的に見て、航空学において最も見込みのある発展の方向は、操縦可能な飛行船ではなくてプロペラ推進の飛行機であることは、ずっと以前から──ボルツマンは一八九四年の講義でこの見解を表明している──明らかだった。ボルツマンはマクシムがすでにそのような機械を飛ばしたあとに語ったのだが、そのとき、これを操縦するのは途放もなく困難であることがわかった。これを克服し方策を見つけるのは、天才であり同時に英雄でもあるような人の仕事である、とボルツマンは考えた。一九〇八年当時、動力飛行のほとんどすべての局論はまだ試行錯誤の段階だった。エクルズはあの荒れ地での実験に携わって、動力飛行には幻減していたが、それは当時の航空学の状況をよく示している。あらゆる形態の翼が試され、死者の出る事故もままあった。風洞が使用されて従来の翼の形や機体の設計に進展が見られたのは、やっと動力飛行が成功したその年であった。エンジンもまた決定的な要因だった。忘れてはならないのだが、ウィトゲンシュタインがこの問題に実際に取りかかったあの時代までは、どんな飛行機械もまだ継続飛行ができるほど十分に軽くかつ強力なエンジンは装備されていなかった。確かに、ガソリン・エンジンが開発されて、マクシムの蒸気エンジンのように大きなものは必要なくなった。ライト兄弟は改良型発動機エンジンを備えつけていたし、フランス人〔グノーム〕はその数年後に航空機用のロータリー・エンジンを開発した。ウィトゲンシュタインの計画は技巧に走りすぎていたのかもしれない。あんな実験的なエンジンを飛行機械に取りつけるのは、かなり無謀であったと言えよう。在来型のガソリン・エンジンを取りつけた場合でさえ、実際に飛ばす際の主要な問題の一つは、エンジンに対する信頼性の問題だったからである。だがそれでも、彼の計画は当時の緊急の問題に対処しようという試みだったのであり、想像的とは言えるかもしれないが、当時提案されていた多くのものと同様、決して空想的なものではなかったのである。マンチェスター地区の使われていない鉄道線路上で、いくつかのエンジンが試されており、かなりの程度の進展ががうかがえる。しかしながら、ウィトゲンシュタイン自身が実際に飛んだかどうかはわからない。彼にそのつもりがあったのは確かで、ラッセルも彼と知り合った当初は、彼のことを時々飛行家とか航空士と呼んでいた。彼が実際に飛んだということは大いにありうる。誰も聞いていないからなかったのだ、とは言えまい。というのも、彼は友人たちに話す際には、内容をよくよく選んだうえで話していたからである。自らの生活については明らかにしようとはせず、たまに、ことのついでに逸話を語る程度だった。それにもちろん、語ったことのすべてが記録されているわけではない。
 これらマンチェスターでのさまざまな計画は、数週間で終わる研究ではなく数年を要するものであった。実際彼はそこで三年を過ごし、少なくとも四年目も過ごすつもりではいたのである。彼は変わり者のように見えた、とリトルウッドは言っている。当時工学部にいたバンバーとメイソンも共に、彼のことを、魅力的ではあるが神経質なあるいは興奮しやすい質と評している。日常的な物事における極度の几帳面さと魅力的な物腰、それらが、激しさや集中、それに、重要なことをしているときに妨げられたり邪魔されたりすることへの極度の嫌悪と一つになっていた。これがイギリス人の目には、変わっている、と映ったののである。(バンバーが言うには)「彼は気体の燃焼に関する研究を行っていたのだが、神経質な気質のためにそのような研究に取り組むにはまったく不向きな人間だった。というのも、事がうまく運ばないことがよくあって、そういうときに彼はよく腕を振り回し、足を踏み鳴らして歩き回り、さらにはドイツ語でさかんに罵ったりしていたからである」。彼はよく昼休みを無視して、夕方まで実験を続けた。一九〇九年の秋に、メイソンはウィトゲンシュタインが理学部から工学部の新しい実験室に移したある重い装置を、手伝って据えつけたことがあった。それは、高圧ガスの研究に用いられる頑丈なコンプレッサーの一部だった。そのメイソンに言わせれば、彼は「魅力的で熱中しやすい男だが、当時はまだ工学機械の扱いや組み立てにあまり慣れていなかった」。この人物評は重要である。つまり、彼はまだ初学者だったのである。ところが、第一次世界大戦の頃には、砲兵隊作業場での作業に関して優れた指揮官となっていた。
 ウィトゲンシュタイン自身はその「神経質な気質」を一層深刻に受けとめていた。それは、彼にとっていつまでも心をうずかせる自我の一側面だった。だから、姉ヘルミーネに宛てた別の手紙(グロサップ発、一九〇八年一〇月二〇日の日付がある)に、まず自分の研究のこと──教授のラムには「私の方程式が現在の方法で解けるかどうかわからないのだ」ということ──を書き、次いでいかにも彼らしい個人的問題を続けている。「私の邪悪な霊は、私の中に想像しうるかぎり最も嫌な気分を引き起こすのです」。ラムと話し合ったあと、ウィトゲンシュタインは製図室に入り、彼にとっては「大変危険な人物」であるそこの助手に会う。そして、製図の仕方についてその男を叱り始めた。その助手があんまり平然としているのでかっとなり、ますます苛立った。だがそのとき、折よく助手が呼び出されたので、彼も正気に戻った。これは、第一次世界大戦以前およびその後の教師時代に共通するパターンであった。つまり、ある人たちに対して彼は過敏になり、あまりに荒々しく反応してしまったり本性をさらけ出してしまったりするがゆえに、そういう人たちは彼にとっては危険だったのである。彼はありのままに自然でいたいと願っていたのだが、こういう場合、無意識的な反応がきっかけに比して不釣合いなほど過剰になり、彼としては嫌だと思いつつも抑制することができなかった。さらに不快なことには、自分自身の反応の荒々しさを嫌悪してはいても、それを引き起こす本当の欠点、つまり相手の「だらしなさ」あるいは品性の卑しさを容赦することはやはりできなかったのである。
 マンチェスター大学の記録によれば、工学実験室の研究生としてのウィトゲンシュタインの登録は、一九〇九─一〇年の学期も更新されている。そのあいだはまた、すでに述べたように、あの凧観測所の無給観測員でもあった。一九一〇年と一九一一年にも大学の評議会から研究奨学生に選ばれている。もっとも、この二年目の奨学生は辞退した。これはちょっとした名誉であり、少なくとも当時は彼が真面目な学生と見られていたことを示している。財政的な点から言えば、これは彼にはほとんど意味がなかった。凧や燃焼室を使った実験に彼は自分で費用を出していたようだし、あの荒れ地に小屋を建てさせたりもしていたようである。だから、概して彼は派手な暮らしをしていたわけではないとしても、いわゆる金持ちの生活をしていたのである。エクルズの見積もりによれば、年に五千ポンドの収入があり、これは当時としては莫大な額である。当然のことながら、エクルズの心にはあの特別列車を仕立てようとしたエピソードが焼きついていたのである。バンバーはファローフィールドの下宿屋のことに触れているが、そこでのウィトゲンシュタインの唯一の気晴らしは、とても熱い風呂に入ってのんびりすることであったという(ウィトゲンシュタインの無邪気な自慢の種はいろいろあって、この場合で言えば、湯がどんなに熱かったかというものである)。彼の一九一一年の住所はパラタイン通り一〇四番地(現在は一五四番地)であったことがわかっており、パラタイン通りはウィズィントンとウエスト・ディズベリーとの境界線上にある。ファローフィールドは隣接地区なために、そこに下宿屋があったというのはバンバーのちょっとした記憶違いであろう。そこは、成功したユダヤ人やアルメニア人の住まいも少なからず点在する、快適で広々とした邸宅からなる一画だったということに少し興味を覚える。特に一〇四番地の家は普通なら下宿人を置くような家ではなかったし、ウィーンのウィトゲンシュタイン家の親戚筋が考えるように、彼を置いてくれるような一家の友人が見つかったのかもしれない。いずれにしても、快適な暮らしだったのであり、ウィトケンシュタインレおそらく趣味のうるさいところは見せたが、他の人たちと共に荒れ地でかなり厳しい生活を我慢したというのを別にすれば、他一流の質素な生活はまだ少しも表に現れなかった。彼は服装に気をつけ、見るからに高価そうな装いをしていた。マンチェスターの活気ある音楽活動を大いに享受していて、ヴァーグナータベートーヴェン、ブラームスといったどちらかと言えば重厚な作曲家のハレ管弦楽団コンサートによく行ったこと、それを聴く際の集中度、そしてそういうときに音楽について語る熱心さ、これらは語り草となっている。
 マンチェスターでは三年間暮らした。ウィトゲンシュタインが再びこれほど長きにわたって一つ所に暮らすのは、二〇年ものちのことである。そこで、あるいはそことシャルロッテンブルクにいたあいだに、彼は多くのことを学んだものと思われる。だが、この三年間は、人々の耳目を集めるとか持てる力が外に現れ出るといった時期ではなかった。魅力的で、移り気で、有能で、常軌を逸したところがある──ただそれだけの人物だったと言えなくもない。しかし、いずれ卵の殻を破って出てこなければならなかった。一つには、そこには、ラッセルがのちに与えてくれるような刺激が欠けていたし、また一つには(それに関連することだが)、彼はまだ自分の天職を探し求めているところだった。彼の携わっていた計画はどれをとっても中途半端に終わったし、そのうちのいくつかなどは、あまりに野心的であったために最初から失敗する運命にあった。思うに、息子のうち一人ぐらいは一廉の人物になってもらいたいという父の望みを、彼はかなえようとはしていたのだが、心がついてこなかったために、自分の個人的な計画については十分な熱意を持っていたにもかかわらず、事をなし遂げようというほどの決意は持たなかった、というところなのであろう。
第四章 ケンブリッジ 1911─12

 一九一一年の秋に、ウィトゲンシュタインは、のちに決定的な意味を持つようになる一歩を踏み出す。当初の計画に従ってマンチェスターに戻る代わりに、彼はケンブリッジに行き、ラッセルの授業に出ることにしたのである。ラッセルとの事前の交渉は一切なかったし、ユニヴァーシティや各コレジに対しても同様であった。そのため一九一二年の二月まで、ウィトゲンシュタインは大学への入学を許可されなかった。あらゆるしるしに照らして、彼のケンブリッジ行きは衝動的になされた決断であり、一種の実験だったようである。ケンブリッジ行きまでの経緯については、これまでにもさまざまな説明がなされてきた。ウィトゲンシュタイン自身から聞いた話としてフォン・ウリクトが伝えるところによれば、当初彼は飛行機の製作に関心を抱いていたが、それがエンジン製造の関心へと変わり、さらにプロペラ設計へと興味の対象が移ったあと、この問題の数学的解決に没頭するようになって、ついには数学の基礎に関心を寄せるようになったのである。先に見たエクルズの説明も、これと一致する。『自伝』やウィトゲンシュタインの死後に出された回顧録におけるラッセルの説明も同様である。

ウィトゲンシュタインはエンジニアになろうと思い、そのためにマンチェスターへ行った。数学書を読むうち、彼は数学の原理に関心を覚え、誰かこのテーマを研究している者がいないかどうか、マンチェスターで尋ねた。誰かが私の名を教え、こうして彼は、トリニティ・コレジに居を定めたのである。

〔…〕

 こうしてケンブリッシでのウィトゲンシュタインの最初の、非公式で暫定的な学期が終わった。彼とラッセルとの間柄は、まださほど親密ではなかった。彼は着想は持っていたものの、まだ何も書いていなかったし、ラッセルに見せられるようなものは何もなかった。彼にはケンブリッジの社会がどんなものなのか、まだよくわかっていなかった。実際彼は、ラッセル以外の誰とも会わず、哲学と、哲学に一生をささげるべきかどうかという問いとに、すっかり没頭していたようである。どのような錯綜した個人的事情がこの不安にからんでいたのかは、正確にはわからない。彼の父はその頃、死の床に就いていた。それでも父はその後なお二年間生きた。しかし、ルートヴィヒがオーストリアを離れた頃から、カールの活力は失せ、辛辣な記事も新聞には載らなくなり、彼は家族のための生活を送るようになった。確かに彼は、ルートヴィヒにエンジニアになれとは言わなくなった。しかし、父親のこの思いは、ルートヴィヒにはよくわかっていた(そして実際、一九一二年三月以前に、ラッセルにそう語っている)。カールは他の息子たちには全員失望し、ルートヴィヒには工学のような何かまともなことをし、哲学などといった馬鹿げたことに時間をつぶすことのないよう念願していた。カールの状態は、将来の仕事に関する問題を深刻にしただけであった。このため、またその他の理由もあって、ルートヴィヒは暗鬱な気分に悩まされ、それに加えて、彼は自らの本性を苦痛に感じていた。彼がこれらの問題にある解決を見出したのは、ウィーンに戻っていたこの頃、およびその後のクリスマス休暇のあいだであったようである。翌六月には、彼はその解決について、新しい友、デイヴィド・ピンセントと話し合った。ピンセントは、日記に以下のように記している。

彼は非常に多弁で、自らについていろいろと話した。昨年のクリスマスまで九年間ものあいだ、彼はひどく(物理的ではなく精神的な)孤独に苦しんだ。その頃にはいつも自殺することを考えたが、そうするだけの度胸がなかったのを恥ずかしく思っている。彼が言うには、彼は自分がこの世で無用の存在であることをそれとなく感じ取っていたのだが、卑劣にもそれを無視してきたのである。彼はエンジニアになるよう育てられたが、それには興味も才能も持っていなかった。そしてつい最近、彼は哲学をやってみたいと思い、ラッセルのもとで勉強するためにここにきた。これは彼にとって救いとなった。というのは、ラッセルは彼を励ましたからである。

彼が能力を発揮し出し、研究能力と人々に対する影響力を示し始めたのは、この休暇後からであった。哲学に向かっての変化は、彼がピンセントにした話とは少し違って、おそらくそれほど急激なものではなかった。この休暇後でさえ、変化はしばしば中断し、自己猜疑の時期が訪れたのである。それでも、クリスマス中に何らかの心境の変化が生じたように思われる。一つの可能性として考えられるのは、自分にはものが書けると知ったことである。これは常に彼にとって、精神の安定を示す何よりのしるしであった。彼は宗教に関連するある出来事をマルコムに語ったが、その出来事もこの時期のことであろうと思われる。

彼が話してくれたところによると、彼は少年の頃には宗教を軽蔑していたが、二一歳ぐらいの頃に、あることがきっかけとなって彼の心に変化が生じた。ウィーンで彼は、ある芝居を見た。ありきたりの劇であったが、その中の登場人物の一人が、世界に何が起ころうとも、自分には悪いことなど起こりはしない──自分は運命や周囲の事情に左右されることはない、という考えを表明したのである。ウィトゲンシュタインはこのストア的な考えに感銘を受け、初めて宗教の可能性に目を開いた。

 その芝居というのは、ルートヴィヒ・アンツェングルーバーの『十字を書く人々』である。宗教に対するウィトゲンシュタインの開眼は、一人の登場人物が自分の受けた「特別な啓示」ないし「霊感」を述べる場面と関連している。それまでのその男の生活は、いかなる慰めもない惨めなものであったが、ある日彼は、今はの際に立ったと思い、陽光ふりそそぐ中、丈の高い草の中に身を投げた。晩になって再び我に返ると、苦痛はなくなっており、さっきの陽光が身体の中に入ったかのごとく、えも言われぬ喜悦に包まれ、次のように語りかけられているかのように思った。「何事もおまえには起こりはしない! 最悪の苦難さえ、すぎてしまえば何でもない。おまえが草葉の陰に眠ろうとも、あるいは幾千回となくそうした悲惨な目に遭おうとも、何事もおまえには起こりはしない! おまえは万物の一部であり、万物はおまえの一部なのだ。何事もおまえには起こりはしない!」「何事もおまえには起こりはしない」という言葉は、ウィーンではほとんど慣用句になっていた。ウィトゲンシュタインは、やがて再びこの言葉に立ち返ることになる。
 一月に、ウィトゲンシュタインはケンブリッジに戻った。ラッセルの目には、「とても元気」そうに見えた。たずさえてきたのは「休暇中に書いた草稿で、とても優れており、私のイギリス人の学生のよりも、ずっとよく書けています。彼を励ましてやろうと思います。ことによると彼は、偉大なことをなし遂げるかもしれません。しかし他方、彼が哲学に嫌気がさしてしまうということも、大いにありうると思っています」(一月二三日の手紙)。一週間後に彼は別の草稿を持ってきたが、彼は哲学を続けるに値する人物であるという決定がすでになされていたのは、間違いない。というのは、一月一日に、彼はトリニティ・コレジの一員として受け容れられたからである。J・W・L・グレイシャーが彼のチューターになった。

〔…〕

 続く二学期のあいだ、二人はますます頻繁に会うようになる。ウィトゲンシュタインはラッセルの授業に最もよく出てくる聴講者であり、学生たちがケンブリッジでの一年の区切りとなっている優等卒業試験、ボート・シーズン、舞踏会などを迎える時期には、ただ一人の聴講者であった。彼はしばしば授業後もラッセルのもとにやってきたが、ときにはバラとかスズランといった大陸的な趣味のプレゼントをたずさえていた。彼はよくラッセルと昼食を共にし、その後、長い散歩に出たものであった。彼はケンブリッジを取り巻く草原が好きだった。下オーストリアの丘陵地帯よりもウィーンのプラーターの草原のほうをずっと好む者の目には、ケンブリッジ以上に好ましい場所に立地している町は、ほかにありえなかったであろう。しかしラッセルは、さらにその先の野原へと彼を連れ出した。二人は野原に寝そべり、ひばりやカッコーの声に耳を傾け、さらにマディングリのまわりに広がる私有森の中へ侵入していった。

驚いたことに、ウィトゲンシュタインは木に登り始めた。大分上まで登ったときに、猟場管理人が銃を持って現れ、侵入をとがめた。私は上にいるウィトゲンシュタインに呼びかけ、一分以内におりてくれば発砲しないと約束してくれていると告げた。彼は私の言葉を信じ、おりてきた。

他愛のない奇行や子どもじみた冗談は、ウィトゲンシュタイン流の気晴らしとして、その後も続けられた。些末な規則にとらわれない貴族主義的な態度は、彼とラッセルに共通していた。二〇年後にも、彼はリーヴィスに同じような私有地の侵犯をもちかけたが、その際には財産や礼節というイギリスの伝統的価値観、貴族主義的態度とは異なるもっと中心的な伝統的価値観に基づく非難を受けた。ラッセルとウィトゲンシュタインは、しばしば午後のお茶を共にした。五時から七時までは、通常、仕事のための時間であり、ウィトゲンシュタインは時折ホールでの夕食(通常七時四五分からであったらしい)の前にラッセルを訪問した。ウィトゲンシュタインがラッセルと、あるいは他の知り合いと一緒にハイ・テーブルについて食事をしたということはなかったようであるが(研究生をその席に招くのは異例であったであろう)、二人は一緒にユニオン・ソサイエティで食事をしたり、私的な夕食会に出ていたらしい。夕食後に何らかの団体の会合があって、あるテーマでの議論が交わされたりしたときなどには、会合のあとで二人はそれについて辛辣な言葉で語り合い、夜更けに別れる、という次第になる。その時間は非常に遅く、朝早く起きるのはまずもって無理であった。夕食後には、同じような成り行きになるラッセル主催の「イブニング」が開かれることもあったし、また、コンサートが催されることもあった。ウィトゲンシュタインは会合のあと、ラッセルの部屋に再び行き、夜半まで話し込むこともよくあった。ただしこの頃までは、まだ毎晩というわけでもなく、失望して帰るという具合でもなかった。
 こうした一日の行動パターン──その一切合財をラッセルとウィトゲンシュタインがいつも、ないししばしば共にしていたというわけではないが──は、旧い大学では一九五〇年代まで残っていた生活様式をい示すものとして、興味深い。それは、この二人の奇癖ではなかったのである。ウィトゲンシュタインは(友人になったときには)他の人々とも同じように長いあいだ会っていた。ただ、人一倍長い時間一緒にいようとする点で、他の人々と違っていた。彼はよく知られた冗談の中のユダヤ人のようであった。つまり、彼は他の人々とまったく同じように振舞っていたのだが、ただ同じであろうとする程度が人並以上だったのである。

〔…〕

 このように時宜に恵まれた友情は、とりわけこの最初の年においては、二人にとって大いなる幸せの源となり、彼らの生活に意味を与えた。この交わりの中で、彼らはもっぱら哲学について論じ合った。彼らは相互に刺激を与え、相手の反応から、何らかの進歩があったという感情を確認し合ったのである。彼らは重要と思われたほかのこともすべて分かち合った。ラッセルは前よりも頻繁にコンサートに行くようになった。当初はウィトゲンシュタインに連れられて、しかしのちには彼がいなくとも行くようになった。アレーガッセの逸話、ベートーヴェンの偉大さについての話、『第九交響曲』をラッセルと一緒に聴きに行ったときが生涯で最も素晴らしいときであったという発言、こうしたことはいかにも些細なことではある。しかしこうしたことのために、ラッセルはベートーヴェンやブラームスのいくつかの曲を初めて、あるいはこれまでとは違った仕方で聴くようになったのである。とはいえラッセルは、音楽だけでは洗練された人間になることはできないと考えていた。

音楽はあまりにも情緒的で、言葉とあまりにも異なり、かけ離れすぎています。[ウィトゲンシュタインは]さほど広い興味を持っておらず、世界を幅広く探究しようとする望みもさして抱いていません。そのために論理学の仕事が損なわれることはありませんが、彼はいつまでも偏狭な専門家に留まり、ある特定の党派のチャンピオンになるでしょう。もし最高の尺度で判断した場合には。(オットリーン・モレル宛ラッセルの手紙、一九一三年三月六日)

こういうわけで(二人のあいだにどのような相違があるのかが本人たちに次第に明瞭になりつつあった)この頃、ラッセルはウィトゲンシュタインに、偏狭で無教養にならぬようフランス語の散文を読むべきだと勧めた。先に述べたように、ウィトゲンシュタインの読書には、深さと狭さが同居していた。フランス文学がほとんど無視されていたことは、パウル・エンゲルマンも確認している。それは単なる偶然であったのかもしれないし、彼がフランス語に通じていなかったためかもしれない。しかしそれは彼の気質と深く関係していたので、偶然とは考え難い。パスカルは──『プロヴァンシャル』はそうではないが、少なくとも『パンセ』は彼に感銘を与えた。彼がルソーを読んだとは考え難い。彼がしばしば読んだフランスの作家はモリエールであり、その理由も理解できる。すなわち、モリエールの風刺詩は、劇的な現実の中から生まれるべくして生まれてきたからであり、ウィトゲンシュタインが好んだ言い方を借りれば、モリエールにはそれらの風刺詩を作る「権利があった」からである。ウィトゲンシュタインによれば、それらを単に引用してみたり、あるいは分析したり理論づけしたりすれば、そのよさはすべて失われてしまうのである。ラッセルがフランスの散文を読むように勧める一方、ウィトゲンシュタインのほうはドイツの詩文にラッセルの関心を向けようと努めた。ラッセルが述べているように、ウィトゲンシュタインはメーリケを「激賞」し、ラッセルの部屋に作品を一冊置いていくのであった(これはアレーガッセでの慣習である)。こうしてラッセルは、フランツィスカ・フォン・ヒューゲルがいくつかの作品を朗読するのを聞いて、メーリケを好むようになる。するとウィトゲンシュタインは(やや驚いて)、次にはゲーテを読むようにせき立てるのであった。ラッセルにとって、ゲーテを読むのはそれが初めてでは無論なかったが、以前にはその真価を味わって読んだわけではなかった。ラッセルのためにリヒテンベルクのアフォリズムを一冊(これは今日でもラッセルの蔵書の中にある)見つけ出してきたときには、ウィトゲンシュタインは一層大きな期待を抱いていた。リヒテンベルクの熱狂を理解するのは、イギリス人には困難である(フランス人にもそうであろう)。一八世紀の大方のドイツ文学に言えることであるが、リヒテンベルクの思想はがっしりしていても、ドイツ文学に比べて早くから洗練されていた文学に深く通じた者──ジョン・ラッセル卿の孫であるバートランドがそうであったが──から見れば、出発点はやや素朴である。たとえばリヒテンベルクは、人間が、とくに学識ある人間が愚者でありうるということを意外なことと思っているように見える。そして彼の言葉には、鋭さとアイロニーが欠けているように思われる。風刺詩──アフォリズムと呼ぶべきかもしれない──がさほど成功していないのは、そのためである。
 こうして二人は、自分が影響を受けたものを交換し合い、書物について、男性と女性について、自分たちの理想と願望について論じ合いながら、互いに相手を説得しようと熱心に努めた。ウィトゲンシュタインは説得できるという望みは持っていたが、実際にはその可能性は薄かったし、他方ラッセルは半ば父親のような寛容を示しつつ、自らは一歩身を引いて、ウィトゲンシュタインが友人たちにどのような影響を与えるのか楽しみながら見ていた。このようにして、二人は相手の欲求に応え合っていたのである。

〔…〕

 のちにウィトゲンシュタインは、「協会」やブルームズベリーと一層深い関係を持つようになる。しかしさしあたっては、「協会」の周縁にいた一人の男と親しくなった。哲学者ヒュームの傍系の子孫であるデイヴィド・ヒューム・ピンセントがそれである。彼は一九一一年には「胎児」、つまり「協会」に迎えるかどうかを考慮されている人物であったが、結局はメンバーに選出されなかった。最初、彼は数学を修め、のちには法学を学んだ。彼はバーミンガムのあるゆかしい音楽一家の出であった。彼の母親は長年寡婦として暮らし、のちには社会運動家として有名になったエレン・ピンセント女史である。彼女は牧師の娘で、フリッツ・ロイターを思わす教化的な小説を数多く著した(実際その一つは、ほとんど禁酒パンフレットであろう)。ピンセント自身は気取らない好青年で、まずまずの教育を受け、音楽に対する人並以上の趣味を備えていた。彼は他人の関心事に心を開いて熱心に対応し、いつも人の心を楽しませるようなことを話して、嫌味になることは決して語らなかった。そのため彼の交友関係は広く、彼はどこでも歓迎された。彼は(ウィトゲンシュタインに関する箇所から判断するかぎり)率直で思ったままを綴った日記をつけていた。この日記を読むと、一つの人となりが浮かびあがってくる。それは、多くの者が死んでいったあの世代、当時はパブリック・スクールや大学に通っていたあの世代の者が書いた手紙や若き日の作品を読んだことのある者には、なじみ深い人となりである。もし当時の青年たちが生きていて現在長していたならば、われわれはそれらの文を今日違った目で読むことであろう。われわれの目には、ピンセントは若々しく、熱情にあふれているように見える(そしてピンセントよりも広い経験を有し、はるかに鋭い感覚を持っていたウィトゲンシュタインの目にも、そのように思われた)。彼は因襲にとらわれることがなく、かといって極端に走ることもない。彼が自らの志と意見とに批判のまなざしを向けることはなかったとはいえ、それでもそれらは曲がったところのない誠実なものであった。要するに、彼は当時のきわめて典型的なイギリス人であった。明らかにこれが、ウィトゲンシュタインの心を引きつけた要素の一つであった。当時の彼は、イギリス的な行動様式や人間関係を大いに賛美していたからである。こうした優れた点と密接に結びついた欠点を、彼は時折、イギリスという国やピンセントのうちに見ていたが、それは人間として普通のことであった。それに対して、彼がそうした欠点に対して強い嫌悪感を抱き、表明したのは、彼自身のほとんど病的とも言える感受性の強さのためであった。したがって、低教会派の洗練された進歩的な上層中流家庭──E・M・フォスターの『ハワーズ・エンド』に出てくるシュレーゲル家の雰囲気をたたえた家庭──の出であるピンセントのうちに、彼が不人情とか偽善といった固定的イメージを見出したとしても、それはあたっている場合もあれば、誤っている場合もあった。これがきっかけとなって二人のあいだでどのような会話が交わされたのかを、次の三つの記述がよく示している。

パブリック・スクールについて、ウィトゲンシュタインと活発な議論を交わした。相互に腹を立て合うという結果になったが、最後には、互いに誤解し合っていたのだということがわかった。彼が「俗物的」と呼んでいる態度、つまり残酷さ、苦難に対する思いやりのない態度を、彼は激しく嫌悪し、そうした態度のゆえにキプリングを非難する。そして彼は、私もその一党だと考えていた。(日記、一九一二年九月一二日)
これまでにもウィトゲンシュタインは、さまざまな折に「俗物」について語ってきた。彼は、自分の嫌いな人物にはすべてこの名をつけるのだ。私の表明したいくつかの見解は、いくぶん俗物的だという印象を彼に与えたものと思う(哲学に関するものではなく、実際的な事柄に関する見解、たとえば、過去の時代に対する現代の優位に関する見解などである)。彼はどう考えたらよいのかと困惑している。というのは、彼は私を俗物とは見なしていないからだ。そして彼は私のことを嫌ってはいないと思われる。私がもう少し成長すれば、すぐにも別の珍え方をするようになるだろうと言って、彼は自分を納得させるのだ。(日記、一九一二年九月一九日)
私たちは婦人の選挙権について話した。彼はそれに大反対した。「僕の知っている女性は、みんなひどい馬鹿だ」と言うだけで、特別な理由などなかった。マンチェスター大学では、女子学生は暇さえあれば教授たちといちゃついている、と彼は言った。彼には、これがたまらなく嫌なのだ。これはちょうど、彼があらゆる種類の中途半端を嫌い、真面目でないものは一切非とするのと同じである。しかし、およそ三〇歳にならなければ結婚できず(それ以前に十分な稼ぎのある者などいないから)、しかも同棲が是認されない今日では、軽い気持ちで女の子と遊ぶぐらいしか、やることはない。(日記、一九一三年二月七日)

時折生じたこのような意見の不一致──その際には、まず間違いなくウィトゲンシュタインのほうが論争的だった──に対してピンセントの取った態度を見ると、なぜ彼がウィトゲンシュタインと親密な交友を結びえたのかが、ほの見えてくる。ここで重要な彼の特性は、柔軟性とか従順とかではない(彼が心を開いていて、人間について、とりわけ自己自身について学ぶ用意があったということは、確かに重要ではある)。むしろ逆に、それは、両者の関わり合いの中で示した彼の剛気であり自信であった。ずっとのちになってウィトゲンシュタインは、ノートに記した暗号のような文章の一つで「愛において最も大事なのは勇気である」と述べている。これこそ、ピンセントの持っていたものである。このために彼は、ウィトゲンシュタインが二人の交友関係に持ち込んだ激しさを受容することができたのである。また、そのために彼は、気難しい友のむら気を憤慨することもなく見守ることができた。彼はウィトゲンシュタインを統制したりせず、ありのままの心で率直に対応した。彼はいつも冷静でいられたわけではなかったが、悪意も嫉妬も抱くことがなかった。彼はウィトゲンシュタインのよい性質や好ましい側面を、それらがきわめてわずかしか現れてこない場合でも、決して忘れることがなかった。

私たちは明日の計画について長いあいだ話し合った。私はレイキャヴィクにまっすぐ戻りたかった。彼はもう一日ここに滞在し、水曜日に発つことを望んだ。最初私が折れて、ここであと二泊しようと言った。すると彼は私の譲歩をえらく気に病んだ(最終的にはわれわれは妥協案を思いついて、それを実行したのである)。「小さな平和を得る」ためにのみ私が譲歩したことを、彼は病的なほど気にした。もちろん「小さな平和を得る」ことが私の動機だったのではない。私は彼に対する好意から、そして身勝手なことは言うまいと思って、そうしたのだ。結局は彼もわかってくれたと思う。(日記、一九一二年九月二三日)
汽車の中で、もう降りる頃になってから、私たちは席をかえねばならなかった。彼が他の客のいない所へ行こうと言い張ったからである。そうしているところへ、非常に愛想のよいイギリス人がやってきて、私に話しかけ、しまいには一服しに彼の車両へくるよう強く勧めた。私たちのは禁煙車だったのだ。ウィトゲンシュタインは行くのを断った。もちろん私は、せめて束の間でも行かねばならなかった。断れば、はなはだしい無礼となったからである。できるだけ早く戻ってみると、彼はひどく興奮していた。かのイギリス人は変わった男だと私が言うと、彼はそれに食ってかかって、「その気になれば、僕は全行程を彼と旅することもできる」と言った。そこで私はとことん彼と論じ、そしてやっとのことで彼をなだめた。私は昼までかかっても、あくまで彼と論じ合うつもりでいた。腹をわって話すチャンスさえあれば、私はいつでも彼と和解することができるからだ。しかし些細なことが次々と生じて、それもできなくなった。その機会が訪れたとき、私たちは一〇分ほどで仲直りした。彼はカオスのような人間だ。(日記、一九一三年九月二日))

これらの事例を見ると、ピンセントが類まれな慧眼の持ち主で、どのような事柄を取るに足らぬことと見ていたかがわかる。ウィトゲンシュタインは、二人の交友はピンセントにとってよりも自分にとって一層重要だと思っていた。そうした感情があったからこそ、右のような二つの場面も生じたのかもしれない。第二の場面の事の起こりは、ウィトゲンシュタインの吐露(「僕たちは、これまでとてもうまくやってきたじゃないか」)であった。これに対してピンセントは、まったく同じように思ってはいたものの、恥ずかしさもあって軽い返事しかしなかった。この内気さの根には、ピンセントの若さとイギリス人気質があったのだが、彼の真情は明らかであった。そのため、二人が長く一緒にいると生じてくる軋轢──時折彼も苛立ったし、ウィトゲンシュタインも気難しくなった──の原因について彼がウィトゲンシュタインに話した際、その説明には重みがあったし、誠意が満ちていた。それゆえまた、軋轢をおさめる普通のやり方では生じないような効果をも持ったのである。さらに言えば、ウィトゲンシュタインが不機嫌になって、ピンセントが知っている彼の普通の状態を逸脱してしまうようなときには、彼はウィトゲンシュタインに怒りを覚えるというより、むしろ気の毒に思った。ウィトゲンシュタイン自身がそれを後悔することが、彼にはわかっていたからである。「こうした不機嫌の発作に、彼は大変悩み苦しんでいるのだと思う」。言うまでもなく、ピンセントはウィトゲンシュタインをほかの友人たちとは違った存在だと見ていた(「どちらかと言えば、彼は少し気が変だ」)。とはいえ、ウィトゲンシュタインが彼に示した魅力、頭のよさ、好意、思いやりなどについての認識が、それによって損なわれることはなかった。
 ウィトゲンシュタインが人とつき合っていくには、こうした難しさが種々つきまとっていたのであり、今しばらくそれを追ってみることにも価値がある。というのも、それは多くの彼の親しい交友関係に繰り返し生じたからであり、また、彼のパーソナリティについて人々が一般に抱いている印象の中で過度に強調されているように思われるからである。確かに彼は、友情に対して多くのものを要求した。すべては心から出たものでなければならない。軋轢を掃いてカーペットの下へ隠してはならない。意見の違い、趣味の違いは、とことん突きつめねばならぬ。二人の人間の第三者に対する振舞い方の微妙な違いと同じように、そうした違いは、価値判断上の重要な相違を明らかにするかもしれないのだ。ともかく、そうした相違こそが人生の糧であり、友人関係の目的であった。このような考えは、理想としてはめずらしいものではない。「友人とは、心の秘密を分かち合える存在である」と言うアウグスティヌスに、誰しもが同意するであろう。しかし理想を実行しようとすると、多くの障害が現れる。たとえば、人は安逸を望み、自ら恥とするおのれの部分をさらけ出すのを嫌がり、とりわけ、ここで問題となっている勇気を持ち合わせていないのである。ウィトゲンシュタイン自身、人並以上にこうした困難に直面した。彼は自らや他人のうちにある下劣な衝動に異様に敏感であり、隠しだてのないありのままの人生のみが生きるに値すると確信していた。彼の側では心のうちの吐露がなされねばならず、それに応じて友人の側には強さと理解とが必家であった。ピンセントはこれらの資質を持っていた。ケインズも、ウィトゲンシュタインが相互の些細な行いを誤解したときに、それを示した。のちに見るが、ラッセルとムーアとでは対応が違っていた。ラッセルは、ウィトゲンシュタインの初めての吐露にはうまく応ずることができたものの、のちには彼から遠ざかっていった。他方ムーアは、最初の深刻な仲たがいの際には打ちひしがれてしまったが、のちには多くの相違を乗り越えることができたのである。
 このように、彼は多くのことを要求したが、それゆえにこそ彼との交友は価値あるものとなったのである。自分の人生について、また他者の人生について、徹頭徹尾誠実に論じ合ったとき、友人たちの目は生の新しい様相に対して開かれていった。正確に言えば、彼らは、忘れかけていた現実と触れ合うところへ引き戻されたのである。そのような議論は、気軽に始められることも、あっさり終えられることも、ありえなかった。(ずっとのちになって、彼はマルコムに次のように語った──自己の生活や他人の生活について誠実に考えるのは、厄介なことだが同時に重要でもある、さらに、友人の間柄であっても、それは衝突を招きかねない、と。)ウィトゲンシュタインを聖人視するのは馬鹿げているが(姉のミニングは一時期そうしていた)、彼があらゆる領域で「完全」ということを考えていたのを、友人たちは知っていた。それは日常生活の重大事や彼の仕事、さらにはプレゼントするハンカチの選択にまで及んでいた。彼がとりわけ完全性を求めたのは、交友関係に対してである。そして友人のほうでもほとんどの者が、一種の啓示に接するがごとくこれに応えたのである。とはいえ(当然かもしれないが)彼らはこのような仕方で生活を続けることはなかった。そしてウィトゲンシュタインは、自分や友人たちが完全になりえないこと、あるいはおのれの不完全さに対して(彼が考えるような)正しい態度を取りえないことに、我慢がならなかった。友人たちはこれにも時折苦しめられたのである。ピンセントがそうであったように、彼らはたいてい、どんなことに関しても自分たちの考えがウィトゲンシュタインによって改めさせられたと感じた。
 ウィトゲンシュタインとピンセントが初めて会ったのは、ラッセル主催のあるパーティの席上であった。彼らは再び五月四日にあるコンサートで出会ったが、演目の中には「シューベルトの素晴らしいピアノ三重奏」が含まれていた。彼らに共通する趣味の中でも、シューベルトは主要なものであった。ピンセントはよくピアノ用に編曲したものを弾いた。あるときには、彼の姉妹との連弾のための編曲をした。ウィトゲンシュタインと彼は、しばしば音楽協会から楽譜を借り出し、ピンセントの部屋に持っていった。しまいには彼らは、シューベルトの歌曲を奏する独特な方法まで考案し、ピンセントがピアノを弾き、ウィトゲンシュタインが口笛を吹くのである(よく言われるように、彼の口笛は実に上手で表現力豊かなものであった)。こうして彼らは、休日には四、五〇曲も練習した。
 あらゆる音楽の中で、シューベルトに対する好みほど説明を要しないものもない。シューベルトに関するウィトゲンシュタインの言葉がいくつか残されているが、その中の一つで彼は(観相学に対する愛好を示しながら)、シューベルトが特別な意味でオーストリア人であったことに注意を促している。

ブルックナーの音楽には、ネストロイ、グリルパルツァー、ハイドンといった、細長い(北方系の?)顔がいささかもない。むしろそれは、シューベルトの顔よりもはるかに純粋なタイプの、まことにふっくらとした丸い(アルペン系の?)顔をしている。

彼はまた、シューベルトの音楽のある特徴についても語っている。この特徴のために、彼らの演奏法はシューベルトにとくにふさわしいものとなる、と言うのである。

シューベルトのメロディーは思想の転換に満ちていると言える。モーツァルトのメロディーについては、そうは言えない。シューベルトはバロック的だ。彼のメロディーのある箇所を指して、「ほら、ここがメロディーのポイントで、思想が頂点に達しているんだ」と言うことができる。

こうした「ポイント」ないし転換は、たとえば『死と乙女』のテーマの最後の二小節に現れる。

われわれは最初、この音型を伝統的で月並だと考えがちである。しかし、それがもっと深いところで表現しているものを理解するときには、つまり、ここでは月並のものが意味に満ちていることを知るときには、事情は違ってくる。

意味に満ちた月並──それはウィトゲンシュタインの理想を表現しているのであろう。しかし彼がシューベルトに心を引かれたのには、そのほかの理由もあった。その理由には、倫理的なものと美的なものとが交錯している。シューベルトの生涯は悲惨なものであったのに、音楽の中にはその痕跡すらなく、恨みがましさは微準もない。この対照がウィトゲンシュタインを引きつけたのである。
 ビンセントもずっと以前からシューベルトを愛していた。もちろん、彼はベートーヴェンをも愛していた、今日から考えれば奇妙な感じがするが、彼はブラームスをよく知らなかった。彼がブラームスの交響曲第一番を初めて聴いたのは、ウィトゲンシュタインと連れ立って行ったロンドンでのあるコンサートであった。また別の折に、二人はピンセントの家族と共にバーミンガムで開かれたヘンリー・ウッド指揮のフェスティバル・コンサートに行き、そこでブラームスの『ドイツ・レクイエム』を聴いた。ウィトゲンシュタインは以前にもしばしばそのコンサートを聴いたことがあったが、それを聴いて楽しいと思ったことはなかった。さて、昼食後のことである。

コンサートの後半はシュトラウスの『サロメ』から選んだ二つの曲で始まった。しかしウィトゲンシュタインはそれを聴きに中に入ろうとはせず、次のベートーヴェンが始まるまで外にいた。彼はベートーヴェンが終わると外に出て、一人でローズウッドに戻った。
 『サロメ』はくだらなかった。しかし、小器用にできていて、娯楽にはなった。(日記、一九一二年一〇月四日)

二人のうちで好みにうるさいのは、無論ウィトゲンシュタインのほうであった。ピンセントよりさして年長ではなかったが、彼は自分が我慢できるものとできないものとをすでにわきまえていた。(バッハが始まる前に!)早く帰ってしまったことについて言えば、それはいかにも彼らしい行動であった。特定のものを一心不乱に聴いた彼は、あまりにもいろいろなものを取り揃えた音楽祭に背を向けざるをえなかったのである。
 ケンブリッジでは、二人はしばしば一緒に、あるいは(それぞれ別の友人もいたので)別々に、音楽協会のコンサートに行った。たいていそれはクラシック音楽の室内楽で、セミプロたちが演奏していた。ビンセントを介してウィトゲンシュタインは、「モダン・ミュージック」を支持する「音楽好きの学生たち」と知り合いになった。この「モダン・ミュージック」がどんなものであったかはわからないが、おそらくリヒァルト・シュトラウス、マーラー、ラットランド・ボートンの混合物であって、すでにウィーンで始められていたあの無調音楽ではない。ともかくウィトゲンシュタインとピンセントは、断固これに反対していた。現代音楽の中で、この頃のウィトゲンシュタインが好んだ唯一のものは、ヨーゼフ・ラーボルの室内楽であり、それは古典的モデルに緊密にのっとっていた。ラーボルは、ウィトゲンシュタイン家が援助していた盲目のオルガン奏者である。ウィーンで彼らは、ラーボルのために「楽友協会」でコンサートを開き、友人や庭師たちさえ動員して席が埋まり、拍手が大きくなるよう配慮した。ケンブリッジでは、ウィトゲンシュタインがラーボルの弦楽五重奏曲の演奏会開催を計画していた。何度も話し合いがもたれ、参加できそうな演奏家たちが関心を表明した。しかし結局、計画は実現しなかった。ウィトゲンシュタインがもう少し長くケンブリッジに滞在していたなら、事態は変わっていたであろう。ともあれこの企画も、彼の青春時代であったこの時期に、彼が立てては捨てた数々の計画の一つと見ることができよう。
 ウィトゲンシュタインとピンセントとを結びつける点がもう一つあった。ウィトゲンシュタインの心理学上の仕事がそれである。ピンセントは音楽好きであったためか、二人が最初に会った頃に、ウィトゲンシュタインの被験者となる約束をさせられた。この頃は、ケンブリッジにおける実験心理学の黄金期であった。若手の研究者として、F・C・バートレット、E・スミス女史(のちのバートレット女史)、C・A・メイスらがいた。C・S・マイアーズは、粗末な部屋にあった研究所を独立した建物に移し、一九一二年には新しい実験室が建築中であった。(マイアーズがこの建築のために金を寄付したり集めたりしたこと、そして彼がユダヤ人であったことも、当時の社会的経済的状況をよく示している。)この分野はまだ草創期にあり、当時の雰囲気もおおらかであった。そのためマイアーズを初めとして研究者たちは、実際的応用とか、早急に成果を出す見込みさえほとんど顧慮せずに、理論的・人間的に興味深い問題を自由に探究することができた。のちに戦争のために彼らは四散し、それぞれ戦争神経症、産業心理学、知能検査などに取り組むようになる。しかし当面は、マイアーズだけではなく(マンチェスターの)ペアやヴァレンタインやムーシオらも、音楽の心理学に多くの時間をさいていた。当時「原始社会」と呼ばれていた社会における音楽の発達が研究されることもあれば、ケンブリッジやヴュルツブルクの住民における音楽認識が分析されることもあった。初期の『英国心理学会誌』を見ると、音源の位置感覚、音の差異の知覚、〔ある音を聞くと一定の色が感覚されるなどといった、二つの異なる感覚を同時に経験する〕共感覚、音楽認識の個人差などに関する論文が数多く載っている。マイアーズ自身も原始音楽に関する諸研究を『会誌』とか、多くの探検報告書や民族学の論文集などに寄稿した。彼にあっては、二つの関心が絡み合っている。一方で彼は、幼少の頃より音楽を深く愛し、他方、生理学の研究を積んだのちには、当初、自然人類学に専念した。彼は原始民族の特有な感覚を慎重に研究したが、その結果は欧米人を対象に実験室で発見したことと大差なかった。もっとも、彼の後継者で追悼文をも書いたF・C・バートレットは、もっと精密な統計的分析をしたならば興味深い差異が明らかになったのではないかと考えた。マイアーズが発見した音楽認知能力の差異は、かなり容易に説明できるように思われる。すなわち、音の高低が重要な要素となっている所では、われわれの社会よりもはるかに広く絶対音感が人々のあいだに行き渡り、リズムが支配的な所では、原始人は「連続するさまざまな時間間隔を一つのまとまりのある全体として、つまりフレーズとして認知する」優れた能力を示すのである。戦後、マイアーズの関心の方向は変わってしまった。そのため、彼がこの研究を(そもそも可能であればの話であるが)完結させることはなかった。しかし彼の研究から、そして一部はおそらく彼の予見から、音楽の発達に関する全般的な見解が導き出された。それは魅力的な見解であって、それによれば、音楽の起源についてのそれまでの一元論的説明は、いずれも一切をあますところなく説明してはいない。また、音楽と言語とのあいだには平行関係があるが、しかし両者は共にもっと原初的なコミュニケーション・システムから発展したと考えたほうが適切である。さらに、リズムという点では、音楽は身体の運動・活動と関係があるものの、この関係も音楽の全体を説明するには不十分なのである。同じ考察が音楽の性的説明にも適用された。こうした所見はすべて、民族音楽学が成立し、それぞれの社会で音楽が──しかもいろいろな音楽が──果たすさまざまな社会的役割に関して豊かな知見が獲得される以前のものであった。マイアーズは原始音楽の研究をいくつかの方面に応用したが、その中でも重要なのは、われわれの音楽認識におけるさまざまな要因の分別である。その主なものは、音高および音高の差異の知覚、リズムの知覚、音の流れに音楽的な意味を与え、フレーズや旋律を構成するような特性の知覚、などである。この最後の要素によって、音楽は単なる騒音から区別される。この要素を知覚する能力を失った人々の興味深い事例を、マイアーズは記述している。それによれば、ときには高度に音楽的な人々のあいだでもそれは起こり、彼らは自分たちが聞いているもののうちにある差異はすべて識別できるとはいえ、それを音楽として聞くことができないのである。
 ウィトゲンシュタインがマイアーズを、そして上述のような事柄に対する彼の関心を知るようになった経枠は、明らかである。彼はケンブリッジでの音楽愛好者の集いやモラル・サイエンス・クラブで、頻繁にマイアーズに会っていたのである。二月上旬に、後には原始音楽に関するマイアーズの話を聞いたものと思われる。その折にマイアーズは、原始民鉄のところから持ち帰った曲のいくつかを歌って聞かせた。彼の論題は、いつでもウィトゲンシュタインの関心を引いた。とりわけ、音楽と言語のあいだの類似、もっと厳密に言えば、音楽の主題ないし「思想」と命題ないし文とのあいだの類似という論題がそうであった。

音楽の主題は、ある意味では命題である。だから論理の本質の認識は、音楽の本質の認識へと通ずる。(『日記』一九一五年二月七日)
メロディーは一種の同語反復である。それは自己充足的である。それは自らを満足させる。(「日記』一九一五年三月四日)

『論考』では、次のように言われている。

命題は語の寄せ集めではない。──(音楽の主題が音の寄せ集めではないように)。
命題は分節的である。(『論考』三・一四一)

言語と平行関係に置いたり、論理や文法を引き合いに出したりするのは、彼が音楽について語る際のいちばん普通のやり方であった。それは、たとえばラーボルなどにとりわけ特徴的な思考法であった。ウィトゲンシュタインの語るところによれば、ラーボルが演奏しているときには、人々は「彼は話している!」と評したものであり、またラーボル自身はしばしば、音楽のある諸思想を指して、それらは手あかにまみれてもはや使いものにならないと語っていた。のちにウィトゲンシュタインは、言語と音楽との類比はさはど重要ではなく、特定の音楽にしかあてはまらないと考えるようになった(彼が言うには、類比はベートーヴェンやモーツァルトよりもバッハにあてはまる)。しかしこの時期には、それは、音楽の諸相のうち彼の記述の中で最も頻繁に言及される側面である。おそらく当時の彼は、自分が属していた単一の音楽的伝統の思想によって支配されていたからであろう。
 彼の心理学実験の背後にあった美学に関する問題意識と以上のこととは、関連があったのかもしれない。しかしそれは、ありそうなことではあるが、臆測の域を出ない。彼の共同研究者であったムーシオは天逝し、音楽に関するマイアーズの精密な研究──彼の実験はこの研究との連関で企図されたのであるが──は公刊されるに至らなかった。それらの実験はリズムに関するもので、どのような条件下で被験者が実際には存在しないリズムを拍の連続の中に聴き取るのか、ないし読み込むのかを突きとめた。被験者が主観的に強弱をつけて聴くという現象は、明らかに、規則的に動くメトロノームがまとまりのある拍群を刻んでいるように聴かれる場合に生じる。メトロノームを箱の中に入れたり、被験者にわからないようにフタにを開けたりして条件がさまざまに変えられ、このようにして強調された拍と、被験者が強調されている拍だと思って聴く拍とを比較したりした。こうした実験にどれだけ多くの時間が費やされたかを、ピンセントが報告している。さらに彼は、リズムの問題をめぐって交わされた議論のやり取りにも言及している。こうした研究過程は、彼らの友情を強めることになった。そこで明らかになった音楽の文法ないし音楽の論理について言えば、それは、マイアーズ自身の仕事と同じく、示唆にとみ、有望な成果も期待しえたが、そう簡単には厳密な発展を遂げうるものではなかったようである。心理学とは、そうしたものなのであろう。しかし、ともかくウィトゲンシュタインの実験は専門的業績として評価され、一九一二年七月に英国心理学会の大会がケンブリッジで開催されたときには、ウィトゲンシュタインはリズムに関する発表──ラッセルに宛てた手紙の中で、自ら「リズムに関するきわめて馬鹿げた論文」と呼んだ発表を行っている。彼はまた、一九一三年五月に実験心理学の新しい実験室が設置された折に、開設式の席上で「リズムの心理学的研究のための装置」を実演して見せてもいる。ということは、ピンセントの日記にはこの年の実験については何も語られていないものの、ともかくウィトゲンシュタインは、一九一三年にも心理学研究に対する関心を持ち続けていたことになる。写真マニアであったピンセントは、ウィトゲンシュタインに何の趣味もないのをよくないと思っていたが、実際には心理学こそが彼の趣味だったのである。彼は心理学と、自分の仕事だと言っていた論理学(この時期の彼にとって、「哲学」は罵言に等しかった)とのあいだに、関連があるとは考えていなかった。彼はこの点の解説をマイアーズに試みたようである。

論理学と心理学の関係について、マイアーズと議論しました。私は歯に衣きせず語ったところ、彼は私を比類なき尊大な悪魔と考えたようです。一緒にいたマイアーズ夫人は、私にひどく腹を立てた様子でした。しかし議論を終えた後には、彼の混乱はそれまでより少しは収まったように思います。(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一二年六月二二日)

 彼は、のちには別の趣味ないし気晴らしも持つようになる。この頃(一九一二年のイースター学期)のビンセントとウィトゲンシュタインは、実験、コンサート、お茶の折に会っていた。ウィトゲンシュタインの生活は、ビンセントといることによって、普通の学生生活へと変わりつつあった。彼は、ピンセントが礼拝で聖書を朗読するときには、友情のしるしとして自ら進んで礼拝に行った。そしてのちに彼がピンセントと一緒にユニオン・ソサイエティの討論会に参加したことも知られている。
 ビンセントは、ウィトゲンシュタインには仕事以外の関心が欠けていると誤解していた。しかし、彼が孤独なのだと考えたことでは、決して間違っていなかった。ウィトゲンシュタインは友人を、つまり一緒に長い時間を過ごすことのできる人間を必要としていた。ラッセルでは、この欲求を満たすことはできなかった。彼の関心と愛情はあまりに多くの方面に向けられていたし、彼の性格はもう変化する余地がなかったのであろう。物事に熱中する能力は備えていたものの、彼はウィトゲンシュタインが協力してその生活と価値観を形成する途上にある人間ではもはやなかった。ピンセントはまったく違っていた。ウィトゲンシュタインには、それがすぐにわかった。

彼は突然私に、休暇中は何をするつもりなのだと尋ね、一緒にアイスランドに行こうと提案してきた。最初はびっくりして、私は、どれくらいかかると思っているのかと聞いた。彼はこう答えた。「ああ、そんなことは関係ない。僕にはお金はないし、君にもない。たとえ君にはあるとしても、どうでもいいじゃないか。僕の父はたくさん持っているんだから」。彼は、彼の父親にわれわれ二人の金を出させようと提案したのだ!……私とウィトゲンシュタインとは、ほんの三週間ほど前に知り合ったばかりなのだ──しかし、われわれのあいだはうまくいっているように思う。(ピンセントの日記、一九一二年五月三一日)

ピンセントは行きたいと思い、彼の両親は物わかりよくそれに同意してくれた。かくて旅行の日取りは、きたる九月と決められた。
 大学が休みに入っても、ウィトゲンシュタインは七月の半ばまでケンブリッジに留まった。ラッセルは、六月中はケンブリッジを離れていた。ウィトゲンシュタインがラッセル宛に最初の三通の手紙を書いたのは、このためである。一方ではリズムについての論文に気を取られてはいたが、ウィトゲンシュタインは論理学の基礎に関する研究も続けていた。(ピンセントも六月はほとんどケンブリッジにいなかったので)彼はこの数週間を一人で過ごすことになる。そのためこの時期は、彼にとって仕事のうえでことのほか実りある期間となったようである。この期間に生み出されて文書の形で残っているのは、一つは先に引用した(一三六頁)重要な議論であり、これは論理定項は存在しないという『論考』の根本思想へと通ずる。今一つは、一般命題は個体についての命題に連なる諸推論の文脈の中でのみ意味を持つ、という説の提示である。のちに彼は、論理の問題は命題間の結合子とか一般性の概念とかいった特別な主題を扱うものではなく、最も単純な命題のうちにさえすでに現存しているのを見てとるようになる、あるいはそう考えるようになる。しかしこの六月には、彼の思索は別の問題にも向けられていた。

今、暇さえあればジェイムズの『宗教的経験の諸相』を読んでいます。本書は私にとって大変ためになります。だからといって、すぐにでも聖人になれるなどと言うつもりはありません。しかし、本書のおかげで私は少しは改善されるのではないかという、いささかの自信はあります。できれば、改善に向かってもっとさずっと進歩したいものだと願っています。本書は私を(ゲーテが『ファウスト』第二部で言っている意味での)「不安」から解放してくれる気がするのです。(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一二年六月二二日)

 七月一三日の心理学会のほかに、ケンブリッジを発つ前のウィトゲンシュタインに二つの出来事が起こった。一つは姉ヘルミーネの訪問である。「姉をあなたに引き会わせたいのですが、いかがでしょうか」と彼はラッセルに手紙で尋ねた。「彼女は、見るに値するものはすべて見ていくべきです」。二人はラッセルのもとに昼食に行き、午後のお茶を共にした。

彼女は不美人などでは決してありません(明らかにラッセルは、自分が予想したところとの関連で言っている」。彼よりずっと年上で、飾らず気持ちのよい人ですが、興味をそそるわけではありません。会っているのは、しばしば難儀に感じられました。──どちらかと言えば、彼女は内気なように思われます。しまいに彼と私は、彼女をそっちのけにして議論を始めました。彼はケンブリッジ にきて以来、別人のようだ、つまりずっと幸せそうだ、と彼女は言います。当地は彼にふさわしい場所だ、と彼女は思っています。(オットリーン・モレル宛ラッセルの手紙、一九一二年七月一〇日)

実際、彼女は深い感銘を受けた。彼女は、弟を援助してくれている人々に深い恩義と敬意とを覚えたのである。そして彼女には、ラッセルはルーキにとってちょうどよいときに現れた人物と思われた。

ルートヴィヒと私は、コレジにあるラッセルの美しい部屋へお茶に招かれた。私は今でもその部屋を思い描くことができる。大きな書棚が壁全面をおおい、縦長の古風な窓には美しい比率を示している十字形の石造りの恐れがついている。突然ラッセルは私に言った。「哲学における次の大いなる一歩は、あなたの弟さんによって踏み出されることになるだろう、と私たちは思っています」。私にとってこれは、途方もない信じ難い言葉であった。それで私は、しばし文字通り目まいがしたほどである。ルートヴィヒは私より一五歳も年下だった。彼は、二三歳であったけれども、私は依然として彼を未熟な若者、単なる学習者と見ていた。無論そのときのことは、忘れ難く記憶に残っている。

 まさにこのときから、家族の者は彼の非凡さを信じるようになったようである。それ以前から彼らは彼の能力を、つまり的確な分析・批判能力を知っていた。現存する彼の手紙の中で最も古いもの(筆跡から判断するかぎり、一九〇八年ないしそれ以前)には、ヘルミーネに向けて、作画方法に関する指示が自信に満ちた断固たる調子で述べられている。また、家族の者は、彼が未経験の新しい事柄の基本をいかにすばやく習得してしまうかということも知っていた。その頃に欠けていたのは、特定のものに打ち込むこと、そして彼の力のすべてを引きつけるような関心であり、何か独自なものを生み出しそうな徴候はまだ見られなかった。しかし今や彼らは、こういったことのすべてが満たされたという確信を得たし、その当然の結果として、ルートヴィヒも以前より幸福に感じた。彼の日記や手紙を見るかぎり、幸福と不幸を測る基準は、通例、仕事ができるか否かということであった。この点では、彼は明らかに父を受け継いでいた。ただし彼にとっては、(理論的にはともかく、想像のうえでは)論理学的な諸概念や操作が溶鉱炉・梁・エンジンなどと同じ現実性を帯びており、そして一日の仕事は、それらを頭の中や手帳の中で造りかえ、整理し直すことであった。このほかにも二人の類似点がある。すなわち、数々の職業や関心事を経めぐり、通常の意味ではそのいずれをも最後までやり遂げることはなかったが、しかしその各々から必要とするものを得、二三歳で成人としての生涯を始めた(テルニッツへ行ったときのカールは、実際にはそれより一歳上だった)などといった点である。
 このような年齢でラッセルから称賛されたのは、ヘルミーネが思った以上に、はるかに驚くべきことであった。かくも若くして認められること、しかも前途有望な青年としてではなく、先頭を進む者として認められること、そして三〇歳になる前に主要な著作を書きあげてしまうこと、こうしたことは、哲学者の運命としてはほとんど類例がない。確かにデカルトの夢は、彼が二四歳のときの出来事であった。しかしそれは、少なくともその後九年間、抑圧された。ライプニツやミルのような天才でさえ、哲学的著作をしのしたのは、ほぼ晩年であった。若いうちから哲学を始めたヒュームやショーペンハウアー、さらにはバークリでさえも、当初はウィトゲンシュタインほど認められていたわけではなかった。
 この数週間のうちに起こった第二の出来事は、ウィトゲンシュタインが翌年住むための部屋を決めたことである。今や彼は、コレジ内に移り住むことが許された。ちょうどその頃、現在では不明であるが、ともかく何らかの理由で、ムーアはケンブリッジに戻ってきたときに与えられた自分の部屋(フェローの部屋ではない)から移ろうと思っていた。そこへのウィトゲンシュタインの転居は七月初旬と決まった。ヒューエル・コートのK一〇番というその部屋は、ヴィクトリア朝ゴシック様式の塔の最上階にあった。そしてその塔は(中庭のある二つの細長い建物が縦につながっているような)コレジの主要部からトリニティ通りを渡った所にあって、コレジの主要部から最も離れた端に位置していた。コレジの中にあるとはいえ、完全にそれに属するわけではないこの静かな片隅で、ウィトゲンシュタインは一人でひっそり暮らすことができた。そこからは、コレジから目を転じれば、小さな商店や下宿屋が並んだ通り越しに、川辺の景色を見おろすことができた。のちにフェローになったとき、また、教授として戻ってきたときにはなおのこと、彼はその気になりさえすれば、ヘルミーネに感銘を与えたラッセルの部屋のような所に、あるいは、壮麗なレン図書館に近く、ニュートンが住んだかもしれない部屋を得ることもできたであろう。しかしいずれのときも、彼は、感じがいいとはとても言えないこの暗い塔に戻ることを選んだ。彼は、階段を登り切った所にある、この比較的狭い部屋で生活することを好んだ。そこには生活を快適にしてくれるもの、年齢と健康を考えれば必要だったもの、たとえばバスルームもついていなかったのにである。不便さや質素に対するこうした好みは、のちに発展してきた傾向であるが、狭くて管理しやすい部屋に対する好みは、終始一貫していたように思われる。塔での生活に関して言えば、彼は一九一六年にもオルミュッツで同じことを企てている。これは、隠棲閑居への衝動を実地に移したものであろう。ともかくケンブリッジの部屋は、その後彼が数年間暮らした場所の中でいちばんまともな住居であった。彼の死後、わずかの記念の品が残され、その中でも、友人にではなく彼自身に関するものはきわめて少数であった。しかしそのうちの一つは、この塔のスナップ写真である。
 部屋の中は整理され、彼は(すでにケンブリッジに戻っていた)ピンセントと一緒に、いろいろな店へ家具を見にいった。この遠征はおもしろくはあったが、得るところはなかった。店員が見せてくれる品の九割方に、ウィトゲンシュタインが「駄目だ、ぞっとする!」と叫んで拒絶したからである。九月にロンドンでもう一度買物をしたときも、同じであった。最初の日には、彼はまったく何も買わなかった。彼は建物に不必要な装飾品は一切好まず、納得のいくような簡素なものを見つけることができなかったのである。結局、彼はほとんどの家具を特注で作らせた。ピンセントはそれらを「風変わりではあるが、悪くはない」と思った。最上の素材が使用され、数限りない修正がほどこされた。たとえば、一九一三年三月には、彼はサイドボードの白い大理石でできた天板を、ロンドンで特別に切って研磨させた黒い大理石のものに替えた。現代では、簡素はむしろ高くつく贅沢となっている。特定の使用法を意図してデザインよりも機能を優先させたというのは、彼の趣味を正確に言い表しているとは思われない。いかにも彼らしいことではあるが、彼の趣味は、抽象的思考訓練の価値に関する見方と結びついていた。彼がしばしば語っていたところによれば、数学は趣味をよくする。「というのは、趣味のよさは趣味の純粋さということであり、したがってそれは、人間に誠実な思考をさせるものによって促進されるのだから」。彼はラッセルとの会話の中で、決定的なのは構成だと強調した。ものはあったままにして、動かしてはならない。そして生活は、それを軸にして、それに適合するように営まれねばならない。だからこそ、すでに見たように、エクルズのベッドにはキャスターがついていてはならなかったのである。人々のほうがそのまわりを動くべきであり、それには掃除をする人も含まれる。同様の点が、のちに彼の建築の仕事に現れる。たとえば、部屋の中心か、あるいは左右対称になるように置かれた電球は、部屋を均一に照らすのであって、誰か特定の人のために置かれるのでもなければ、使用者の特別な必要や好みに合わせて配置されるのでもなかった。ケンブリッジの部屋では、彼は、ロンドンにある医療器具や実験器具の納入業者から買った磁器製のビーカーをカップの代わりにした。「そのほうがずっと素敵に見えるからね。しかしカップより不便だ」とピンセントは言っていた。彼の部屋には、ほぼ正方形で八人がけの大きな食卓があった。それは独特な黒い色調の重厚な感じのするマホガニー製で、こった彫刻のほどこされたヴィクトリア調の脚がついていた。これはのちに、ウィトゲンシュタインがイギリスに残した本や家具をラッセルが買い取った際、彼のものとなった。息子のコンラッド・ラッセルの記憶によれば、それは来賓があったときにしか使用されず、そのため彼の両親は「ウィトゲンシュタイン」で食事をすべきか否かでよく議論していたという。
 七月一五日に、ウィトゲンシュタインはウィーンに向けて発った。その前の四月には、彼は兵役検査のためロンドンのオーストリア大使館に行っていた。その際(以前わずらったことのある)ヘルニアが発見され、手術せねばならないことがわかった。ウィーンに着いたらすぐに手術を受けることにしていたが、身辺の事情はひどいものであった。

彼が言うには、(私が会ったのとは)別の姉[グレートル]が出産後に重病になり、二年前からガンにかかっていた父親は七回も手術を受け、我慢できないほどの痛みに苦しんでいます。何事につけ極度に感じやすい母親は、すっかり混乱して、どうしていいかほとんどわからない状態です。彼女は彼[ルートヴィヒ]が手術を受けねばならないのを知りません。それで彼は、告げ知らせねばならないときがくるのを恐れています。彼が言うには、彼女は決してわが身のことを顧慮したりせず、他人を通じて喜びを得るほかは自分の楽しみというものを持ちません。ただし音楽は別なのですが、彼女はコンサートには行っていません。(オットリーン・モレル宛ラッセルの手紙、一九一二年七月一五日)

結局、事態はますます悪くなるばかりであった。父親はもう一度手術を受けねばならず、そのためルートヴィヒは、家族の者に自分の手術のことで心配の種をふやすわけにはいかないと考えた。しかるべき手術を秘密裡にしてもらうのは、不可能だったであろう。そこで彼は、その代わりにちょっとした一時しのぎの手術を密かにしてもらった。
 彼は夏を過ごす場所を二カ所に分けた。一つは父親の別荘地ホーホライトであり、今一つは、ザルツブルクに近いハラインにあった伯父パウル・ウィトゲンシュタインの家である。身辺の事情はよくなかったが、その夏は幸せなときであった。体の調子はすっかり回復し、「全力をつくして哲学をしている」とラッセルに知らせている。天候は上々で、たいていは屋外で思索をすることができた。

哲学の真の諸問題ほど素晴らしいものは、この世にありません。

これらの環境は彼にとってなじみ深く、またそこには、見知らぬ者であれ知り合いであれ、彼の気にさわるような人間もいなかった。こうした状態が仕事に有益であることを、彼は折にふれ知っていく。また、彼の生涯を通じて認められる点がもう一つある。つまり、他人との議論は彼にとって有益であり、不可欠でさえあったけれども、その成果が実際に現れ、彼が進歩を遂げることができたのは、長い期間にわたって一人きりで思索する機会があった場合に限られるのである。思索は戸外でもなされえた。というのも、メモを取り、着想をエピグラム風の文や疑問の形で手帳や紙片に書きつけ、それをのちに大きなノートに書きうつしていくことを、彼は習慣としていたからである。この頃の彼の思索は、論理定項に集中していた。これは、論理学の主題をなす基本概念である。さしあたり彼が関心を寄せていたのは、彼が見かけの変項と呼んだもの、すなわち一般性の観念であり、また(大まかに言って、通常言語の「あるいは」、「かつ」、「もし~ならば」にあたる)「v」、「・」、「⊃」といった命題の結合子であった。これらの結合子は、否定や同一性と共に、ホワイトヘッドとラッセルの論理学における基本概念であり、論理学とは、こうした基本概念の性格によって真であるようなあらゆる命題からのみ成り立つ科学と見なすことができる。しかし問題は、こうした諸命題が有する「論理的」真理とは何かということである。なぜこれらの基本概念は恋意的に寄せ集められたものではなく、統一ある集合体なのか。論理学の諸命題を真とするそれらの性格とは、どのようなものなのか。ウィトゲンシュタインは、これらの問いに答えうる何らかの記号理論を発見しようと努めていた。ラッセルに宛てた手紙の中で、彼は、のちに誤りであると判明する一、二の試みに触れているが、結論全般はのちにきわめて有用であることが明らかになる。

私たちの問題は原子命題にまで遡行することがありうると思います。そのような命題における繋辞がどのようにして意味を持つのかを正確に説明しようと試みれば、このことがおわかりになるはずです。
 私にはそれが説明できません。しかし、この問いに対する厳密な答えが与えられるならば、「v」の問題や見かけの変項の問題は、解決はされないまでも、大いに解決に近づくことでしょう。それゆえ私は今、「ソクラテスは人間である」(善良なる老ソクラテス!)について考えています。

「私たちの問題」とは、論理的真理の本質を発見すること、あるいは当時の彼らならこう表現したであろう──どのような種類の複合体が論理的命題に対応するのかを明確にすることであった。すでに見たように(前述一三六、二一九頁)そうした命題の特殊性は特殊な構成要素として論理定項を含んでいるという点にあるのではなく、もっと別のところにある、とウィトゲンシュタインは感じていた。さまざまな可能性がおのずから現れてきて、ラッセルとウィトゲンシュタインは、論理形式という概念が必要な説明を与えるかどうかについて、多くの時間を費やして論じ合った。この夏にオーストリアから出した数通の手紙の中で、ウィトゲンシュタインは最初、答えは論理学の命題に対応する複合体の特殊性にではなく、あらゆる命題複合の本性のうちにあるのかもしれない、と示唆している。彼の手紙の調子からは、彼の自信と仕事の進展に対する喜びとが、はっきり読み取れる。それゆえ八月一六日の手紙にある「私は気違いになったようです」というあとがきは、実際の苦悩を言っているというよりも、知的作業への熱狂的集中を表現したものとして読む必要があろう。彼はしばらくのあいだは、自らのすべての努力はむなしいという感情、生の無目的という感情、ケンブリッジから出した手紙に書いた「不安」、などから解放されていたように思われる。すでに言及したが、彼は『ハジ・ムラート』から強烈な影響を受けた。そのことをラッセルに告げ知らせたのも、この時期であった。
 それを知らせた手紙を、彼はハラインの伯父パウルのもとから出した。パウルは、ヘルマン・クリスティアン・ウィトゲンシュタインの長男であった。彼は父親の財産管理のために法律の勉強をやめ、実際上、父親の事業を継いでいた。彼はこれを手際よく行ったが、熱意はわかなかった。むしろ熱意は、絵を描くことに、そして彼が主たる後援者になっていた「分離派」の活動のために注がれた。彼は趣味が洗練され、身だしなみがよく、(若い頃は)ハンサムだった。そして気は短かったが、心は優しかった。大半の兄弟姉妹よりずっと自由に暮らし、その態度は気さくで親しみやすかった。カールが最期の病に臥していた痛ましい歳月のあいだ、彼はカールの家族にとって特別な支えとなった。張りつめたホーホライトの空気から当分のあいだルートヴィヒを離しておくよう取りはからったのも、おそらく彼であった。彼がルートヴィヒを父親のような目で見守っていたことを示す事例は、ほかにもいくつかある。彼はルートヴィヒの内面的窮境にも目ざとく気がついた。そうしたことにカール家の者たちは、極度の緊張が常態となってしまっていたので、まったく気がつかなかったのである。さらに、哲学に身をささげているルートヴィヒの姿は、ロマンチックな傾向のあるパウルの空想力をとらえ、彼はあらゆる仕方でルートヴィヒを励ましたいと思っていた。
第五章 ケンブリッジ 1912─13

 ウィトゲンシュタインは一九一二年一〇月一二日頃、ピンセントに家具の搬入を手伝ってもらって、新しい部屋に居を構え、彼がすでに伝説的存在になっていたケンブリッジ大学で初めて正規の在学期間の第一年目を過ごすことになった。ジョンソンの弟子であったナオミ・ベントウィチの回想するところでは、彼は総じて金持ちの生活をし、いいコンサートがあれば必ずロンドンへ行き、自分の部屋を独自のスタイルで飾ったという(壁を黒く塗ってしまったという噂がある)。これには多少の真実味がある。われわれはすでに、彼が家具を特別注文したことを見た。ピンセントの日記には、ロンドンに旅して、ウィトゲンシュタインを伴い、シュタインバッハの指揮するコンサートへ行って、その夜はグランド・ホテルに宿泊した旨が記されている。
 すでに心理学仲間や音楽仲間のあいだでもよく知られていたから(というのは、ケンブリッジではほとんどすべてのコンサートを聴きにいったからであるが)、ウィトゲンシュタインは今や「協会」を中心とした、かの知的貴族階層の会員たちからも目をつけられるようになっていた。ラッセルは「協会」の年長幹事であったマクタガートにも、(そのほかたくさんの事柄でもそうであったように)おそらく「天使」のうちでも最も活発に運営に携わっていたケインズにも、ウィトゲンシュタインを紹介した。

私は昨出後をケースに引き合わせたのですが、これは失敗でした。ウィトゲンシュタインは体の調子が悪くて、うまく議論ができたかったのです。一人の人物の存在が他の人物に新しい光を投げかけるというのは。おもしろいことです。ケインズは柔弱で、ふわふわしているように私には見え、いつも思っていたほどには有能であり遂せんでした。別にウィトゲンシュタインがそう言ったというわけではありません。彼はほとんは何もしゃべらなかった──ただ彼がそこにいたというだけで、そうなったのです。ケインズは、多くの人たちと同様、ある意見を容認しながら、そのもたらす結果を顧慮しない所があります。彼が柔弱だと言わざるをえない所以です。──私はまたウィトゲンシュタインを連れてマクタガートにも会わせましたが、このほうはもう少しうまくいきました。ただ、ウィトゲンシュタインは、マクタガートがどうしてあんな突拍子しないことを信じていられるのか、理解するのが難しいようでした。(オットリーン・モレルゲラッセルの手紙、一九一二年一〇月三一日)

マクタガートとの出会いは、ウィトゲンシュタインの生涯では、単なる一事件にすぎなかったが、ケインズとの出会いははるかに重要であった。両人とも、初対面のときには、いささか引っ込み思案であったように思われるが、むしろウィトゲンシュタインのほうが遠慮していたのかもしれない。しかし、自分がまともに知りたいと思う新たな知己には自分の才気や俊敏さを隠して、むしろ静かに傾聴するというのがケインズのスタイルであった。当時いささかウィトゲンシュタインの呪縛にかかっていたラッセルは、たぶんそのふわふわしたところを誤解したのであろう。ともかくもウィトゲンシュタインとケインズはほどなくしてお互いを認め合う。ケインズがまず友人のダンカン・グラントにそれはど甘くはない評言をするのだが、しばらくあとでは次のように書き送っている。

ウィトゲンシュタインはとても素晴らしい人物で──最後に会ったとき、私が彼について言ったことはまったく真実ではない──、そのうえ非常に気持ちのいい男なので、私は彼と一緒にいたいと切に思います。(ダンカン・グラント宛ケインズの手紙、一九一二年一一月一二日)

辛辣で才気があり、しばしば意地悪なケインズでさえ、新しい考えや影響力に対しては共感を示し、ものわかりがよく、心を開くことがありえた。ウィトゲンシュタインの全友人の中でも、彼はおそらく最も大きな受皿であった。哲学者、経済学者、著述家であり、稀有な説得力や優美さやスタイルの有機的統一を唱道した彼は、同時にまた、抜群の精力と資産を持った管理者兼実業家でもあった。自分に関心のあるあらゆる領域で、彼は最上のものに対する本能、鑑識家の習性を持っていた。このことは彼の書籍収集や、音楽と美術(この領域で彼をその気にさせたのは、心に感ずる情熱というよりは、むしろ知的な確信であったというのが、明らかにブルームズベリー仲間の感想であった)の庇護(彼が富んで重要人物になってから)のうちにも現れている。友人の選択については、彼はこのうえなくそうであった。もしウィトゲンシュタインが「善人の収集家」であったとしたら、ケインズのほうは通常でないもの、刺激的なものに対する愛を人一倍持っていたのである。彼の最初の伝記作家の語るところでは、新たに出会ったウィトゲンシュタインに彼が魅了されたのは、「あらゆる点で風変わりな学生」だからであった。いったん友人になると、その業績や考え方に対するケインズの関心によって、あるいは実務的な仕方で、友人たちは援助され昇進していったのである。ケインズは彼らの必要を予期し、彼らの欲するものを手配するのを常とした。二人が最初の何がしかの遠慮を克服したときには、ウィトゲンシュタインに対しても同様であった。二人はケインズが体現し、ウィトゲンシュタインが半ば属していたケンブリッジ大学の理想について、長いあいだ話し合うことができたであろう。パラドクス好み、法外な誇張、頻繁な非礼行為、鈍感な者への苛立ち、偏見など、ときにはケインズの同僚たちを警戒させ、「協会」外の広い世間で彼の成功を(完全にというわけではないが)妨げることさえあったけれども、そうしたことがウィトゲンシュタインに衝撃を与えることはなかったであろう。実務的な側面のほうも重要だった。ウィトゲンシュタインにとっては、ケインズがほどなくして公的なケンブリッジ大学を代表するようになった。一つには、ケインズの父親が当時大学の学籍担当事務長(Registrary)であったからでもあるが、おもにケインズ自身がその役にうってつけだったからである。彼はウィトゲンシュタインの生活における一種のマネジャーであった。捕虜収容所にいたウィトゲンシュタインとの連絡網を組織し、一九二〇年代にラムジーが下オーストリアの村々を訪ねたときに手を貸し、一九二五年の再訪英を可能にし、一九二九年にウィトゲンシュタインをケンブリッジ大学へ呼び戻し、一九三五年にはソ連との仲介役を務め、一九三八年にはウィトゲンシュタインの国籍問題について助言を与え、一九三九年ウィトゲンシュタインを教授に昇任させるための選考委員会では最も積極的な委員であった。実際、その時までに考え方や理想についての長い議論が終わり、ケインズの役割はウィーンにおける家庭顧問の一人──たとえば「ウィトゲンシュタイン官房」の長ないし家族秘書官長──のようなものになっていた。ウィトゲンシュタインは自分の仕事を処理するのに友人たちを巻き込むことを好み、かつそうすることを必要とした。われわれは、彼が「しばしば」ピンセントを使って、招待状を紛失したといった事態に対する正式の陳謝状の下書きを書かせたりしているのを発見しているし、またのちには、彼はギルバート・パティソンを自分の会計係兼慈善係にしている。その背後には、ある種の実務嫌いや他人依存の習慣があるし、またいくぶんかの内気さもある──彼には仲介者がいるほうが安は心なのであった。たとえば彼が第三者B氏をよく知っているときでさえ、自分の有する理由とか疑いとかを彼自身で直接B氏に説明するよりは、友人A氏が〔代弁して〕B氏に説明するほうがうまくいくことがあるだろう。最終的には、重要事であれ些細事であれ、仲間と共に決定や手続きの問題を解決していくのが友情の一部であり、しかも人生の重要な一部なのであった。興味深いのは、どのような理由があったにせよ、親密な関係に何らかの破綻があったときでさえ、彼の役割が継続しえたという点である。ウィトゲンシュタインは一度友人であった者を助けたり、その者に助けを求めたりするのに、決して躊躇しなかったであろう。友情が実際いまだに生きているのかどうか、躊躇することはあったかもしれない。この連関では、一九一三年六月および七月のケインズ宛書簡を一読されたい。彼は先に述べた(一六五頁)ジョンソンへの研究費贈与について助言を求めている。ケインズは返信の中で明らかに、イースター学期にあまり会えなかったことについて何らかの遺憾の意を表しているが、それに対してウィトゲンシュタインはこう応えている。

この前の学期にしばしばお目にかからなかったことに対する私の言い訳は、あなた自身がそれを望んでいるというしるしがなければ、私もわれわれの交友関係を継続したくないということです。(ケインズ宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一三年七月一六日)

〔…〕

 もしムーアがウィトゲンシュタイン関するかぎりラッセルは独占欲が強いと考えていたとしたら、それは格別に驚くべきことである。まさにこの頃、彼自身とウィトゲンシュタインとの結びつきが密接になりつつあったからである。それは、他の一対の人物だったらたぶんきわめて不幸であったであろうような仕方で始まった。ウィトゲンシュタインは、先年と同様ムーアの心理学講義に出席し始めたのだが、そこでは、夏『プリンキピア・エティカ』を読んだときにうんざりしたのと同様な欠陥を見出した。そこで、彼はラッセルに向かって、ムーアには「吐き気をもよおす」ほどの繰り返し癖があるばかりか、重要でない問題に時間を費やす傾向さえもあると言ったのである。「彼はムーアを愛している」とラッセルはオットリーン夫人に書き送っているが(一九一二年一〇月一五日)、「しかし、ほかの人たちほどには敬服していない」。実際、ウィトゲンシュタインは一〇月一八日の講義が終わったあとでムーアのところへ行き、もっと自制してくれるよう頼むのである──哲学の比較的初心者から自分より一五歳も年長の人に至るまで聴講しているクラスだというのに。ムーアは自分にできることは改めると約束して、(デズモンド・マカーシーに彼自身語ったところでは)依然としてウィトゲンシュタインをこのうえなく尊敬していた。

彼は授業に一、二回やってきたが「ムーア自身が一連の日記の抜き書きの中でウィトゲンシュタインについて記している」、心理学と物理学の違いはそれぞれの主題にあるのではなくもっぱら観点の違いにある、というウォードの見解の意味をはっきりさせ、これを論駁するのに、私があまりにも時間をかけすぎると、激しく説諭した。私のなすべきことは自分の見解を述べることであって、他人の見解を攻撃することではない、というのである。そのあと、彼は私の授業に出てこなくなったが、きわめて友好的ではあって、私の部屋へ訪ねてきたり、彼の部屋へ招待してくれたりした。

ムーアの当時の日記もこれを裏書きしている。二人の接触は頻繁になった──あらかじめ打ち合せたうえで、たぶん週に二度ほど(これは友人と会うにしては稀有なムーアのやり方である)。そのほかにも、コンサートとか、ラッセルの部屋でとか、夕食会とか、予定外の出会いがあった。ウィトゲンシュタインはお茶の時間とか夕食後とかにやってくるのを常としていて、そこでラッセルの集合論とか、ラッセルや彼がいま断定記号について考えていることとか、命題記号の意味とか指示対象とか、ラッセルの同一性理論に対する彼の反対意見とかについて「説明を試みる」のであった。しかし、全時間を哲学に費やすというのはまれなことだった。二人の友情における一種の抑制によって、音楽とか、ドイツの叙情詩とか、ラッセル、ジョンソン、あるいはその他の友人とかについての話が始まったり、話題が変わったりしたことであろう。音楽と詩歌はムーアの生活の二大愛着であった。彼は詩人トマス・スタージ・ムーアの弟であり、彼自身の二人の息子のうち、一人は詩人になり、もう一人は音楽家になった。彼は自伝の中で学校での音楽、とくにシューベルトの歌曲に対する熱狂を語っている。彼にはテノールの美声があって、ウィトゲンシュタインに長々と唄って聞かせることがあったであろう──あるときには『冬の旅』の中から「多くの歌曲を」、別のときにはブラームスの『わが乙女』や『四つの古典歌』などを。どちらの場合も単なる合間の座興ではなかった。あるいは一緒に室内楽を演奏して、ウィトゲンシュタインがいつものように、その一部を口笛で受け持つこともあったであろう。

〔…〕

 しかしながら、まず第一にウィトゲンシュタイン自身が「協会」に価値のあることを納得しなくてはならなかった。その性格や沿革については、疑いもなくラッセルから彼に説明がなされていた。それは小さな社会共同体であって、毎年平均して一人か二人が加入していた。

それは一八二〇年以来存在しており、会員としては、それ以来ケンブリッジ在住の知的に傑出した人物を数多く擁してきた。

彼らは毎土曜日の夜会合し、会員の一人が発表する論文を聴き、そのあとで出席者全員が討論に参加することが期待されていた。

いかなるタブーもないというのが討論の原則であった。制約もなく、何事もショッキングと見なされず、思弁の絶対的自由に対する障害もまったくなかった。われわれはあらゆる物事のあり方を論じた。無論ある種の未熟さはあったが、その後の生活の中ではほとんど不可能になった超説と関心とがこれに伴っていた。(同書同箇所)

「協会」に関する無数の報告が現在残っている。ハロッドはその『ケインズの生涯』の中でメリヴェイル学寮長(テニソンの同時代人)やヘンリー・シジウィクによる記事を紹介しているし、部外者としての彼自身の記述もこれに加えている。ラッセルのものは、われわれがここで利用してきた。朗々たる見事な説明がE・M・フォースターのロース = ディキンソン回想録にある。

フェローになる少し前、彼はいまだにケンブリッジで盛んな討論団体の一つに会員として選出されており、その精神生活に対してそれなりの役割を演じていた。そうした団体にはほとんど特徴の差がなかった。会員は年長の学寮学生や年少の学監から引き抜かれ、お互いの部屋で夕方会合して、論文が一つ発表される。発言の順番を決めるのは籤引きなのであるが、その順番は守られたり、無視されたりする。〔話の〕展開があり、脱線があるが、最後には発表者が批判者たちに応えているあいだに、アンチョビーの載ったトーストとかクルミケーキとかの茶菓がまわされる。討論のあるものは論理的になる傾向があるが、あるものは情報提供であったり、奇抜な発想だったりする。しかし、あらゆる場合に形式が回避され、会長も事務長も役割を最小限に減じられて、法廷風あるいは議会風にさえしようとする意図が皆無であった。若い人は議論に勝つよりはむしろ真理を求め、支持できないとわかった意見は喜んで放棄し、相手を言い負かそうとはせず、自分たちの遠慮を相互の一致のために支払うべき高い代償とは感じない。そして、ある観察者によれば、これこそケンブリッジが世界情勢の制御に比較的小さな役割しか演じなかった理由なのである。確かに、これらの組織はロータリー・クラブ精神の正反対を代表している。いったん自分の力を感取した者は、つき合いのよい人間だの、唯々諾々とした人間には決してならないであろう。彼らの影響は、それが悪く働いたときには自意識過剰とか高慢とかになるが、うまくいったときには精神が鋭敏になり、判断が強化され、心が利己的でなくなる。彼らには格別アカデミックなところは何もない。彼らは知性豊かな若者が集団訓練を受けないままに集まることが許されるような、もっと別の場所にいる。しかし、ケンブリッジでは、彼らが自分自身の奇妙に清浄な白光を発しているように見え、これこそまさしく中年に至るまで、ずっと役に立ち続けるのである。

それは理想であった。それは──たぶん少しばかり珍重され、自らの幻想や儀式や、はたまたドイツ形而上学とか、うろ覚えの異端キリスト教とかから党派色なしに借用した私的言語の使用にいささか苦労しているような──理想であり、胎児であり、陣痛であり、時空の制約を免れた使徒たちなのであって、時来れば翼を持ち、天使となるべきものであった(といったぐあいに、彼らは正会員の資格停止を記述している)。しかし、それにもかかわらず、それはなおクラーク = マクスウェルの足跡に従い、籤引きで当時最優秀の若者相手に話をするといったことなのであった。前向きに考えれば、その会員資格によって人は各世代ごとに最上級の若き秀才と接触できる機会を得たのである。それ自体の再生産は、常にそうした協会組織の主要任務の一つであった。エリート階級に属することは、もしそれが本当にエリート階級であるならば、明らかにウィトゲンシュタインを悩ませはしなかったであろう。そして、社会的成功と両立しないわけではないが、それとは別に「協会」に浸透していた非世俗性や、知的および道徳的な感受性といったものが彼を魅了することにさえなったであろう。彼がのちに語っているようなケンブリッジの風通しの悪さはもちろんあったけれども、しかし、それはジョウェットのベイリオル学寮綱領がいまだに流布していて、最良の若者が自国あるいは他国の支配を目指しているようなオクスフォード大学の雰囲気などよりは好ましいものであった。オクスフォードは、「協会」員の手紙の中では、常に「語るもおぞましい」といった感情を呼び起こしていた。ハーバード大学でジャーナリズムが教えられていると聞いて、ラッセルは「そんなことはオクスフォードだけでやっているものと思っていたよ」とコメントしている。多くの点でウィトゲンシュタインは常にケンブリッジ人であり続けた。
 「協会」は自分の時代以後凋落した、とラッセルがなぜ考えていたのか、われわれはすでにその理由を見た。ケインズは、彼の解釈では「協会」員が理念上かなりムーアの理想からかけ離れてしまった事実を容認している。

われわれは、いわばムーアの宗教を採り、その道徳を捨てたのである。実際、われわれの意見では、彼の宗教の最大の利点の一つは、それが道徳を不必要なものにしてしまうという点であった──ここで「宗教」という言い方で意味しているのは、自分自身と究極的なものとに対する人の態度のことであり、「道徳」というのは、外部世界や介在物に対する人の態度のことである。……他の人たちの精神状態ももちろんそうなのだが、しかし、主としてわれわれ自身の精神状態以外は、何ものも問題にされなかった。そうした精神状態は、行為とか業績とか結果とかに結びつけられてはいなかった。それは時間を超えた、ひたむきな思索と心の交わりの状態において成り立っているものであって、多くの場合「以前は」とか「今後は」とかいった問題から切り放されていた。……ひたむきな思索と心の交わりにふさわしい話題と言えば、愛する人のこと、美や真理のことなのであって、人の人生における第一目標は愛、美的経験の創造ならびにその享受、そして知の追求なのであった。

ケインズは言う、彼らは将来全体にわたる最も蓋然性の高い偶有的善を最大限に生み出すべき人間の義務についてのムーアの見解を否認したばかりでなく、一般規則に従うべき個人の義務についての彼の見解をも拒否したのだ、と。そうした見解が、ハロルドの論じているように、『プリンキピア・エティカ』の中の説得力に乏しい生ぬるい部分のことなのか、それとも、ラッセルが示唆しているように、ムーアの有機的統一原理(これこそ、彼らの称賛した側面の一つなのであるが)がそうした結論を含意していたのか、といった問題は、われわれの目的からすれば取るに足りない。ウィトゲンシュタインもまた、こうしたムーアの思想を双方共に拒否する立場からさほど遠くないところにいた。彼が「協会」と意見を異にしていたのは、ケインズ自身も記しているように、彼らのムーア思想否認の基盤になっていた人間本性についての観点に関してであった。

われわれは原罪説なるものの諸説、〔たとえば〕大部分の人間には邪悪という正気でない不合理な根源が内在しているといった説をすべて否認した。われわれは、文明というものがきわめて少数の人格や意志によって樹立された薄く不安定な表皮のごときものであって、たくみに設定され狡猾に維持された諸規則や諸慣習によってのみ維持されている、という事実に気づいていなかった。われわれは伝統の知恵も習慣の拘束力も尊敬していなかった。ロレンスが看取し、ルートヴィヒもまた正当にも常々言っていたようにあらゆるもの、あらゆる人に対して、われわれは畏敬の念を欠いていた。

ケインズはのちになって回想しているときでさえ、嫌々かつ表面的にしか畏敬の念の重要さを認めていない事実をわれわれはのちに見るであろう。何らかの信念が根拠もないのに保持されていたとしても、それはそれでいいことなのであろう。
 こうした点についての態度の違いも、ウィトゲンシュタインに「協会」と没交渉のままでいる決心をさせるのに十分でなかった。結局、彼は長時間ラッセル、ムーア、ケインズらと語り合うことができたのであるが、その誰とも根本的に異なっていたのである。彼は実際に女性参政権に反対することによって、進歩的なケンブリッジ人の論争好みのパーティにショックを与えることさえ辞さなかった。彼はモラル・サイエンス・クラブでの議論にも秩序をもたらすことが可能だと考えていた。「協会」そのものを変革したらいいのではないか。この目標が(ラッセルはそれを言葉を尽くして言っているのであるが)事実上ウィトゲンシュタインをして、疑心暗鬼ながらも、選挙結果を受け容れさせることになった。
 その疑心は、彼自身のもラッセルのも含めて、別の原因から生じた。彼自身の友人たちを除けば、若い人たち、つまり積極的な会員たちがはたして真剣な討論相手であったろうか。「協会」の雰囲気は正しいものであったろうか。ケインズは、あるところまで、前に引用したラッセルの回想的な非難を裏づけている。

年が一九一四年に改まろうとする頃、人間の心に関するわれわれの見解の薄弱さや皮相さが、その誤謬と共に、一層明白になってきたように、今の私には思える。そして、もとの学説の純粋さからの逸脱もまた何ほどかあった。一対の恋人の交わりの瞬間への専念が、一度は拒否された喜びの気持ちと完全に混じり合ってしまった。ときには生活のパターンが短く鋭く浅薄な、われわれのいう「密通」の継続以上のものにはならなかった。人生や事件に関するわれわれの意見は鮮明でおもしろかったが、もろいものでもあった。……なぜならその根底にある人間本性についての確固とした診断がなかったからである。

ムーアとラッセルは、こうした雰囲気が起因となった個人的な悶着には本質的に無関係であった。ケインズのほうはあらゆる生活形態に強い関心を持っていたから、そうした悶着に興味を持って介入したけれども、そのことは厳密に言えば彼の諸活動の些細な一部にすぎなかった。しかし、何人かの若い人にとっては、そうした悶着がしばらくのあいだ最も重要であるように感じられた。ウィトゲンシュタインは、皮相や生半可に対する彼の憎悪からして、そうした悶着やそれに関する議論を寛恕しえたであろうか。

〔…〕

新しい論理学の優越に対する彼の絶対の確信、ならびに論理は進歩しなければならない研究主題だというその含意内容にも注意すべきであろう。
 これらもろもろの兆候は総じてウィトゲンシュタインが、いわば額に汗して、当時あたりまえと思われていた若き哲学者のあらゆる経歴過程を一つ一つ通過していかなくてはならないことを示していた。ちょうどムーアが一九一〇年にモーリー・コレジで一連の講義をしたように、ウィトゲンシュタインも同じロンドンにあった労働者のコレジで講義することが計画された。労働者教育発祥の地であるその場所では、もともとF・D・モーリスが、そしてもっと新しくは『トム・ブラウンの学校時代』の著者がキリスト教の男らしさと社会主義のキリスト教について教えていたのであったが、ウィトゲンシュタインもまた、富める者が当時義務と感じていた教育という手段を介して、かの贖罪意識を抱きながら自分自身の役割を果たすことになっていた。一〇年のちには、彼は労働者を支援するのに哲学などはもちろんのこと、学問的訓練のごときをもってしようするような考え方そのものを嘲笑することになるのであるが、しかし、このときには、彼は明らかに(Fに対する彼の助言の言葉を使えば──一八七頁参照)哲学の学習が純正な思想の何たるかを彼らに悟らせる一助にはなると感じていたのである。一九一三年一〇月になると、彼は一連の理由からイギリスを離れていて、予定された講義は行われなかった。

〔…〕

論理学者の短所といったものがあるのかもしれない。しかし、もっと確からしいのは、どちらの人物が相手の頰に口づけし、どちらが頰をそむけたのかという問題であった。数日後、六月一〇日に彼らは再び連れ立って、〔ベートーヴェンの〕合唱つき交響曲を聴きにいった。一緒にこの交響曲を聴くのは自分の生涯で最も意味のある瞬間の一つだった、とウィトゲンシュタインがラッセルに語ったのはこのときのことである。彼の感じた感激を描写することは可能である。蓄音器はまだ未熟だったし、ステレオ再生などはは考えられもしていなかったから、合唱つき交響曲の演奏は一つのイヴェントであった。ともあれ、ウィトゲンシュタインはこのうえなく心を開き、熱狂的な心の状態にあった。それは、彼がピンセントにその演奏について語ってからたった三カ月のちのことであった。

第九交響曲の合唱が彼の生涯における本当の転換点を象徴したかのようにさえ思えた! 彼はついにそこに慰めを見出したのだということ。(日記、一九一三年三月五日)
第六章 ノルウェー 1913─14

〔…〕

自らの成果に対する高揚した気分と、その成果は完全かと疑う気持ちやそれらの未来についての嫌な予感と、これら二つの気持ちに揺れ動きながら、ルートヴィヒは計画を二つ思いついた。その最初の計画を次のようにラッセルに持ちかけたのである。

階型〔理論に関する問題〕はまだ解けていませんが、私には大変基本的と思われる実に多くの着想を得ています。このところ、これらの着想を公刊しえないうちに死んでしまうのではないか、という感情が日ごと私の中で強まってきています。ですから、私がこれまでになし遂げたことのすべてできるかぎり早くあなたにお伝えしたい、というのがいちばんの願いなのです。私が自分の着想を大変重要なものと信じているとは思わないでください。でも、それで誤りをいくつか避けることができると思えてならないのです。それとも、私のほうが間違っているのでしょうか。もしそうでしたら、この手紙はすっかり無視してくださって結構です。もちろん私は、自分の着想が死後にも残るに値するかどうかについては、何らの判断も持ち合わせていません。それに、ことによるとこんなことを考えることさえ馬鹿げたことなのかもしれません。ですが、たとえ馬鹿げたことだとしても、どうか私のこの愚かしさをご容赦ください。と言いますのも、それはうわべだけの愚かしさなどではなく、私にありうるかぎり最も深刻な愚かしさなのですから。この手紙を続ければ続けるほど、かえって要点がぼけてしまうのはわかっています。けれども、私の言いたいことはこういうことなのです。つまり、できるかぎり早くあなたにお会いすることをお許しいただき、今までに私がなし遂げたことの全領域についてあなたに概説するに十分な時間をお与えくださるようお願いしたいということ、そしてできることならあなたの御前であなたのためにノートを作るのをお許し願いたいということなのです。(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一三年九月二〇日)

彼は続けて、一〇月の初め頃に会ってもらえないかと提案している。こういう計画、つまり同学の士を前にすることで執筆意欲をかき立てようという計画については、のちに『青色本』や『茶色本』の口述筆記の際にこれと似た事態に出会うことになろう。というのも、『茶色本』の構成の仕方は、一九一三年に計似画されたこのやり方と驚くほど似ているからである。ラッセルはウィトゲンシュタインの死後に出版できるような何かを与えられていたのではないか、という想像についてはすでに検討したところである(二六八頁、ピンセントの日記からの引用を参照)。
 これから、この会合がどのようなものであったか見ていくことにしよう。ウィトゲンシュタインは、ラッセルやムーアに計画を語る前に、まず最初にピンセントに話している。

ルートヴィヒは今朝ずいぶん機嫌がよかったが、突然、本当にどきっとするような計画を宣言した。すなわち、数年間あらゆる知人から離れて、たとえばノルウェーかどこかで暮らすと言うのだ。まったくの一人きりで暮らす、つまりは隠棲して論理学の研究以外は何もしないという。その理由というのは、私にはまったく奇妙なものなのだが、彼にとっては確かに大真面目なものなのだ。まず第一に彼は、そういう環境でならケンブリッジにいるよりもはるかに多くの、そしてずっと優れた研究ができるだろうと考えている。彼が言うには、ケンブリッジにいると絶えず邪魔されたり(コンサートのような)気晴らしをしたりしてしまいがちになって、それがひどく障害になるという。第二に彼は、自分が反感を抱いている(もちろん彼の共感を誘う人も少しはいるのだが)世界、彼が絶えず他人に対して軽蔑を感じ、また彼の神経質な気質のために絶えず他人を苛立たせずにはおれない世界、そういった世界の中では、その軽蔑というような感情に対する何らかの正当化、たとえば、自分が真に偉大な人物であるとか本当に偉大な研究をしてきたというような正当な理由がなければ、生きる資格はないのだと感じている。彼は、はっきりと心を決めたわけではない。だが、結局はこの計画を採用することになる、という確率は小さくはないのだ。(日記、一九一三年九月二四日)

この計画にはまだ若干躊躇していたようである。というのも、その翌日には労働者のコレジ(前述の二八九頁を参照)で受け持つことになっている講座の、導入講義のもととなる論文にデイヴィドと一緒に取り組んでいるのだから。

〔…〕

 一九一三年の一連の出来事を精確に再構成しようとしても、あまり意味がない。おそらくはグッドスタインに話したウィトゲンシュタインの説明が、フレーゲの自制癖や、一連の新しい構想を検討しなくてはならなかったフレーゲの困難を下敷にして構想された、彼自身の新たな解決法に対する若者らしい確信を描写している。その説明が反映していないもの──他の挿話や評言によってのみ与えられる観点──は、ウィトゲンシュタインがフレーゲに対して抱いていた尊敬の念であって、そうした尊敬は多少なりともフレーゲが、かの活発でときにはむしろ荒々しいケンブリッジの討論世界に属していなかったという事実に由来するのかもしれない。
 フレーゲのもとを辞して、ウィトゲンシュタインはウィーンへ行った。このウィーン行きは回避できなかった。

事実はこうです。母がとても私に帰ってきてもらいたがっていて、もし帰らなければ、ひどく嘆くだろうということ。それに彼女は去年のちょうど今頃のことに辛い思い出を持っているものですから、行かないで済ますつもりもありません。(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙[一九一三年一一月または一二月])

父親の一周忌であったにもかかわらず、ウィトゲンシュタインには半ばウィーンへ行かないで済まそうとした形跡があって、母親には旅程の相当部分はスキーを使わなければならないだろうなどと書き送っている。後年の彼の生活から判断すれば、クリスマス時期に家族から離れて過ごすことを考えることすら、異例のことであった。後日の記録は、彼がどたん場になって突如贈物を発送する事例に満ちているからである。このときもまた、最後に生まれ、息子たちの中では最も優しかった彼が、習慣通り母親のそばに座って、その演奏を聴き、本を読んでやることになったであろうことは、いささかも疑いがない。ところが、このときの代償は大きかった。母親はせいぜい彼が支えてやらなくてはならない老人になってしまっていて、彼にとっては力の源泉ではなくなっていたのである。昨年は父親の末期の病いが「彼の思想を片輪にした」のであったが、今や注意を集中する対象がなくなっていて、「人々のあいだでの生活」が彼の仕事を不可能にしていた。まだノルウェーにいたとき、彼は自分が狂いつつあると考え、仕事の遅々たる歩みが彼の意気を低下させて、あらゆる物事が自分にとって明確になるか、さもなければ死が自分に襲いかかることを切望していた。そこでは、彼の全生活が彼の仕事のうちに集約されているように思われていた。ときには彼は自分には何もできないと思い、ときには少々仕事を進めて、それからおしまいにする──つまり死ぬ、そうしたら自分の仕事をラッセルに出版してもらおう、とも考えていた。〔ところが〕今家族のもとへ戻ってみると、彼は自分の問題が単に論理の問題なのではなくて、自分自身に根ざした問題であると感じた。家に戻ってまったく非生産的になり、孤独の中へ戻ることだけを望みながら、彼はラッセルに向かって自分の状態を次のように書き記している。

ここでは自分が毎日違っているように感じます。ときには自分の内部がひどく動揺して、気が狂うのではないかと思うほどですが、その次の日には再び完全に無感動になってしまう。しかし、自分の内部の深い所は間欠泉の底部のように果てしなく沸き返っていますから、最終的には何かが噴出して、自分が……別の人間に成り代われることをひたすら望んでいるのです。きょうは論理について何も書けません。たぶんこのような自省など時間の無駄だとお思いになるでしょうが、でも、私が人間である以前に論理学者であることなど、いかにしてありえましょうか! はるかに重要なのは自分自身にけじめをつけることです!

ケンブリッジへ戻ったあとで、彼はこのウィーン滞在の結末をもう一度書き送っている。

とても悲しいことですが、またしてもあなたに差しあげるべき論理学上のニュースはありません。その理由、この最後の数週間というもの、事態が私にとってはひどく悪く進行していたということです。(ウィーンにおける私の「休暇」のせいです。)毎日私は恐ろしい煩悶と落胆とに交互に苦しめられ、そのはざまにあってさえ疲れはてていて、少しも仕事をする気持ちになれませんでした。それは言語を絶して恐ろしい、ありうる心的苦痛の最たるものです。私がその呪いのうめきを脱して、理性の声を聞くことができるようになり、仕事を再開しはじめたのは二日前のことにすぎません。そして、たぶんこれからはもう少しよくなって、何かましなものを生み出すことができるでしょう。でも、狂気すれすれのところにいると感じるということがいったいどういうことなのか、私にはまったくわかっていませんでした。万事うまくいくことを祈りましょう!(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙[一九一四年一月])

にもかかわらず、彼の人格の問題と論理の問題とのあいだには顕著な平行関係がある。彼のうちなる動揺は、あるときには明らかに心理的なものであるが、他方別のときには「重大問題」へのめりこんでいく。両者の平行関係というのは、彼のノートや手紙類を一貫して流れているテーマなのであって、「論理と自分の罪」は、われわれがすでに見たように、双方が同時に彼の重大関心事でありえた(前述二六四─二六五頁)。彼が哲学に求めたのは「自分を解放してくれる救済の言葉」、問題を解決する明確な言語表現であると共に、また贖罪の言葉でもあるような言葉、われわれを悪より救い出す言葉なのだった。さまざまな意味における回心こそ、彼が論理と生活の双方に望んだものなのである。論理のまさしく基本的な問題は解決されなくてはならず、彼は新たな人間にならなくてはならなかった。いったいどのような点でなのか、われわれにはただ推測することしかできない。彼の目的は単純であること、直截であること、基本的であること、理解すること、強くあることであり、とりわけ自分が自分自身であること、こうしたことのいずれかが達成できたようなふりをしないことであった。それでも、他の人々、彼の家族、これらの特性をまさに必要としていた人々は、この理想すべてに反する感情、高々胸のうちに秘めていることしかできないような感情を〔彼のうちに〕誘発したのである。なぜ当時こうした問題がとくに尖鋭に感じとられたのかについては、彼の父親がその存命中、ある種の期待の枠組みを設けていて、ルートヴィヒはその枠組みの内部でしか生きられなかったのだと想定するのが自然である。〔ところが〕今や、彼は総じて女性的な家族の中で自分自身の人格を確立することをよぎなくされたのに、そうした尺度に屈伏する用意がなかったというわけなのである。以後、彼の情緒的道徳的生活と哲学的進展とのあいだにある平行関係については、一度ならず立ち戻って論ずるつもりである。
 ウィトゲンシュタインの場合にはいつもそうなのだが、とくに彼の生涯におけるこの年の出来事の意味を詳らかにしにくいわけは、外的刺激の特性にあるというよりは、むしろこれに対する彼の反応の強さや激しさにある。ほかの人たちなら、父親の死ぬ頃に成熟期に達していたであろう。ほかの人たちなら、自分の家族や、自分の家族が大写しになっている自分の環境世界から自分がよぎなく引き離されていくと感じたであろう。たとえ少数ではあっても、何らかの大問題に対する答えを見出したように思ったり、それを明確にしようと努力したりすることの産みの苦しみをすでに経験していたことであろう。こうしたことは生活や仕事や成長と不可分のことであって、大多数の人はそれらの中にある肯定的な要素によって支えられている。しかしウィトゲンシュタインの場合はそうでなかった。この年のあいだ中、いつにも増して思いが自殺に向い、芝居がかった以上に歴然とした不幸の中で、自分を支えていた友情の根幹に突きあたったからである。
 真っ先に針先の向けられたのはラッセルとの友情であった。一人の父親を失った一年のちに、ウィトゲンシュタインはもう一人の父親を拒絶した。今となっては、神々のうちのいずれが両人を争わせたのか、特定することは不可能である。ラッセルは自分を責める。「私は彼に対してあまりにも辛辣にすぎました」と、以下に長々しく引用する一九一四年の一月ないし二月のウィトゲンシュタインの手紙を(明らかに)受け取った時点で、オットリーン夫人に報告している。ウィトゲンシュタインは、現在失われてしまったように思われるもう一通の手紙をそれ以前に書いていて、そこでも長々しく二人のあいだの根本的な違いを解決しようと試みているから、「あまりにも辛辣にすぎた」と悔やんでいるのは、たぶんその手紙に対するラッセルの返信の中でのことだったのであろう。なしうる最良の推測は、この事態がまず第一にラッセルのアメリカにおける講義(後日『外界に関するわれわれの知識』と題されて出版された)に関係していたということであろう。

たぶん彼らはあなたに[とウィトゲンシュタインは書いている]自分の思想を語って、単に断片的で干からびた結果を語るのでない機会、ともかくもいつもよりは好意的な機会を与えてくれることでしょう。(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙[一九一四年一月])

たぶんこの評言が、ウィトゲンシュタインの〔自著を〕出版したい気持ちと、仕事を何も完成できないでいる完全主義との対比について、何らかのコメントをラッセルから引き出したのであろう。あるいは、ラッセルが(われわれのすでに見たように)ウィトゲンシュタインに対して批判的だった諸点──狭量さ、不寛容、自分自身の考えへの過剰な沈潜等──のいずれかに触れたのかもしれない。いずれにしても、この挿話の意味を理解するためには、ラッセルが実際ウィトゲンシュタインに対していくぶんか苛立っていて、不快感すらもっていたにもかかわらず、同時に気忙しげな愛情やある程度の理解を持っていつも彼のことを考えていた事実を当時の資料が示している、という点に留意することが大切である。われわれはウィトゲンシュタインの書簡だけに準拠すべきではないし、ましてはるかに後年のラッセルの評言の調子に誤導さるべきではない。
 その反目──ウィトゲンシュタインはこれを「争い」と呼んでいる──の実際がいかなるものであったにせよ、ラッセルはウィトゲンシュタインに対して何事もなかったかのように振舞うよう要請する。ウィトゲンシュタインは次のように返答した。

しかし、あなたの要求を実行することなどできません……。そうすることは私の本性に反したきれいごとになるでしょう。ですから、この長い手紙を許してください。そして、私もあなたとまったく同様に自分の本性に従わねばならないことに思いをいたしてください。この一週間私たちの関係についていろいろ考えてみて、ふたりはお互いに本当に合わないのだという結論に達しました。これはあなたを、あるいは私自身を非難するということではありません。これは事実なのです。私たちは、ある種の話題については、しばしばお互いに気まずい会話を交わしてきました。その気まずさは一方あるいは他方の不機嫌の結果ではなくて、私たちの本性の途方もない違いの結果なのです。ともかく私があなたを非難したがっているとか、あなたにお説教をたれたがっているとか、決してお思いにならないよう、心からお願いします。私はただ、ある結論を出すために、私たちの関係をはっきりさせたいと思っているだけです。私たちの最近の反目も、明らかに単にあなたの感じやすさとか、私の配慮のなさとかの結果ではありません。それはもっと深いところから──たとえば科学の仕事の価値について私たちの考えがどれほど完全に違っているかを手紙の中で示したはずですが、そのような事実から出てきたのです。もちろん、そうした事柄についてあれほど長々と書き記したのは私の愚かなところであって、私はそうした根本的な差異が一通の手紙で解消するはずのないことを銘記しているべきでした。それに、これはたくさんの事例のうちのたった一つにすぎません。今、まったく心静かにこれを書いているとき、あなたの価値判断が、まさに私の価値判断の場合と同様に、しっかりと深くあなたの中に根をおろしていること、そして、私にはあなたを審問する権利などないことが完全によくわかります。だが、今やそれと同じくらい明確に、まさにその理由によって、私たちのあいだには本当の友情関係もありえないことがわかるのです。私は自分の全生涯をかけて衷心よりあなたに感謝し、あなたに献身するでしょうが、二度と再びお手紙を差しあげたりしないでしょうし、あなたも二度と私に会うことがないでしょう。あなたともう一度和解した今、私は平和裡にあなたとお別れしたいと思います。そうすれば将来二度とお互いに煩わされることがなく、そうすればたぶん敵としてお別れすることになりましょう。あなたにすべて最善のことのあるよう願うと共に、私のことも忘れず、しばしば友人らしい気持ちをもって思い出してください。さよなら!
敬具
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

彼の気分はしばらくしたら変わるだろう、とあえて言います[とラッセルはコメントしている]。自分が彼の説明など気にしていないことはわかるのですが、それもただ論理に関してだけです。それでも、これに直面することを本当に気にしていると思うのです。(オットリーン・モレル宛ラッセルの手紙、一九一四年二月一九日)

実際にはラッセルはもう一度手紙を書き、ウィトゲンシュタインの気持ちのなごむことを願った。その手紙は手厳しい相手の心琴に触れさえした。

親愛なるラッセル、
 あなたのお手紙はとても思いやりと友情に満ちあふれていたので、これに応えないでいる権利など私にはないと思いました。そこで、私は自分の決心を変えなくてはなりません。しかし、残念ながら、自分の言うべきことを数行にしたためることはできないし、あなたが私を本当に理解してくれることもほとんど期待できません。もう一度申しあげなくてはならないのですが、肝心なのは、私たちの反目が単に神経質とか疲れすぎとかいった外的な理由から生ずるのではなく、ともかくも私の側ではとても根深いのだ、ということです。私たち自身はそれほど違っていないのだから、私たちの理想もそれ以上に違ってはいないのだとおっしゃるのは正しいかもしれません。しかし、そのことこそ、私たちが偽善的になるか喧嘩をするかしないかぎり、これまでお互いの価値を含む物事について話し合うことができず、今後も決して話し合うことができないであろうことの理由なのです。これは議論の余地のないことだと思います。私はずっと前にこのことに気づきました。それは私にとって恐ろしいことでした。というのは、そのことこそ、私たちお互いの関係を汚染したのだからです。私たちは沼地に並んで坐っているように思われました。事実はこうです、私たちは双方とも弱さを持っているが、とくに私がそうであって、私の生活は考えうる最も醜い卑劣な思いに満ち満ちているということです(これは誇張ではありません)。だが、もしある関係が双方にとって屈辱的なものになるべきでないとしたら、それは双方の弱さのあいだの関係であってはなりません。そうです、関係は当事者双方が汚れなき手を持っている領域、すなわち両者ともお互いに相手を傷つけることなく完全に率直でありうる領域に限定さるべきです。そして、それこそ、私たちの関係を客観的に確定できる諸事実の交流に限定することによってのみ、おそらくはまた多少なりともお互いの友好的な感情を述べ合うことによってのみ、私たちにできる何かなのです。それ以外のいかなる話題も、私たちの場合には、偽善か喧嘩別れになってしまうでしょう。ところが、あなたはおそらくこう言うでしょう、「物事は多少なりとも現在までうまくいっていた、なぜ同じようにいかないのか」と。でも、私はそうしたいつもの下劣な妥協にあきあきしています。私の生活はこれまで汚らしいゴミ溜でした。しかし、それを今後も続ける必要があるでしょうか。そこで、あなたに一つの提案があります。お互いに自分の仕事、自分の健康といったことについて手紙を書きましょう。しかし、私たちの文通では、どのような話題についてであれ、いかなる種類の価値判断も避けることにしましょう。そして、価値判断をすれば、二人とも相手を傷つけないでは完全に正直になりえないということを(このことはともかくも私の場合には明白な真実です)はっきり認識しておきましょう。あなたに対する私の深い愛情を確約する必要はないでしょう。でも、その愛情は、もし二人が偽善に基づく関係、そのゆえに双方にとって恥辱の源泉となるような関係を続けるとすれば、重大な危険にさらされることになりましょう。そうです。私たち双方にとって名誉なことは、二人の関係をもっとまともな基盤の上で続行させたらどうか、ということだと思います。このことについてお考えになり、辛さをお感じにならない場合にのみ、お返事くださるよう、お願いいたします。ともあれ、私の愛と誠実を信じてください。私の望みは、あなたがこの手紙を、私の理解されたいと思っている通りに理解してくださることだけです。
敬具
L・W
(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一四年三月三日)

〔…〕

 ムーアはその小さな町に二週間滞在することになっていた。通常彼はそのホテルで二時まで仕事をし、それから食事のためにウィトゲンシュタインの小屋へおもむく。そこで五時まで議論があって(「彼が議論をする」とムーアは日記の中で言う)、お茶の時間になる。それから、二人は散歩に出たり、その前にピアノを弾いたりする。夕方の残り時間はウィトゲンシュタインが話をする。ピアノ演奏という目的もあってドレグ二家(父親と息子)とも往き来し、そうした折にはムーアが持参するよう頼まれていたブラームスの『運命の歌』の連弾用編曲譜が疑いもなく使われたことであろう。そばにウィトゲンシュタインだけがいるときには、ムーアはいつものようにシューベルトを弾いたように思われる。フィヨルド上のボート遊びも一度行われた。ムーアが甘受した受け身の役割、彼の日記によればともかくも割りあてられた役割が再度特記されるであろう。ある意味ではそのことが実を結んだ。すなわち、四月一日からムーアは口述筆記を始めた。その「ウィトゲンシュタインの論理学」が小さな練習帳二冊をいっぱいにし、三冊目の数頁分にまで及んで、現在では『草稿一九一四年─一六年』と題する一巻本の中に収録されている。その内容についてはあとで「論理に関するノート」と一緒に論じることにする。今のところは、これらのノートがウィトゲンシュタイン自身によって一層たくみに、あるいは十二分にまとめられたという点、そしてまた、そこでは新しい概念が導入されて、これらのノートではいまだ明示されていなかった論理上の解釈を敷衍し、明確にすることが可能になったという点で、一歩前進したと言っておくことだけが必要である。それら新しい概念のうちで最も重要なのは、トートロジーという概念と(おそらくはウィトゲンシュタインの全哲学的生涯を通じても重要な基本構想になる)「命題によって言われるのでなくて、むしろ示されるもの」という概念であった。

〔…〕

 かくしてノルウェーにおける晩春と初夏は、立ち直りの時期であったように思われる。ウィトゲンシュタインはもっと長い期間のノルウェー滞在、おそらくは不定期の滞在を計画し始めていた。フィヨルドから少し離れた所に湖水があり、その一方のへりを道路が、もう一方を山が縁どっている。その山辺にそこへは湖を横切るボートでしか近づけないウィトゲンシュタインは、ラッセルに語ったように「里を何マイルも離れた」家を一軒建てた。「何マイルも」という私の訳語はここでは少々自由にすぎるのであって、その家は実は村から約一マイルの所にあるのであるが、それに達する道程はひどく長いものになるのである。ウィトゲンシュタインがムーアのために描いた見取り図が書簡集の諸版に収録されている。家は木造で、二七フィート〔八メートル余〕×二四フィート〔七メートル余〕の敷地面積、湖畔から一○○ヤード〔九一メートル余〕ほど離れている。ある時点で(そこに住むのは後日のことになるのであるが)ウィトゲンシュタインは、水その他の物資を湖畔から家まで引きあげるために、滑車つきのロープウェイを設置した。入口は湖面の反対側にあり、破風の下にあって、居間に通じる。この居間の右側のドアを開けると寝室と台所がある。この小さな家には湖を隔てて素晴らしい眺望があり、フィヨルドが南西方向に開け、家屋それ自体も夏蔦でおおわれ、緑樹で囲まれると十分に快適な様相を呈した。だが、そこに冬のあいだ中棲みつくには、隠者か苦業僧のような気質をすら必要とするであろう。相当の勇気も必要である。ウィトゲンシュタインには神経質にすぎる傾向があって、風の強い日に自分の小さなボートで湖面を漕ぎ渡るとき、縁起をかついで湖水に唾をはくほどであった。ウィトゲンシュタインがそもそも一九一四年にそこに滞在していたのかどうか、証言のあいだには多少の食い違いがあるが、彼がそこに長く滞在していたことはほとんどありえない。家が建てられたのはムーアが発ったあとなのであって(ムーアが一九三六年に手紙を書いたときには、まだその所在地を知らなかった)、かの見取り図は夏以後オスロにあるクリスティーナ店から家具を運びあげるためのものだったのである。
 「それは神々が別様に定め給ふたのだ」と、その夏の計画すべてについて、人は言いたくなるかもしれないが、ウィトゲンシュタインという人物は確信を持って将来を展望しているとはとても言えないような人物だった。彼のしたことはすべて何ぶんにも無計画であった。さまざまな時点で、彼はこの家を処分したり、誰か他の人に、とりわけ彼の帰還を遅延させた戦争のさ中には、ある一人の戦友にこれを譲り渡してしまおうと思っていた。うわべだけの安全しかなかったことで有名なその年の春、ウィトゲンシュタインは大戦が勃発した場合自分がどうするかについて、ムーアと議論している。人々はウィトゲンシュタインの予知能力に(おそらくはあまりにも容易に)感じ入ってしまうのを常としていた。彼は常に最悪を期待したから、その結果的に正しかった予言が当然記憶されてしまったのである。彼が悪い知らせを歓迎さえしたとは、姉のグレートルが常々言っていたことである。彼の好きだった下記の引用文はゴットフリート・ケラーのものである。

常に想起せよ、物事の順調なるとき、そうなる必然のなかったことを。
第七章 戦争 1914─18

〔…〕

 ウィトゲンシュタインはオーストリアに帰っていた。七、八月をそこで過ごすつもりでいたようである。九月にはピンセントと休暇旅行をする予定をしていて、ショルデンに戻る前にイギリスに立ち寄ることになっていた。彼はある会合に出るため、七月末にホーホライトからウィーンにやってきた。この会合が結果的に、続く何年かの彼の友人関係や関心を決定することになった。
 彼はカール・クラウスの愛読者であり、インスブルックで出版されていた知的文芸雑誌『ブレンナー』についての彼の言葉を読んでいた。「オーストリアで唯一真面目な雑誌はインスブルックから出ていること、また少なくともドイツで唯一真面目な雑誌もインスブルックから出ていることを知っておくべきである」とクラウスは言う。その編集者は、ウィトゲンシュタインよりいくつか年上のルートヴィヒ・フォン・フィッカーであった。彼自身作家であったが、何よりも良いものを嗅ぎわける鼻を持った──ウィトゲンシュタイン自身の言い方によれば「鼻の利く」──人物であった。一九一〇年来隔週に刊行されていた『ブレンナー』には、詩、評論、物語、哲学的社会的関心に基づく記事、時事批評が載せられていた。一つのまとまったテーマというものはなかった。カール・クラウスが影響を及ぼしていたことは明らかであり、雑誌名はブレンナー峠からとられたもので、ドイツ文化から地中海文化への通路を示そうとしていた。この雑誌には政治的傾向はなく、芸術と生活の拠り所を得ようとする努力に支えられていた。今日、文学史家に馴染みとなっている名前が、雑誌の初期の号に出ている。テーオドール・ドイブラー、ペーター・アルテンベルク、アルベルト・エーレンシュタイン、エルゼ・ラスカー = シューラーの名が見えるが、とくに注目されてよいのはゲオルク・トラークルである。ウィトゲンシュタインの好みに合う作家がいたが、すべてがそうであったわけではないであろう。とはいえ、たびたび掲載されたドストエフスキー論、キルケゴールのドイツ語訳(入手の容易なものとしては最も早い翻訳である)からは影響を受けたと見てさしつかえない。ウィトゲンシュタインが実際に語っているところによれば、彼自身はフィッカーがクラウスについて書いたことに感銘を受けた。この雑誌は、クラウスが試みていたことを彼ほど私的、個人主義的な仕方ではなく、また彼ほど潔癖でもなく試みるものであったと言ってよい。すなわち生活の諸条件を変えることなく、生活と思想のある種の道徳的改革を達成しようとするものであって、非常にオーストリア的なものであり、今から振り返ってみると明らかなように、非常にウィトゲンシュタイン的なものである。こうした現実離れした性格は、当時の知識人の政治的無力という現実の反映と見ることができようし、より一般的にいうならオーストリア = ハンガリー帝国の腐敗の反映と見ることができよう。だが同時に、それはある重要な発見、すなわち(たとえどんなに可能性が乏しいとしても)必要な革命は制度の革命ではなく人々の思考や感覚の──クラウス風に言えば言語の──革命であることの発見であった、と見ることもできる。
 それゆえウィトゲンシュタインがフィッカーの助力を得て以下の事業を行ったのは偶然ではない。彼は一○万クローネをオーストリアの「芸術家」(「キュンストラー」という言葉が使われているが、これはウィトゲンシュタインの父が援助したような画家や彫刻家だけを意味するものと取られかねない言葉である)に配分したいと考えた。フィッカーなら最も優れていながら最も困っている人たちを知っているはずだ、とウィトゲンシュタインは言う。ウィトゲンシュタインの二通目の手紙での説明によれば、彼は多額の財産を相続したところであるが、慈善事業にそのいくばくかを寄付するのが習慣(彼の一家の、ということであろうが)となっている。彼とフィッカーの仲だちをしたのは(すでに触れた)クラウスである。面会が可能かどうか、とウィトゲンシュタインはたずねた。
 そこでフィッカーは、ウィトゲンシュタインが次にウィーンにくるときに自分もそこに出向くことを約束した。さて、約束の日までのあいだフィッカーはウィーンにいる友人たちに問い合わせ、父カール・ウィトゲンシュタインの正体と彼が芸術家にほどこした援助のことも聞きつけた(皮肉めいた言い方をする人もいなくはなかった)。実際に面会したとき、こうした皮肉を思い出させるような節をフィッカーはいっこうに感じなかった。

旅行の当日はたいそう暑かった。ノイヴァルデッグの公園にはさまれた邸宅の庭園の開け放たれた門の前にタクシーが止まったときには、夜のとばりが降りていた。建物自体は道路から大分奥まった所にあり、定かには見えないが、前のテラスにはこうこうと明りがともり、そこにはすでに若い慈善家が私を待ち受けて立っていた。慎み深い風貌で、ドストエフスキーにでてくるアリョーシャかムイシュキン公爵を彷彿させた。私に気がつくとすぐに階段を何段か降り、広い砂利道を通って私のほうに迎えにきた。そして心のこもった挨拶をし、私を家の中へと案内した。彼は召使の給仕する夕食の際にも上機嫌で、話し方にはどこかぎこちのないところがあったものの心からの交流を求めているように思われた。私が対している相手は、芸術愛好家というだけではなく、一個の思想家であることがすぐにわかった..……。

自分の思想をふるいにかけて明確にするため、ノルウェーにある山小屋に帰るつもりだとウィトゲンシュタインはフィッカーに語った。
 翌朝、丘陵地帯まで続く公園──ウィトゲンシュタイン家私有のウィーンの森、を散歩しているときになって初めて、ウィトゲンシュタインはフィッカーの訪問の理由となっていた問題に触れた。手紙の文面から察すると、彼はもう小切手を用意していて、残る問題は受取人にどう配分するかということだけであった。フィッカーはすぐさまリルケとトラークルにそれぞれ二万クローネ配分するよう提案した。ウィトゲンシュタインはすでにリルケを称賛していたようだし、当時はまだよく知らなかったようであるがトラークルについての提案を快諾したものと思われる。彼はただ、『ブレンナー』自体にもその一部(一万クローネ)が渡るべきだとする条件をつけた。あとはフィッカーにその配分を委ね、そしてフィッカーはほぼ次のリスト(これは現存している)にそって行ったものと思われる。

ゲオルク・トラアアークル       二万クローネ
ライナー・マリア・リルケ       二万クローネ
カール・ダラゴ            二万クローネ
『ブレンナー』編集部         一万クローネ
オスカー・ココシュカ         五千クローネ
エルゼ・ラスカー=シューラー     四千クローネ
アードルフ・ロース          二千クローネ
カール・ボロモイス・ハインリヒ    一千クローネ
ヘルマン・ヴァーグナー        一千クローネ
ヨーゼフ・ゲオルク・オーバーコフラー 一千クローネ
テーオドール・ヘッカー        二千クローネ
テーオドール・ドイプラー       二千クローネ
ルートヴィヒ・エリク・テザール    二千クローネ
リヒャルト・ヴァイス         二千クローネ
カール・ハウアー           五千クローネ
フランツ・クラーネヴィター      二千クローネ
フーゴー・ノイケバウアー       一千クローネ

〔…〕

ずっとかわいそうなパウルのことを考えさるをえなかった。こんなにも突然、彼の職業を奪われるなんて! なんと恐ろしいことだ。これに打ち勝つにはどんな哲学が必要とされるのか! 自殺以外に何か方法があればよいのだが!(日記、一九一四年一〇月二八日)

(まもなく見るように、ルートヴィヒの心の平衡をいくぶんなりとも保つのに、哲学という彼の職業が不可欠であった。)またあとで述べるが、抑鬱は彼の内的生活の一部となっている。ウィトゲンシュタインは「理由なく」抑鬱になることがあるように見えた。だがそれはたいてい仲間の兵士たちとうまくやっていけないこと、そしてこうしたことには無頓着になろうとしたがだめだったことからきていた。それだけにますます必要がないといっていたはずの心おきなく話し合える相手がほしいと思った。詩人のトラークルがクラカウにいるとフィッカーが言ってきたので、この街に撤退したとき希望が湧いてきた。帰着後すぐに彼を訪問したかったのだが、翌日まで待たなければならなかった。いざそのときになってトクークルが三日前に心臓発作で死亡したと聞かされ、彼の希望は打ち砕かれた。衛生兵だったトラークルは手に入れることのできる毒物を飲んで死んだと見なされるようになったとはいえ、死の真相については多くの議論がなされてきた。当然のことながらフィッカーはいったい何が起こったのかと手紙でたずねてきたが、ウィトゲンシュタインは死という重要なことを聞いてしまった今、それ以上詮索する気はないと答えいる(フィッカー宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一四年一一月一六日)。
 ルートヴィヒはますますデイヴィドに思い焦がれ、「私が彼のことを考える半分ほどでも、彼は私のことを考えてくれているであろうか」(日記、一九一四年一一月一一日)と書いている。トラークルが象徴していたのは、彼の軍隊生活には欠けていた霊的な友情、思いやりと感受性であったように思われる。一九一五年と一九一六年に新たに霊的友情をはぐくむ機会が訪れたとき、彼は進んでそれを受け容れたが、クラカウでは当面そうした支えなしに戦友たちとの軋轢に耐えなければならなかった。ゴプラナ号に乗っていたあいだはとても無理であったが、要塞勤務に就くようになると宿舎に一人座って(彼の言い方によれば「自分に集中する」機会が得られ、事態は少しよくなった。彼は自分をよりよい精神状態におき、そうしようと努めさえすれば彼のうちにあり、彼そのものである霊をよりしっかり保持する機会を得た。彼がそうしたことを問題にしている例をすでにいくつも見てきた。彼のそのような考えを示すものとしてはさらに、今ではエマソンの『エッセー』に救いを求めるようになったことがあげられる。(クラカウでは本が手に入ったようであり、彼はニーチェの著作集の一冊を買っている。エマソンもまた当時の中欧で読まれていた。)
 『エッセー』は文体の点で今日もなお推奨される。ウィトゲンシュタインは最初は内容に引かれて読んだのは間違いない。それはそもそもの出だしから、この頃の彼の気に入りの思想で始まっている。

すべての個人に共通する一つの精神がある。各人は同一のものへの、同一のもの全体への入り口である。(「歴史」、エマソン『著作集』一八八八年、一頁)

この文の神秘主義的道徳的意味は、「自己信頼」と「大霊」で説き明かされている。

政治上の勝利、地代の騰貴、君の病気の回復、旅に出ている友の帰還、そのほか何かこういうようなうれしい出来事は、君を元気づけ、君は仕合わせな日々がいよいよ自分を訪れようとしているのだと考える。そういうことを信じてはならぬ。君に平和をもたらすことのできるものは君以外にはいない。君に平和をもたらすことのできるものは原理の勝利以外にはない。(「自己信頼」、前掲書、二一頁)〔酒井訳(『エマソン論文集』(上)、岩波文庫)〕
だから人間たるもの、自分の心にすべての自然すべての想念が啓示する真理を学びとってほしい。つまり、こういうことをだ、「至高者」が自分とともに住んでいること、もしも義務感が自分の精神の中にあるなら、自然の源泉もそこにあることをだ。だがもしも偉大な神の語る言葉が聞きたければ、イエスが言ったように、「おのれの部屋に入ってドアを締め」なければならぬ。神は臆病者の目にはお姿を見せようとはなさらない……。魂〔霊〕は自分自身を、自分だけを、本来の純粋な自分を、その条件でなら、喜んで宿ってくれ、導いてくれ、その声の通路にしてくれる「ひとりだけの純粋な本来の実在」に委ねる。(「大霊」、前掲書、六六頁)〔酒井訳(『エマソン論文集』(下)、岩波文庫)〕

ウィトゲンシュタインのエマソン愛好は、自国の伝統への忠誠を間接的に示すものであった。エマソンはカーライルと共にドイツの天才に深い尊敬を抱いていたからである。エマソンはゲーテのうちにフランス、イギリス、アメリカの作家には欠けているもの、「道徳的真理への絶えざる関与」を見出した。彼はゲーテのように、宗教の飾りなしに高邁な世界観を探し求めた。その実際の帰結はよりセクト的な追随者たちの言う超越主義であるが、それは最終的にはカントから導き出された。超越的知識とは元来、悟性が自己自身の知識の条件に気づいていることであった。他方、超越主義の思想家たちにとっては、魂は自らの本性を熟慮することにより道徳的神秘主義的指標を獲得するのである。エマソンの文体について言えば、警句に近い定型的言いまわし、高尚な言語、哲学的主題の詩的修辞的扱いといったことすべてが、ウィトゲンシュタインが好んで読んだリヒテンベルク、聖アウグスティヌス、ショーペンハウアーなどの場合と共通している。彼自身の文体はもっと切りつめられている──彼は読むときよりも書くときのほうが潔癖であった──が、エマソンを読むと、『論考』や戦時中の『草稿』の箇所が逐一思い出される。
 ニーチェもまた詩的で警句的である。エマソンを読んでから一カ月して、クラカウでニーチェ著作集第八巻を買った。おそらくナウマン書店のライプチヒ版〔グロースオクターフ版〕で、八巻にはとりわけ『力への意志』としてまとめられる予定であったものの第一書『アンチクリスト』が含まれていた。この巻にはまた『ヴァーグナーの場合』、『偶像の黄昏』、『ニーチェ対ヴァーグナー』、それに詩が含まれていた。これら著作の反映や、それとない共鳴を探ってみる価値があるが、ウィトゲンシュタインが次のように言うとき、参照しているのは『アンチクリスト』であるように思われる。

私はキリスト教に対する彼の敵意に強く心を動かされた。彼の書くものもまた、何がしかの真理を宿しているからである。確かにキリスト教は幸福に至る唯一の確かな道である。だがもし誰かがこの幸福を、はねつけたらどうなるのか! 外的世界に対して望みのない闘争を続けるなかで、不幸に滅びるほうがよくはないだろうか。だがこうした人生は無意味である。だがなぜ無意味な人生を歩まないのか。それは下等なのであろうか。どのようにしたらそれは厳密に独我論的な立場と調和しうるか。だが私の人生が失われることのないために、私は何をしなければならないのか。それをいつも──霊をいつも──意識していなければならない。(日記、一九一四年一二月八日)

ちょうどニーチェがショーペンハウアーの意志分析を真剣に受けとめながらも、意志を廃棄するのではなく肯定したように、ウィトゲンシュタインは、トルストイも信奉したショーペンハウアー版のキリスト教──「必要なことは唯一つ、悪に逆らうな」──を真剣に受けとめながらも、それを人間性と現実そのものへの敵対と見なした。ニーチェがウィトゲンシュタインにとって重要に思われたのは、ニーチェの出発点が彼自身の出発点と同じであったからである。すでに見たように彼はヴァイニンガーについて、その著作中のどの文章を取りあげてもそれと反対のことを主張できると言った。それと同じように、ニーチェの場合もある問題群に対する一つの可能な態度であった。そうした問題群がニーチェ、トルストイ、エマソン、ウィトゲンシュタインに生じたのは、キリスト教が前提とする奇跡と秘跡の拒絶を出発点としたからである。それは皆ダーフィト・フリードリヒ・シュトラウスの遺産の一部であった。シュトラウスの中でニーチェの攻撃の対象となったものは、これらの要素を取り去ったときキリスト教に何が残るかを決定するためにシュトラウスが依拠した特定の価値体系であった。ウィトゲンシュタインの信頼する師たちが皆信じていたこと、そして彼自身も信じていたことは、キリスト教における真実なるものは自分たちに語られたことをじかに問うことによって取り出すことができること、霊の受容を霊的に測る尺度は思想の深さ.であること、農民は皆神の言葉に従いどのように生きたらよいかを自分の心で知っていることである。ニーチェ一人がこの問題に対して、これとは対立する巨人的ともいうべき解答を思い描いていた。
 「問題と解答」とは彼の仕事のテーマと言えるかもしれない。ウィトゲンシュタインは哲学的活動にこの言葉をあてているからである。そうした哲学的活動が彼の軍事的任務、危険、抑鬱、孤独、物質的欠乏、確固とした心の平衡を求める霊的闘争に伴って生じた。あるいはむしろ哲学的活動がそれらのさ中で彼を支えていた。入隊したとき、ウィトゲンシュタインはまるで哲学が入隊した目的の一つであるかのように書いている。「私はこれから仕事ができるようになるであろうか! 今後の人生を思い、興奮している!」(『草稿』 一九一四年八月九日)意味するところは、この変化により彼の仕事の能力が回復するのではないかということである。一九一四年夏のノルウェーでの家造りは、彼の哲学的力が凪いだことの結果であったことが思い出されよう。彼の仕事は彼の霊的進歩と歩調を合わせていた。彼は「確信」に満ちて仕事をし、霊を通しての自由というトルストイの言葉を絶えず繰り返している。「仕事は賜物だ!」と彼は一度ならず強調している。困難のさ中にあっても人は自己自身と仕事に引きこもることができる。しかし仕事は単に時をやり過ごす方法の一つであってはならず、生きることを可能にすべく、神妙な態度でなされなけれはならない。仕事をしていると気分もよくなり、抑鬱が去った。だが逆に、心の平安が得られないときには仕事ができなかった。

〔…〕

 ウィトゲンシュタインはちょうど「一等砲兵」に昇進したところであった。彼のいた師団は第一一軍団の左翼、したがってベニグニ部隊(その後まもなく第七軍団と改称され、ウィトゲンシュタインのいた師団はこれに加えられた)の真南にいた。出身地がまちまちの混成部隊であったが、彼らはオクナの戦闘では最良のロシア軍部隊のいくつかと対峙してこれを寄せつけなかった。ウィトゲンシュタインへの勲章授与を上申する報告書が二通残されており、それらには、この戦闘における彼の任務と働きが描かれている。長いほうの報告書には次のようにある。

志願兵ウィトゲンシュタインは砲台JR七七(基本地点サロクリニツニー)と四─六 vi 一六の騎兵隊防衛拠点四五八高地との前方で戦闘中、監視将校付でありました。
 砲台への重砲火や臼砲弾の炸裂をものともせず、彼は臼砲の発射を監視してその位置を突き止めました。砲兵中隊は実際、重口径臼砲二門に砲弾を命中させ破壊するを得たことは、捕虜の追認するところであります。中隊監視所四一七高地では弾幕砲火の中、私が何度か身を隠すよう呼びかけたのでありますが、彼は休むことなく監視を続けました。この顕著なる行動により、彼は戦友たちの動揺を静めるのに多大の貢献をいたしました。

ここで推薦を受けている勲章は武勇銀章二級で、彼のような低い階級の者にはかなりの栄誉である。その勲章は一〇月に実際に彼に授与されているが、詳細はわからないものの、別の、これ以前の戦闘に対するものであることは間違いない。今見た推薦によるものは、同じく一〇月に授与された殊勲銅章であったようである。

〔…〕

 先に述べたように(一二九─一三〇頁)、技術的な哲学は「人生哲学」に対して意味を持っていることが、無意識のうちではあれ彼が前者に向かう動機の一部を成していたことは間違いない。ただその意味が彼には必ずしも明らかではなかった。だが、今この危険と敗北にまみれた最悪の夏、銃弾と砲弾のさ中に、彼は両者が結びついていることを感じ始めた。命題や操作の本性を把握することは、人生に対して正しい態度を取ることと何らかの関係がある。哲学に対する彼の態度は、人生に対する彼の態度と同じ構造を示すだけではない。両者は今や同一のものとされる。ラッセルの批判者たることとドストエフスキーの読者たることとが融合している。
 ウィトゲンシュタインの最初の哲学(そして彼の後年の性格の多く)は、あの戦闘の季節の成果である。しかし実を結ぶためには、実りの秋も必要であった。それは戦時の奮闘や苛立ちからある程度解放される一方で、知的で人間的な刺激に満ちた季節である。この刺激により宗教と論理学の混交が進められ強化され、戦後のラッセルはこれにひどく驚いた。またこの刺激を受けて、他人に対する彼の態度に見られる相互に矛盾する二つの面もあらわになってきた。彼は権威主義的であるかと思えば情愛こまやかで人なつこいといったふうであった。軍隊生活というルーレットの輪はめぐって、今や鎖された軍隊の檻から彼を解放し、しばらくは先に述べた「家族」の一つに彼を転がり込ませておくことになった。その家族の中で、叔父とか父というわけにはいかないにしても、少なくとも兄の位置を占めるようになるのだが、彼にはたぶん初めての体験である。
 事情を整理すると次のようになる。ウィトゲンシュタインは所属の連隊からモラヴィアのオルミュッツの町にある予備士官学校に転出となり、任地に行く前にまず休暇でウィーンに行った。そこで彼はロースに会った、その際ロースは、ちょうどその頃オルミュッツで療養していた若い弟子の名前を彼に教えた。それはパウル・エンゲルマンであった。
 エンゲルマンはこれをきっかけとしたウィトゲンシュタインとの出会いを述べるにあたって、当の町の物理的情景を描写することから始めている。

私のいた当時、そこは二〇世紀の平板な世界の中にあって、えもいわれぬ美しさを保っている過ぎし時代の遺構であった。二つの大きな広場を取り巻く荒れかけた町家のあいだ、あるいは昔の要塞の狭苦しい区域に押し込まれた曲がった小路での毎日。丸天井におおわれた暗い階段のある家や、一、二の大きくて陰鬱な部屋しかなく、ニス塗りの床板がひどく傷んでいるアパートなどでの暮らし。そしてそこには死に絶えようとしている小市民の家族の最後の生き残りたちがいる。こうした環境で幼年時代を過ごした人は、もっと普通の所で育った人にはもう見られないような過去のものに対する感受性を授かる。

ウィーン人にとってオルミュッツは田舎者根性の代名詞であり、チェコ地方におけるドイツ人の辺境居留地であるとはエンゲルマンは言っていないし、そう感じてもいなかったであろう。だがそうした事情が、この地の文化生活が豊かである理由にもなっていた。前世紀後半における二重帝国の思想家のうちのかなりの数が、こうした小さな町の出身であることは注目に値する。フロイト、マッハ、フッサール、ゴンペルツ、ロースはモラヴィア出身であり、クラウスはボヘミア出身である(プラハのドイツ人作家リルケとカフカにしても似たような事情にある)。彼らの文化はドイツ文化であり、その最後の開花はチェコの国民的復興と競合し、ついには後者が前者に取って代わった。彼らのドイツ文化はカトリック的文化であった。反宗教改革の教会、柱、像がどの広場にもあり、聖人記念日が祝われ、オルミュッツの人は誰でも当地の大司教の持つ優れた位階と特権を知っていた。またその文化はかなりの程度ユダヤ人によって受け継がれた。中にはオルミュッツの大司教コーエンやクラウス自身がしばらくそうであったようなユダヤ教からの改宗者もいたが、たいてい戸籍上はユダヤ人のままで、ただキリスト教の本質ないしは彼らが本質と考えたものを進んで取り入れた。いずれにしてもウィトゲンシュタインが招き入れられたのは、そうした若者たちの小グループであった。
 紹介の労を取ったエンゲルマンは、ウィトゲンシュタインが弟子に期待するような性質を多く持っていた。穏やかで利己的ではなく無気力とさえ言えるほどだったが、自分自身の落度には厳しかった。彼は建築家、もっと限定すれば「室内装飾家」であった。あるいはそのための修業をしていた。彼は小柄で、皆から愛嬌ある醜男と思われており、健康状態はよくなかった。一九一五年に彼は入隊後わずか数日で、傷病兵として退役となった。ある点で自分はウィトゲンシュタインと非常に違っていると彼は考えていた。戦争勃発時には彼もまた、先にウィトゲンシュタインの覚え書きでたどったような愛国心の大波にのまれていた。だが時がたつにつれて、同盟国側の戦争指導に対するカール・クラウスの異議の正しさを彼は確信するようになった。彼はクラウスを助けて新聞の切り抜きを集めたが、そうした切り抜きは戦時中の『ファッケル』の多くを埋めており、そして幻想的で上演不可能な戯曲『人類最後の日々』の中でしばしば用いられている。典型的な切り抜きとしては公報があり、それらは言葉づかいそのものにより註釈なし。で当局の野さやジャーナリズムの腐敗を暴露する。よく引かれる例は一九一六年の次のような報告である。

ベルリン発、九月二二日。
ヴォルフ局報告。わがUボート一隻は九月一七日地中海にて任務中の敵輸送船を攻撃。船は四三秒にて沈没。

クラウスはこれに「時計を手にして」という題をつけただけである。公的宣伝に対するこうした痛烈な風刺が前線の将校によってごく普通になされていたという事実には、どこかオーストリア的なところがある。イギリスの将校ならディケンズ、マコーリ、シェイクスピア、スコットの仮綴じ複製本を読んで満足する。オーストリア人は大義を、ましてや勝利を確信することなく、勇敢であることが要求された。彼らが人間社会の本質へのより辛辣で現実主義的な見方をもって登場するのは、当然であった。彼らの内面をのぞいてみると、彼らの義務感は帰属している集団への全面的信頼には支えられておらず、良心は結果よりも動機と方法に焦点を合わせており、のちに内的亡命と呼ばれるものの先駆と言える。ウィトゲンシュタインにもこうした態度の兆候があることは、すでに見た通りである。それは同時代のイギリス人に比べてずっと希望の少ない道徳的状況に直面していることの反映であり、三、四〇年代においてウィトゲンシュタインが彼らと違っている点の多くは、もとをただせばここからきている。だがエンゲルマンの反応はウィトゲンシュタインとは違っていた。エンゲルマンはクラウスよりも極端である。クラウスは最初から同盟国の敗北を望んでいたことをのちに認めたと伝えられる。エンゲルマンは戦争をしているどちらか一方を敵視することはなかった。彼はまったくの平和主義者であった。彼は回想の中で自分の活動について語りたがらず、ただその効果はウィトゲンシュタインたちが当時考えていたほど気まぐれで現実離れしたものではない、と主張している。彼がここで言っているのはクラウスの『ファッケル』による効果のことではなく、たとえば次のような出来事であると思われる。あるとき彼は病気で寝ていたが、家の向かいの聖マウリッツ教会で新たに前線に送られる部隊が(いつものように)ミサを受けていた。彼はベッドから起きあがり、教会に入り、人々に聖霊の名において武器を捨てるよう勧告した。もちろん彼はそれをドイツ語で話したので、チェコの兵士たちが理解したとは思われない。引率の将校は穏やかにエンゲルマンに立ち去るよう命じただけで、それ以上の処置は取らなかった。エンゲルマンはベッドに戻り、危うく難を逃れた。彼が動けるようになるとすぐ、友人のグロアクは彼をウィーンに、そのあとツェル・アム・ゼーに連れ出し、皆が忘れてしまった頃になって初めて二人は帰ってきた。
 エンゲルマンのサークルの仲間は皆世間離れしていた。彼らは商業や専門職の家庭の出で、そろって芸術や精神的事業に身を捧げることを夢みていた。エンゲルマンの父親は商売にあまり成功したとは言えず、それなりに暮らしていたものの先代が築いた水準には達していなかった。兄弟にはペーター・エングの名で画いていた才能ある風刺漫画家がおり、姉妹にも画家がいたが重い鬱病にかかっていた。エンゲルマンは、小さいが厳選した委託業務、個人出版業務などで生計をたてることになる。また、ほっておけば散逸してしまうドイツ最高の詩を集め、自身の絶妙な手書きによる選集を出版したりした。彼らは皆世間一般の人々に盾突いた。それに対しエンゲルマンの母──少々みすぼらしい住居での知的な夕べの心暖まる中心であった──のほうは、自分たちより裕福で近頃成りあがった市民たちを嫌っていた。
 サークルの中には従兄弟同士のツヴァイクもいた。音楽家のフリッツと作家のマクスである。マクスは法律を勉強したものの、このうえなく厳密な統一規則に従った戯曲を書くことに生涯を捧げた。彼はプロスニッツの父親の事務所を継がずに、エンゲルマンと共に生涯の過半をイスラエルで一種の亡命生活をして過ごした。その地ではドイツ文化などあやしいものに思えたに違いない。さらに先にも触れたハイニ・グロアクがおり、彼はたぶん最も実際的で最も愉快な人物である。俳優志望であったが、結局弁護士になって成功した。青年時代の理想主義の面影がのちの彼の献身的平和主義のうちに見られ、モラヴィアで〔ナチスの時代には〕ユダヤ人として、続いて〔社会主義政権下では〕ブルジョアとして生き抜くことが彼の信念とならざるをえなかった。
 彼らは今やウィトゲンシュタインのサークルのメンバーということにもなり、ウィトゲンシュタイン家ともしだいに交際するようになった。二〇年代にエンゲルマンは建築と室内装飾の依頼を受け、グロアクは法律の仕事の依頼を受け、技術者が必要になったときにはグロアクの従兄弟が頼られるといった具合であった。すでに述べたように、彼らはウィトゲンシュタインにとって家族であった。彼ら同様、彼も自分の家族を裕福にした家業を継ぐことに熱心になれなかった。そしてこの小さな集まり同様、彼の家庭でも音楽を演奏したり、芝居をしたり、本や詩を論じたりして時を過ごした。それゆえ彼らといると、家に帰ってグレートルや彼女の友人たちといるようであった。違うところは、ここでは彼が指導的立場にたてたことである。グレートルは彼に信仰など持たないようにと説いていたが、彼は自分の宗教の理想に最も近いトルストイとドストエフスキーの文章に彼らを導くことができた。そしてここには慈愛あふれる母親役のエンゲルマン夫人がおり、すべてを包み込んだ。エンゲルマン自身は真面目で自己に厳しく、ウィトゲンシュタインが必要としている弟子にぴったりであった。ウィトゲンシュタインはまだ吃っていたが、エンゲルマンがいると──ウィトゲンシュタインの言うには胎児を引き出す鉗子の役をして──言葉をうまく口に出すことができた。実際エンゲルマンは彼の思考に非常に親しんでいたので、彼より先に正確な定式化をすることがよくあった。またウィトゲンシュタインは自分の着想を発展させるのに、グロアクの鋭い頭脳と驚異的な記憶力を活用した。彼は夕べの集まりを誰かほかの者(グロアクかエンゲルマン)と辞去すると、こんどはお互いどちらかの家に一緒に行って夜が更けるまで会話の続きをした。ここには確かに戦闘からの暫時の休息があり、ヴィスラ川上で求めてやまなかった感情ゆたかな人たちがいた。
 彼らにとってそうした日々が忘れ難いものであったのは間違いない。ウィーンから一人の男がやってきたが、彼らより少し年長なだけであるのにすでにたくさんのことを知っていた。彼らの問いに対して、かけ離れてはいるが、明晰と確実を得られるかもしれない論理学と哲学の領域から、彼は答えを引き出してきた。彼らが畏敬の念を抱いていたのは言うまでもない。彼は自分たちよりも多くを見、体験していたし、オルミュッツ最上の仕立屋で制服をあつらえ、ウィーンの一流の家庭の出である。彼も自分たちとほとんど同じユダヤ人だとはとても考えられなかった。彼は名士たちと対等に話もしていたのである。いかにも彼らしいところだが、彼らに接する態度にはいくつかの要素が入り交じっていた。一方に彼の家族特有の人を引きつける慎み深さと上品さ、というよりもむしろ「魅力」があり、他方にはびっくりするような道徳的判断の厳格さとそれを言う際の野蛮さと直截さがあった。彼らと違っていた点の一つは、精神生活に専念する人たちのあいだでありがちな恋愛沙汰に何ら関わっていなかったことである。彼は女性に何の関心もないと彼らは思っていたし、彼のほうでは彼らの一人──あまり親しくない友人に「君たちは汚物の中をころげまわる豚のようだ」と言った。彼らは、少なくともグロアクは彼の性格をよく知っていたので、他人と距離を置くことがどうしてそんなに必要なのかとたずねた。彼がショーペンハウアーの寓話を引いたのはこのときのことである。ヤマアラシたちは一方で群れあってお互いに暖を取りたいのだが、他方ではお互いの針を避けたいと思う(前述七六頁)。彼の場合もこれと同じであった。一方で彼は彼らとの快適で談論風発のタベを必要としていながら、他方ではそのさ中に、自分をそこから連れ出してほしいと哀願するようなまなざしをグロアクなどに投げかけたりした。(確かにこの場合、この頃彼が患っていた重い胃病もその理由になりうるとはいえ、彼は友人一人となら楽しそうに語り合っているのであまり説得的ではない。)ウィトゲンシュタインは正しい距離を見出すのが困難であったというのが本当のところではあるまいか。彼は「市庁舎」の高い塔で暮らしたいと思ったときのように、あらゆる交際を避けようとするか、友人たちの生活に関わりすぎて彼らの欠陥に苛立つことになるかの、いずれかであった。
 彼ら青年たちにとってウィトゲンシュタインはたいてい先導者であった。彼らは生涯を通じて劇や音楽をしたり、読んだり話したりしたにもかかわらず、彼と過ごした時はしっかりと記憶にとどめられた。彼が皆を率いていた。彼は実行者ではなく批評家であったが、その判断は重きを成した。のちにベルリン歌劇場指揮者になるフリッツ・ツヴァイクが、彼らに演奏して聴かせた。ウィトゲンシュタインの役目は聴衆の筆頭になることであった。階上の住人が床を踏みならすと(演奏の始まるのは九時半であった)、エンゲルマン夫人はやめようと言い出すのだが、上の住人もこうした音楽を聴いて幸せになるべきだとウィトゲンシュタインは言い張った。彼は彼らの劇の観客になった。彼が役を受け持つことは誰も考えておらず、彼がそこで観ていてくれることが彼らの『気で病む男』の上演を忘れ難いものにした。
 ウィトゲンシュタインらしいところだが、彼が楽しみ取り組んだのは過去の偉大な創造的芸術家の限られた作品であった。モリエールが上演され、シェークスピアも上演されたらしい。フリッツ・ツヴァイクはシナゴーグ〔ユダヤ教会〕のオルガンで彼らにバッハを演奏して聴かせ、またハミングとピアノの両方でモーツァルト、シューマン、シューベルト、ブラームスの声楽曲や管弦楽曲を演奏した。(ウィトゲンシュタインがムーアやピンセントと一緒に口笛を吹いたことが思い出されるが、実際彼はエンゲルマンにも吹いてみせた。)若い連中はヴァーグナーを嫌っていたものの、ウィトゲンシュタインもそれにとくに反論はしなかった。詩の場合も優れたものだけが取りあげられた。ゲーテやメーリケの最も厳密な意味で古典的な詩は、前線にいるウィトゲンシュタインに送られたアルベルト・エーレンシュタインの詩(後述四三七頁)に対する解毒剤として必要であった、とエンゲルマンは指摘している。ウィトゲンシュタインがシラーの自由への情熱を賛えた(前述五六頁)のはグロアクに対してであり、グリルパルツァーについて「どれほど彼が素晴らしいか、われわれはわかっていない」(前述五七頁)と言ったのも彼に対してである。グロアクと一緒にいるときはいつでも、彼にゲーテを語った。ウィトゲンシュタインは表現と感情の正確な適合のゆえにゴットフリート・ケラーを称賛した、とエンゲルマンは語っている(これにはほかの証人もいる)。同じ特質が、クラウスによると「明瞭すぎて誰も理解できない」ウーラントの詩にあるようにエンゲルマンには思われた。『エーベルハルト伯爵のサンザシ』は、主題はロマン的で、表現が精確かつ控え目である点では古典的である。この詩についてウィトゲンシュタインの書いたささやかな批評文を、エンゲルマンがとくに重視しているのはうなずける。

ウーラントの詩は実に壮大です。そのわけはこうです。言いえないものを言おうと試みないならば何ものも失われることはありません。そして言いえないものは言われたものに──言わく言いがたく、含まれているでしょう!(エンゲルマン宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一七年四月九日)

ここでは二つのことが重要である。第一には、ウィトゲンシュタインの文学に対する思い入れは彼の哲学的仕事の中心観念の一つ、すなわち命題によって示されることは命題の中で明示的に表明されることはできないという考えに結合していることである。第二に、この観念はエンゲルマンによって示唆されたように思われることであり、そのことはこの手紙の中でウィトゲンシュタインが彼に賛成しながら語っているにであことからわかる。エンゲルマンはウィトゲンシュタインとの会話の中で、彼の展開する論理概念に遠くからついていく以上のことは望まなかったが、エンゲルマン自身その頃精神的危機にあったため、ウィトゲンシュタインが例の本を書いている動機を理解できると感じていた。この本は哲学における感覚主義と心理学主義への反動となるはずであった。それは当時の文学の大部分をウィトゲンシュタインが拒否したことと軌を一にする。彼が依拠したのは、この点について反動的立場をとった人たちであった。それはまずクラウスであり、彼を通してヴァイニンガーと批評家キュールンベルガーであるが、このキュールンベルガーからウィトゲンシュタインはある句を好んで引き、のちに『論考』のモットーに用いた(奇妙なことに彼はこの引用の出所を明らかにしていない。なおこの句はクラウスも引用している)。このモットーは彼が参加していた、あるいはむしろ彼が作りあげたとも言えるサークルを象徴するものであった。彼らもまたしばらくは、言うに値するものはすべてわずかの語で言うことができると考えていた。「無くてならぬものは唯一つのみ」というウィトゲンシュタインが前線で見出したトルストイ的キリスト教の基調は、今や知的生活全般に及ぼされた。取られたアプローチは、広い意味では言語論的であったと言えるかもしれない。クラウスが敵対者の言葉を捉え、その言うところを明らかにして当人の口から有罪宣告させるやり方と、ウィトゲンシュタインによる哲学の言語の批判とをエンゲルマンは対応させようとしている。ウィトゲンシュタインはこの頃、パウル・エルンストの書いたグリム童話への「あとがき」を読んだり検討したりしたようでもある。どれほど言語が文字による図示的表現や隠喩が──われわれを誤解に導くかについての説明は、彼に強い影響を与えた。両方の場合で、ウィトゲンシュタインは彼の依拠したものを超えて進んだ。すなわち彼は欺瞞や惑わしばかりではなく、無意味〔ナンセンス〕を探りだし、解剖した。とはいえ、いずれの場合も、そこにはある思索がこめられている。このオルミュッツ時代にウィトゲンシュタインの心をしっかりとつかんでいた主題はヴァイニンガーやクラウスとも共通したものであり、論理学、倫理学、美学は一つであるという観念であった。ウィトゲンシュタインはオルミュッツでこの主題に関するヴァイニンガーの本の諸章をよく議論しており、『論考』で倫理学と美学は一つであると言っていることにそれが反映している。エンゲルマンは、これに関連するクラウスの所論の二つの面を指摘する。作品は美的規範だけで一面的に判断してはならないとクラウスは主張し、また道徳的欠陥は一般に芸術家の作品において美的誤謬として現れてくる、とも主張する。しかしウィトゲンシュタインとその友人たちが言おうとしたのは、明らかにそれ以上のことである。彼らの思想の一般的方向は一九一六年のノートから復元できる。

芸術作品とは「永遠の相のもとに」見られた対象であり、よい人生とは「永遠の相のもとに」見られた世界である。これが芸術と倫理の関係である。(『草稿』一九一六年一〇月七日)
世界を幸福な目で眺めるのが芸術的なものの見方の本領であろうか。
人生は深刻で、芸術は陽気。[シラー]
というのは芸術の目的は美であるという見方には、本当らしいところがあるから。そして美とは幸福にさせるものにほかならないのだから。(『草稿』一九一六年一〇月二〇─二一日)

ここでは、ある種のものの見方が問題になっている。のちにわかるが、それはある特殊な仕方でのみ伝達されうるもの、示され明らかにされるが言うことのできないものという概念に結びついている。芸術において示されるものとは、エンゲルマンが解決と呼んでいるものかもしれない。それはウィトゲンシュタインが(後年、明らかになったことではあるが)「ハッピー・エンド」の映画が好きなこと、また詩の持つ教化的側面に「愛着を持っている」ことと符合する。こうした彼の好みは趣味を多少狭めており、彼の視点が要求するものでもない。とはいえ、彼の視点と矛盾もしていない。倫理についてもまた、全体としての世界の中で解決を見ることができる、少なくとも見ようとする人の目は見ることができる、とされる。
 オルミュッツのサークルの人たちが、その解決をどのようなものと考えたかは、このあと述べていく。彼らが論理学と、倫理学ならびに美学との一致ということをどのように理解したかということのほうは、(エンゲルマンの回想やまだ存命中の人からの報告によっても)それほど明瞭ではない。ウィトゲンシュタインは彼らの何人かにフレーゲを読ませ、カントやショーペンハウアーについて語って聞かせた。このあとの二人については彼と同様、彼らにも正規の教育を受けた人が持つ程度の知識はあった。「偉大な力ントの薬によると」といって、彼は時々引用した。ただし、エンゲルマンの推測によれば、ウィトゲンシュタインは先天的総合判断の存在を信じていなかった。それにしてもウィトゲンシュタインの目標とカントの目標とは、確かに対応している。一方が信仰への道を開くために理性を廃棄しようと欲したとすれば、他方は倫理学と宗教のすべてを思弁の領域から言いえぬものの領域に移すことを欲した。だがウィトケンシュタインにとって重要な論理学への強い関心は、カントには欠けていた。ウィトゲンシュタインの意図は、論理学の言明(哲学が望みうる最良のもの)もまた何も言っていないことを示すことにあった。とはいっても論理学は、経験から独立した真理をわれわれに与えるものではない。この点については倫理学も同様であり、それゆえこの年の七月に彼は次のように言うことができた。

倫理学は世界を扱わない、倫理学は世界の条件でなければならず、論理学と同様である。(『草稿』一九一六年七月二四日)

論理学はこうして、言いえないものの範型〔パラダイム〕である。そこには見ることのできるものはあっても、言うことのできるものは何もない。オルミュッツで討論していた時期に、彼はノートの中で操作の概念に取り組んでいる(のちに『論考』の命題五・二一─五・二五四で論じられる)。それを受けてエンゲルマンがウィトゲンシュタインの思想を説明する際に、この概念を重視しているのはもっともであり正しい(『手紙と回想』一〇四頁)。論理学がわれわれに与えてくれる命題および命題間の関係の形式の知識とは、ある命題が他の命題から操作により産出されうるという認識にほかならない。それが産出されうることは論理的事実ではなく、それが産出されうることを見て取ることは論理的経験ではない。
 この論理学において問題なのはどのようにものを見るかであり、それに対して倫理学において問題なのはどのように意志するかである(『草稿』一九一六年七月二九日。「ここではいわば、人がどのように欲するかにかかっているように思われる」)。このショーペンハウアー的見方の改訂版は、この時期のウィトゲンシュタインのノートや友人との会話の中に現れる。日常生活での欲求や意志の背後には、日常生活での成功や失敗とは無関係な、より深い生活とより真実の意志があるかのようである。ウィトゲンシュタインはある会話の中でグロアクにそのように語り、のちにエンゲルマンへの手紙で次のように繰り返した。

私たちは眠っています。私たちの人生は夢のようなものです。けれども幸いにして、私たちは目を覚まし、夢を見ているのだと悟るときがあります。とはいえ、たいてい私たちはぐっすりと眠っています。私自身は目覚めることができないでいます! 私は目覚めようと努力しておりますし、夢の中の私の体は動いているのですが、私の体はみじろぎもしません。残念ながら、これが実情です。(エンゲルマン宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一七年四月九日)

この思想がどの程度ショーペンハウアー的枠組みに収まるかは、はっきりしない。ウィトゲンシュタイン自身この頃「こうした命題がすべてまったく不確かであることを自覚している」(『草稿』一九一六年八月二日)と言っているものの、この当時の彼の思想の輪郭、オルミュッツの友人たちとの会話の中に反映されたその思想の輪郭に、不確かなところはない。倫理は、すなわち幸福で調和的なよい生活は、どんな客観的徴表によっても特徴づけられない。また世界の現実を変える能動因とされる意志の領域の中にあるものによっても性格づけられない。よい生活はむしろ、形而上学的ないし先験的徴表によって特徴づけられる。もっと深い意味で意志する主体の態度、すなわち世界の悲惨を乗り越え受け容れることができ、世界の楽しみをいつ絶たれるともしれない運命の賜物と見なすことのできる態度によって特徴づけられる。ショーペンハウアーの場合がそうであるが、悲惨が世界を支配しており、そのため死は単に立ち向かうべき相手というのではなく歓迎すべきものですらある、とウィトゲンシュタインも考えているように見える。オルミュッツの友人の一人の戦死が話題になったときに、「彼には、それにまさることはなかったであろう」というのがウィトゲンシュタインの述べた感想であった。しかし彼はショーペンハウアー的な理由から、(意志──ここでは通常の意志──の自己主張行為の極致である)自殺は否定したようである。そして自殺が許されるなら、すべてが許されると彼は言う。とはいえ彼はためらい、「あるいは自殺もまた、それ自身よくも悪くもないのであろうか!」(『草稿』一九一七年一月一〇日。残されている戦時のノートで最後の記述)と問う。ヴァイニンガーの自殺に動揺した、と彼はオルミュッツの友人たちに語っている。(自殺はこの間、彼の思想に決して無縁ではなかったと、また自殺は意志の誤用だと考えていたと、彼はのちにエンゲルマンへの手紙で示唆している。)
 一人の人間の精神的態度全体をひとまとまりに見るのは、容易ではない。ウィトゲンシュタインや彼の友人たちにしても、そうした一体性を求め創造しようと務めているものの、まだ十分つかみきれていないと感じていたのではなかろうか。世界の現実を前にして、その現実を受け容れたり断念したりするのは、彼らが執心していることの一部でしかない。実際、自己自身の魂の高みや深みとの一致こそ彼らの求めていたものである。ウィトゲンシュタインの手紙、とくにエンゲルマン宛の手紙を読んだ人なら、その主題に気づくであろう。ウィトゲンシュタインは自殺の卑劣さを分析している先の手紙の中で「特定の事態を切り抜けられない場合」に触れており、また戦時の日記の最初のほうで同種の問題にこだわっていることはすでに見た通りである。トルストイの書いた物語の中に「自分が罪に負けた」ことを認め、自分の行為の弁明をしなかった巡礼の話が出てくる。エンゲルマンが伝えているように(『回想』八〇頁)、ウィトゲンシュタインはこの巡礼の自己認識を称賛していたが、それも同じ関心から出ている。ドミートリ・カラマーゾフ──放蕩者の彼でさえ、そして彼だからこそ──の「世界のうちなる神に栄えあれ、我のうちなる神に栄えあれ」という叫びにウィトゲンシュタインが感激したのは、これとは別の基準によるものである。トルストイにもましてドストエフスキーが教師として好まれた。おそらく人間本性の、しかもその奥深くにあるよいものへの感覚、死んだほうがましのような人生にも見出される幸福への感覚が、ドストエフスキーにおいてまさっているからであろう。一九一六年七月にウィトゲンシュタインは先に触れた意志と世界に対する態度を例示し説明するために、ドストエフスキーを引いている。正しい意志は、世界の中の何ものをも変えることがなくとも、世界に意味を与える。

そしてこのかぎりで、幸福な人は生存の目的を果たしているとドストエフスキーが言っているのも正しい。

ウィトゲンシュタインの見方の中にあるこうした態度の本質的特徴は、世の成り行きに影響を与えるのを放棄している点にある。そしてドストエフスキーの議論をさらに煮つめる。

あるいは、生存の目的を果たすのは人生以外の目的を必要としない人である、と言うこともできよう。つまり、満足している人がそれである。(『草稿』一九一六年七月六日)

ドストエフスキーに出てくる長老は信仰の薄い婦人に、隣人を進んで愛することによってのみこの幸福は成就され、彼女の問いと疑念一切に対する答えが見出されるであろうと言う。長老にとってはウィトゲンシュタインにとってと同様、結果が問題ではないのは明らかである。だが長老のほうが生きるうえでの目的にこだわっており、それに対してウィトゲンシュタインはいわばもっと抽象的な水準に立ち、ただわれわれは世界と一致しなければならないと言うだけである。人生自体がそのつど、われわれのはっきりと目指すべきものを与えてくれるというのが、彼の考えのようである。もしわれわれがそこから離れるならば、て良心のやましさを覚えることになろう。
 ノートでの思索と同様、オルミュッツの友人たちとの会話の中でも、倫理的なものは宗教的なものへと押し進められた。彼らは一緒に聖書を、主として新約聖書を読んだ。「これは人間の霊感以上のものに違いない」とエンゲルマンは、グロアクに章句を読んで聞かせながら言った。ウィトゲンシュタインはラテン語で読むのが最善だと考えていた。この壮大な石造建築のような言語は、いつも彼の心に訴えた。のみならずラテン語は人によそよそしさ、いかめしさを与え、それは彼がひどく嫌った聖なるものへのなれなれしさとは正反対のものであった。こうした新約聖書は人生の教訓集ではないとはいえ、その基調ないし方向を正しく捉えるなら、人生にふさわしい教訓となる。「宗教についてはまったくわからないが、神とか死後の生の概念には確かに正しいものがあり、ただそれは私たちが想像しうるものとはまったく異なっている」と彼はグロアクに語った。死後の魂は自分を取り巻いている炎が神の愛にほかならないと悟るとうたったエンゲルマンの時は、同じ態度を表現している。こうしたことを認識することにより、魂は夢から目覚める。ウィトゲンシュタインがグロアクに言ったように、われわれの人生はまさしく夢なのだから。宗教は正しい世界観、目覚めた世界観を人に与え、それと共に運命を受け容れることを教える。たとえば、彼の草稿がゆくえ知れずになったとすると、それが神の意志であったのだ。(自分の仕事の価値についての彼の控え目な態度もここに現れているとグロアクは考えた。)ウィトゲンシュタインが戦争を歓迎したのは、それにより人は自分が神の御手の中にあることを悟らざるをえなくなるからである。ただ、日常の生活の場合と同じく戦場においても「品位をもって」(ここでもこの言葉が使われている)行動できるかという問題は残る。この点についてウィトゲンシュタインと同じ良心のやましさをかかえていたのはエンゲルマンであった。二人のあいだの文通に見られるように(そして会話ではなおさらのこと)、二人は共に自己を責めたてていた。

〔…〕

 ヘルミーネ・ウィトゲンシュタインによれば、同じくこの頃、ルートヴィヒは三○サンチ口径臼砲購入のため一○○万クローネを国に寄贈した。この頃とするのは正しいように思われる。ギュルトが昇進を促進するために作成した書類の一つに、ルートヴィヒの年収は三〇万クローネと記入されているので、三、四年つましい暮らしをしていれば、この程度の剰余がでることになろう。ヘルミーネは弟がこうした現実離れした仕方で寄付をしたのを少しばかりからかっている。彼女の言うには、国はこの金を所期の目的には使わず、金は結局、皇帝(この頃はもうカール帝)の慈善基金に繰り入れられた。そしてその後のインフレのために消えて無駄となったが、それはちょうど父の死後、癌研究のために出資された六〇万クローネが管理不十分のために無駄になったのと同じである。税金として国が徴収する金ほどには無駄にならなかったという考えもありうる。したがって兄パウルが(このときばかりは父にならって)軍隊用外套工場を建設しようとして投じた一〇〇万クローネと同じぐらいの貢献にはなったであろう。それはともかく、これもウィトゲンシュタインが自分の金銭から距離を置き、それを他人の采配に委ねた例の一つである。もう一つ注意すべき面は、ウィトゲンシュタインの単純な愛国主義的振舞いである。オルミュッツの友人たちに公然と語っていた戦争の結末についての彼の悲観的見方に、それはまったく反している。

〔…〕

 ここやこの周辺でウィトゲンシュタインは残りの秋を過ごした。陣地戦や、ちょっとした進撃(八月二七日のドルゾクという名の丘の攻略)が一度あったものの、それでこの戦区の砲撃戦は終わりを告げたようである。この地域で遂行すべき戦略目標はとくになくなって、第四二ホンフェト歩兵師団の大半は北に移動した。けれどもウィトゲンシュタイン自身の記すところによると、ボルシェヴィキの署名した休戦協定が一一月二九日に発効するまで、彼はここに留まった。彼は一月以来ずっと戦地にあり、彼の知的精神的生活についてはほとんど記録がない。この年の主要な戦闘以前に出したエンゲルマン宛の葉書一通と手紙が二通、それ以降では、葉書二通と短い走り書きの手紙が二つあるだけである。戦地に戻り、(クリスマス休暇の際の抑鬱のあと)彼は再び仕事ができるようになった。すでに見たように、送られてきたエーレンシュタインの本にうんざりして、彼はその解毒剤としてメーリケの詩やゲーテの詩のいくつかを送るよう頼んでいる。「ドイツ古典詩の最も純粋な源泉を求めている」のだとエンゲルマンは言うが、確かにウィトゲンシュタインの希望したとされる詩集本にでてくるゲーテの詩の多く(『ヴェネチア短唱』、『悲歌』、『書簡』)は古典的韻律で書かれている。しかし収められている詩には(『ローマ悲歌』におけるように)道徳、偏見、責任からの、さらには時代と自分自身の過去の美的趣味からのゲーテの独立宣言も見られ、エロティシズムに彩られた、より単純な生活が求められていることにも注目しなければならない。ウィトゲンシュタインはワイマールの聖者の面だけではなく、栄華の巷を離れて引きこもる田園詩人の面との一体感を見出すことができたのかもしれない。イタリア旅行から帰ったあとのゲーテの慣習軽視と戦後のウィトゲンシュタインのそれとのあいだには、確かに共通性がある。両者の考えた末のくだけた服装は、その底にある過去との断絶を暗示するものにほかならない。エンゲルマン自身は先に触れたように、ウィトゲンシュタインがメーリケに価値を置いていること──文体と内容の完全な適合(前述五六頁)など──を強調している。今あげたゲーテの詩が示してくれるように、ウィトゲンシュタインの趣味は、「気品ある男らしい生活のリズム」というエンゲルマンのプラトン的表現よりもっと複雑なものによって規制されていた。メーリケはゲーテと深く通ずるところがあるとウィトゲンシュタインは見ていたが、それはとりわけが、『イフィゲーニェ』を書いたゲーテではないであろうか。とはいえ、すでに引用したウーラントについてたの手紙(四二三頁)を読むにつけても、こうした解釈はすべて注意深く行わなければならないであろう。
 これらの詩以外に、ウィトゲンシュタインは持ち運びに便利で、しかも読みやすい聖書を所望している。彼は別の機会に二度(四月と八月で、あとのほうは今述べたオーストリア軍の進軍の頃である)、仕事ができる、あるいは頭が働いていると人に伝えているものの、この時期のノートは見あたらない。彼はもっはと善良であり「賢明」でありたいと言っているが、この二つは同じことである。そしてエンゲルマンには、われわれは夢の中で生活しているという先に触れた見解を繰り返しているとはいえ、個人的事柄をことさら書きとめるのは自分には不可能であるとほのめかしている。
第八章 捕虜生活と復員 1918─20

 ウィトゲンシュタインが戦地に戻ったのは、「オーストリア帝国の最後」の時期であった。その最後は戦地において最も劇的に見て取ることができた。九月は小康状態、あるいは執行猶予の時であったと言ってよい。収穫を終え、糧食供給は多少改善された。アジアーゴ戦区におけるイギリス・フランス軍の攻撃は撃退された。ウィトゲンシュタインはおそらくまだウィーンにいた。最後の公的書類に見られるように、六月の手柄による軍功章を九月二二日に授与された。しかし彼がイタリアに戻った月末にはブルガリアの休戦が成り、ハンガリーは一夜にして無防備となったため、ハンガリー部隊の帰還要求が高まった。ついでオーストリア = ハンガリーを自由国家連合とするという宣言、ついには全面講和の要請が出された。
 各部隊はこの要請のことを一〇月五日に聞いた。この日以降、ヨーゼフ大公その他の司令官は雑多な民族からなる軍隊に、妥当な講和条件を得るために踏み止まるよう説得するという絶望的な作業を始めた。加えてこれらの軍隊は、軍服は破れ、下着は着たままのものしかなく、敵の宣伝により故国の民が困窮していると絶えず吹き込まれていた。ウィトゲンシュタインの戦区で、講和条件を悪化させることと同じぐらい恐れられていたことは、指揮する者のいない飢えた軍隊が故郷に向けてまっしぐらに退却するに任せたなら、どうなるかということであった。実際そういうことになったのはクロアチア人、ボスニア人、チェコ人、ハンガリー人といった多くの民族であろうが、オーストリア人の多くも似たようなものであった。
 こうした困難はセッテ・コムーニ(アジアーゴ周辺地域)における一〇月二四日の連合軍による攻撃のあと、とくに緊急の度をました。とはいえこれは陽動作戦にすぎず、実際の突破はピアーヴェ川で予定されていた。当初(ウィトゲンシュタインのいた砲兵中隊が所属していた)第三八ホンフェト歩兵師団はイギリス・イタリア軍を食い止めるのに成功し、シセモル山を取り返すほどであった。エンゲルマンおよび依頼をした出版社とのウィトゲンシュタインの文通は、この日まで続いた。たぶんこのときに『論考』の唯一の訂正済みコピーが拒否され、(ぎりぎりのところで)彼に送り返された。危急存亡のさなかにあっても些細な生活上の変化──手紙、記録、昇進、叙勲──が相変わらず続いていることは、いつでも驚きである。しかしまもなくウィトゲンシュタインのいる師団および第一一軍のハンガリー軍部隊すべてに、帰国を約束せざるをえなくなった。増援の拒否があり、また上部組織からきた将校が直接説得しても連隊の抵抗にあうといった具合であった。砲兵隊のみが戦線を維持しようとの考えを持ち続けた。そしてアシアーゴ戦区では、一〇月三〇日までほぼ戦線は維持された。とはいえピアーヴェ川では大渡河作戦が一月二四日に決行され、一〇月二九日頃までにはヴィットリオ・ヴェーネトでのイタリア軍の勝利は確実となった。オーストリア軍は講和を求め、そして占領地域からの総退却を命じた。
 講和はすぐには成立しなかったが、大がかりな帰国がすでに始まっていた。軍隊は国別に分解する傾向にあり、国民色を身にまとい、ときには兵士評議会を樹立したり望ましくない国の出身の将校を排斥したりした。ウィトゲンシュタインの兄コンラート(クルト)が自らの命を絶ったのは、こうした状況の中でであった。家族の話にはいく通りかある。彼の部隊が従わなかったからだとか、彼らが絶望的な戦いに走るのを肯じなかったからだとか、あるいは単に降伏し捕虜となる恥辱を避けるためだったとか言われているる。いずれにしても高度にとぎすまされた名誉心が動機であったことは明らかである。
 この間に高位の将校も含めた多くの人々は、出ていく列車に飛び乗った。ハインリヒ・グロアクは冷静沈着に、わけのわからない機関士に命じて列車の前に「オルミュッツ」と書いた看板を出させた。こうして少なくとも一支隊は復員した。ウィトゲンシュタインは違っていた。彼の忠節の精神がそうしたことを容認するとは考えにくい。彼は命令通りに退却してトレントに至り、そこでイギリス・フランス軍に追いつかれた。そして一一月一日に始まった一方的闘いとなる。トレントは一一月三日にイタリア軍によってた占領され、そこの全オーストリア = ハンガリー軍部隊は捕虜の宣告を受けた。オーストリア軍側では休戦は三六時間前に、つまり条項の合意が告示されたときに発効したものと信じていた。この三六時間のあいだに三〇万の兵隊が捕虜となり、そのうち三万が捕虜生活の中で死亡した。同じ一一月三日に、故国ではカール皇帝が統帥権を手放した。また支配権や大権を、正確に言うと放棄はしていないものの人民の手に委ねた。
 このような事情からして、捕われたオーストリア軍が将校と兵士に分けられ、故国に送還されるのではなく捕虜収容所に送り込まれることになったのは、彼らには驚きであった。フランツ・パラクは遅々とした足どりで、修道院が見おろしているカッシーノに向かった。ウィトゲンシュタインは最初たぶんヴェローナへ、次にコモのどこかへ行き、そしてカッシーノにようやくたどり着いたのは一九一九年一月のことであった。
 パラクはわびしい光景を描き出している。二列に並んだ仮兵舎、収容所の一本道、閲兵場、ぐるりを取り巻く高い壁、冬は厳しい寒さ、夏は狭い部屋の鉄製ベッドに駆り立てるぎらぎらする太陽、絶えざる空腹である。ある日パラクは、一人の新来者を見つけた。

彼は品のあるほっそりした顔つきをしており、中背で、体つきや風貌から察すると、まだ三○には届いていしなかった。緑色の上着の襟元を開け、その上にシャツの襟を折りまげていて、ズボンの先にはゲートルを巻いていた。無帽で、髪はわずかにカールしているようであった。だが彼の最も印象深いところはその話し方であり、ことのほか几帳面に物事を述べた。そして同じく印象深いのは頭の動きであり、いつもはうつむきかげんであったが、時々後ろにそらし、遠くをじっと見つめていた。それがルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインであった。

パラクの記すところによれば、終戦と共に軍隊的判断基準はすたれ、捕虜たちは市民生活では何をしていたとか、強いられた無為をいやすための講義や朗読、会話にどれほど役に立ちうるかといったことのほうで、一層お互いを評価するようになった。彼の背景をなすすべての要素がただちに明らかになったわけではない。何か変わったところがあるとすれば、彼は他の人たちよりも見たところ形式ばらず、みすぼらしい格好をしていたことである。話題がクリムトのこと、とくに彼の作品マルガレーテ・ストーンボロの肖像に及んだとき、ウィトゲンシュタインが「私の姉」と言うのを聞いてドロービルはびっくりし、「君はウィトゲンシュタイン家の人なのか」と質した。
 こうした話題もごく普通のものとなり、パラクの記している変化の現れと言えそうである。多くの場合、捕虜生活は、あるいは単に敗北という事実が、おのずと精神的なものに目を向けさせる。両大戦中ならびに両大戦後の多くの捕虜収容所で(事情が許せばであるが)講義や催し物が企画され、本が熱心に求められた。そして個人的宗教的問題についての知的な討論が、通常の生活や家庭生活では容易に得られないような友情を培った。
 少なくともカッシーノではそうであった。もちろん、いつもたいしたレベルであったわけではない。以前俳優だった者あるいは俳優志願者が、おおげさな振りをつけて詩を朗読することもあったという。「聞くに耐えない、電気ショックを受けている気がする」とウィトゲンシュタインは言った。収容所で描いた絵の展覧会もあった。ウィトゲンシュタインは一つを除いてすべてを不可とした。よい絵というのは人の横つらを張るような効果がなければならない、と彼は言った。彼は時事的な哲学の講義は避けて出なかったとパラクは言っている。しかしウィトゲンシュタインは「論理学と教育理論」に関する教養講義には(のちに見る理由で)出席した。おそらく同名の題を持つアントン・ハーゲスの教科書をもとにした複数で分担する講義である。彼はコフィ博士の古典論理学教科書のことは忘れたのか、あるいは無邪気なてらいからか、自分も論理哲学論文を書いたことはあるものの論理学教科書とはどんな内容になるのか考えつかないとパラクに語った。結局のところ講義に多くの批判すべき点を見出した。それも当然で、この教科書のよっているヘルバルト的伝統では、いわゆるアリストテレス論理学しか知られていないからである。アリストテレス論理学は種々の論理形式に対して限られた洞察しか示しておらず、そして半ばその結果として論理学を哲学の単なる予備学と見なしている。これに対し、ウィトゲンシュタインの著作の題名そのものが示しているように、彼は哲学の全体が論理学に含まれると見ていた。
 もっともウィトゲンシュタインの性格からいって、こうした大勢の会合などよりも、むしろ小さな集まりや個々人と親しくつき合うほうを好んだ。彼がイギリスに着いたとき「友達が見つかるだろうか」と問うたこと、オルミュッツの集まりを大切にしていたことが思い出される。彼は適当な仲間を見つけだした。たとえばパラクであり、彼が収容所で書いた抒情性と郷愁にあふれる短篇小説をウィトゲンシュタインは見せてほしいと言った。すでに連隊生活や捕虜生活の初めの頃にも、ほかの仲間を見つけていた。そのうちで彼の生涯を通じて最も重要になったのはルートヴィヒ・ヘンゼルであった。彼は敬虔なカトリック教徒で、のちにオーストリア教育界の重鎮になる。解放されてのち、ウィトゲンシュタインは時々ヘンゼル家に滞在し、そこを自分の蔵書の置き場所にしたり連絡場所に使ったりした。またヘンゼル家の子どもたちの幸福と訓育に深い配慮を示した。後年のことは今はおくとして、ヘンゼルはその真面目さ、哲学的な素養と志のゆえに、理想的な盟友となった。二人は兵舎前広場や樫の木の下に椅子を持ち出し、午前中一緒にカントを読んだ。本は「スイス協会」(赤十字のことか)が収容所に贈った図書の中から入手したようである。捕虜が個人的に本を差し入れてもらうのは難しかった。のちにウィトゲンシュタインは幸運にもほかならぬこの差し入れの特別許可を得ることができたが、これについてはあとで触れる。それまでは彼の愛読書『算術の基本法則』すら手元になく、その序文の素晴らしさをヘンゼルに確信させるのに記憶をたどって暗誦してみせなければならなかった。二人は同志のような関係になった。「ヘンゼル君」という呼び方がその後一生続いた。そういう関係がその後長く続く友人として、彫刻家ドロービルもいる(のちに彼がウィトゲンシュタインを描いたデッサンが数枚と頭部のレリーフが残っており、またウィトゲンシュタインが彼のアトリエでかたどった胸像も残っている)。わずかに残されているドロービルの書いた覚え書きや手紙はヘンゼルのそれよりも簡潔であり、それは造形家と思想家の違いからきている。いずれにしても、二人ともウィトゲンシュタインの弟子というよりも対等に語り合う人々の小さなグループに属しており、将校風の挨拶がこのグループを象徴していた。
 パラクとのつき合いは別であって、それはパラク自身が魅力あふれる筆致で明らかにしている通りである。彼の書くものや彼が教師であることに興味を持ったウィトゲンシュタインによって、彼はいわば「摘み採られ」れたのである。彼は自分がウィトゲンシュタインに夢中になったことを認めている。パラクのほうでもウィトゲンシュタインがたずさえていたタイプ原稿に目を通した。そして、二人は雨あがりのあとの兵舎前広場をぐるぐると歩きまわり、パラクが感激して語り出すと、ウィトゲンシュタインはその腕をとった。さらに午後にも会った。パラクは例のグループ──ヘンゼル、ドロービル、ユングヴィルト──にも加わった。ウィトゲンシュタインは彼らに『罪と罰』を読んで聞かせた。またこれとは別にパラクとウィトゲンシュタインは二人だけでこの本や他の文学作品について議論したり、その頃ウィトゲンシュタインが好んでいたバッハから選んだフーガの主題を口笛で二重奏したりした。(パラクがしっかりと書きとめている)文学上の会話はウィトゲンシュタインの発展の記録となっており、以下で簡単に触れるつもりである。ただしパラクとウィトゲンシュタインの関係(これは多くの同様のケースの先例となる)の性格を把握するために、その関係の発展についても明らかにしておく必要がある。
 夏の暑い盛りになると、ウィトゲンシュタインは(ほかの多くの人々と同じように)ベッドに横になり、パラクの考えでは自著の中の命題の修正に心をくだいていた。実際には、タイプ原稿からわかるように、ほとんど何の手も加えられなかった。彼はむしろ内的な問題、彼の言い方によれば「私の内面的なこと」に心を奪われていたのかもしれない。いずれにしてもパラクは自分の訪問が今では歓迎されておらず、どうもウィトゲンシュタインは単なるむら気ということでは説明できないほど自分を避けていると感じた。彼はうまく話のきっかけを作り、興味あることを聞き出すことができた。露のしずくが太陽に満たされているように、自分はウィトゲンシュタインに満たされていた(ちょうどゲーテがワイマールにきたときヴィーラントがそうであったように)と彼は告白している。ウィトゲンシュタインは七つ年上なだけなのに、才能と教養の点で自分よりずっと卓越しているように思われた。その知識をできるだけ多く吸い込むために、彼はすべての気孔を開け放たずにはいられなかった。けれどもウィトゲンシュタインは神経質で気難しく、おじぎ草がそうするようにしだいにそうした濃密な関係から身を引き離していった。この比喩はウィトゲンシュタインの使ったもののようである。ウィトゲンシュタインはさらに続けて、パラクのような人はほかにただ一人知るのみであり、それは自分の母であると言った。ウィトゲンシュタインの家族は彼が母を敬遠しているのに気がついていたし、彼の家族宛の手紙を見てもそれとわかる。「母さんによろしく」としか書いておらず、まるでそう言えば十分であるかのようである。ベルリン時代に言った「もうたくさんです!」という言葉を思い起こさざるをえない。あまりにも近づきすぎた女性たちの例、(ゲーテの語る、あの「下心」をもって掘り採られた花のように)掘り採られ、ウィトゲンシュタインの庭に植えられたが、咲きほこるとは限らない男たちの例がいずれまた出てくるはずである。
 ウィトゲンシュタインは激しく愛情を欲していたにもかかわらず、それがあからさまに表現されることにほとんど我慢がならなかった。それが彼の悲劇であったと言えるかもしれない。この点マルコムに共鳴するところもあるとはいえ、全面的に同意するのは難しいであろう。われわれの今の関心は、こうした特徴の発展とそれに影響を与えた要因を見ることにある。戦争や捕虜収容所でウィトゲンシュタインに生じた変化、あるいは発展の一つは、成熟であり、他人の指導、支配である。そこからパラクのような例が出てきたが、少なくともパラクにとってみれば幸福な例だといってよいであろう。事情によりまもなく二人は別れることになったものの、パラクにとってはいつまでも心暖まる意義深い思い出となった。パラクによる二人の関係の説明は、実にしっかりしており、適切である。
 この頃のウィトゲンシュタインには、ほかにも発展が見られたことがパラクの説明によって確認できる。彼らの会話はパラク自身の作品を批評することから始まって、ドストエフスキーと他の作家との比較を経て、ウィトゲンシュタイン流の宗教や彼の人生計画をめぐる議論にまで及んだ。ウィトゲンシュタインの場合、たいていは美学的方面から見ていくのが最もわかりやすい。彼の行う価値評価がいつも変わらなかったわけではない。その頃の彼はハイドンをベートーヴェンと肩を並べるものと見、そうは言いながらもこの二人よりはバッハを愛していた。その後ベートーヴェン、ないしはシューベルトがすべてといった時期がやってくる。作曲家の追究は一度に一人と限らなければならないかのようである。彼のヴァーグナー音楽批判の弁を読み込んでみることができそうである。そこで彼は、ある言語から別の言語へ一語一語翻訳することはできないと言っている。これは文学的目標、すなわち伝えたい言説を、ヴァーグナーははあまりにも機械的に音楽に移している、と言っているように思われる。そしてウィトゲンシュタインは若者らしい『マイスタージンガー』熱から離反し、非表現的な芸術、すなわち何を言うかではなくどのように言うかを重視する芸術へと向かった。こうした見方がまたパラクの著作に対する彼の批評の趣旨にもなった。これこれの形容詞は(ウィトゲンシュタインはそれらの真の用法や出典を問うてケラーの書いた物語にまで遡ることができた)、パラクの言おうとすることに合致していない。パラクは物事を明瞭に思い描いていなかったのだ。これに対してパラクが、そんなふうに見ていったら物語(それは第二作目で前作よりよい出来だと考えていた)の全内容がだいなしになると抗議すると、ウィトゲンシュタインは「言語がすべてなのだ」と答えた。あるいはホーフマンスタールを援用して、どのように事柄が言われるかで一切が違ってくると答えた。
 とくにこの時期にと言うべきかもしれないが、実際にウィトゲンシュタインに最も多くを語りかけたのは、道徳的教訓が強く込められていながら簡素な表現の作品であった。エンゲルマンに推奨したウーラントの詩、ケラーの物語一般がその例である。パラクに対しては、ゲーテが性愛に文学的表現を与えるのに成功しているとパラクが考える箇所につき合うよりは、メーリケから一つの寓話を朗読して聞かせた。
 そうした論点は彼らが『罪と罰』を読んだことから生じた。問題はなぜドストエフスキーがソーニャのた気高い側面のみを描き、罪深い側面にはほとんど触れていないのかということであった。売春婦が殺人者に福音書の一節を読んで聞かせるような場面にとって、それが不可欠の背景を成しているにしてもである。仲間たち、ことにウィトゲンシュタインは、自分自身の人生のためにこの本にこだわった。ウィトゲンシュタインはトルストイ的宗教に満足できなかったのだとパラクは考えるが、こうした関心の変化をあまり重視しすぎてはいけない。ウィトゲンシュタインはトルストイに立ち戻ることになるからである。それはともかく、ドストエフスキーが彼の戦中日記後半で引用されている作家であり、そして『罪と罰』より偉大なのは『カラマーゾフの兄弟』だけだと彼はパラクに語っている。ウィトゲンシュタインがドストエフスキーを評価したのは、その「深い宗教的態度」のためであった。パラクは確かな作家の目をもって、別のときの彼らの会話を『罪と罰』に結びつけた。ウィトゲンシュタインは自分は生まれ変わったと述べたことがあったが、その際パラクはそうした転生の仮説を退けた(以前ウィトゲンシュタインもわれわれの思い起こすことのできない前世を考えたり、前世の罪滅ぼしをしようとするのはナンセンスであると言っていた)。だがパラクは『罪と罰』の最後の段落を読んだとき、彼の言ったことを思い出した。

しかし、そこにはすでに新しい物語、一人の人間が次第に新しくなってゆく物語、次第に更生してゆく物語、一つの世界から他の世界へと次第に移ってゆく物語、これまで全然知られなかった新しい現実を知る物語がはじまろうとしているのである。〔中村訳(『罪と罰』第三巻、岩波文庫)〕

パラクの考えでは、これこそがウィトゲンシュタインのうちに生じた変化である。宗教的回心であり再生の感情であって、それはウィトゲンシュタインをしてすべての財産を放棄させ、まったく違った生活、内的宗教的目標に捧げられた別の生活を送るようにしむけた。パラクはウィトゲンシュタインの生活の贅沢、安楽について戦前と戦後を比較し、正反対になっていることを指摘している。パラクはその多くを、ウィトゲンシュタイン家の興隆の背景と基礎を成していた帝国が崩壊したためとしている。たとえウィトゲンシュタインが戦争の初めから負け戦になることを知っていたにしても、この点にある程度留意しなければならない。むろん現実は予想以上に強力な効果を及ぼした。ウィトゲンシュタインの変化のもう一つの要因として、彼が戦争から立ち直る必要のあったことがあげられる。戦争体験のすべてを克服するために、内面への退却が必要であった。リーヴィスの記憶によれば、一九三〇年のことであるが、ウィトゲンシュタインは自分と同様、戦争体験に過敏に反応する精神の持ち主であると見て取れた。けれども、最も重要なのは先に述べたことではなかろうか。戦争はウィトゲンシュタインにとって救いであった。辛苦や危険は彼の精神を本質的なことだけに集中させ、日々要求される務め、すなわち「困難な任務を日々遂行すること」は、人々との共同生活を可能にした。彼はもはや何になるべきかを模索しなかった。今では何であるべきかを知っていたからである。
 これが当時の彼の精神状態であったように思われる。現実の世界ではもちろん何かにならなければならず、パラクの説明によれば聖職に就くか教師生活に入るかのいずれかを選ぼうとしていたようである。しかし神学を四年間学ぶのはたいへんなので、ウィトゲンシュタインは教員養成学校の最終学年に編入しようと考えた。「本当は聖職者になりたいのだけれど、教師になっても子どもたちと福音書を読むことができる」と彼はパラクに語った。
 こうした状態を(ドストエフスキーが最後の段落で試みているように)数語で要約すれば、それは刻苦して得られた精神状態であり、それが深く苦しい自責の念、そして過去の態度や行為についての罪の意識と不可分になっている。卑しからぬ男が哀れな罪人となるというキューゲルゲンに出てくる話にはすでに触れた。ウィトゲンシュタインはこれを自らの体験により理解した。捕虜収容所でこの頃、彼が罪を認めることの重要性に思いをこらしているのを見て取ることができる。ソーニャはラスコーリニコフにこれを迫り、そしてトルストイに出てくる気高い巡礼は自分が罪に負けたことを進んで認める。捕虜収容所で考えふけっていたこと、エンゲルマン宛の手紙でほのめかしている彼の内的状態は、すべてこの種のものである。一、二年あと、彼の姉はヘンゼルに、弟が幸福な普通の人間ではなく、不幸な聖人であるのを嘆いている。姉はこの種の不幸は聖人のしるしであり、実際に犯した罪の重さとはほとんど関係ないと見ているのである。人生の一段階を見て聖人の称号を与えるのは意味あることとは思えないが、この時期がウィトゲンシュタインの人生における重い宗教的段階であったことは見まがうべくもない。
 彼はもちろんこれまでも常に高度の原則を守る人間であり、この点は変わらなかった。カッシーノにある下級の収容所で腸チフスが発生したとき、そちらに移してほしいと要望したこと、また特権を得るのを拒み続けたことなどはその例である。この特権の拒否について述べるとなると、収容所と外の世界との接触に言及せざるをえない。

〔…〕

 クリスマス以前は無理ではないかとウィトゲンシュタインは考えていたが、オーストリアへの早期復員が噂や情報として伝わってきた。彼らは家畜用トラックでカッシーノの街にくだり、そこから二等客車で復員することになったとパラクは語っている。イタリアの衛兵はフィラッハで立ち去った。パラクは下オーストリア行きの列車に乗り換えたが、ウィトゲンシュタインは他のウィーン出身者と共にそのまま行った。二人は二度と会うことはなかった。ウィトゲンシュタインの公式の釈放日は一九一九年八月二六日になっているものの、彼のウィーン発の最初の手紙は八月二五日付である。彼はエンゲルマンに、精神状態に関するかぎり「かんばしくない」と書いている。
 この復員が彼の人生における危機であったことは、ほとんど疑いないであろう。彼の父親の場合と同様、生涯の節目となる大きな「転換」の一つが準備されていた。姉のヘルミーネはそう感じていた(『家族の思い出』、一一一頁)。それもそのはずであった。彼の命を救い、見苦しくない生き方をさせる機構の役をした戦争は終わった。彼はどうにかして足場を見つけなければならなかった。戦争や捕虜生活が命ずるのではない自分自身の場所を、この世界の中に見つけなければならなかった。
 彼が家族の雰囲気を離れなければならないのは、当然の成り行きであったように思われる。けれども今回はそれを外国行きによって果たすことはできなかった。もちろん彼らは戦争によって貧しくなっていたとはいえ、インフレと飢餓のはびこる戦後の厳しい冬を過ごしていた貧しいウィーンの人々に比べれば、格段によい暮らしをしていた。彼は人々と苦しみを共にするために軍隊に入ったのであり、今さら特権ある場所に戻ることはできなかった。以前はもっともな言い訳をいろいろすることもできた。金は自分のものではなく父のものであったし、自分は得意とする論理学をやっていた。ところがその論理学も完成した。彼が非常に間接的な形で著作の中で伝えようと試みたことを、今や人生の中で明示しなければならない。
 およそこうしたことが動機となって、復員後にまず二つのことに取りかかっている。彼は自分の金を兄と姉たちにあげてしまった。次には下宿生活を始め、家を探してもらっては次々と移り住んだ。彼の住所は、もはや「金持ちのウィトゲンシュタイン家」の住所ではなくなる。彼は家族と別れたとはいえ、接触を絶ってしまったわけではない。「花嫁に手を触れずに出奔した」が、後年、父親の家の地下の使用人部屋に住むことになったアレクシウスにどこか似ていた。姉のヘルミーネが比較の対象としているのは、もう一人のアレクシウスと言うべき『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャである。アリョーシャは無一文だが、几帳面なイワンと違い必要なものに決して事欠くことはない。人々が喜んで彼に与えるからであり、彼のほうではごく自然に受け取る。このアリョーシャとの類似点は、確かに存在し重要であるとはいえ、次に見るように完全に類似するわけではない。
 というのは、ウィトゲンシュタインは自分の財産の分配を主張したというのが事実だからである。まず彼はまっすぐに銀行に行き、預けてある金は要らないと告げたので、皆は肝をつぶした。顧問弁護士たちとさんざん議論したあげく、家族の者たちはようやく、誰かが言うように、彼が経済的な自殺をしようとしているのだということを了解した。この議論の過程で、伯父のパウルは、ルートヴィヒの分としてひそかに金を留保すべきだと声を張りあげて説いた。しかし、そのようなことは金輪際してほしくないと彼はは繰り返し主張した。万事は自分が父より早死にしたかのように運ばれなければならない、とルートヴィヒは言った。(ただ例外として、戦争でそれほど経済的に打撃を受けなかったグレートルは、この再分配の対象には含めないことにしたようである。)未亡人としての母親の相続分が、破女の死により一九二六年に分配されることになったとき、同じ取り決めが繰り返されたのがわかっている。この際にもまたルートヴィヒは、自分のところに一銭もよこしてくれるなと主張した。彼は自分に重要なことを主張しだすと、まったく手に負えなかった。
 ウィトゲンシュタイン自身の家族に贈与されると聞いて、笑う人もいた。アードルフ・ロースは「ああ、そういうことなのか」と言った。けれども、いくつかの点から見て、それが唯一可能な解決であった。金といってもそれは黄金の山ではなく、複雑に入り組んだ財産や有価証券からなっている。他人や慈善団体をその管財者にするのは容易ではない。加えてウィトゲンシュタインの狙いは遺産から自分を解放することであり、たとえ間接的にであれ自分の目的のためには使わないことであった。そしてまたエンゲルマンに語ったように、自分の資産を人道的目的に捧げたところで、結局のところ何のよい結果も得られないと彼は考えていた。
 こうしたことすべてについて、姉たちは一言も批判しなかった。彼女たちは特権に伴う責任をはっきり意識していた。グレートルはおそらくこの頃、飢餓に苦しむオーストリアを救う運動のためアメリカを旅行していた。彼女はすでにスイスから自費で貨車一両分のコンデンス・ミルクを送っていた。慈善活動はほかにもある。戦時中、病院で働いていたヘルミーネは、今では貧しい男の子を日中あずかる託児所をつくる準備をしていた。のちにはウィトゲンシュタインもしばしばこの姉たちの奉仕活動を頼りにした。それは彼自身の慈善計画のためであるが、注意すべきは、それがいつでも個人的計画であること、つまり個人のために個人によって企てられるものであって、慈善団体への助成ではなかったことである。のちにはまたケインズにも、ある計画への助力を依頼することになるが、ケインズはそれをこころよく引き受ける。ここからわかるのは、自分は金をためこむという不正はできないので、人の持っている金を使うのは構わないというウィトゲンシュタイン流の命題を、友人たちが彼に限っては、容認していたことである。
 自分に課したこの命法の背景には、困難を分かち合う必要以上のことが問題になっていたのであろうか。こうした点については、彼の後年のノートが引用されてきた。彼は自分の家族が貧しくなるのを見たいとは思わなかったが、それは彼らの場合、彼らの持っている「力」を失うことになるからである。とはいっはても、ウィトゲンシュタインは自分についてはその力を放棄しようとしたということにはならない。むしろ彼は、どんな力にしても自分自身の人格から自分の手で生み出したかったのである。(のちにも見るように、彼は普通、得た収入のうち、どれだけが自分の取り分と言えるかわかっていたし、それを節約して使い、必要なときにはできるだけ目立たないようにしながらも気前よく出した。)
 こうした金銭問題が片づくと、彼は生活の仕方を決めなければならなかった。宗教的生活もまだまったくやめにしたわけではなかった。ヘンゼルの話によると、ウィトゲンシュタインは修道院(彼の念頭にあったに無修道会かフランシスコ修道会)を訪れており、そこで門番に冷たくあしらわれた。修道院でよくあるように、ひと通りの予備尋問も行われたようである。一二月にラッセルはウィトゲンシュタインに会い(これについてはこの章のあとのほうで触れる)、彼が信じられないほど変わったのを見た。

私は彼の本の中に神秘主義のにおいを感じ取ってはいましたが、彼がまったくの神秘家となっているのを見てきました。彼はキルケゴールやアンゲルス・シレージウスといった人たちのものを読んでおり、修道僧になろうかと真面目にしています。(オットリーン・モレル宛ラッセルの手紙、一九一九年一二月二〇日)

にもかかわらずラッセルは、「そう考えただけで、その気になったわけではない」と判断している。ウィトケンシュタインは教師になる気でいると見ていた。
 宗教に入るのでなければ教師になる、と彼は捕虜収容所で言っていた。それは彼の気質によく合っていたとも言える。前に記したように、ウィトゲンシュタイン家の人たちは教育の才能ないしは欲求を持っており、そしてすべての教育は道徳教育であると見る傾向があった。二人の姉がその例で、ミニングは託児所を持ち、グレートルは心理学を研究していた。さらに、先に見た通り、ルートヴィヒは自分をアリョーシャになぞらえていたようであり、少年たちに福音書の一節を読んで聞かせ、彼らが生き抜くための霊感を与えることを夢想していた。
 とはいえそれは彼の才能を誤用することにならないだろうか。ミニングの言うように、荷箱を開けるのに精密器具を用いるようなものではないだろうか。これに対して、彼らしい笑みを浮かべて、「あなたは窓を隔てて外を眺めている人のようだ」と彼は言った。「外を通りかかる人の奇妙な動作を飲み込めないのです。外の風の激しさにも、その人が立っているだけでたいへんなことにも、思い及ばないのです」。
 このように彼は職業選択を、自分の内的問題の要求に従って考えていたのは間違いない。したがって、(確かな根拠もなく示唆されたように)ウィーンの道徳的退廃の中で暮らしていく必要からではない。その内的問題は捕虜収容所ですでに自覚されていた(そしてある決心が固まっていた)。それは彼に絶えずついてまわった問題であるのだが、敗戦国をおおう意気沮喪により、さらに切実になった。自分や他人に対して十分誠実であったであろうか。他人と(風紀が乱れた際には一層あらわとなる)他人の卑俗さに不当に苛立つことなく耐えることができたであろうか。息がつまるといってもむやみに拒否すべきではない家族の愛情に、どのように応えることができたであろうか。この種のことを、そしてあまりにも上を目指し、あまりにも辛辣であることからくる良心の呵責の逐一を、われわれはこれまでも繰り返し見てきた。それらは彼を今やある種の現実放棄に、単純な職業の選択に導かずにはおかないのではなかろうか。そうすれば職業の価値に全面的確信が持てないでいることもなく、仲間の人たちとの関係にも曖昧さがなくなるであろう。そして宗教的生活にある場合と同様、気晴らしを求めることから自由になり、同時に瞑想と霊の発展に専念する内的生活に入る自由も得られるのではないだろうか。
 ほかにどんな職業が彼に開かれていただろうか。まだ出版されていない彼自身の本の説く教えを、彼が真剣に受けとめていた徴候が至るところに見られる。彼は自分の思考の道筋をたどって哲学の終焉にまで行き着いており、何もつけ加えることがなくなっていたのである。何年かのちにケインズとラムジーにそのように言っている。「私はそうした活動に今では強い内的衝動を持っておりません。私はどうしても言わなければならないことをすべて言ってしまったので、泉は涸れてしまいました」。実際面から言ってもははイギリスに戻らずに哲学をするすべはなかったし、イギリスに戻ることは一九一九年には思いもよらなかった。彼はオーストリアの学界に地位を得ていないだけではなく、それを軽蔑していた。自分の哲学的仕事であれ、あるいはどんな哲学的仕事であれ、哲学教授に見せたって豚に真珠だ、と彼は言った。彼はオーストリアの知的生活などに今ではほとんど何の興味もなかった。フィッカー宛の手紙を見ると、彼は苛立っている。復員後すぐにとんでいってロースに会ってはみたものの、彼は苦い失望を味わった。

私は慄然とし、胸が悪くなりました。彼はにせの主知主義にかぶれてきっています! 彼は私に「美術局」創設計画のパンフレットをくれましたが、そこで彼は聖霊に対する罪などということを口にしています。れではもうおしまいです! ロースのところに行くときすでに抑鬱的気分だったのですが、これはもう決定的でした。

友人たちは、ウィトゲンシュタインがクラウスに会ったと言っている(これが戦前ということはありえない)。彼はその際、次のように言いたくてたまらなかった、いや事実そう言ったそうである──「もちろんあなたは忌まわしい虚栄心の持ち主だから、このようなことを理解しないでしょう」。
 教師になることは誠実な選択であったにしても、それ自体は宗教的生活の代わりでしかなかったのではなかろうか。ウィトゲンシュタインが言った言葉の中に、こうした見方を読み取ることができる。エンゲルマンが自分と同じ精神状態にあると思われたとき、ウィトゲンシュタインは言っている。

事情は次のようになっているのだと思います。私たちは目的地へのまっすぐな道を進んでいないのです。そうする力が私たちには(少なくとも私には)ないのです。それで私たちはわき道をしているのですが、それでも前へ進んでいるかぎりは満足しております。ところがその道が行き止まりになっていると、そこで立ち往生し、私たちは初めて、いるべき所にはいないことに気がつきます。

そうだとすれば、これは信仰の欠如のためウィトゲンシュタインが失敗した例となるであろう。それは召命を受けたのに応えるのに失敗したという、彼がのちに抱いた感慨の説明になりそうである。とはいえ、「長老」がアリョーシャに望んだような「在俗の修道僧」になれるかもしれない、と彼が考えたときもあったように思われる。
 ノイヴァルデッグに短期滞在し、ホーホライトに多少長く滞在しているうちに、決心もなんなくついた(彼はエンゲルマンにはそれと告げず、想像に任せた)。そして九月二五日にはもう「教員養成所」──「いわゆる」と彼は皮肉っぽく前置きしている──に登録されている。これは第三区にあり、彼とエンゲルマンがのちにストーンボロ邸を建てた場所の、通りを挟んだ向かいに位置していた。彼が下宿したのもその近くであった。「私の境遇もことごとく変わり、私が賢くないのだけが相変わらずです」と彼は暗い調子で書いている。住所も一カ月のうちに二度も変わることになった。
 同じ手紙で、こうした学校に通い人生を後戻りすることの困難を、後悔まじりに記している。」

こうして私はまた教室に座っています。そういうと実際以上に滑稽に響きます。本当は、非常な困難を感じているからです。私はもう中学生のように振舞うことはできません。こういうと滑稽に響くでしょうが、屈辱があまりにも大きく、ほとんど耐えられないと思うことがしばしばです!(エンゲルマン宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九一九年九月二五日)

事実こうした養成所の学生は、普通若い教育実習生で、ウィトゲンシュタインの持っている「マトゥーラ」すらなく、彼が研究生活や戦争で得た高い教養や広い視野などひとかけらもなかった。同じ年頃に、バルセロナでラテン語を習っていたイグナティウス・ロヨラのことが思い出される。「名将が生徒になられた」と讃美歌にうたわれている。しかし、ウィトゲンシュタインがリンツ時代に逆戻りしたというのは事実ではない。校長はこの風変わりな退役軍人(戦後には、こういう例はさほどめずらしくなかった)の優秀さに気づき、校長室に引き入れては楽しげに話をした。ウィトゲンシュタインの知性と人格の力は、いつでも教師仲間皆の尊敬を勝ち得た。彼の素性に推測をめぐらす人もいた。そこで彼は裕福なウィトゲンシュタイン家との関係を否定し、ただ遠い縁戚であるだけだと言い張った。しかしこう言って切り抜けるのは困難であったようであり、そしてむろん隠しだてしたことがかえって裏目にでた。
 学校での勉強はまったく簡単であった。ウィトゲンシュタインは「マトゥーラ」証明により全学科を免除され、ただ歌唱、オルガン、ヴァイオリン、地域経済、書道といった特殊教育科目だけを受けることになった。金釘流の「ドイツ筆記体」で書かれたこの頃の手紙がヘンゼル家に残っている。ウィトゲンシュタインはほぼ生涯を通じて読みやすいラテン筆記体で書いていた。書道で学校からもらった成績は「満足できる」で、五段階評価の3にあたる。その他の科目はすべて「称賛に値する」、すなわち4である。教育実習も「称賛に値する」であった。実習では子どもたちにおとぎ話を読んで聞かせることもしたようである。「それは彼らの気に入り、ほっとしました」。
 この学校で使われた教科書については、ヴュンシェが適切に記述している。それによると教科書は、各クラスで新任教師が目標をよく考え、教材を準備し、生徒の記憶に残るよう連想や工夫をこらすのを原則としていた。こうしたすべてを、ウィトゲンシュタインはその後の教員生活で几帳面に行った。彼が目標としたのは、伝統的教授法の場合と同じく下準備した教材を生徒に吸収させることであろうか、それとも活動を通して新しい能力をかち取らせることであろうか。ここでは関係ないことかもしれないし、あまりはっきりしない。この問題は本質的には彼が新しい「学校改革」の理念に同意したのかという問題に帰着するが、そうとも言えるし違うとも言えるであろう。彼は自分自身の教育方法を考え出したというのが事実である。したがって伝統から離れていることは間違いないにしても、他面、「学校改革」がうたっているものの多くも彼は退けている。とくに反対だったのは、しつけに対する姿勢、また学校運営への子どもたちの参加に対してである。ただしこれは、のちに教員生活について述べる際にあらためて議論さるべきことである。ただ彼の通った学校の理念について少し触れてみただけであり、今はそれで十分である。この学校で実際にしていることは、文字通りの訓練であった(「養成」というよりは「調教」であり、たぶんこれを皮肉ってウィトゲンシュタインは「いわゆる」と言ったのである)。後期の哲学の中で、また子どもたちに対する姿勢において、彼がこの訓練というものを重視しているのは確かである。それが人間の思考においても、社会生活においても基本をなすと、彼は見ているのである。
 この時期の彼自身の生活では、家族のことにかまけているかと思えばよそよそしくしたりして揺れ動いた。学校の近くで下宿を変えていたものの、まもなくヒーツィングにいる家族と親しい人の家に引っ越した。旧姓をヘルミーネ・バッハーというミーマ・シェグレンは、あるスウェーデン人技術者の未亡人であった。この技術者はカール・ウィトゲンシュタインの持つ製鋼所の所長をしていた。彼女の父も別の製鋼所の所長であった。彼女はルートヴィヒがまだごく幼い頃から、彼の姉たちの親友であった。今では彼女の息子たちも広義のウィトゲンシュタイン家の一員となっていたが、それは女手一つで男の子どもを育てるには、援助と導きが必要だと思われたからでもあった。そのためシェグレン一家は一緒になって祝いごとの準備に精を出したり、夏にホーホライトを訪れたり、週末にウィーンに何軒かある邸宅を訪問したりした。ミーマはそうした折に芸術面で多少の協力をした。それもウィトゲンシュタイン家の人たちのようなディレッタントとはちがって、本格的な芸術家と言ってよいほどであったし、現にそのように評価されていた。彼女の才能は、描いた一連の肖像画により今でも確かめることができる。写真で見ると、彼女はマルガレーテ・ストーンボロと肩を並べるほど魅力的で人目を引く女性である。彼女の二人の息子、アルフィトとタラは別々の仕方でルートヴィヒに接触した。タラは背の高い美男で感じがよく、見るからにスウェーデン人であった。家庭でよく見られるように、あるいは少なくともウィトゲンシュタイン家ではそうなのだが、彼にあった役どころに擬せられ、それはあまり真面目でない役柄であった。誰からも愛されていたとはいえ、彼の行状にはいつも問題があった。彼は他人の生活におせっかいをやくストーンボロ夫人の格好のえじきであった。彼はいつもそうしたふうに見られた。(彼がルートヴィヒの人生においてある役割を果たすのは、ずっとのちのことである。)アルフィトは背が高いだけでなく体重もあり、もの静かでありながら反抗的でもあった。彼には素直な魂と自立心があり、それらが生涯間違いなく彼を導いていくように思われた。彼の真剣な何かが、彼のものの見方の飾らなさと率直さが、ルートヴィヒを引きつけた。これまでに二人が会ったのは戦時の休暇の際だけであり、その頃アルフィトはもっと騒々しい中学生であった。その彼が今ではひんぱんに行動を共にする仲間となった。そうするうちに彼はウィトゲンシュタインの外国旅行についていくことにもなるが、それについてはあとで触れる。ここに生涯続く友情が始まった。アルフィトはルートヴィヒの要求があまりにも大きすぎると思うようになり、距離をとらざるをえなくなるものの、二人の友情はその後も続いた。ルートヴィヒの友人たちは過度に彼と接触していなければならず、過度に友情に熱中しなければならなかった。ルートヴィヒは他人の人生についても大いに語ったとはいえ、やはり自分のことを問題にせざるをえなかった。誰かを訪れてみると外灯がついていなかったり、あるいはアルフィトがルートヴィヒの姉の一人のために大工仕事に熱中していたりすると、彼はじれた。ルートヴィヒの友人となるには冷静である必要があった。アルフィトにはそれができ、すでに見たようにちょうどこの頃の彼はルートヴィヒの弟子にふさわしかった。弟子という枠に収まる友人としては、アルフィトが最初であると言えるかもしれない。甥といってもよい彼に比べると、ピンセントとエンゲルマンはもっと対等の立場にあった。弟子とはいえ、アルフィトは一個の思想家でもあった。ルートヴィヒはいつでも彼のこの面を認めていた。どんな本、どんな人生の出来事を議論しても、アルフィトは自分なりの理解を示した。それゆえ感化の受け方も微妙で、ある人格が他の人格に刷り込まれるというものではなかった。ルートヴィヒの関与したある実際的決断は、のちに家族のある者たちの後悔を招くことになった。彼はアルフィトに勉強などするなと言い、その結果、少年は技術者ではなく機械工になったのである。若者たちにルートヴィヒと姉のグレートルが単純な実際労働につくように勧めるということが繰り返されることになる。それは確かにこの時期のルートヴィヒ自身の好みに一致していた。何か重要なことを学問的に研究するといった考えは、彼の本の中ではっきりと拒否されていた。それにしてもここで気になるのは、彼が他人の人生に好んで介入しようとしていることである。「上の世代の人たちは他人の権利の前で立ち止まることをしなかった」と、甥のトマス・ストーンボロはよく言っていた。のちのことであるが(アルフィトの手紙から推測すると)アルフィトは友人の救済、あるいは魂の幸福に配慮しないとは(「糞をかけている」)と言って、ルートヴィヒが叱ったのがわかる。それに対してアルフィトは、ルートヴィヒは他人を、婚約者さえをも当人の好きなようにさせるべきだと答えている。ここぞというときでも、彼は(ただそこに立っているだけの)道標の役を果たせるだけである。例の高等教育のことでルートヴィヒは道標以上のものであったが、彼の誘導がなくとも自分は同じ道をたどることになったであろうと、アルフィトは晩年語っている。アルフィトよりもむしろ、まわりの人たちがうらめしく思った。
 さて、シェグレン家に下宿し、こうしたことに没頭したのは一一月か、一一月近くであった。少年たちの教育の手伝いは他人のもくろみに合致し、そうしてアレーガッセから遠ざかるのは自分のもくろみに合致していたと言えよう。そこで過ごした成果は、すでに触れた生涯にわたる友情であった。まず手始めには、ラッセルに会うためオランダに旅行する際の同行者が得られた。しかし同時に、ミーマとの生涯続く、ひびの入ったぎこちない関係もまたその成果であった。アルフィト自身は、彼女がルートヴィヒに恋してしまったと考えている。彼が抱いていた温かさへの欲求と過度の接触への嫌悪、つまりショーペンハウアーのヤマアラシの比喩にでてくる牽引と反発──ウィトゲンシュタインはとくに女性に対して感じていたと思われる──と折り合っていくことは、彼女にとって何ほどか困難であったに違いない。しかも彼はこの頃最も神経過敏な状態にあった。それは姉のヘルミーネが彼の扱いに困った様子からわかる。それで、このあと見るように、彼女はヘンゼル博士に手紙を書いてすますほうが楽であった。とにかくルートヴィヒはヒーツィングを去り、第三区に戻った。引っ越しには「いろいろの作業が伴いますが、そのときのことを思い出すと沈んだ気持ちにならざるをえません」と彼は言っている。それ以後、関係は難しくなった。一年ほどあとに、彼女のほうから彼を訪問する計画がかなり注意深く立てられてはいる。とはいえ普通、家族の者は彼が自分たちのもとにきそうなときには、ミーマを招かないように用心した。一〇年以上あとの日付のない手紙を見ると、彼女の息子のアルフィトの側でも、同じことをしているのがわかる。
 この逸話は、ウィトゲンシュタインがほとんどいつも嘆息しながら、内的アスペクトと外的アスペクトと呼んだものの混合しているのが、特徴となっている。この場合では他人の行動ないし期待が彼にぶつかってき、彼のほうでは事態を打開するために周囲と自分自身に対して処置をほどこさなければならなかった。そしてそれは、彼が整えようと努力していた内的生活にゆゆしい影響を与えた。
 このような光に照らして、この移行の年において彼を悩ました主要な問題を概観しなければならない。この年には当然、彼は自分の足場を見出すのにとてつもない困難を感じていたに違いない。そして、それは家族の者が実際に見て取ったところである。第一の問題は、すでに多少は述べたように、家族と友人の.ことである。家族から離れたとはいえ、毎週土曜の午後には母親と過ごさなければならず、それは捕虜収容所でパラクに言ったような理由で重荷であった。ヘンゼルとその夫人は、ハシカを病んでいるとかその他の家庭の事情がないときには避難場所を提供した。それに対してヘルミーネ・ウィトゲンシュタインは心から礼を述べており、また困難な当時にあって非常に役に立つものを贈ったりした。その際彼女は、こうした贈物はもちろん自分のなすべき感謝を十分表すものとはとうていなりえないと、たくみにくどいている。ただしルートヴィヒは、ヘンゼルのところにそうしばしば訪れたわけではない。彫刻家ドロービルのところにも、ときには訪れた。またごくたまにパウル・エンゲルマンの訪問を受けたが、彼とは本当の話ができるとウィトゲンシュタインは感じていた。けれどもこれだけのつき合いではとても十分とは言えなかった。のちに触れるラッセル訪問のあとの三月に、ウィトゲンシュタインは次のように書いている。

どんなにかまた、あなたにお会いしたいことでしょう。私はもうどうしたところで新しい友人を得られそうになく、旧い友人も失いつつあるのです。それはひどく悲しいことです。毎日のようにかわいそうなテイヴィド・ピンセントのことを思い出します。きっと奇妙に聞こえるでしょうが、私はほとんど誰に対しても馬鹿になりすぎているのです!(ラッセル宛ウィトゲンシュタインの手紙、一九二〇年三月一九日)

彼の考え方は、たいていの人々には理解できなかったかもしれない。(新しい友人のアルフィトは例外であった。)にもかかわらず、他人を受け容れることを彼は目指していたはずである。たぶんこのことからウィトゲンシュタインの次のような訴えは了解できる。こんどはエンゲルマンに宛てて、「普通の人間は私にとって慰めであり、同時に苦痛です」と彼は書いている。
第九章 『論考』 1921─22

 この書物だけをとくに取りあげて扱うのは、その特異な経緯のためである。この書物の内容にはそのときまでの著者の人生の歩みが反映している、と見てよかろう。出版の事情にも、いかにもウィトゲンシュタインらしいところがあった。というのも、彼はこの著作を他人任せにして、したいようにさせたのであった。もっとも、のちの著作についても事情は同じである。以前、草稿を野戦郵便で自分のところに送ってもらおうとしたときに彼自ら語ったように、すべては神の御心のまま、なのである。
 この書物の出版の準備を整えるというまるでマルタ〔新約聖書ルカ伝一〇章に言うベタニアの女〕向きの仕事が、ラッセルの秘書役の一人と先に述べておいた若い婦人ドロシー・リンチ嬢の手に委ねられた。ラッセル自身は一九二〇年の秋に中国へと発ち、一年間は戻ってこなかったのである。彼女はてきぱきとその仕事に取りかかった。(おそらく最初の交渉先である)ケンブリッジ大学出版局は、一月一七日に否定的な返答を送ってよこした。どの出版社も後悔先に立たずの思いをするのだが、この点「薄情な母校」だったケンブリッジは、ウィトゲンシュタインののちの著作をも拒否することになった。そこで、リンチ嬢はドイツに目を向けた。明らかに当初は、この著作を長めの論文ぐらいに縮めた解題のようなものを、哲学の科学的研究、あるいは、哲学は科学の本質を含むといった見解に関心のある一連の学術雑誌に送りつけたのであった。しかしながら、『心理学と感官生理学の雑誌』のシューマンは、掲載論文は哲学的であるよりも心理学的なものであるべきだという規定に訴えて、この論文の掲載は認められない、と言ってきた。また、『体系哲学雑誌』のルートヴィヒ・シュタインからは、ラッセルの弟子の論文なら掲載するに吝かではないが、出版は少し遅くなろう、五月にもう一度問い合わせてくれないか、ということであった。これらの手紙の日付は両方とも二月一二日であった。ところが、『自然哲学年報』のヴィルヘルム・オストヴァルトは、五二・二一という日付──これは、数ある彼の癖の一つ(間違いなく二月二一日のことで、返事が遅れたことを詫びてもいる)──の手紙に次のように書いている。

私は、ほかのいかなる場合にも、この論文の採用はお断りしたでしょう。けれども、私はバートランド・ラッセル氏に対し、研究者としてもまた人間としても、大いなる敬意を払うものでありますから、ウィトゲンシュタイン氏の論文は、わが『自然哲学年報』に喜んで掲載いたしましょう。バートランド・ラッセル氏の序文はとりわけ歓迎されましょう。

二、三カ月後には出版されるだろうし、抜刷も、おそらくはもっと早くにお届けできるとのことであった。この申し出を受けて、リンチ嬢は先のタイプ原稿をラッセルの序文の写しをつけて送り届けた(オストヴァルトは、一九二二年三月一〇日の消印のある葉書で受け取った旨を知らせてきている)。だがこの序文は、またもやかなりいい加減にドイツ語に訳されたものだった。この著作を掲載した雑誌は期日通りに出版されたが、(この著作のメッセージに従ったかのように)当誌はこの号を以て廃刊となってしまった。「これは海賊版だと見なしています。間違いだらけです」とウィトゲンシュタインは言っていた。もっとも、彼自身もこの不満の中で──よくあることだが──二つ間違いを犯している。だが、その不満自体は正当なものである。というのも、校正は、その扱う主題についてはほとんど理解されぬままドイツ語のほうでしか行われなかったし、植字工も──無理もないことだが──ラッセルやシェファーの論理的な表記法をタイプで打つためにウィトゲンシュタインが考案したさまざまな記号類を、もとに戻そうとせずにそのまま複写してしまったのである。タイピストへの指示やラッセルによる手書きの疑問符までもが本文に組み入れられている箇所さえ、一つならずある。それでもこの著作は、ヨーロッパ大陸における第一世代の読者たちには十分に理解可能だったのであるし、また現在、この今にも壊れそうな一巻──戦後ドイツの多くの出版物と同様、黄ばんだ紙に不鮮明に印刷されたこの一巻──を手に取ってみるならば、この著作の時代とそれを取り巻く環境そのものに触れる思いをせずにはいられないだろう。こんな比較が許されるのなら、その扱いはシェイクスピアの四折本に似ている。つまり、もっと正確な原文を復元するのにはほとんど役立たないのである。

〔…〕

 ラッセルとウィトゲンシュタインが扱わねばならなかった第三の領域の問題、自己に関する問題に関しては、ウィトゲンシュタインの答え、というよりはむしろ新たな問題の核心、をすでに本書の解説の中で述べておいた。自己が現象主義によって一連の意識状態へと解消されるか、もしくは、観念論的な出発点を採った場合には、何もかも自らの中に吸収して結果的に独我論に陥るか、そのどちらかにならざるをえないように思われた。ウィトゲンシュタインは両方の立場を採ってはいるのだが、その両方から刺を抜き取っている。直接知としての自己は──「鉄血宰相」という言葉の本当の指示対象はビスマルクにしか知られないような──Oと呼ばれる──対象である、とラッセルが考えたように──私だけにしか知られないような対象なのではなくて、当然私によって記述可能であるような一連の思想なのである。
 しかしながら、世界に対する態度はほかにもある。つまり、形而上学的な主体と一体化するという態度、言ってみれば、言語自体の客観性や中立性を用いて世界を見るという態度である。こういう、個々の人間の関心事と一体化することへの拒否、あるいは希望や恐怖で思い悩むことへの拒否というのは、確かに彼があの第一次世界大戦のほんの最初の頃に厳密な独我論的立場として日記の中に書いていたことであり、また『草稿』においても一九一六年の後半部分では再三再四このテーマへと立ち戻っている。『論考』自体の中では、この態度はそれほど顕著ではない。しかし、そこでもまたウィトゲンシュタインは、認識主体としての自己に対して何らの特別な地位をも認めず、いかなる特定の事態の存立あるいは生起にも少しも価値を認めないという、世界に対する態度を素描している。この教訓そのものは、それが教えられる仕方ほどには意外なものではない。確かに彼は、彼の意に反してラッセルが価値を見出している、あの論理学の技術的な問題を通して自分のやり方を見出したのであるが、まさにこういう問題の中から彼は人生の問題に対する自分の解答もまた見出したのである。哲学は論理学を必要とし、論理学はいかなる哲学も存在しえないことを示す。だが、いかなる哲学も存在しえないというまさにこのことが最大の解放であると判明する。ショーペンハウアーの観念論に対するウィトゲンシュタインの若者らしい執着は間違いである、と彼を諭したのはフレーゲであった。このとき、フレーゲの見解を考え抜いて、観念論と実在論は結局は合致するのだということ、自分は世界に背を向けることによってのみ世界の主人たりうるのだということ、このことにウィトゲンシュタインは思い至るのである。こういう確信に達したあとの彼の有様、それが次の話題ということになろう。

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