遠藤周作『沈黙』

祈りというものがこの地上の幸福や僥倖のためにあるのではないことはよくわかっていましたが、わかっていても私は真昼のこの恐ろしい沈黙が早く、早く村から去ることを祈らざるをえなかった。
殉教でした。しかし何という殉教でしょう。私は長い間、聖人伝に書かれたような殉教を…たとえばその人たちの魂が天に帰る時、空に栄光の光がみち、天使が喇叭を吹くような輝かしい殉教を夢みすぎました。だが、今、あなたにこうして報告している日本信徒の殉教はそのような輝かしいものではなく、こんなにみじめで、こんなに辛いものだったのです。ああ、雨は小やみなく海に降りつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ不気味に押し黙っている。
ただ私にはモキチやイチゾウが主の栄光のために呻き、苦しみ、死んだ今日も、海が暗く、単調な音をたてて浜辺を噛んでいることが耐えられぬのです。この海の不気味な静かさのうしろに私は神の沈黙を――神が人々の歎きの声に腕をこまぬいたまま、黙っていられるよな気がして……。
 午後、僅かながら空が晴れました。空は地面にのこっている水溜りにその碧色と白い小さな雲とをうつす。私はしゃがみ、汗にぬれた首をぬらすためにその白い雲を手でかきまわす。と雲は失せ、その代りに一人の男の顔が――疲れ凹んだ顔がそこに浮んできました。なぜ、私はこういう時、別の男の顔を思うのか。十字架にかけられたその人の顔は幾世紀もの間、多くの画家の手で描かれつづけてきた。現実にその人を誰も見たわけではないのに画家たちは人間すべての祈りや夢をこめて、その顔をもっとも美しく、もっとも聖らかに表しました。おそらく彼の本当の顔は、それ以上に気高かったに違いありません。だが今、雨水にうつるのは泥と髭とでうすぎたなく汚れ、そして不安と疲労とですっかり歪んでいる追いつめられた男の顔でした。人間はそんな時、不意に笑いの衝動にかられるのだということを御存知でしょうか。水に顔をさしのべ、まるで頭のおかしな人間のように唇をまげたり、眼をむいたりして、おどけた表情を幾度も作りました。
「陽はのぼり、陽はおち、元に戻りゆく。風は南に吹き、また北にうつり、めぐりにめぐり、その行来を続く。川みな海に流れ入るとも、海は満ちることなし、すべては今、ものうし。既に起りしことはまた起らん。既に行われしことはまた行われん。」
(しかし、万一……もちろん、万一の話だが)胸のふかい一部分で別の声がその時囁きました。(万一神がいなかったならば……)
 これは怖ろしい想像でした。彼がいなかったならば、何という滑稽なことだ。もし、そうなら、杭にくくられ、波に洗われたモキチやイチゾウの人生はなんと滑稽な劇だったか。多くの海をわたり、三ヶ年の歳月を要してこの国にたどりついた宣教師たちはなんという滑稽な幻影を見つづけたのか。そして、今、この人影のない山中を放浪している自分は何という滑稽な行為を行っているのか。
 草をむしり、それを口で懸命に噛みしめながら、吐気のように口をもとにこみあげてくるこの想念を押さえつけました。最大の罪は神に対する絶望だということはもちろん知っていましたが、なぜ、神は黙っておられるのか私にはわからなかった。「主は五つの町におそいかかる災いより正しき人を救いたもう」しかし不毛の地は今も煙をあげ、樹々は熟することのない実をつけている時、彼は一言でも何かを信徒たちのために語ればいいのに。
 斜面を滑るように走りおりました。ゆっくり歩いていると、この不快な想念が次々と水泡のように意識の上にのぼってくるのが怖ろしかった。もしそれを肯定すれば、私の今日までのすべては、すべて打ち消されるのです。
神は本当にいるのか。もし神がいなければ、幾つも幾つもの海を横切り、この小さな不毛の島に一粒の種を持ち運んできた自分の半生は滑稽だった。蝉がないている真昼、首を落とされた片眼の男の人生は滑稽だった。泳ぎながら、信徒たちの小舟を追ったガルペの一生は滑稽だった。司祭は壁にむかって声を出して笑った。
「俺たち百姓は、この長虫ば薬のかわりに食いよっとですよ」
 黄色い歯をみせ、うす笑いを浮かべました。なぜお前は昨夜、私を三百枚の銀のために訴えなかったのかね。そう心の中で私は訊ね、あの聖書の中で最も劇的な場面を心に逸らせました。基督が食卓でユダにむかって言われた「去れ'行きて汝のなすことをなせ」
 私には――司祭になってからも――この言葉の真意がよく掴めなかったのです。この立ちのぼる水蒸気の中をキチジローと足を曳きずりながら、私はこの重要な聖旬を自分に引きつけて考えていた。いかなる感情で基督は銀三十枚のために自分を売った男にまれという言葉を投げつけたのだろうか。怒りと、憎しみのためか。それともこれは愛から出た言葉か。怒りならばその時、基督は世界のすべての人間の中からこの男の救いだけは除いてしまったということになる。基督の怒りの言葉をまともに受けたユダは永遠に救われることはないでしょう。そして主は一人の人間を永遠の罪に落ちるままに放っておかれたということになります。
 しかし、そんな筈はない。基督はユダさえも救おうとされていたのである。でなければ彼は弟子の一人に加えられる筈はなかった。それなのにこの時になって道をふみはずした彼を基督はなぜ止められなかったか。神学生の時から私が理解できなかったのはその点でした。
 いろいろな神父たちにその点を訊ねました。フェレイラ師にもたしか同じ質問をした筈です。その時、フェレイラ師が何と答えられたか憶えていませぬ。 憶えていない以上、私の疑問を一挙に氷解してくれるほどのものではなかったのでしょう。
「それは怒りでも憎しみでもない。嫌悪から出た言葉だ」
「師よ。どのような嫌悪ですか。ユダのすべてにたいする嫌悪ですか。基督はその時ユダをもはや、愛されることをやめられたのですか」
「そうではない。たとえば、妻に裏切られた夫を想像するといい。彼はまだ妻を愛し続けている。しかし彼には妻が自分を裏切ったということ自体が許せないのだ。妻を愛しながら、しかし、その行為に嫌悪を感じる夫の気持……それが基督のユダにたいする心だったろう」
 こうした神父たちの月並みな説明は、まだ若かった自分にはどうしても理解できなかった。いた、今だって、わからない。私の眼にはもし、冒涜的な想像が許されるなら、ユダ自身がまるで基督の劇的な生涯と十字架上の死という栄光のために引きまわされた憐れな塊偏、操り人形のような気がするのでした。
「去れ、行きて汝のなすことをなせ」私が今、キチジローにその言葉を言えぬのは、もちろん自分自身を守るためでしたが、同時に司祭として、彼が裏切りの上に裏切りを重ねてもらいたくないという希望と期待があるからでした。
「パードレは俺ば信じとられん」彼は立ったまま草の葉をむしって、弱々しい声で呟きました。「だあいも、もう俺ば信じんとですけん」
「その代りお前は助かることができた。モキチやイチゾウはあの海の底に石のように沈められたが」
「モキチは強か。俺らが植える強か苗のごと強か。だが、弱か苗はどげん肥しばやっても育ちも悪う実も結ばん。俺のごと生れつき根性の弱か者は、パードレ、この苗のごたるとです」
 私にきびしい非難をうけたと思ったらしく、彼は叩かれた犬のような眼そして後ずさりをしました。だが、私はその言葉を非難の気持ではなく、むしろ悲しい思いで呟いたのです。キチジローの言うように人間はすべて聖者や英雄とは限らない。もしこんな迫害の時代に生まれ合わさなければ、どんなに多くの信徒が転んだり命を投げ出したりする必要もなく、そのまま恵まれた信仰生活を守りつづけることができたでしょう。彼等はただ平凡な信徒だったから、肉体の恐怖に負けてしまったのだ。
「だから、俺あ……どこにも行かれんけん、こげんに山の中をば歩きまわっとっとです。パードレ」
 憐みの気持が今、私の胸をしめつけていました。跪くように言うとキチジローは言われた通りおずおずと土の上に、驢馬のように膝をまげました。
「モキチやイチゾウのためにも告悔をする気はないかね」
 人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められることに耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ。もし司祭という誇りや義務の観念がなければ私もまたキチジローと同じように踏み絵を踏んだかもしれぬ。
祈りを次から次へと唱え、気をまぎらわそうとしたが、しかし祈りは心を鎮めはしない。主よ、あなたは何故、黙っておられるのです。あなたは何故いつも黙っておられるのですか、と彼は呟き……。
 村は焼かれ、それまで住んでいた者たちはすべて追い払われたというのである。舟に波が鈍い音をたててぶつかったほかは海も陸も、死んだように黙っていた。あなたは何故、すべてを放っておかれたのですかと司祭は弱々しい声で言った。我々があなたのために作った村さえ、あなたは焼かれるまま放っておいたのか。人々が追い払われる時も、あなたは彼等に勇気を与えず、この闇のようにただ黙っておられたのですか。なぜ。そのなぜかという理由だけでも、教えて下さい。私たちはあなたが試煉のために癩病にされたヨブのように強い人間ではない。ヨブは聖者ですが、信徒たちはまずしい弱い人間にすぎないではありませぬか。試煉にも耐える限度があります。それ以上の苦しみをもうお与え下さいますな。司祭は祈ったが、海は冷たく、闇は頑なに沈黙を守りつづけてていた。
「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。 踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。 踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。 踏んだこの足は痛か。痛かよォ。 俺を弱か者に生まれさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウスさまは 仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい。」
基督は祈りは唱えてもユダが血の畑で首をつったとき、ユダのために祈られただろうか。
彼が混乱しているのは突然起った事件のことではなかった。理解できないのは、この中庭の静かさと蝉の声、蠅の羽音だった。一人の人間が死んだというのに、外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。こんな馬鹿なことはない。これが殉教というのか。なぜ、あなたは黙っている。あなたは今、あの片眼の百姓が――あなたのために――死んだということを知っておられる筈だ。なのに何故、こんな静かさを続ける。この真昼の静かさ。蝉の音、愚劣でむごたらしいこととまるで無関係のように、あなたはそっぽを向く。それが……耐えられない。
 キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)漸く唇を震わせて祈りの言葉を呟こうとしたが、祈りは舌から消えていった。主よ、これ以上、私を放っておかなえいでくれ。これ以上、不可解なままに放っておかないでくれ。これが祈りか。祈りというものはあなたを讃美するためにあると、長いこと信じてきたが、あなたに語りかける時、それは、まるで呪詛のためのようだ。嗤いが急にこみあげてくるのを感じる。自分がやがて殺される日、外界は今と全く同じように無関係に流れていくのか。自分が殺されたあとも蝉は鳴き蝉は眠たげな羽音をたてて飛んでいくか。それほどまで英雄になりたいか。お前が望んでいるのは、本当のひそかな殉教ではなく、虚栄のための死なのか。信徒たちに讃めたたえられ、祈られ、あのパードレは聖者だったと言われたいためなのか。
 自分は先程キチジローのため許しの祈りを呟いたが、あの祈りは心の底から出たものではなかったと思う。あれは司祭としての義務から唱えたものだった。だから苦い食物の糟のようにこの舌の先にまだ残っている。キチジローにたいする恨みはもう消えてはいても、自分を売るためにあの男が食べさせた干魚の臭いや、焼きつくような渇きの思い出は記憶の中にふかく刻みこまれている。怒りや憎しみの感情は持っていないが軽蔑の気持はどうしても拭い去ることはできない。司祭は基督がユダに言ったあの軽侮の言葉をまた噛みしめた。
 だが、この言葉こそ昔から聖書を読むたびに彼の心に納得できぬものとしてひっかかっていた。この言葉だけではなくあの人の人生におけるユダの役割というものが、彼には本当のところよくわからなかった。なぜあの人は自分をやがては裏切る男を弟子のうちに加えられていたのであろう。ユダの本意を知り尽くしていて、どうして長い間知らぬ顔をされていたのか。まるでそれではユダはあの人の十字架のための操り人形のようなものではないか。それに……それに、もしあの人が愛そのものならば、何故、ユダを最後は突き放されたのだろう。ユダが血の畠で首をくくり、永遠に闇に沈んでいくままに棄ておかれたのか。それらの疑問は神学校の時も、司祭になってからも、沼にうかんでくるどす汚い水泡のように意識に浮かびあがってきた。そのたびごとに彼はまるでその水泡が彼の信仰に影を落とすもののように考えまいとした。だが今は、もう追い払うことのできぬ切実さで迫ってきている。
 司祭は首をふって溜息をついた。最後の裁きの刻はやがてやってくる。人は聖書のなかに書かれた神秘をすべて理解することはできぬ。だが司祭は知りたかった。知り尽くしたかった。「今夜、お前はたしかに転ぶだろう」と通辞は自身ありげに言った。まるで、ペトロにむかってあの人が言われたように。「今夜、鶏鳴く前に、汝三度我を否まん」黎明はまだ遠く鶏は鳴く時刻ではない。
「わしもあの声を聞いた。穴吊りにされた人間たちの呻き声をな」
 その言葉が終ると再び鼾のような声が高く低く耳に伝わってきた。いやもうそれはいびきのような声ではなく、穴に逆さに吊りにつられた者たちの力尽きた息たえだえの呻き声だということが、司祭にも今ははっきりとわかった。
自分がこの闇のなかでしゃがんでいる間、だれかが鼻と口から血を流しながら呻いていた。自分はそれに気がつきもせず、祈りもせず、笑っていたのである。そう思うと司祭の頭はもう何が何だか分からなくなった。自分はあの声を滑稽だと思って声を出して笑いさえした。自分だけがこの夜あの人と同じように苦しんでいるのだと傲慢にも信じていた。だが自分よりももっとあの人のために苦痛を受けている者がすぐそばにいたのである。(どうしてこんな馬鹿なことが)頭の中で、自分ではない別の声が呟き続けている。(それでもお前は司祭か。他人の苦しみを引き受ける司祭か)主よ。なぜこの瞬間まであなたは私をからかわれるのですかと彼は叫びたかった。
「LAUDATE EUM(讃えよ、主を)わしはその文字を壁に彫ったはずだ」とフェレイラは繰りかえしていた。「その文字が見当たらぬか、探してくれ」
「知っている」
 怒りにかれれて司祭は初めて叫んだ。
「黙っていなさい。あなたはその言葉を言う資格はない」
「権利はない。確かに権利はない。私はあの声を一晩耳にしながら、もう主を讃えることができなくなった。私が転んだのは、穴に吊られたからではない。三日間……この私は、汚物を詰め込んだ穴に中で逆さになり、しかし一言も神を裏切る言葉を言わなかったぞ」フェレイラはまるで吠えるような叫び声をあげた。「わしが転んだのはな、いいか、聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声に、神が何ひとつなさらなかったからだ。わしは必至で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」
「黙りなさい」
「ではお前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐えがたい苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼らがあそこまで苦しまねばならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」
 司祭は狂ったように首を振り、両耳に指を入れた。しかしフェレイラの声、信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ。主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていては行けぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。
 マストをかすめる鳥の翼のように大きな影が心を通り過ぎた。鳥の翼は今いくつかの思い出を、信徒たちのさまざまな死を運んできた。あのときも神は黙っていた。霧雨の降る海でも沈黙していた。日の真っ直ぐに照る庭で片眼の男が殺された時も物言わなかった。しかしそのとき、自分はまだ我慢することができた。我慢するというよりこの恐ろしい疑問をできるだけ遠くに押しやって直視しまいとした。けれども今はもう別だ。この呻き声は今、なぜ、あなたがいつも黙っているかと訴えている。
「この中庭では今」フェレイラは悲しそうに呟いた。「かわいそうな百姓が3人ぶら下げられている。いずれもお前がここにきてから吊られたのだが」
 老人は嘘を言っているのではなかった。耳を澄ますと一つのように聞こえたあの呻き声が突然、別々なものになった。一つの声があるいは高くなり、低くなるのではなく、低い声と高い声は入り乱れて入るが別の方向から流れてきた。「わしがここで送った夜は5人が穴吊りにされておった。五つの声が風の中でもつれあって耳に届いてくる。役人はこう言った。お前が転べばあの者たちはすぐ穴から引き上げ、縄もとき、薬もつけようとな。わしは答えた。あの人たちはなぜ転ばぬのかと。役人は笑って教えてくれた。彼らはもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限りあの百姓たちを助けるわけにはいかぬと」
「あなたは」司祭は泣くような声でい言った。「祈るべきだったのに」
「祈ったとも。わしは祈り続けた。だが、祈りもあの男たちの苦痛を和らげはしまい。あの男たちの耳のうしろには小さな穴が開けられている。その穴と鼻と口から血が少しづつ流れだしてくる。その苦しみをわしは自分の体で味わったから知っておる。祈りはその苦しみを和らげはしない」
 司祭は覚えていた。西勝寺で始めて会ったフェレイラの耳のうしろにひきつったた火傷の痕のような傷口があったことをはっきり覚えていた。その傷口の褐色の色まで今。まぶたの裏に甦ってきた。その映像を追い払うように、彼は壁に頭を打ちつづけた。
「あの人たちは、地上の苦しみの代わりに永遠の悦びをえるでしょう」
「誤魔化してはならぬ」フェレイラは静かに答えた。「お前は自分の弱さをそんな美しい言葉で誤魔化してはいけない」
「私の弱さ」司祭は首をふったが自信がなかった。「そうじゃない。私はあの人たちの救いを信じていたからだ」
「お前は彼等より自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶと言えばあの人たちは穴から引き揚げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼等のために教会を裏切ることが怖ろしいからだ。このわしのように教会の汚点となるのが怖ろしいからだ」そこまで怒ったように一気に言ったフェレイラの声が次第に弱くなって、「わしだってそうだった。あの真暗な冷たい夜、わしだって今のお前と同じだった。だが、それが愛の行為か。司祭は基督にならって生きよと言う。もし基督がここにいられたら」
 フェレイラは一瞬、沈黙を守ったが、すぐはっきりと力強く言った。
「たしかに基督は、彼等のために、転んだだろう」
 司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。
 こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。
 そんな時、それがどうしたという捨てばちな感情が胸に湧いてくる。澳門やゴアの宣教師たちが既に自分が転んだことを知ったかどうかはわからない。しかし、長崎の出島に居留を許されているオランダの貿易商人たちによって事の経過は澳門にもおそらく伝わり、自分はもう布教会から追放されているだろう。
 自分は布教会から追放されているだけではなく、司祭としてのすべての権利を剥奪され、聖職者たちからは恥ずべき汚点のように見なされているかもしれぬ。だがそれがどうした。それが何だというのだ。私の心を裁くのはあの連中たちではなく、主だけなのだと彼は唇をつよく嚙みながら首をふる。
 だが、真夜中、その想像が不意に彼の眼をさまし、鋭い爪の先で胸の芯を目茶苦茶にかきむしることがあった。そして思わず呻き声をあげて布団からとびあがる。教会裁判の状況は、まるで黙示録に出てくる最後の審判のように眼前に迫ってくるのだ。
 (何がわかるか。あなたたちに)
 ヨーロッパにいる澳門の上司たちよ。その連中に向かって彼は闇のなかで抗弁する。あなたたちは平穏無事な場所、迫害と拷問との嵐が吹きすさばぬ場所でぬくぬくと生き、布教している。あなたたちは彼岸にいるから、立派な聖職者として尊敬される。烈しい戦場に兵士を送り、幕舎で火にあたっている将軍たち。その将軍たちが捕虜になった兵士をどうして責めることができよう。
 (いや。これは弁解だ。私は自分を誤魔化している)司祭は首を弱々しくふった。(なぜ卑しい抗弁を今更やろうとしているのだ)
 私は転んだ。しかし主よ。私が棄教したのではないことを、あなただけが御存知です。なぜ転んだと聖職者たちは自分を訊問するだろう。穴吊りが恐ろしかったからか。そうです。あの穴吊りを受けている百姓たちの呻き声を聞くに耐えなかったからか。そうです。そしてフェレイラの誘惑したように、自分が転べば、あの可哀想な百姓たちが助かると考えたからか。そうです。でもひょっとすると、その愛の行為を口実にして自分の弱さを正当化したのかもしれませぬ。
 それらすべてを私は認めます。もう自分のすべての弱さをかくしはせぬ。あのキチジローと私とにどれだけの違いがあるというのでしょう。だがそれよりも私は聖職者たちが教会で教えている神と私の主は別なものだと知っている。
 あの踏絵の記憶は司祭の目ぶたの裏に焼きつくように残っていた。通辞が自分の足もとにおいた木の板。そこに銅版がはめこまれ、銅版には日本人の細工師が見よう見まねで作ったあの人の顔が彫られていた。
 それは今日まで司祭がポルトガルやローマ、ゴアや澳門で幾百回となく眺めてきた基督の顔とは全くちがっていた。それは威厳と誇りとをもった基督の顔ではなかった。美しく苦痛をたえしのぶ顔でもなかった。誘惑をはねつけ、強い意志の力をみなぎらせた顔でもなかった。彼の足ものとのあの人の顔は、痩せこけ疲れ果てていた。
 多くの日本人が足をかけたため、銅版をかこんだ板には黒ずんだ親指の痕が残っていた。そしてその顔もあまり踏まれたために凹み摩滅していた。凹んだその顔は辛そうに司祭を見あげていた。辛そうに自分を見あげ、その眼が訴えていた。(踏むがいい。踏むがいい。お前たちに踏まれるために、私は存在しているのだ)
(あなたはすべての屈辱を受けられたから、あなただけが今の私の心を分かって下さればよい。たとえ、信徒や聖職者たちが私を布教史の汚点と見ようとも、そんなことはもうどうでもよいのだ)
「いつぞや、こう申したことがあるな。この日本国は、切支丹の教えはむかぬ国だ。切支丹の教えは決して根をおそらぬと」
司祭は西勝寺でフェレイラが言った同じ言葉を思いだしていた。
「パードレは決して余に負けたのではない」筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら、「この日本と申す泥沼に敗れたのだ」
「いいえ私が闘ったのは」司祭は思わず声をあげた。「自分の心にある切支丹の教えでござりました」
「そうかな」筑後守は皮肉な笑いをうかべた。「そこもとは転んだあと、フェレイラに、踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申したそうだが、それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言葉、まことの切支丹とは、この井上には思えぬ」
「奉行さまが、どのようにお考えになられてもかまいませぬ」
 司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。
「他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ」筑後守はつめたい声で言った。「かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことがある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもならぬ己れの弱さに、衆生がすがる仏の慈悲、これを救いと日本では教えておる。だがそのパードレは、はっきり申した。切支丹の申す救いは、それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではなく、信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみるとそこもと、やはり切支丹の教えを、この日本と申す泥沼の中でいつしか曲げてしまったのであろう」
 基督教とはあなたの言うようなものではない、と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の今の心を理解してくれまいという気持が、言いかけた言葉を咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて、彼は目をしばたたいたまま、奉行の話をだまって聞いていた。
自分は日本に行き日本人信徒と同じ生活をするつもりだった。それがどうだ。その通り、岡田三右衛門という日本人の名をもらい、日本人になり……。
(岡田三右衛門か)
 彼はひくい声をだして嗤った。運命は彼が表面的に望んでいたものをすべて与えた。陰険に皮肉に与えてくれた。終生不犯の司祭であった自分が妻をもらう。(私はあなたを恨んでいるのではありません。私は人間の運命にたいして嗤っているだけです。あなたにたいする信仰は昔のものとは違いますが、やはり私はあなたを愛している)
夜、風が吹いた。耳をかたむけていると、かつて牢に閉じこめられていた時、雑木林をゆさぶった風の音が思い出される。それから彼はいつもの夜のように、あの人の顔を心に浮かべる。自分が踏んだあの人の顔を。
「パードレ。パードレ」
くぼんだ眼で記憶にある声の聞える戸を見つめると、
「パードレ、キチジローでございます」
「もうパードレではない」司祭は両膝を手でだきながら小声で答えた。「早う帰られるがよい。乙名殿に見つかると厄介なことになります」
「だがお前様にはまだ告侮をきく力のおありじゃ」
「どうかな」彼はうつむいて、「私は転んだパードレだから」
「長崎ではな、お前様を転びのポウロと申して居ります。この名を知らぬ者はなか」
 膝小僧をかかえたまま司祭は寂しく笑った。今更、教えられなくても、そんな渾名が自分につけられていることは前から聞いていた。フェレイラは「転びのペテロ」と呼ばれ、自分は「転びのポウロ」と言われている。子供たちが時々、家の門口に来て大声でその名をはやしたてることもあった。
「聞いて下され。たとえ転びのポウロでも告侮を聴聞する力を持たれようなら、罪の許しをば与えて下され」
(裁くのは人ではないのに・・・・・そして私たちの弱さを一番知っているのは主だけなのに)と彼は黙って考えた。
「わしはパードレを売り申した。踏み絵にも足かけ申した」キチジローのあの泣くような声が続いて、「この世にはなあ、弱か者と強か者のござります。強か者はどげん責苦にもめげず、ハライソに参れましょうが、俺のように生れつき弱か者は踏絵ば踏めよと役人の責苦を受ければ・・・・・・」
 その踏絵にも足をかけた。あの時、この足は凹んだあの人の顔の上にあった。私が数百回となく思い出した顔の上に。山中で、放浪の時。牢舎でそれを考え出さぬことのなかった顔の上に。人間が生きている限り、善く美しいものの顔の上に。そして生涯愛そうと思った者の顔の上に。その顔は今、踏絵の木の中で摩滅し凹み、哀しそうな眼をしてこちらを向いている。
(踏むがいい)と哀しそうな眼差しは私に言った。
(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だが、その足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
「主よ。あなたがいつも沈黙していらるのを恨んでいました」
「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」
「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」
「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」 その時彼は踏絵に血と埃とで汚れた足をおろした。五本の足指は愛するものの顔の真上を覆った。この烈しい悦びと感情とをキチジローに悦明することは出来なかった。
「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」司祭は戸口にむかって口早に言った。
「この国にはもう、お前の告侮をきくパードレがいないから、この私が唱えよう。すべての告侮の終りに言う祈りを。・・・・・・・安心して行きなさい」
 怒ったキチジローは声をおさえて泣いていたが、やがて体を動かし去っていった。自分は不遜にも今、聖職者しか与えることのできぬ秘蹟をあの男に与えた。聖職者たちはこの冒涜の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼等を裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日までのすべてが必要だったのだ。私は、この国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?