クリスティアンヌ・ショヴィレ『ウィトゲンシュタイン──その生涯と思索』

まえがき

〔…〕

 一九五三年、「哲学探究』(一九二九年から一九四五年までのウィトゲンシュタインのきわめて密度の濃い、哲学的営為の大成)が、死後、刊行されるにおよんでイギリスの哲学シーンは変貌する。しかし、『探先』が『論考』のときのような満場一致を得ることはなかった。久しくウィトゲンシュタインと絶縁していたラッセルはこう表明する。「ウィトゲンシュタインは自分の才能を安売りして、常識に身を屈した。トルストイが農民にこうべを垂れたのと同じことだ。」ラッセルのような反応を示したひとは多かった。

第一部

非凡な少年期(一八八九─一九一一)

〔…〕

 ウィトゲンシュタイン家の子供たち自身が、自分たちは特異な人間であると感じていたし、またその感情を楽しんでもいた。特異であるという思いは、たんに金持ちで権勢家で尊敬される父親をもったという特権や彼らのきわだった才能からくるものではなく、むしろ彼らの孤立した生活環境からもくるものなのである。後らはウィトゲンシュタイン御殿のなかで養育係の女や家庭教師たちの手によって、世間から隔絶させられて育った。両親は子供の教育に熱心ではなかったので、その能力のあったヘルミーネが弟妹の教育を監督した。夫に身も心も捧げきっているレオポルディーネには、子供たちに割く時間はなかった。そのうえ彼女は自分に自信がほとんどもてなかったので、全体的な教育プランを練ることも、そのプランをそれぞれに個性をもった子供たちに実行させることもできなかったであろう。しかも保護といたわりを必要としていた彼女には、多かれ少なかれすでに父親の圧力にあえいでいた子供たちに影響力をおよぼすことがまったくできなかった。レオポルディーネの(神経症的な)自信の欠如はおそらく、息子たちの抑鬱的傾向や自殺の傾向になんらかの関係があったのであろう(おそらくパウルは他の兄弟たちほどこうした傾向にさいなまれてはいないし、また彼は母親から音楽的才能を受け継いでもいた)。父親のユニークさというか、ある種の常識はずれから、パウルやルートヴィヒのエキセントリックな性格が説明しうる。いずれにせよ、カールの自殺した息子たちには父親があれほどまでにたたきこもうとしたあの強い義務感(das harte Muss)が欠けていたのは明白である(反対に、娘たちとくにミニングやグレートルは強い女だった)。ルートヴィヒの独裁的性格、精神力、そして哲学における意志への崇拝などは、明らかに父親から譲り受けた遺産である(これはショーペンハウアーを読むことによってより強固なものになった)。さらに、義務に対する考え方、すなわち、ウィトゲンシュタインが好んで引用したホフマンスタール(ウィトゲンシュタイン家の遠縁にあたる)のアフォリズムが明言しているような「礼儀正しく」あるいは「道義的に」振舞わねばならないという考え方、そして「無能な者たち」への軽蔑なども同様に父親の遺産である。ある日ルートヴィヒはドゥルーリーに、彼の仕事ジョブは不動産で稼ぐような無能な連中を一掃することであると説明した。最後に、「ふさぎのもとを絶つために」、「正常な」仕事いうならば手仕事をもたねばならないという考え方も父親の遺産である。
 ウィトゲンシュタイン家の子供たちが受けた教育は、その時代のその社会階級において典型的なものであった。下層階級から隔てられていたので(ルートヴィヒが農民を理想化したのはたぶんこのためであろう)、子供たちは「庶民」とはなんの接触もなかった。両親と親しく触れ合うということもなかった。両親は子供たちに割く時間もなく、養育係の女や家庭教師を雇ったのだが、養育係の女は口やかましいだけで子供たちの精神的安らぎなどにはまるで無頓着、家庭教師は無能ときていたので、子供たちが彼らから学ぶことなどはなにひとつなかった。幾枚かの写真にはヴィスコンティの映画風の家族が写し出されている。セーラー服やオーガンジーのドレスに身を包んだ子供たち、ぎこちない髪型をした養育係の女たち。両親の銀婚式にみながそろって写したものだ。
 アレ通りガッセの御殿にいないとき、ウィトゲンシュタイン家のひとびとは、ウィーン近郊のノイワルトエックの邸宅かあるいは山あいのホーホライトに滞在した。その地にカールは大金をつぎこみ、近代的な外観をもつウィーン工房(Wiener Werkstätte)の装飾様式で、丸太小屋ブロックハウスとあだ名された簡素な山小屋風別荘風を建てていたのである。こうした場所で内輪だけで撮ったウィトゲンシュタイン家の写真の数々からは、彼らの魅力やスノビズムに加えて、精神・物質・知性(ウィトゲンシュタイン家にあってはこれら三者はさまざまなカールの肖像は雄弁に多くのことを語りかけている。断固としていて、精力的であり、大いに知的能力に恵まれ、聡明で、互いに固く結びついている)がかもす卓越した雰囲気がはっきり見てとれる。機に臨んで敏なこの男は、子供たちの手本であり、絶対的な模範でありつづけたにちがいない。とくに娘たちは父親をひたすら敬愛していたし、パウルやルートヴィヒもこの権威の権化によって消しがたい影響を受けていた。彼らは自分なりの仕方で勇気(ウィトゲンシュタインがよく使った言葉のひとつ)を身に付けていった。
 実際のところ、ウィトゲンシュタイン家のひとびとはおそらく、トーマス・ベルンハルトがいくつかの小説のなかで描いたように、金儲けやこれ見よがしの慈善事業や文化庇護活動にかまけて、変り者の息子たちを容赦なく締め出したわけではないだろう。彼らはそのスノビズムのゆえにまた知性ゆえに、もっと柔軟な精神をもっていたように思われる(ちなみに、マルガレーテは知的な好奇心のためにフロイトから精神分析を受けている)。彼らはルートヴィヒの哲学的資質にある程度の理解を示した。彼は子供のときから神童の誉れが高く、みずから組み立てたミシンとともに撮った八歳のときの写真がある。末っ子であり、体が弱かったので、幼いルートヴィヒ(ルッキー)はミニングやグレートルから特別に可愛がられた。とりわけ彼の面倒をみたのはグレートルで、彼女はルートヴィヒの読書に対し助言を与え、またもっとのちには、フロイトから分析を受けたときのようすを彼に語っている。ケンブリッジのティーパーティで、ラッセルはヘルミーネに、彼女より十五歳年下のルートヴィヒが哲学において巨大な一歩を踏み越えようとしていると告げた。そのとき、ヘルミーネはさぞかし感激したであろう。
 以下の章で明らかにしようと思うが、ウィトゲンシュタイン同様ラッセルが次のような絶対的な確信をもっていたことに読者は驚かれるだろう。すなわち、論理哲学は進展しつつあるという確信、とりわけ論理学の問題なるものを解決しうる──しかもそれは『論考』の目標であるという確信である。だれもがウィトゲンシュタインによる解決を待ち望んでいたようである。だからこそウィトゲンシュタインは『論考』の序文において、独断的な素朴さ、まったくの率直さで、ためらわずにこう書くことになるのだ。「この書物において主張される思想の真理は不可侵で決定的(unantastbar und definitiv)なように私には思われる」と、またラッセルとともに論議されたすべての問題はその究極的な解決を見たのであるが、ウィトゲンシュタインの仕事の関心は「それらの問題が解決されることによって、この著作がいかにわずかのことしかなしとげていないかを示す」ことであると。


「論理の地獄」

 彼は風変りな男だったが、その考え方も私には奇妙に思われた。だから、まるまる一学期間私は彼が天才なのか、それともたんなる変人なのかわからなかった。ケンブリッジでの彼の最初の一学期が終わるころ、彼は私に会いにきてこう言った。「自分が完全なばかものかそうではないか教えてください」と。「きみ、私にそんなことはわからんよ。それを知ってどうするつもりなのかね」という私の返事に彼はこう答えた。「完全なばかものならば、私は飛行士になる。ばかでないならば、私は哲学者になるつもりです」と。休暇のあいだに哲学的な主題でなにか書いて私のところへもってくるように、私は言ってやった。そうすれば彼が完全なばかものかどうか、返答をしようと。次の学期のはじめに彼はこの提案にこたえて論文をもってきた。たった一ページ読んだだけで、「断じて、きみは飛行士になるべきではない」と答えるに十分だった。そして彼は飛行士にならなかった。
バートランド・ラッセル

「ユダヤ人には所有感覚がまるでないと言われるが、このことは、ユダヤ人が金持ちになるのを好むという事実と矛盾しない。というのも、ユダヤ人にとってお金はある種の力であって、所有ではないのだから」(『断章』p.31)

 ルートヴィヒにとって凡庸な家庭教師から得るところはなにもなかったが、それとは対照的に、彼のきわめてオーストリア的な文学的・哲学的好みは姉のグレートル(マルガレーテ)に負っている。弟の読書に対し、彼女はとりわけ留意していたのである。姉の影響下で彼は当時の通例にしたがってゲーテを読み、さらに、グリルパルツァー、ネストロイ、ライムントそしてレーナウなどといったすぐれたオーストリア作家を読んだ。レーナウのカトリック的『ファウスト』はゲーテの『啓蒙主義者ファウスト』以上にウィトゲンシュタインを感動させた。レーナウのファウストとゲーテのファウストとは、ブルックナーの『第九」とベートーヴェンの「第九」の関係に等しいとウィトゲンシュタインは言う。「異議申し立て」の関係だと言うのである。要するに、彼の読んだウィトゲンシュタイン家の蔵書は時代の好みを反映し、世紀の変り目におけるウィーン の文化を根底において形成していたものだったのである。ニーチェを読み、そしておそらくキルケゴール(当時、彼への関心がふたたび高まっていた)も読んでいたであろう。ルートヴィヒは、しばしば比較されるホフマンスタールやムージルのようなオーストリアの同時代作家に対してはとんど興味を示さなかった。カール・クラウスは例外である。クラウスは範とすべきおもな思想家たち──ウィトゲンシュタインが一九三〇年代に書いているものにしたがえば(おそらく影響を受けた順なのであろう)ボルツマン、ヘルツ、ショーペンハウアー、フレーゲ、ラッセル、クラウス、ロース、ヴァイニンガー、シュペングラー、スラッファ(ケンブリッジの経済学者)──のひとりになった。じつに幅広い独学ぶりである。ウィトゲンシュタインの場合、真の哲学的教養のなさは、むしろ強みだった。ウィトゲンシュタインはまったく独創的な思想家であり、いかなる影響も受けなかったとひとは言いすぎる。彼自身は、反対に(ウィーンにおける、同化した多くのユダヤ知識人が共有していた、あのユダヤ内部の反ユダヤ感情を表明しつつも)、自分をユダヤ的な、すなわち「たんに複製的で」、創造する能力のない芸術家であり、作家であるとみなしていた。

私は思想の運動を発明したためしがないように思う。それはいつもだれかほかのひとから与えられてきたように思う。私がしたのはただ、明晰化という自分の仕事のために、すぐさま情熱的に思想の運動を横どりしたにすぎない。

 しかしクラウスに話を戻すならば、彼からの影響はそれが古いように思われるだけに決定的なものだった。グレートルは『ファッケル(炬火)』(クラウスの雑誌)を全巻もっていた。誌面から読みとりうることであるが、この雑誌が彼女の父親に対し猛烈な攻撃をしていたにもかかわらず(というか、たぶんそれが理由で)。一九一三年、ノルウェーに隠遁していたとき、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは『ファッケル』を郵送してもらうようにことづけた。クラウスの厳格な倫理、いかさまジャーナリズムに対する痛烈な批判、言語および芸術を道徳的化しようとする企て、こうしたことにウィトゲンシュタインは深い感銘を受けた。「礼節」と「道義」が彼のキーワードになる。クラウスの苛酷なまでのペシミズム、純粋さへの希求、加えて破壊者的才能、揶揄嘲弄するときの毒舌ぶりなど、こうした点において、ウィトゲンシュタインは自分がクラウスに近いと感じていた。クラウスの才気縦横の意地悪さがウィトゲンシュタインを喜ばせる。笑みを浮かべながら『ファッケル』を読んでいるウィトゲンシュタインの姿がしばしば見かけられたものだった。
 ウィトゲンシュタインはまた、自家の書庫のなかからリヒテンベルクの「雑録集(Vermischte Schriften)」の美本を見つけることができた。その倫理・哲学的アフォリズムは、同時代のウィーン派アフォリストのものと同様に、ウィトゲンシュタインに対して手本の役割を果たしえた。以後アフォリズムは彼の特権的な表現方法になるであろう。ジョンストンは正当にも、アフォリズムのなかにとりわけ倫理にふさわしい表現形式を見いだしている。「アフォリズムの核心には美学よりはむしろ道徳に近いものがある。最良のアフォリストは人生における真摯さを指し示す。その真摯さを深くきわめるには、文芸批評家の分析よりはむしろモラリストの分析が求められる(……)。アフォリズムはわかりきった自明事を切り崩す(……)。アフォリストは凡庸さ、通俗性そして愚鈍さに一種のゲリラ戦をしかける。アフォリストは道徳の教師のようなものであり、あえてひとを教え導いたり、あるいは罰したりする(……)。アフォリズムはまったくもって傍若無人であり、アフォリストは一種のフリーメースンを形成する。こうして大胆になったアフォリストは、ほかのひとがあえて小声でつぶやきさえもしないことを声高に叫ぶのである」(してみれば、ウィトゲンシュタインが『論考』を「倫理」の書として提出しえたことは驚くにあたらないだろう)。晩年になって彼はアフォリズム以外の仕方で書くことができなかったことを後悔する。

 干し葡萄はケーキのなかで一番おいしいところだろうが、それでもやはり干し葡萄が一袋あったところで一個のケーキにかなうものではない。またあるひとが袋いっぱいの干し葡萄を私たちに差し出すことができるにしても、そのひとがケーキを焼けるわけではないし、もちろんもっとましなことができるものでもない。私が考えているのは、クラウスのこと、彼のアフォリズムのことである。さらには私自身のこと、私の哲学的考察のことである。
 ケーキは薄められた干し葡萄の寄せ集めではない。(一九四八)

(クラウスは反対に「アフォリズムの書ける者は論文などにかまけるべきではない」と考えていた。)
 こうした哲学的倫理的な文学へのディレッタント的な関心があったにもかかわらず、ウィトゲンシュタインはやはり、なにをおいても科学者でありつづけた。彼の思考形式は、シャルロッテンブルクの工業学校に通うずっと以前から、エンジニアのそれであった(ミシンのことが想い起こされる……)。彼にはあらゆる問題を具体的で身近な言葉を使って分析する傾向があった。具体的な実例やアナロジー、それはときに機械工学から借用されたものであり、凝っているというよりは簡単平易なものの場合が多いのであるが、そうした子供でも理解できるような実例やアナロジーを用いて(たぶん低地オーストリアでウィトゲンシュタインが実践した教育法のなごりであろう)、きわめて抽象的な問題に取り組む──これは哲学の歴史全体において前代未聞のことである──ウィトゲンシュタインを読むこと、それが彼を読む楽しさのひとつである。彼は機械の論理へつい関心が向いてしまうような人間だが、そういった関心が現れるのはなにも彼の書いたものにかぎらない。あらゆる種類の壊れた機械(トラッテンバッハでは蒸気紡績機、コーネルでは友人マルコムの家の放水機……)をみごとに修理して周囲の喝架を得る、ウィトゲンシュタインの一生はそんなことの連続だったのである。ウィトゲンシュタインは飛行する機械を構想中のレオナルド・ダ・ヴィンチのような人間になるつもりはなかったが、かといって機械修理のようなささやかな仕事にとどまってはいなかった(もっとも彼はそうした仕事を軽視したりはしなかった)。彼の手帳には機械のデッサンが数多く描かれていた。また、前期の哲学において、ヘルツ流の機械的モデルとそれが表示するさらに複雑な現実とのあいだの関係が有する重要性については、のちに詳しく見るだろう。
 一九〇三年、結局、子供たちが自宅で受けていた教育がむだだとわかると、カール・ウィトゲンシュタインは息子たちを実業学校へやった。パウルはヴィーナー・ノイシュタットへ、ルートヴィヒはリンツの実業学校へ送られた。この実業学校では、若きアドルフ・ヒットラーが一九○○年から一九〇四年まで勉強している。『我が闘争』によれば、ドイツ・ナショナリズムの砦であった。『我が闘争』と『若きテルレスの惑い』(ムージルの小説」の両方から想像しうるような厳格な学校で、親しく交際できる生徒もなく、ウィトゲンシュタイン御殿という閉ざされた世界からやってきたルートヴィヒはたいへんな孤立感を味わった。
 一九〇六年、ルートヴィヒはこの実業学校を去り、シャルロッテンブルクのベルリン工業単科大学に入学した。これはドイツで最良の工業学校だった(伝説によれば、ボルツマンの講義を聴くことを望んでいたのはルートヴィヒ自身だったが、その年ボルツマンが自殺したため果たせなかったということになっている。だが実際は、ウィトゲンシュタイン家ではボルツマンが自殺する前にすでにルートヴィヒのベルリン行きを決定していた)。ルートヴィヒはシャルロッテンブルクでの勉学から、エンジニアリングに関してはドイツ人が優越しているという確信を得た。そして彼はそれをイギリスでしばしば口にした。技術に関することはすべてドイツがよりすぐれており、人間関係と「文明」に関してはイギリスが優越している……。
 彼は航空工学のエンジニアになるために三年間マンチェスターに遊学したが、それは驚くにあたらない。当時航空工学は胸おどる冒険のようなものだったのだ。一九〇八年、航空工学は実験と失敗の連続が実状で、ライト兄弟はその快挙をまだなしとげていなかった(ウィトゲンシュタインもまだ近代性や技術というものに嫌気がさしてはいなかった)。ルートヴィヒはたっぷり三年間マンチェスターにいた。荒野で実験しているときの幾枚かの写真には彼と当地で友人になった工クルズが大凧とともに写っている。ルートヴィヒは当時としてはいささか高度な精巧さを要するターボジェットエンジンの設計に取り組んでいた。彼にとってこの職業は長続きしうるものなのだろうか。この仕事を続けるにはあまりに神経質であり、またゆったりと構えるところのない人物だと同僚の者たちは見ていた(ウィトゲンシュタインは飛行機を製作するだけではなく操縦もしようと思っていたが)。たしかに、マンチェスターでの三年は彼のエンジニアとしての側面を伸展させた。彼はずっとこの側面を保持することになる。自分はビジネスライクでありたい、父親のようなビジネスマンになりたいのだと、彼はドゥルーリーに打ち明けている。しかし彼はやはりそれとは知らずに自分の真の職業に出会うのを待っていたのである。彼はメフィストに出会う前のファウストのようなものだ。決定的な方向を指し示すことになるメフィストはバートランド・ラッセルであった。
 一九一一年秋、ウィトゲンシュタインはマンチェスターへは戻らずに、ラッセルの講義を受けるためにケンブリッジに行く。この突然の方向転換はなにゆえなのか。ヘルミーネによれば、一九一一年の夏のあいだに、ウィトゲンシュタインはフレーゲを訪れている。エンジニアとしての具体的な仕事から出発して、彼は数学の基礎について考察しはじめていた。「フレーゲは哲学を探究するようにルートヴィヒを鼓舞し、ラッセル教授の下で学ぶべくケンブリッジへ行くように勧めた。そしてルートヴィヒはそれにしたがった。」おそらく彼はフレーゲに会う前に少しはラッセルを読んでいたであろう。たぶん一九〇三年に出版されたフレーゲの『算術の基本法則〔第二巻〕』とラッセルの『数学の諸原理』をも読んでいたかもしれない(お互いが巻末の補遺において相手に言及している)。たぶん彼の教師たちとりわけサミュエル・アレクサンダーの勧めでということが考えられるのだが──一九○五年に『哲学雑誌(Philosophical Magazine)」に発表されたジャールデインの諸論文を読んでいたであろう。それというのも、ふたりは一九〇九年に書簡を交わしているからである。一九一一年一〇月一八日、ラッセルはオットーリーン・モレル夫人宛ての書簡でこう書いている。「彼は数学の哲学への強い関心を〔シャルロッテンブルク時代に〕すでに独力でいだくようになっていた。」この文言には明らかに疑問の余地がある。というのも、そもそも数学者ではなく技術者であったウィトゲンシュタインがどのようにしてこの領域に導かれたのか(直観主義についてのブロウエルの講演を聴いたあと、一九二八年にウィトゲンシュタインを哲学へふたたび導くことになるのはやはり数学であることを指摘しておこう)。ウィトゲンシュタインにとって解決すべきものとしてあった技術上の問題とフレーゲとラッセルが格闘していた論理学のパラドクスとのあいだにはどのような関連があるのだろうか。あの高度に抽象的な諸問題と『論考』において(外見とは逆に)もっとも重要な部分をなす倫理への関心とのあいだにはどのような関連があるのだろうか。また、音楽への深い愛情と音楽が彼の人生に占める位置とのあいだの関係はいかなるものなのか。彼は哲学それ自体にはなんの価値もないとラッセルに明言している(一九一二年三月、ラッセルはオットーリーン夫人にこのことで嘆いている)。「哲学の好きな人間は哲学をやるだろうし、そうじゃない人間は哲学などしない、ただそれだけのことだ、とは彼の言いぐさです。彼のもっとも強い衝動は哲学なのです。」哲学の価値は正しく哲学することにある。したがって、肝腎なのは、正しく哲学すること(のちに彼が言うように、語らずに示すこと)であって、お説教することではない。いかなる仕事であれ、みごとに果たされるときには美をもたらしうるように、哲学の実践は正しく導かれるならば美をもたらす。「彼は理想的な弟子です」とラッセルは続ける。「彼は情熱的に称賛する一方で、激烈にかつ知的に異議を表明します。彼は強烈に大著[『数学の諸原理』]の美しさについて語りました。この著作は音楽に比較しうると言うのです。」
 強烈さ、これは以後、まさに、ウィトゲンシュタインのなすことすべてを特徴づける言葉になる。哲学や論理学の問題について、あるいは音楽作品について集中する並はずれた力、ひとつの音楽作品を数十回も聞いてそれを深く掘り下げようとする(マンチェスターにいるときワーグナーの『マイスターシンガー』に対してそうしたように)能力、抽象的な難点を強烈に感知し、極度の知的緊張状態のなかでそれを解決する能力、これらすべてを兼ね備えた人物として、若きウィトゲンシュタインはラッセルやケインズその他の権威たちの目に映った。ウィトゲンシュタインははやくも彼らを魅了していたわけである。そして一九三〇─四〇年代になると、風変りな教師ウィトゲンシュタインはケンブリッジのひとびとのあいだでも、そのような人物として映るようになり、さらに後世にいたると、この人物像が作家ウィトゲンシュタインのものとして決定的なものとなったのである。
 したがって、ウィトゲンシュタインが自分の助言者を見いだすのは──忍耐強く寛大でありながらも、つねに彼にとまどいをおぼえていたフレーゲにおいてよりはむしろラッセルにおいてであった。のちに検討するつもりだが、ラッセルにとってウィトゲンシュタインはしだいに手に負えない人間になっていく。ウィトゲンシュタインの新たな理論的方向が明確になる。『論考』の問題系が確立されはじめる。すなわち、論理─数学的関心事と倫理とのあいだの関連が形成されるのである。もっとも、彼はラッセルには倫理は「大嫌いだ」と言っていたのだが(しかしそれは、彼がすでに、説教することも根拠づけることもできない倫理のいわく言いがたさを予感していた、ということである)。同じように、彼は自分の関心事である論理─数学的な諸問題がはらむ哲学的含意を看取しはじめる。一九一六年、彼はこう書くことになる。

そのとおり、私の仕事は論理学の基礎から世界の本質にまでおよんでいる。

しかし、論理学の書物と思わせるような外見にもかかわらず、『論考』においては、彼がフィッカーに書くことになるように、少なくともその「書かれなかった部分」においては、倫理への関心が背景であるどころか、核心をなしているのである。ウィトゲンシュタインの全生涯を通じてわれわれは、一般的に前景を占めている論理─数学的考察と同時に、やはり倫理的配慮をも認める(たとえこの二通りの問題設定が結びつくのは偶然によるものでしかなく、内在的には関連がないにせよ)。そこにこそウィトゲンシュタイン思想の統一性があるように思われる。彼の仕事の始めから終わりにいたるまで、倫理的な糸と論理─数学的な糸とがからみあっているさまが見いだされる。『論考』においては、この論理数学的な脈絡に、像による描出の問題、言語─世界連関が付け加わり、そしてのちには文法の問題系が付け加わるのである。

〔…〕

 マギネスが指摘したように、ラッセルにはヴォルテール的なところがあり、ウィトゲンシュタインにはルソー的なところがあった。ふたりの相互理解は深いものでも長続きするものでもありえなかったが、それはなんら驚くにあたらない。のちにラッセルはウィトゲンシュタインの後期哲学を(分析哲学一般も含めて)かなり手厳しく非難することになった。「ウィトゲンシュタインの『哲学探究』のなかに、関心を寄せるに値すると思われるようなものはなにも見いださなかった。なぜ、ひとつの学派がこぞってこの書物のなかに偉大な教えを見いだすのか、私にはわからない。私が親交を結んでいたころの前期ウィトゲンシュタインは、強烈な情熱をもって思索の営みに没頭する男、困難な諸問題──彼同様私もその問題の重要性には気づいていたが──に精通している男、そして真の哲学的天分に恵まれている(少なくとも私はそう思っていた)男だった。反対に、後期ウィトゲンシュタインは、いっさいの真摯な思索に厭きて、思索の営為を無用のものとしてかたづけてしまうような教義をでっち上げたように思われる。そんな怠惰にいきつくような教義が真実であるなどと私は一瞬たりとも思わない。もっとも、私がその教義に対し抑えがたい反感を抱いていることは認めてもよい。私が反感を抱くのも、かりにその教義が真実ならば、哲学はせいぜいが辞書編纂者のための二義的な補助手段にしかすぎなくなるからであり、最悪の場合は、お茶会のくだらない気晴らしになりさがってしまうからである。」

〔…〕

 他方、ウィトゲンシュタインがノルウェーに滞在していたとき、ムーアとの友情にひびが入りはじめた。ムーアはウィトゲンシュタインがなによりもまずその人柄(たぶんケンブリッジの優秀なインテリの一部にはそれが欠けているとウィトゲンシュタインは考えていた)に敬意を抱いていた人物である。「議論する」ためにウィトゲンシュタインからショルデンに招かれたムーアは受け身の立場におかれてしまった。ウィトゲンシュタインの口述で、ムーアは論理学についてのノートをとらされる始末であった。ひとつの口論がふたりを対立させる。それは大学の慣例に関するものだった。ウィトゲンシュタインは口述したノートが学年末試験の代わりになり、学士号を取得できるものと考えたのである。ムーアとしては、規則に反することはしたくなかったのであり、おのずと返答もそういう内容に終始した。例外扱いするのを拒否され、ウィトゲンシュタインはひどく傷ついた(オーストリア人はすべて例外であった、とマギネスは説明している。そしてウィトゲンシュタインはオーストリア人のなかでも例外だった)。こうしてノルウェーへの招待はふたりの人間のあいだにある気まずさをもたらすことになる。その後しばらく、彼らが再会することはなかった。
戦争と平和(一九一四─一九二二)

 ウィトゲンシュタインを徹底的に変貌させ「救った」のは戦争だった。その戦争について、ある日、彼は平和主義者の甥のひとりにこう打ち明けている。「この戦争が私の命を救った。戦争がなければ、私は はどうなっていたことか。」家族はその変貌ぶりに驚かされた。甥や姪たちの記憶にある叔父は、シャルロッテンブルクにいたころの魅力的な若者であり、耽美家でいささかスノッブな人間であった。戦争から還ってきた叔父は彼らにとって、権威をふりかざす口やかましい人間になっていた。
 夏期休暇でオーストリアへ戻ると、ウィトゲンシュタインは芸術家たちに財産の一部を贈与する決心をする。クラウスはしばしば「ブレンナー(噴焰)」を参照していた。これはルートヴィヒ・フォン・フィッカーが編集する前衛的な文学雑誌で、トラークルやエーレンシュタインといった詩人たちの作品、キルケゴールの翻訳、ドストエフスキーについての論文などが掲載されていた。これはまた、まったくオーストリア的な雑誌で、クラウスに象徴されるようなオーストリアにおける道徳改革の試みに関わっていた。ウィトゲンシュタインはフィッカーに自分の裁量で一〇万クローネンを芸術家たちに配分するよう依頼する。芸術家を援助するという点では、彼は父親の考え方に忠実であった。フィッカーは一〇万クローネンをリルケ、トラークル、ダラーゴ、ココシュカ、ロースそしてほかに六人ほどの作家たち(全員が『ブレンナー』に寄稿していたわけではない)に分配した。ウィトゲンシュタインは、リルケが匿名の若き文化庇護者へ感謝の意を表したことに感激した。贈与したあとでウィトゲンシュタインはエーレンシュタインの詩(それを彼は Hundedreck 〔犬の糞〕と形容することになる!)やトラークルの詩を読んだ。トラークルに関して彼はなにひとつわからないと告白しているが、「天才的」(と彼はフィッカーに書いた)なものを認めてもいる。リルケに対しては、フォン・ウリクトの言葉を信ずるならば、ほどほどの評価しかしていない。表現主義者たちは不健全なものに惑溺していると考えていたウィトゲンシュタインとしては、むしろゲーテやレッシング、メーリケのほうに好感をもっていた。またクラウスやホフマンスタールがそうだったように、逆説的な意味からではなく、キュルンベルガー、ライムント、ネストロイといった、ときに軽薄ぎりぎりになるようなウィーンの「典型的」マイナー作家を愛好した。フィッカーの仲介によってウィトゲンシュタインは「カフェ・インペリアル」でアルフレッド・ロースと知り合う。彼は文化的英雄が近代性を断固たる潔癖さで守り抜くことを賛美する。そうした文化的英雄は、クラウス好みの美学と倫理の一体化、芸術の厳格な道徳化を完璧に体現しているからである。七月二八日、オーストリアがセルビアに宣戦布告をしなかったら、明らかに、ウィトゲンシュタインはウィーンの典型的なインテリか、あるいは〔ロースが内装を手がけた〕「カフェ・ムゼーウム」に足繁く通う建築家になりえたであろう。
 八月七日、ウィトゲンシュタインは志願して兵役につくが、これにはだれもが驚いた(彼はヘルニアの手術を受けており、兵役は免除されていたからである)。彼はガリシア地方のロシア戦線に派遣される。そこで彼はいくつかの勲章を得るであろうし、勇敢さを示すチャンスにも恵まれる。彼の任務(彼の科学的能力はほとんど活用されなかった)は、監船ゴプラーナ号の投光機の働き具合を見ることだった。ロンア軍から奪い取ったこの監船は、ウィスツラ川〔ポーランドの川〕をくだっていた。彼の部署はきわめて危険だった。
 無分別ともいうべきこうした行動はどのように説明すべきなのか。もちろん、ウィトゲンシュタインは自国のために戦うのをみずからの義務と考えていた(それゆえ彼は特権や特別待遇を拒否した。捕虜になったときは、とりわけそれらを拒否した)。しかし、彼が志願して従軍したのは、みずからに試練を課するため、死に面と向かうため、おそらくは死ぬためでさえあっただろう、とヘルミーネは確言する。ウィトゲンシュタインは「平和の使徒」ラッセルとは違い、コスモポリタン的な平和主義者でも良心的兵役忌避者でもなかった。イギリスと戦うことになると思えば辛いところだが、それにもかかわらず、彼にとっとだずては「愛国心」という言葉が意味をもっていたのである。彼は日記に書いている。

パリが陥落したという知らせに、いま私はかつてなく深い悲しみを覚える。われわれつまりドイツ民族は悲しむべき立場におかれている。なぜなら、われわれはイギリス人と比肩しうる民族ではないからである。このことは明白だと、私には思われる。イギリス人は世界で最良の民族であり、負けるなどということはありえない。しかし、われわれが負けるというのはありうることだ。いや、われわれはきっと負けるであろう、今年ではないにせよ、来年には。わが民族が打ち負かされるだろうと考えると、私はひどく暗い気持ちになる。なぜなら、私は完全にドイツ人だからだ。

 (ナチス・ドイツによるオーストリア併合(Anschluß)ののち、オーストリアのパスポートを取り上げられ、イギリス国籍を取得せざるをえなくなった一九三九年では、もちろん言うことが違ってくる。)
 しかし第二次世界大戦中も大戦後も、彼はオーストリアのためにまたドイツのためにさえ心を痛めていたのである。オーストリアやドイツについてひとがどう言っているか気になる、と当時彼はアメリカの友人マルコムに書いている。

ドイツの再教育は順調に進んでいます。残念なのは、その再教育で恩恵を得るひとがあまり多くは残らないだろうということです。

こういった痛ましい語調は、ただ相国喪失者の苦悩だけを物語るものではない。
 第一次世界大戦中ウィトゲンシュタインがつけていた日記には、物質的なまた精神的な意味での悲惨さに関するそっとするような話が書かれている。寒さ、ナンキンムシ、チフス。周囲の人間の下劣さや卑俗さ。真夜中、敵の発砲に身をさらしながら監船の投光機を修理しなければならなかった恐怖。しかし、なににもまして、日記は不思議なほど宗教的な調子を帯びている。ウィトゲンシュタインは神の慈悲を懇願し、きわめてキルケゴール的な霊感のなかに救いを探し求めるのである。それは、危険を回避したいといった種類のものではなくむしろ、自分の運命の行く末とは無関係のところで探し求められている。マギネスが書いているように、「いくつかの箇所において、この日記を読むことはさながら死の床にある人間の告白を聞くようなものである」。あるいはむしろ、苦境にある人間の告白を聞くようなものである。彼の以上はもっぱら倫理・宗教的なことに向けられ、そのために、この日記は偉大な道徳的啓示のテクストになっており、また、ウィトゲンシュタインの深い変貌の跡を示す指標にもなっている。そのうえ、未来の『論考』を練り上げることが断続的に不可能になり、そのことでウィトゲンシュタインはたえず苦しみ、何度も自殺を考えたのだった。この日記の価値はおそらく、ウィトゲンシュタインの告白がすべて(性的衝動も含めて)、打ち明け話的な調子で語られているのではなく、解決すべきさまざまな倫理的問題を扱うがごとき仕方でごく控え目になされているというところにある。きわめて苛酷な日々の生活を飾らずに描き出すそうした文章からにじみ出てくるものは、すさまじいまでの力強さである。
 倫理的問いかけや仕事をしつつウィトゲンシュタインは、「問題解決の扉の前に立ちながら、その扉を開けられるほどはっきりとは目が見えていない」(一九一四年一一月一六日)という印象をもつ。砲撃戦のあった厳寒の日、仕事はしたけれど、まだ「救いの言葉」(das erlösende Wort)を発するまでにはいたらなかった(一九一四年一二月二二日)。とはいえ、「喉まで出かかって」はいた。「しかしその言葉は消え失せた。」この「救いの言葉」は、日記全体においてつねに変わらない彼の関心事なのである。
 戦争の当初から、ウィトゲンシュタインは、自分に与えられた特権(たとえば、下士官の会食堂を利用すること)を拒否していた。そのために彼は、同僚から反感をもたれることになる。もっとも、ウィトゲンシュタインは当の同僚の俗悪さに不愉快な思いをしていたのだが。彼は「じっと我慢し」ようとするが、そうした「粗雑で」下劣な連中のただなかにあってひどい孤独感を味わう。彼らはルートヴィヒの美しき魂にはまったく無頓着で、彼の振舞いをなにひとつ理解しなかった。ウィトゲンシュタインを落胆させるという点では、下士官にしても同様だった。

なんたる俗悪な声どもか! この声は世界の低劣さのすべてを表わしている(……)。どこを向いても、意地の悪い連中ばかり。どこを見ても、感受性のある人間はひとりとしていない。(一九一四年一一月九日)

彼には友情がとりわけビンセントの友情が必要だった。彼はビンセントの手紙を心待ちにしていた。郵便は不規則にしか届かない。タルノフの小さな本屋で、彼はたまたまトルストイの『要約福音書』を買い求める。その書物のなかに見いだしたキリスト教は、幸福にいたる唯一の道のように思われると彼は日記に書いている。トルストイを引きながら「人間は肉体ゆえに自由を奪われ、精神ゆえに自由である」と彼は記す。一九一四年九月一三日のことである。
 それは、恐るべき潰走の日だった。ロシア軍に追撃され、監船を見捨てねばならなかったのである。

いまこそ、私は慎みのある人間になれる。なぜなら、私は死に直面しているのだから。願わくは、精神の光が私を照らし出されんことを。(一九一四年九月一五日)

(これはトルストイ的な主題である。つまり、死に直面するときにのみ、ひとは心の平安を見いだし、絶対の幸福と善意とを知るのである。)このうえなく辛いのは、凍てつく寒さに耐えることではなく、完全な慎み深さに達するために闘うことである。

私が死ぬのは一時間後かもしれない。二時間後かもしれない。ひと月後かもしれない。あるいは、数年は死なないのかもしれない。そのことについて私はなにも知りえないのであり、生きるか死ぬかをめぐってなしうることはなにひとつないのである。人生とはそうしたものである。では、この瞬間のひとつひとつを克服するためにはどのように生きるべきなのか。人生がおのずから終わるそのときまで善と美において生きるにはどうすべきなのか。(一九一四年一〇月七日)

またもっと楽観的にこう言い足している。これもまたトルストイ的なテーマである。

ひとは感謝の念をもって、ひとつの恩恵を利用するがごとく、人生の楽しい瞬間を利用しなければならず、他方では、平然と人生に立ち向かわなければならないだろう。(一九一四年一〇月一二日)

二マーソンの『エッセイ集』(アフォリズム的な文体や倫理─超越論的な関心という点ではウィトゲンシュタインに近い)を読み、クラカウでニーチェの本を買ったのはこの時期である。ニーチェの文章や取り上げられている問題がひたすら彼を魅了する。しかし、『反キリスト』には不快感を覚える。というのも彼は、ただキリスト教のみが幸福をもたらすことができるという「啓示」を得た──トルストイの主人公たちさながらに──ばかりだったから。
 その間、ウィトゲンシュタインの境遇はよい方向に向かった。彼は兵役経験の技師(Landsturmingenieur)に昇進した。彼は未来の『論考』の初稿を書き、それをめぐってラッセルと文通を続けていた(クラウスを引きながら彼が言うには、「軍事郵便がわれわれを外部世界から遮断している」にもかかわらず!)。しかしその間にも彼は本物の砲火による洗礼を受け、いくつかの勲章を得た。「勇敢な行動」を表彰されるのは数度におよぶ。こんな次第で、ウィトゲンシュタインが前期の哲学を熟考し、論理─哲学的関心事と生の意味に関する倫理的問題とのあいだの類似性が明確になるのは、砲弾が炸裂し銃弾が飛び交うさなかにおいてなのである。「命題の意味を把握することは」とマギネスは書いている。「正しく生きる態度となんらかの関係があった。」また、倫理的問題と論理学および世界の本質についての問いかけとが融合する──『論考』におけるきわめて奇妙な融合──のもこの時期である。それは、未来の『論考』の生成に関わるような決定的な時期だった。
 ここに、比較的恵まれた時期のエピソード、すなわちオルミュッツでのエピソードがさしはさまれる。モラヴィア地方のオルミュッツはウィトゲンシュタインが予備役士官学校へ派遣されたところだ。そこで彼は、ロースの弟子でありクラウスに協力したこともある若き建築家パウル・エンゲルマンと知り合う。一九一五年に退役したエンゲルマンは、はじめ愛国者だったが、このころには戦争の野蛮さとジャーナリズムの堕落に関しクラウスの考え方に共感していた。彼は当時クラウスに協力して、戦争報道の切り抜きを集める。クラウスはそれから大河ドラマ『人類最期の日々』を構想することになる。
 まったくの平和主義者になったエンゲルマンは、オルミュッツで、彼と同じユダヤ人のインテリからなる小さなサークルをつくっていた。そのサークルの全員が、ウィトゲンシュタインの礼儀正しい態度に魅了され(彼の家族の親切さ(Liebenswürdigkeit)は有名である)、また、彼の道徳的廉潔さや厳格な態度に感銘を受けた。ウィトゲンシュタインは彼らの精神的リーダーになった。彼らはいっしょに読書をし、音楽作品(モーツァルト、シューベルト、シューマン、ブラームス)を演奏した。彼らはウィトゲンシュタインが、ゲーテやメーリケ──エーレンシュタインに対する不可欠の解毒剤!──、それにゴットフリート・ケラーなどのことを話すのに耳を傾けたものだった。エンゲルマン宛てに、ウィトゲンシュタインはウーラントの詩に関して手紙を書いている。

言い表わしえぬものを言い表わそうとさえしなければ、なにも失われはしないのです。しかし、言い表わしえぬものは──言い表わしえぬままに──言い表わされたもののなかに含まれているでしょう。(一九一七年四月九日)

 芸術作品の最良の部分は、作品のなかに暗黙裡に含まれているのであって、示されはするが言い表わされることはできないのである。
 ウィトゲンシュタインが、グリム童話に付されたパウル・エルンストの後記を読んだのはこの時期である。その後記は彼に、「われわれの言語のなかに沈澱していて」、われわれが気づくことはまったくないような強力な神話があることを教える。論理学、倫理、美学がひとつのものであるというクラウス的確信がウィトゲンシュタインのなかで固まるのもやはりオルミュッツにおいてである。このテーマに割かれたヴァイニンガーの書物のいくつかの章をめぐって、彼はしばしば友人たちと議論した。その残響は『論考』のなかに認められる。また、論理学と倫理の「超越論的」性格というテーゼも明確になっている。

倫理は世界を扱わない。倫理は、論理学と同様、世界の条件でなければならない。(一九一六年七月二四日)

したがって、論理学は言い表わしえぬものの範型(paradigme)である。論理学は語りえぬものであって、(正しい)言語使用のなかで示され明らかになる以外にはありえない。エンゲルマン宛ての手紙には、一個の命題が論理的操作によって他の諸命題から導出されうるということは論理学的事実ではないし、また、事態がどうなっているかを理解するということは論理学的経験ではない、と書いている。同じ時期〔一九一六年七月二九日〕、『草稿』には意志についての考察が見える。そこで「いかに」が問題となるような意志(いかに願望するか)が考察されている。これはショーペンハウアー的な考え方の一ヴァリアントだ。マギネスによれば、それはあたかも意志的な日常生活の彼方に、日常生活のいかなる成功や失敗もおよびがたいような、いっそう深くいっそう真実な生があるかのようである。ウィトゲンシュタインはエンゲルマンに書いている。

われわれは眠っているのです。われわれの人生は一個の夢のようなものです。しかし最良の瞬間において、自分が夢を見ているのだと気づくのに十分なだけ目覚めているのです。われわれは、たいてい、深い眠りのなかに落ちています。私は自分では目覚めることができません。私は目覚めようと努力します、夢をみている私の肉体は活動しようとしますが、現実の肉体がそれを拒絶するのです。悲しいかな、それが実情なのです!(一九一七年四月九日)

倫理的な──つまり幸福な──生は、世界の諸事実を変更せしめる要因としての意志の領域で起こる事柄によっては、いささかも影響を受けない。倫理は世界に属するものではない。したがって、倫理的な態度とは、平然として、生における幸福なもしくは不幸な出来事を乗り越えることである。ショーペンハウアーはもっと悲観的で、世界はもっぱら悲惨さにみちており、死は喜んで受け入れられるべきだと考えた。ある日ウィトゲンシュタインは、戦死したオルミュッツの友人について「それこそがもしかしたら、彼の身に起こった最良の出来事であるかもしれない」と言った。自殺について言えば、この時期ウィトゲンシュタインは自殺を意志の悪しき運用であるとみなしていた(自殺を意志の究極の肯定であるとするショーペンハウアーとは反対に)。またこの時期ウィトゲンシュタインは、トルストイよりドストエフスキーのほうを好んでいた(『草稿』一九一六年七月六日を参照)。
 しかしオルミュッツ時代はつかの間の余談でしかない。ウィトゲンシュタインはイタリア戦線に派遣され、最大限の危険を体験する。上官たちは「部隊の称賛の的になった」「彼の並はずれて勇敢な行動、冷静沈着さ、そして英雄的行為」をたたえた。彼は下士官に与えられる金の勲章を授与すべく申請されさえする。もっとも、この勲章が彼に授与されることはついになかったのだが。
 ここに、ささやかではあるが重要なエピソードがさしはさまれる。長期休暇に入っていたウィトゲンシュタインは、ザルツブルク駅で思いがけずも伯父のパウルに出会うのである。実のところウィトゲンシュタインは、ザルツカンマーグート山中のどこかで自殺しようとしていたのだった。「パウルはおばたちが顔をしかめて非難するような社交界の人間だが、彼は甥を、しかも哲学者の甥をひどく偏愛していた。たぶんそんな事情で、彼はルートヴィヒがハルラインへ行くように説得できたのだろう。ハルラインにはバウルの家があった。」少し前にウィトゲンシュタインは、デイヴィド・ピンセントが軍用機の飛行中に事故死したことを知ったところだった。彼はひどいショックを受けていた。さらに彼は家族のもとに帰らねばならなかったのだが、それは「何年も実質的に免れていた抑圧的な環境、一連の精神的圧迫に身をさらすことを意味していた」。
 六年を費した研究の成果である書物に終止符を打ったのは、ハルラインにおいて、八月のことだった。その「論究」にはまだ表題が付いていなかった。もっと古い別稿のひとつ(『原・論考』と名づけられている)もすでに、命題間の論理的位階関係を明示するために、番号の付いた注記やアフォリズムから成っている。その点、ウィトゲンシュタインは明らかに、『プリンキピア・マテマティカ』の記数方式(n.Ⅰは n の注釈であり、n.Ⅱ は n.Ⅰ の注釈であり、以下同様)にならっている。ウィトゲンシュタインは構成に関して──もちろん数学的厳密さに達することはなかったが──、このうえなく完全な厳密さを追求した。この記数方式の利点は、ふたつの番号が付された命題のあいだに遡行的な注釈を挿入できることである(だからウィトゲンシュタインは『原・論考』に新たな番号を付けつづけた)。ハルラインの伯父の家で、彼は序文を書き、自著をデイヴィド・ピンセントの思い出に捧げ、ウィーンのコラムニスト、キュルンベルガーの「モットー」を銘句にする。それはクラウスから孫引きしたものだった。《[…]undalles, was man weiß, nicht bloß rauschen und brausen gehört hat, läßt sich in drei Worten sagen.》〔……そして、ざわめきや噂のたぐいを除いて、ひとが知っていることのすべては三語で語りうる。〕
 彼はラッセルに書いている。

私の人生にとって決定的なものであるこの作品はここ六年間の私のすべての仕事を含んでいます。私は最終的にわれわれの諸問題を解決したと思っています。こんな言い方は尊大に聞こえるかもしれませんが、私としてはそう考えざるをえないのです。(一九一九年三月一三日、また一九一九年六月一二日を参照)

彼はただちに原橘のコピーをクラウスの出版社であるウィーンのヤホダ社に送る。その後彼がフィッカーに説明しているように、じっさい、ウィトゲンシュタインは自分の書物が『ファッケル』の編集目的に寄与すると考えていた。おそらく彼はクラウスが掲載の可否を検討してくれるものと期待していた。というのも彼はロースやエンゲルマンといったクラウスの仲間たちと接触していたのだから(エンゲルマンはウィトゲンシュタインに会うためにちょうどホーホライトへ来たところだった)。
 マドネスが言うように、「数々のこのうえもなく深刻な危機のただなかにあって人生における種々の小さな変化──手紙、覚え書、昇進、勲章など──がつぎつぎと起こるさまを見るのは、いつだって驚嘆すべきことである」。じっさい、ウィトゲンシュタインが前線から戻り、そこから『論理哲学論究(Abhandlung)」の出版の件でエンゲルマンに手紙を書きつづけているとき、オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊は間近に迫っていた。休戦条約が締結されようとしていた。ヘルミーネが書いているが、「ルートヴィヒはあの奇妙な休戦のさなかに捕虜になった」。一一月三日、オーストリアの三〇万人の兵士がイタリア軍によって捕虜となる(三万人が抑留生活のなかで死ぬ)が、まさにその日、皇帝カールは軍隊の指揮権を放棄し、退位する決心を固める。ウィトゲンシュタインはコモに移され、ついで一九一九年一月にはモンテ・カッシーノに移される。彼はこの戦争における一番最後の捕虜のひとりになったのである。
 捕虜収容所でウィトゲンシュタインは、フランツ・パラークやルートヴィヒ・ヘンゼル──ヘンゼルは熱心なカトリック教徒で、オーストリアの教育改革に専心することになる──、さらに彫刻家ドゥロービルらと親交を結ぶ。捕虜同士で文学や音楽についての談議がはずむ。ウィトゲンシュタインはトルストイよりはむしろドストエフスキーに大いに傾く。ラッセルは戦後になって苦々しく書くことになるのだが、このとき彼のなかであの真の宗教的回心が起こったのである。いわば「新たな誕生」をなしとげたのである。パラークの考えによれば、ウィトゲンシュタインが回心したのは、彼の家族の地位を保証していたオーストリア・ハンガリー帝国が敗北し崩壊したためということになる。しかし、それがすべてではない。マギネスが指摘するように、彼が経験したすべての試練は消しがたく彼の精神に刻印を残したのであって、そうした試練を克服するためには精神的な隠遁が必要だったのである。「彼はもはや自分がどういう人間になるであろうなどと自問したりはしなかった。彼は自分がどんな人間であらねばならないかを知っていた。」「子供たちと福音書を読むために」、彼は神父か教師になろうと考えた。のちにヘルミーネは、幸福な俗人ではなく不幸な聖人を弟にもったと、ヘンゼルに不満をもらすことになる。ウィトゲンシュタインはかつてないほど原理原則を重んずる人間になっていた。彼が抑留されているあいだ、家族のものたちは知り合いを通じて彼を「交換し」ようと、あるいは少なくとも彼の境遇を改善しようとし、ためらうことなくローマ教皇やイタリアの首相にまで掛け合うことになる。しかしそんな努力はむだで、ウィトゲンシュタインはいっさいの特権を拒否する。彼としては、仲間とともに捕虜のままでいたかったのである。その後この件に関し、彼は母親を非難することになった。
 一方イギリスでは、ラッセルがウィトゲンシュタインを解放するべく働きかけていた。彼は当時平和会議のためパリにいたケインズに、パリのイタリア当局に掛け合うよう依頼する。その唯一の成果として、フレーゲの『算術の基本法則』とラッセルの『数理哲学序説(Introduction to Mathematical Philosophy)」を捕虜ウィトゲンシュタインに送付することができた(ラッセルは良心的兵役忌避者だったので、ケインズの名前で送付された)。「あなたが世界のもう一方の果てにいようと、あなたに会いに行くことができるならば、私はそうするでしょう」とウィトゲンシュタインはラッセルに書き送っている(一九一九年三月一三日)。ラッセルはウィトゲンシュタインのタイプ原稿を受け取ったところであり、また『数理哲学序説』においては、ノルウェーでウィトゲンシュタインがムーアに口述させたノートをまったく考慮に入れていなかった。まずいことは重なるもので、ウィトゲンシュタインは、彼のタイプ原稿の「一語をも理解できなかった」というフレーゲからの手紙を受け取っていた。彼はラッセルにほんの数語で、自分の書物の正確な意図を要約しようと試みる。

この書物の眼目は、諸命題のなかで──つまり言語によって──言われ(gesagt)うるもの(また同じことですが、考えられうるもの)と、諸命題のなかでは言われえず、たんに示され(gezeigt)うるものとに関する理論ということです。これこそ私が、哲学の根本問題と考えるものです。

 捕虜ウィトゲンシュタインは一九一九年八月二八日に解放され、ウィーンに戻ってくる。家族のなかで彼は、無傷で生きて還ってきた唯一の息子だった。しかし、彼を「慎み深く」(表彰や勲章の数で判断するならば、ときに果敢にさえ)生きるように強いたこの戦争が終わってみると、彼からは昔の面影がすっかり消え去っていた。彼の家族(たしかに衰えはあったものの、やはりきわめて裕福だった)のもとでかつてのように操らすのは困難なことだった。戦争に従って「貧しいひとびと」とともに苦しんだ彼が、どうして以前のなに不自由ない生活に戻りえたであろうか。
 ウィトゲンシュタインはやはり、ヨーロッパで最大の金持ちのひとりだった。このころ彼は自分の財産のすべてを兄姉に譲渡する。金銭は貧しいひとびとを堕落させるかもしれないが、すでに金持ちのひとびとはそうではない、というわけである。他人の好意が金目当てであることのないように、自分の財産を譲渡したのだ、と彼はもっとのちになって言うことになる。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を知っているひとならば、とヘルミーネは書いている。「こんな一節を思い出すでしょう。けちのイワンがいずれ自分の立場をあやうくするのに対し、弟のアリョーシャはお金などまったく念頭になく、またお金をもってもいないけれど、もちろん餓死したりはしないでしょう。みんなは喜んで彼に分け与えるでしょうし、彼は素直に受け取るでしょうから。」



沈黙への権利

語りえぬもの(すなわち、秘密にみちているように私には思われ、私が言い表わすことのできないもの)が、たぶん、背景をなしており、そのおかげで、私の言い表わしうるものがなんらかの意義をもつことになるのだろう。

 『論考』の出版は複雑な経緯をたどる。ウィトゲンシュタインにとって失望の連続だった。フレーゲ(彼はウィトゲンシュタインに書物を書き直すように忠告する……)、ヤホダ社(この出版社は「技術上の理由で」出版を断わる)の仲介によるクラウス、そして〔ヴァイニンガーの著作を出版している〕プラウムミュラー社の仲介によるヴァイニンガーなどから拒絶されたあと、ウィトゲンシュタインは、全面的に信頼していたルートヴィヒ・フォン・フィッカーに対して、これまた新たな失望を味わう。

私は、なぜ、すぐにもあなたのことを考えなかったのでしょう。(……)あなたは[私の原稿の]主題なあなたにとってまったく無縁のものだと思われるでしょう。しかし、実際のところ、それはあなたにとって無縁のものではありません。この書物の意義は倫理的なものなのですから(……)。私の書物はふたつの部分から成っています。ひとつはここに展開されているものであり、もうひとつは、私が書かなかったものです。そして、重要な部分はまさにこの第二の部分なのです。私の書物は、いわば内側から倫理的領域の境界を引いているのであり、また私は、それがそうした境界を引く唯一の厳密な仕方であると確信しています。要するに、私がこの書物で取り組もうとしたのは次のようなことだと思います。つまり、今日多くのひとがおしゃべりしている事柄については沈黙することによって、そうした事柄のすべてをそれにふさわしい場所に置くことでした。そういうわけで、私がひどく間違っていなければ、この書物はあなた自身が言いたいことをたくさん言っていることになるでしょう。しかしたぶん、あなたはこの書物のなかでそれが言われているのを理解しないでしょう。

フィッカーは原稿をある哲学教授に目を通してもらおうとする。ウィトゲンシュタインは反論して書く。

それは豚に真珠を与えるようなものです。どうして私は自分の作品をあなたにゆだねることができましょう。そんなことをすれば、結果がどうなるか明らかなように思われます。すなわち、どんな書物も、まったく真面目に書かれていても、ある観点からすれば価値のないものとみなされうるでしょう。じっさい、世の中にはやるべきことがまったく別にあって、書物を書く必要などだれも感じてはいないのですから。もう一方で、私はあなたにこう言えると思っています。すなわち、あなたがダラゴやヘッカーなどのような著者を出版するかぎり、あなたは私の書物を出版してもよいということです。そして、それはまた、私の要望を正当化するために私が言いうるすべてです。というのは、私の書物を絶対的な尺度によってはかろうというなら、その価値がどれほどのものか知っているのは神のみでしょうから。(一九一九年一二月四日)

フィッカーはウィトゲンシュタインに、その書物を出版するために払う多大な危険について説明した。

現在通用している仲間言葉ジャルゴンとはおよそ無関係な書物をひとが書くというのはよくあることです。そうした書物は出版されてきました。といって出版社が破産のうきめにあうということもありませんでした(まったくその反対です)。

と言ってウィトゲンシュタインは反論する(一九一九年一二月五日)。有利になるようにリルケに掛け合ってもらう試みも失敗する。
 こうして苦い失望を味わったあとに、結局、『論考』はウィルヘルム・オストヴァルトに受け入れられ(ラッセルの口添えを得て)、『自然哲学年報』に掲載された。「間違いだらけの(……)海賊版」と、(「山師のなかの山師」オストヴァルトに激怒しつつ)ウィトゲンシュタインが断じたものだ。幸いなことに、リチャーズとの共著『意味の意味』を出版したケンブリッジのC・K・オグデンが、ウィトゲンシュタインの書物において賭けられているものを理解し、二カ国語版で出版することを引き受ける。ラッセルが序文(ウィトゲンシュタインはこの序文をまったく評価しないことになるのだが)を書き、ケインズのお気に入りで、当時はせいぜい二十七歳だったがはやくも天才と目されていたラムゼイが英訳に協力した。『論考』がそれ本来のすがたで世に出るのは一九二二年になってである。

 語りうるものと語りえぬもの
 スピノザの「神学政治論考(Tractatus theologico - politicus)』とのアナロジーで、『論理哲学論考(Tractates logico-Philosophicus)」という表題を思いついたのはムーアである。この論究の聖書的な語調はこの表題にみごとに合致している。マギネスが強調しているように、ウィトゲンシュタインはいわば『創世記』(「世界は成り立っていることのすべてである。世界は事実の総体であり、事物の総体ではない」一と一・一)から始め……そして、いわく言いがたいものに対しては否定神学流に沈黙せよという神秘的な命令で終えている。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」(七)。
 全体として見るならば、数理論理学に鞍替えした新しいツァラトゥストラによる啓示といったおもむきである。ニーチェの書物と同様に、内容が文体ないしエクリチュールに切り離しがたく結びついている。これが『論考』を哲学史における特殊ケースにしている。そのメッセージは別のかたちでは言い表わしえないのである。自分の作品が厳密に哲学的であり、同時に文学的であるとウィトゲンシュタインはフィッカーに書き送っているが、それは間違っていない。文体はどうでもよいといったものではない。序文の最後の文の言い回しをまねれば、文体はなにごとかを示す(sie zeigt etwas)。ウィトゲンシュタインにとって、この書物の価値はたんに彼がもたらした「決定的真理」にだけあるのではなく、その真理をふさわしく言い表わす仕方にある。しかし読者は、『論考』の諸命題に要求されている決定的真理の地位と、外見上の自己反駁とのあいだの矛盾に驚くであろう。なぜなら、書物が終わるところで書物自身の無益性が示されるのだから。

この著作の価値は、それらの問題が解決されることによって、この著作がいかにわずかのことしかなしとげていないかを示している点にある。(序文)
私の諸命題は解明の仕事をするが、それは次のような仕方によってなされる。すなわち、私を理解するひとが、それら諸命題を一段一段の踏み板として利用し、踏み板のさらにその上にまで登ったとき、ついにそれら諸命題をナンセンスと認識するような仕方によってである(読者はいわば、登るために利用した梯子を投げ捨てねばならない)。
 読者はこれらの命題を乗り越え(überwinden)ねばならない。そのとき読者は世界を正しく見てとるだろう。(六・五四)

〔…〕

命題記号が世界についてなにも言わないならば、それはやはり「思想」(Gedanke)を言い表わさないのであり、それは無意味な記号なのである。善と美に関する命題と同様に、「哲学的命題のほとんどは偽なのではなく、無意味なのである」(四・○○三)。これこそ、ウィーン学団のメンバーが『論考』から受けとることになる教えであり、彼らはその教えをとりわけ形而上学的命題に適用することになる(六・五三を参照)。カルナップを筆頭にして彼らは形而上学的命題を「言語の論理分析によって乗り越え(überwinden)」除去しようとする。ところで、『論考』においてもその後においても、ウィトゲンシュタインが「形而上学」という語を軽蔑的な意味で使うことはなく、彼はその種の企てに対しこのうえない敬意を抱いているのである。一九三〇年、彼は友人のドゥルーリーに書いている。

私が形而上学を軽蔑しているなどとは考えないでほしい。過去におけるいくつかの偉大な哲学体系は人間精神によるもっとも高貴な製作物のうちに数えられる、と私は思います。

〔…〕

語りえぬものについては沈黙しなければならない。(七)

たしかにそのとおりだが、語りえぬものが有する実存的重要性を否定すべきではない。哲学──ウィトゲンシュタインによって理解され実践されたような哲学──がなしうること、またなさねばならぬことは、一方で言い表わしえぬものについては沈黙を勧めることであり、他方で、われわれの言語が有する正しい論理は命題がもつ表層の文法によってしばしば覆い隠されているのだからその正しい論理を把握するために言語を明晰化することである。したがって哲学は教義大全というよりはむしろ活動なのである。哲学は「言語批判」である。しかもウィトゲンシュタインは、『論考』の哲学的作業に対しても、他のいわゆる哲学的命題に対するのと同様の取り扱いを適用する。

私を理解するひとが(……)ついにそれら諸命題をナンセンスとして認識する(……)(読者はいわば登るために利用した梯子を投げ捨てねばならない)。
 読者はこれらの命題を乗り越え(überwinden)ねばならない。そのとき読者は世界を正しく見てとるだろう。(六・五四)

こうして『論考』は最後から二番目の命題において、読者の予想に反し、自己破壊するのである。『論考』は、命題ではなく(したがって有意味/無意味という区分から免れた)一個の命令であるような究極の文言に到達する。すなわち、語りえぬすべてのものについては(哲学的)沈黙をするべく勧めるのである。それは、ある観点からすれば、哲学の終わりである。期待をもたせそれを裏切るというのが、『論考』の戦略である。その後においてもあいかわらずウィトゲンシュタインは哲学の初心者、実を言えば、いかにもマゾヒスティックな哲学の初心者を邪険に扱うことになる。その初心者は手ひどい期待はずれを甘受しなければならず、哲学が可能なかぎり制約された権限しかもたないことを承認しなければならないだろう。哲学は次のことを断念しなければならない。すなわち、もろもろのテーゼを構築すること(哲学はたんなる批判活動である)、説明すること(哲学はもっぱら記述することしかできない)、物事を変えることもしくは世界に介入すること(「哲学はいっさいの物事を『あるがまま』にしておく」)、新機軸であるような、かつひとを高揚させるような思想を発見すること、こうしたことを断念しなければならない。哲学はだれもがすでに知っていて、同意せずにはいられないようなことしか言わないのである……。

〔…〕

ウィトゲンシュタインは『草稿 一九一四─一九一六年』で書いている。

メロディが音符の総計ではないように命題は単語の総計ではない。
「インテリと称する連中」は「屈辱を受け傷つけられたと称する連中」のどこに救いを見いだそうというのか

 ウィトゲンシュタインの姉たちが悲惨な戦後においてはきわめて有効だった慈善事業に没頭しているとき、彼はウィトゲンシュタイン御殿を去ってもっと質素な住居に身を落ちつけた。一九一九年一二月にラッセルがウィトゲンシュタインに再会したとき、彼は友人の変貌ぶりに不快なショックを受ける(「彼は完全に神秘主義者になった」とラッセルは一九一九年一二月二〇日にオットーリーン夫人に書き送っている)。じっさいそのころ、ウィトゲンシュタインは修道院に入ることを真剣に考えていた。しかし結局、彼は教員になる決心をし、教員養成学校に登録する。幾人かのオーストリアのインテリ(カール・ポパーやエドガー・ツィルゼルなど)がそうしたように、彼もオットー・グレッケルによって始められた学校改革の運動に参加する。
 一九二〇年から一九二六年にかけて、ウィトゲンシュタインの人生においてその後有名になったエピソードがある。すなわち、オーストリアの三つの山村における教員体験である。一九二〇年七月五日に教員の免状を取得し、夏期休暇をヒュッテルドルフの修道院で庭師として過ごしたあと、休暇が開けるとウィトゲンシュタインはキルヒベルクに近い山村トラッテンバッハにおいて、ついでプーフベルクにおいて、小学校の臨時教員となる。プーフベルクには一九二二年から一九二四年までとどまり、そこに一九二三年ラムゼイはウィトゲンシュタインを訪れている(この間、一九二一年の夏期休暇にウィトゲンシュタインはノルウェーを再訪している)。
 トルストイを読んだことでウィトゲンシュタインは農民について多くの幻想を抱いていたように思われるが、その幻想はすぐに裏切られる。「彼は手紙で」とラッセルは語る。「『トラッテンバッハの人間は性悪です』と書いてきた。私が『人間はだれも性悪だ』と書いてやると、彼はこう言い返してきた。『そのとおりです。しかしトラッテンバッハの人間は他のどこの人間より性悪です。』」
 しかしプーフベルクでウィトゲンシュタインは驚くべき成果をあげる。このうえなく福音書の教えにかなった厳格さのなかで生き、教育という企てにすっかり没頭する。彼は生徒たちの心をとらえる。彼らは五十年後に敬愛をもって Lehrer〔小学校教師〕を思い出すことになるだろう。彼はなかでももっとも天分に恵まれた生徒たちを「汚穢から救出し」ようと試みるが失敗する。親たちが反対したからである。しかしそれ以上に、三番目の村オッタータールにおいて彼は決定的に挫折する。ウィトゲンシュタインに対するなんらかの策謀が親たちによって企てられたようである。ウィトゲンシュタインは生徒たちを虐待したかどで告発される。裁判ざたにさえなるのである。ウィトゲンシュタインは深く失望しオッタータールを去り、トルストイの高貴な農奴たちと絶縁する。トーマス・ベルンハルトが書いている。「間近から見るならば、(……)恵まれないと称する連中、貧しきものと称する連中、見捨てられたと称する連中(……)、彼らがもって生まれた体質の醜悪さは、他のものたちとなんら変わるところがないわけで、まとめて切り捨てるべきなんだ。他のものたちとは、つまりわれわれと同族のもののことで、同族ということからしてすでに、醜悪なのは目に見えている(……)。連中も同じように残忍になりうるわけなんだから、まとめて切り捨てるべきだ。他のものたち同様、連中とてさまざまだが、その残忍ぶりはまったく同じだ。以上が彼の言いぐさだったと私は思う。」あの策謀は、このうえなくこれ見よがしな貧窮をわざわざ選んだ金持ちに対する村人たちの憎悪と嫉妬に起因するのかもしれない。村人は自分たちがおかれている立場を見せつけられ、鼻持ちならない挑発を感じたにちがいない。いくつかの写真を見れば村人たちの生活状態がいかなるものであったかは明らかである。子供たちは靴さえ履いていなかった。
 この時期のものとして、『小学校のための辞書』が残されている(一九二六年に印刷されたものだが、『論考』と比べてなんと平易なものであろう!)。一九二六年、彼は辞職を願い出、教師の仕事を決定的に断念してウィーンに戻る。

〔…〕

 ある意味で、ウィトゲンシュタインの建築家としての仕事は、『論考』のいくつかの考え方の適用であり、芸術的な延長である。『論考』における若さゆえの独断論がそれとなく言わんとしていたのは、語りうるものを内部から限界画定するという問題がひとたび解決したならば、哲学を解雇できるということである。すべてが語られたのだった。とはいえやはりきわめて重要な生の諸問題(Lebensprobleme)が手つかずのままに残されていた。いずれにせよそうした問題は、生のなかにおいてのみ、すなわちなんらかの生活改善、なんらかの改心、なんらかの告白等々によってのみ解決されうるものだった。
「倫理と美学はひとつである」(六・四二一)

〔…〕

建築はなにごとかを永遠化し、賛美する。それゆえ、賛美されているものがなにもないような建築は存在しえないのである。

建築がまだ賛美すべきなにものかをもっているかどうか、あるいは建築がまだ真正なものでありうるかどうかについてたしかにウィトゲンシュタインは、戦後、かなり疑問視している。いずれにせよ、

悪しき時代の大建築家(ファン・デル・ニュル)には、よき時代の大建築家とはまったく異なる使命がある。

すでに指摘されているように、大哲学者についても同じことが言えるであろう。しかしまた大音楽家についても同じことが言える。彼は建築においてたんに「複製」しただけであり、真の創造はしていないというのがウィトゲンシュタインの自己評価である。

私のつくったグレートルの家は、断固として繊細な耳の、礼儀正しさの産物であり、(文化などに対する)大いなる理解の表現である。しかし、荒れ狂おうとする根源の生命、野生の生命が欠けている。だからその家には健全さ(キルケゴール)が欠けているとも言えるだろう。

ウィトゲンシュタインにとって、芸術に特有の表現方法は、言うことと示すことに同時に属している。つまり、芸術作品は自己自身のことを言いながら、語りえぬものを示すのである。絵画は、

自己自身のことを言いながら、なにごとかを私に言う(……)。絵画が私になにごとかを言うという事実は、絵画固有の構造、絵画固有の形や色において成立している。

芸術作品は意味論的に自律したものであって、自己自身以外になにものをも表現しない。それに対し、言説は、自己自身以外のもの、つまり言説の外部にある現実の状況を言う、もしくは記述する。建築とりわけ音楽に関し、ウィトゲンシュタインは「因果的な」アプローチに反対する。そういうアプローチからすれば、なんらかの効果をもたらすために薬剤を服用するのと同じような意味で、われわれになんらかの効果──感情──を生じさせるのが音楽の本質的な役割だということになるからだ。ウィトゲンシュタインはそういった考え方に対し次のように非難する。その考え方によれば、自己の目的を自己のなかにもたずに音楽それ自身以外のものを伝達するたんなる媒体へと、音楽は還元される。そうなれば、音楽は、記号に宿った意味されるものシニフィエにすぎず、作曲家が伝えようとしたであろう感情にすぎなくなる。そうした平凡な考え方にこそ、ウィトゲンシュタインは「茶色本」のころからしてすでに、彼の独創的で強力なテーゼ、すなわち、自己自身以外になにものをも伝えない芸術の意味論的自律性というテーゼを対置するのである。

音楽がわれわれに伝えるものは、喜び、憂鬱、勝利などの感情であるとよく言われるが、こういった説明がわれわれにとって不満に思われる点は、音楽はわれわれのなかに感情を生じさせるための道具だと言っているように聞こえることである。そうなれば、そのような感情を生じさせる手段は音楽以外のどんなものであれ、音楽がわれわれにもたらすものをもたらすということになるだろう。そういった説明に対し、われわれは「音楽がわれわれに伝えるものは音楽自身なのだ!」と言い返したくなる。

(もちろんウィトゲンシュタインは、音楽がわれわれに感情を抱かせるということを否定しない。彼が反駁するのはむしろ、感情を呼び起こすことが音楽の本質的な目的であり、なんらかの情動を体験するために音楽を聞くことが真の美学的態度であるという点に対してなのだ。)広く一般に、

芸術作品は自己以外のなにかではなく自己自身を伝えようとする。それは、私がだれかを訪問するときの事情と似ている。つまり、ただ相手にしかじかの感情を呼び起こしたいだけなのではなく、なによりもまずそのひとを訪問したい、そしてもちろん私自身が歓迎されたい、ということなのである。

第二部

ケンブリッジに戻る

〔…〕

 このようなウィトゲンシュタインの授業中の極度の緊張が、毎回の授業のすぐあとにかならず訪れる息抜きの必要を説明している。ドゥルーリーは書いている。「私たちはしばしばいっしょに映画に行ったものだ。映画を『活動』というのが彼の口ぐせだった。彼は最前列の席に是が非でも座ろうとした。そして映画に完全に没頭しているように見えた。ウィトゲンシュタインはアメリカ映画しか見ようとしなかった。イギリスやヨーロッパ大陸の映画はすべて嫌いだった。それらの映画ではカメラマンが『ほら私のカメラやワークの巧みさをご覧なさい』とでも言いたげに、いつも映画に割り込んでくるからであった。思い出すに、彼はジンジャー・ロジャーズとフレッド・アステアのダンスをこよなく愛していた。」
 じじつ、西部劇、推理小説、アガサ・クリスティそしてウッドハウスは、ウィトゲンシュタインの息抜きの役に立ったばかりでなく、ウィトゲンシュタインを力づけたのである。ウィトゲンシュタインは職業的な哲学者たちの教えからよりも、むしろこれらのいわゆるマイナーな作品すなわち三文推理小説から、美学上の教えを容易に引き出せると考えていた。ウィトゲンシュタインはマルコムに書き送っている。

あなたから送ってもらったアメリカの推理小説を読んでいると、ガラクタの山のような『マインド』が、いまなお読者を獲得できるのはどうしてなんだろうとしばしば不思議に思います。ストリート・アンド・スミス社の小説のほうがずっとましでしょうに……。まあいいでしょう、たで食う虫も好き好きですからね。
〔また別の手紙では〕あなたから送ってもらった推理小説はすばらしい。ストリート・アンド・スミス社の小説が読めるというのに、ひとびとがなぜ『マインド』などに没頭できるのか、いまもって不思議です。哲学が常識とかすかなつながりをもてるものだとしたら、彼らは気づくべきだろうと思います。推理小説には常識のかけらがわずかなりともあるのに対し、『マインド』には常識がひとかけらもないということに。
哲学の没落、没落の哲学

そそてさまざまな常識はずれの問いかけがわれわれの内部で押しあいへしあいする。私とはだれであるか。なぜか。存在するものはどこからやってくるのか。それはどこへ行くのか。いかなる目的があるのか。ここには言語におけるあらゆる疑問型の文彩が動員させられている。そしてその文彩が一瞬にして抽象的神話の怪物になる。不当な謎の数々がわれわれを悩ませている(……)。われわれはそれらの問いかけに対し厳密で正確な答えを思案することができない。思案できるとしたら、それらの問いはそもそも提起されていなかったであろう。それらの問いにはもはや興味も生気もなくなっていたであろう。
ヴァレリー

〔…〕

 唯名論的な発想からヴァレリーが批判するのは、言語の使用における語の具体的な適用から語を分離してしまうような実体化である。それは不当な操作であり、そこから「語それ自体の偶像」が生じる。またその操作のおかげで哲学的言説は、現実や行為へのいっさいの関係を失った自律的な言語ゲームへと発展することが可能になるのである。ヴァレリーの実体化批判に対応するのは、ウィトゲンシュタインの場合、哲学や他のもろもろの理論的な学問における普遍的なものの探究、一般性への欲求、統一的な説明、本質主義的幻想などへの批判である。要するに、プラトン的な諸価値が戦略的に転倒されているのである。哲学においては、本質の探究にとって代わって、特殊ケースや実例の考察が重視される。
 ヴァレリーは形而上学的な不安を深刻に考えず、また存在を前にしての驚きをみずからに禁じさえする。「信仰、書物、ドグマ、それらは私にとってどうでもよいような問いに答えているのである。というのも存在するものは、問いかけたり答えたりなどはいっさいしないのだから。」ウィトゲンシュタインも同様に不安を哲学的に悲壮ぶって表現するのをみずからに禁ずる。

ハイデガーが「存在」や「不安」という語でなにを言おうとしているか、私にはもちろん理解できる。人間には、言語の限界へ突進しようとする衝動がある。たとえば、なにものかが存在するという事実から引き起こされる驚きを考えてみたまえ。この驚きは問いという形式では表現されえないし、この驚きに答えることはまったくできない。それについてわれわれが言いうることはすべて、ア・プリオリにナンセンスであるほかはない。

 もっとも次のように付け加えてはいる。

しかし、突進するという傾向は、なにごとかを指し示してはいる。それは、聖アウグスティヌスが次のように言うときすでに知っていたことである。「なんだと、この卑怯者め、ナンセンスは語りたくないというのか? そんなせりふは、とにかくひとつナンセンスを語ってからにしてくれないか!」

ウィトゲンシュタインは存在を前にしての驚きにある種の共感を示している。なぜならその驚きは、彼によれば言語固有の限界に突き当たろうとする言語の傾向をまさに反映しているからだ。
時流に逆行する同時代人

孤立した人間はおのれの時代を支援することも救済することもできない。ただ時代に対し、時代は破滅の道を急いでいると言えるだけである。
キルケゴール(クラウスによる引用)

 『断章』を読むとき、一連の言葉が浮かびあがってくる。ペシミズムという言葉であり、破局論、運命論、懐古趣味、保守主義、非政治性、主意主義、倫理的個人主義といった言葉である。ウィトゲンシュタインは予言者を気取っているわけではないが、彼が次のように言うときわれわれはニーチェやシュペンクラーそしてクラウスを思い起こさないではいられない。「(……)古い文化からは瓦礫の山しか残らず、ついには灰の山だけになるだろう。しかしその灰の山のうえにはいくつもの精霊たちがただよっているだろう。」また別の予言(ドイツでナチスが権力を掌握したときに表明されたもの)について言えば、それはほとんど千里眼に属するような種類のものである。

一国の政府が暴力団に乗っ取られるというのはどんなことか、ちょっと考えてみたまえ。ふたたび暗い時代が到来しつつある。ドゥルーリー、私は驚かない。魔女のようにひとびとが生きたまま焼かれる残虐行為を目にすることになろうとも。

われわれはまた一九三〇年に彼が示した驚嘆すべき予見に強い印象を受ける。すなわち彼は、ナチスの収容所において実地に移された人間の尊厳を卑しめるためのさまざまな手管を予見していたのである。

全身の毛を剃られれば、なんらかの意味でわれわれが自尊心をなくしがちになるのもきわめて当然である(『カラマーゾフの兄弟』)。疑問の余地はないが、われわれを外見的に卑しく滑稽なものに見せる身体損傷は、われわれから自己防御の意志を完全に奪いかねないのである。

 シュペングラーと同様、ウィトゲンシュタインは頽廃と没落の思想家である。科学や技術が人間を野蛮にする効果を見抜くことにかけてはニーチェと並ぶ鋭敏さをそなえているウィトゲンシュタインは、古い文化(Kultur)へのノスタルジーのなかで生きる。彼は、ゲゼルシャフトつまり都市型工業社会にとって代わられたゲマインシャフトつまり真の共同体がもっていた有機的な結びつきの崩壊を惜しむ。ウィトゲンシュタインが「文化」という語で言わんとしているのは、シュペングラーと同じように、「そのなかの成員のめいめいが自分の場所を与えられており、そこにおいて全体の精神を体現しつつ働けるような巨大な組織体」であり、個と全体が相互に規制しあうような全体である。「文化とは戒律順守(Ordens-regel)のようなものである。」文化の背後には伝統の重みがある。ウィトゲンシュタインは、深みを見すえながら、ひとが習得しえないものとして伝統を定義する。

伝統はわれわれが習得できるものではない。伝統は、われわれが意のままにたぐりよせることのできる糸ではない。われわれが自分の祖先を選択できないのとまったく同じである。伝統をもたない者が伝統をもちたいと思うのは、まるで片思いの恋愛をしているようなものだ。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊と分裂を目のあたりにし、二十年以上ものあいだ一種の亡命生活を余儀なくされたウィトゲンシュタインにとって、われわれの実践の寄せ集め以外にはなにもない。まさに伝統や根がなければ……。いわゆる進歩、科学、技術、戦争などに関するウィトゲンシュタインの思想は、反科学万能主義的なペシミズムに彩られている。

科学や工業は、そしてそれらの進歩は、今日の世界においてもっとも長続きするものかもしれない。科学や工業が崩壊するという推測はいずれも、さしあたり、そして長期にわたって、たんなる妄想にすぎないのかもしれない。そして、科学や工業こそが、かぎりない災いののちに、また災いをともないつつ、世界を統一するのかもしれない。それはひとつの全体に統合するということである。もっとも、およそありえないのは、そこに平和が訪れるということである。

というのもまさに「戦争を決定するのは科学と工業である」から、とカール・ウィトゲンシュタインの息子は結論する。
 同年〔一九四七年〕、ウィトゲンシュタインはみずからの「黙示録的世界観」を明確にする。

科学や技術の時代は人類の終末の始まりである。大いなる進歩という理念は真理の究極的認識という理念と同様にわれわれの目をくらませる。科学的認識にはよいもの望ましいものがなにひとつない。科学的認識を追い回す人類は破滅の道を急いでいる。このように考えるのをナンセンスとは言えない。的はずれだと言い切れるものでは断じてない。

 ウィトゲンシュタインは二度にわたり戦争を体験し、そこから人間の本性について、人間が甘受すべき運命について(原子爆弾についての指摘を参照)、そして科学的進歩について、このうえなく陰鬱な教訓を引き出した。ウィトゲンシュタインの辛辣な反科学万能主義はそこに由来する(それゆえ彼の立場は新実証主義的ユートピアの対極に位置づけられる)。

この標題[『神秘の宇宙』]は一種の偶像崇拝を含んでおり、その偶像とは科学と科学者である、と私なら言うだろう。
私が典型的な西洋の科学者に理解されるかどうかは、私にとってどうでもよいことだ。というのも、私がものを書くときの精神は、結局のところ、そういった科学者には理解されないなにかであるから。

彼は挑発的な言葉を投げつける(ちなみに『探究』の銘には進歩を軽んずるアフォリズムが据えられている)。

われわれの文明の特徴は「進歩」という言葉に典型的に現れている。文明が進歩するということはたんなる文明の一特性ではない。進歩が文明の形式なのである。われわれの文明は典型的に建設をむねとする。その活動はますますもって複雑な構築物をつくりあげる。明晰さそれ自体がひたすら建設という目的に奉仕するばかりである。しかし私にとって事情は反対で、明晰さ、すなわち透明であることそれ自体が自己目的なのである。建物をつくりあげることに、私は興味を感じない。私の興味を引くのは、考えられうる建物の基礎を透視することである。要するに、私の目標は科学者たちのそれとは別のものであり、私の思考は彼らの思考とは違う動き方をする。

 ウィトゲンシュタインの考えによれば、科学とはひとびとを「ふたたび寝かしつける手段」のようなものであり、したがって文明の要因のようなものではまったくない。科学的精神に敵対するということ以上に、ウィトゲンシュタインは自分がその時代(戦後の一九三〇年代当時)に無縁の者、深く時流に逆行する者と感じていた。

今日の工業、建築、音楽、ファシズム、社会主義などに体現される[ヨーロッパやアメリカの文明の]精神は、この本の著者には縁のないものであり、著者はそういった精神にいささかも共感を覚えない。

文化のない時代では、とウィトゲンシュタインは書きとめる。

力は分散する。個人の力は対立する力や摩擦抵抗のために消耗してしまう。しかしエネルギーはエネルギーである。
芸術や価値に関する私自身の思想は、百年前の人間の思想がそうであっただろうよりは、はるかに醒め切っている。とはいえ私の思想がそれだけ正しいということではない。それはたんに、私の精神の前面には頑廃を示すもろもろの現象があり、そういう事情が百年前の人間にはまったくなかった、というだけの話である。

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