バークリー『人知原理論』

表紙

人間的知識の原理にかんする論考
第一部

この論考においては、懐疑主義無神論そして反宗教の根拠とともに、諸学における誤謬と困難の主要な原因が探求される。
1710年

著者 ジョージ・バークリー
  トリニティー・カレッジ(ダブリン)文学修士・特別研究員

発行所 ジェレミー・ペピャト書店
   ダブリン・スキナー通り
印刷所 アーロン・レイムズ

序論

一 哲学は賢慮と真理の研究にほかならないので、哲学に大半の時間と労力を費やした人びとが、他の人たちよりも大きな静謐と平静を享受し、はるかに明白で確実な知識をもち、そして疑いや困難に煩わされることが少ないと期待されるのも当然であろう。しかしながら、われわれが見るところ、それほどに煩わされることなく心静かでいられるのはほとんどの場合、学問とは無縁な一般大衆、すなわち平明な常識の大道を歩み、自然の導きに従う一般大衆のほうなのである。彼らにとって、自分たちに馴染み深いものは説明がつかないとか理解しがたいとは思えない。後らは自分たちの感官に明証性が欠けていると不平をもらしはしないし、懐疑主義者になる危険もまったくない。しかし、われわれが感官と自然的傾向から離れてもっと高級な原理の光に従うやいなや、つまり事物の本性について推論し瞑想し思索するいう、以前は完璧に理解していたと思えた事物にかんして、おびただしい逡巡がわれわれの精神にわき起こるようになる。いたるところで、感官の先入見や誤謬が目についてくる。そして、これらの先入見や誤謬を理性によって正そうとすると、われわれは知らず知らずのうちに無様な非常識、困難そして矛盾に引き込まれ、思弁を進めるほどにこれらの非常識等が積みかさなり重くのしかかってくる。ついには、多くの入り組んだ迷路を経廻ったあげく、われわれは元の出発点に立ち戻るか、あるいはもっと悪いことに、惨憺たる懐疑主義に腰を落ち着けることになる。

二 こうなるのは、事物が理解しがたいからだ、あるいは、われわれの理解力が本性上脆弱で不完全だからだ、と考えられている。この巷間の説によると、われわれの手持ちの能力は僅少である。そして、これらの能力は実生活を維持し快適にするために自然によって設えられたのであって、事物の内的な本質や構造に分け入るようにはできていない。さらに、人間の精神は有限であるから、無限に与かる事物を相手にするときには、不合理や矛盾に陥っても不思議なことではない。有限なものによっては理解されえないというのが無限なものの本性に属することであるからには、人間の精神がこれらの不合理や矛盾から逃れることは不可能である。

三 しかし、この欠陥をそもそもわれわれの能力のせいにして、われわれの能力の使い方が間違っているわけではないと考えるのは、あまりにも身勝手というものだろう。真の原理から正しく導きだされる諸帰結が支持されず互いに矛盾すると想定するのは難しい。神は人類を物惜しみせず遇してくれたのであって、まったく手の届かない知識を求めようとする強烈な欲求など与えはしなかった。こんな欲求がわれわれに授けられたと信じるのは、神の常に変わらぬ宏量大度なやり方にそぐわない。なぜなら、神が被造物にいかなる欲求を植えつけたにせよ、正しく使えばかならずこの欲求を満たすことができる手段をも神は与えてくれるのが常だからである。要するに、これまで哲学者たちを惑わし、知識への道を塞いできた困難の(すべてではないにしても)大部分は、まったくわれわれ自身のせいなのである。われわれはまず埃を立てておいて、それから「見えない」と文句を言う。

四 したがって私の目的は、哲学のさまざまの学派のなかにこれほどの疑いや不確実性を、あの不合理や矛盾のすべてを引き入れてきた原理を発見できるかどうか試してみることである。もっとも賢明な人たちでさえ、こうした不合理や矛盾を目にした結果、われわれの無知はわれわれの能力の本性上の怠惰と限界から出てくるのだと考えてしまったがゆえに、その無知は癒しがたいとみなしたのである。そして、人間的知識の第一原理を厳密に探求し、あらゆる側面にわたって精査し吟味するのは、間違いなく苦労しがいのある仕事である。その理由はとりわけ、真理を求める精神を抑えつけ混乱させる障害や困難は、対象が理解しがたく複雑であることや、われわれの理解力に本性上の欠陥があることに由来するのではなく、むしろ誤った原理から出てくるのであり、おまけにわれわれはこの原理を回避できたかもしれないのに、それにしがみついてきたのではなかろうか、と怪しむのも故なしとしないからである。

五 どれほど多くの偉大で非凡な人たちが同じ志をもって私よりも前に歩んでいたかを考えると、この試みにとてつもなく困難で絶望的に思えてくる。しかしながら、私に望みがないわけではない。なぜなら、もっとも広い視野をもつ人がいつももっとも明瞭に見るとはかぎらず、むしろ近眼の人は対象をもっと近くに引き寄せざるをえないのだから、近くから綿密に調べることによって、もっと視力のいい人が見逃してしまったものをひょっとしたら見分けることができる、と考えるからである。

六 以下で述べることを読者にもっと容易に理解してもらうために、言語の本性と誤用について、序論というかたちでいくらか前置きしておくのが適切であろう。しかし、この問題を解明していくと、私の試みをある程度先取りすることになる。なぜなら、思弁をもつれさせ困惑させるのに大きな役割を果たし、知識のほとんどすべての部分において数え切れないほどの誤診と困難を引き起こしてきたように思われるものに言及せざるをえないからである。そしてこの元凶とは、精神には事物の抽象的な(abstract)観念あるいは概念(idea or notion)を形成する力があるという意見である。哲学者たちの著作や議論にいくらかでも通じている人なら、それらの少なからざる部分が抽象的観念に費やされていることを認めざるをえないだろう。これらの観念はとくに、論理学と形而上学という名で通っでいる学問の対象、さらにはもっとも抽象的で高級な知識の名で知られている学問すべての対象と考えられている。これらの学問すべてにおいて扱われる間題のどれにおいても、抽象的観念が精神のなかに存在していて、精神はそれらに精通していると想定されているからである。

七 あまねく一致した見解によると、事物の性質や様態のおのおのはけっして離れて(apart)それ自体で(by itself)、つまり他のすべての性質から切り離されて(separated)ほんとうに存在することはなく、むしろ、いろいろな性質が同じ対象のなかでいわば互いに混合し溶融している。しかし、以下のように述べる人たちがいる。つまり、精神はおのおのの性質をそれだけで考える(consider...singly)ことができる、つまりその性質が結びついている他の性質から切り離された(abstracted)ものとして考えることができるので、そうすることによって自分自身のために抽象的観念を形成する。たとえば、延長していて、色がついていて、運動する対象が視覚によって知覚される。精神は、この混合あるいは複合した観念を単純な構成部分に解体し、次いでおのおのの部分をそれ自体で(by itself)、つまり残りの部分を排除して(exclusive)見てとる(view)ことによって、延長の抽象的観念、色の抽象的観念そして運動の抽象的観念を形成する。こうなるのは、色や運動が延長なしでも存在できるからではない。むしろ、精神が抽象(abstraction)によって、延長を排除した色の観念を、そして色と延長のどちらも排除した運動の観念を自分自身のために形成できるからにほかならない。
一〇 自分には観念を抽象するこの素晴らしい能力があると余人がいくら言い張ったとしても、私自身にかんして言えば、なるほど私は、自分がかつて知覚した個別的な事物の観念を想像したり思い描いたりする能力、そしてそれらをさまざまに複合したり分割する能力をもっている。二つの頭をもった人間や、上半身が人間で下半身が馬のものを想像できる。手や目や鼻のそれぞれをそれ自体で(by itself)思い描く、つまり身体の残りの部分から切り離され(abstracted)分離されている(separated)のを思い描くこともできる。しかしその場合、私がいかなる手や目を想像しようとも、それには何か個別的な形や色がなければならない。これと同様に、私が思い描く人間の観念は、白いか黒いかあるいは黄褐色の人間の観念でなければならない。背筋が伸びているか腰が曲がっている人間の観念、あるいは長身か短身か中背の人間の観念でなければならない。どんなに頭をひねっても、先に述べられた抽象的観念を思い描くことはできない。そしてこれと同様に、運動する物体から区別される(distinct)運動の抽象的観念、つまり、速くもなければ遅くもなく、曲線的でも直線的でもない運動の観念を形成するのは不可能であり、同じことは他の抽象的で一般的な観念(abstract general idea)のすべてについて言える。率直に言えば、私はある意味では抽象することができると認める。つまり、何らかの個別的な部分や性質が他の部分や性質と何らかの対象において結合しているけれども、しかしながら他のそれらがなくてもじっさいに存在することが可能である場合には、こうした部分や性質を他のそれらから分離された(separated)ものとして考えることができる。しかし、そのように分離して存在できない諸性質を互いに切り離す(abstract)ことができる、つまり分離したものとして(separately)考えることができるということ、あるいは、前述の仕方で個別的なものを捨象することによって一般的概念(general notion)を形成できるということ──、これら二つのことが抽象の本来の意味であって、私はこの意味での抽象を認めない。そして、ほとんどの人たちが私に賛成してくれると考えるのも故なしとしない。学問とは縁のない単純な大部分の人たちは、抽象的概念(abstract notion)をもっているなどとけっして言い張りはしないからである。抽象的概念は難しくて、手に入れるには骨が折れると言われている。したがって、もし抽象的概念があるとすれば、それは学識ある人びとの専売特許であると結論するのも当然であろう。
一二 観念がいかにして一般的になるのかを見てみるなら、言葉がいかにしてそうなるのかについてもっとよく判断できるようになる。そしてこの点で注意していただきたいのは、一般的観念が存在することを私はけっして否定しないということである。私が否定したいのはむしろ、抽象的で一般的な観念が存在するということだけである。
一五 管見によれば、抽象的で一般的な観念は意思疎通にとってだけでなく、知識の拡大にとっても不要である。誰もが言うように、すべての知識や証明は一般的概念にかかわる。このことは私も承知しているし、全面的に同意する。しかしその場合、こうした概念が前述のやり方で抽象によって形成されるとは思わない。一般性というのは、私に理解できるかぎりでは、何らかの事物のそれだけ切り離された絶対的な本性に、あるいはその事物をそれだけ切り離して絶対的に考えるという点にその本領があるのではない。むしろその本領とは、そうした事物によって表示され(signified)代理されるもろもろの個物にたいしてその小物がとり結ぶ関係(relation)にあるのであって、この関係のおかげで、事物や名前や概念は、それ自身の本性においては個別的でありながらも、一般的になるのである。たとえば、私が三角形にかんする命題を証明するとき、私は三角形の一般的観念を念頭においていると想定されている。しかしだからといって、等辺でも不等辺でも等脚でもない三角形の観念を私が形成できるということにはならない。ここで想定されている事態はむしろ、私が考えている個別的な三角形は、それがどの種類の三角形であろうとも、およそ直線で囲まれた三角形のすべてを等しく代表ないし代理し、その意味で一般的になっているということでしかない。これらすべてのことはきわめて明白で、いかなる困難も含んでいないと思われる。
一七 抽象の大家たるスコラ哲学者たちは、抽象的な本性や概念の学説のせいで、おびただしい誤謬と論争の迷宮から逃れられなくなったように思われる。この迷宮のすべてを経廻るのは切りがないし無用のことでもあろう。これらの本性や概念についておびただしい口論や論争が引き起こされ、学問上の埃が広くまき散らされ、そして、人類に資する多大の利益がはたしてここから出てきたのか──これもまた今日では喋々するまでもないほどによく知られていることである。そして、もしこの学説の悪影響がこれをもっとも声高に吹聴する連中にのみかぎられていたのであれば、それはまだましなことだったろう。きわめて長きにわたって大変な労苦、努力そして才能が学問の陶冶と発展に費やされてきたにもかかわらず、学問のほとんど大部分は暗愚と不確実性に満ちたままであり、そこにおける論争もとどまるところを知らない。もっとも明晰で説得的な証明によって支えられていると考えられる学問でさえも、人間の知力によってはけっして解消できない非常識を含んでいる。総じて、無邪気な気晴らしや娯楽であるだけでなく人類に実質的な利益をもたらしてくれるような学問はごくわずかである。こうしたことすべてを考えると、学問に絶望し、すべての勉励をすっかり軽蔑したくなるのも無理はない。しかし、世間に流布してきた誤った原理を検討するなら、こうした絶望や軽蔑もおそらくなくなるだろう。こうしたすべての原理のうち、思弁にいそしむ人たちの思考にもっとも広範な影響を与えているのは、抽象的で一般的な観念というこの原理であるように思われる。

一八 この流布している考えの根拠をようやく考察できるようになった。管見によれば、この根拠とは言語である。そして、これほど広く受け入れられている意見の根拠になるものと言えば、それは理性そのものと同じくらい広範に行き渡っているものしかなかったであろう。言語にその責を求めるのが正しいと思われる理由はなによりもまず、抽象的観念のもっとも有能な擁護者たちが明白に自認しているところにある。すなわち彼らが認めるところによると、抽象的観念は命名のためにつくられる。ここから明らかに帰結するのは、もし言語あるいは一般的記号といったようなものがなかったなら、抽象などということを誰も考えはしなかっただろうということである。これについては、『人間知性論』第三巻第六章第三九節その他を見ていただきたい。そこで、言葉がどのようにしてこの誤謬の源泉になったのかを吟味してみよう。
 まず第一に、彼らの想定によると、どの名前も隔離され(precise)固定した(settled)ひとつのものだけを表示しているし、表示すべきである。彼らはこの想定に促されて、何らかの抽象的(abstract)で確定した(determinate)観念が存在し、おのおのの普通名詞がほんらい直接に表示しているのはこの観念だけであって、この抽象的観念の媒介によって普通名詞は個別的な事物のすべてを表示するようになる、と考えてしまう。しかしながら、じつを言えば、何らかの普通名詞に結びついていて、これが表示するひとつの隔離された明確な(definite)ものといったようなものはない。普通名詞はすべて大量の個別的観念を無差別に表示するからである。このことはすべて、これまで述べてきたところから明らかに帰結するし、ちょっと考えてみれば誰にも明らかなことであろう。しかし、これにたいして彼らはこう反論するだろう、「どの名前も定義されるなら、何かひとつのものしか表示できなくなる。たとえば、〈三角形は三つの直線によって囲まれた平面である〉と定義されるなら、これによって三角形という名前は何かひとつの観念だけを指示し、他の観念を指示できなくなる」。これにたいして私はこう答える。この定義においては、平面が大きいか小さいか、黒いか白いか、辺が長いか短いか、等しいか等しくないか、あるいは、辺はどんな角をなして互いに傾いているのかは語られていない。これらすべての点はじつにさまざまでありうるのであって、したがって三角形という言葉が表示するたったひとつの固定した観念などない。ある名前を同じ定義のもとで使い続けるということと、いたるところでその名前に同じ観念を代表させるということは、まったく別のことである。前者は必要なことであるが、後者は無益だし実行不可能である。

一九 しかし〔第二に〕、言葉がどのように抽象的観念の学説を生みだすようになったのかをさらに説明するために、定説になっている二つの意見を述べておかねばならない。そのひとつによれば、言語にはわれわれの観念を伝達するという目的しかない。さらに、うひとつの意見によれば、何かを表示する(significant)名前はどれも、何らかの観念を代表する。後者の意見に加担する人びとはさらに、何らかの名前がたしかに何かを表示しているにもかかわらず、しかし、思い浮かべられる個別的観念をいつも表わしている(mark out)わけではないのは確実だと主張し、そこからただちに、名前は抽象的概念を代表すると結論する。思弁をこととする人たちの使っている多くの名前が、特定の個別的観念を他の人たちにいつも示唆するわけではないというのは、たしかに誰も否定しないことだろう。しかし、ちょっと注意してみれば分かるように、名前が観念を表示し代表するからといって、名前は使用されるたびにいつも、それが代表するとされている当の観念を知性のなかに引き起こす必要はない(もっとも厳密な推論においてすらその必要はない)。なぜなら、読書や談話において、名前の使われ方はほとんどの場合、代数学での文字の使われ方と同じだからである。つまり代数学においては、どの文字も個別的な量を表わしているにもかかわらず、しかし、正しい手続きを踏むためには、あらゆる段階においてとの文字も、それが代表するよう取り決められていた当の個別的な量をあなたがたの思考に示唆する必要はないのである。

二〇 さらに〔前者の意見によると〕、言葉によって表わされる観念を伝達することが言語の主要で唯一の目的だということになっているが、しかしそうではない。たとえば、ある情念を引き起こす、ある行為を促すあるいは躊躇させる、精神を何か特定の気分に陥らせるといった他の目的もある。前者の目的は多くの場合、この後者の目的にとって従属的でしかないし、後者が前者なしに達成される場合には、伝達の目的はまったく無視されることもある。このことは言語の普段の使い方で頻繁に見られることだと思われる。何らかの談話を読んだり聞いたりするとき、恐怖、愛憎、称賛、軽蔑等々といった情念が、ある言葉を知覚した途端に、観念が割って入ることなしに精神のなかにじかにわき出てこないかどうか、読者諸賢がみずから顧みて考えていただきたい。なるほど、最初のうちは、こうした感情を生むに適した観念を言葉が引き起こしたのかもしれない。しかし、私が間違っていなければ、言語がいったん馴染みのものになると、音声を聞いたり文字を見たりするだけで、そうした情念がじかに付随してくることがしばしばある。これらの情念は最初は観念の介在によって生みだされるのが常であったのであろうが、しかしいまとなってはこの観念はまったく無視されているからである。たとえば、「いいものをあげる」という約束によってわれわれに喜びの感情がわくけれども、しかし、そのいいものが何であるかの観念をもたないということはないのだろうか。あるいは、「危ない」と脅かされるだけで恐怖が引き起こされるけれども、しかし、われわれに降りかかりそうな個別的な害悪のことを考えるわけでもなければ、いわんや、危険の抽象的観念をつくるわけでもないということはないのだろうか。話し手が普通名詞によって自分自身の精神のなかの観念を表示するつもりなどなくても、さらにはその名詞によって聞き手の精神のなかに当の観念を引き起こそうと思っていなくても、これらの普通名詞がしばしば適切に使用されるということは、これまで述べてきたことをほんの少しでもみずから顧みる人にとっては明白であろう。固有名詞が語られるときですら、その名前によって表わされると想定されている個人の観念を見てとることがつねに意図されているわけではない。たとえば、あるスコラ哲学者が私に「アリストテレスもそう言っていた」と語るとする。彼がこの発言で意図しているのはおそらく、この名前と結びつけられるのが常である敬意や服従をもって私がそのスコラ哲学者の意見を抱く気になるということでしかない。そしてこの効果は、自分の判断をあの哲学者の権威に譲り渡すのに慣れきった人たちの精神のなかには瞬く間に生みだされてしまい、当のスコラ哲学者の人柄、著作あるいは評判の観念のどれかがこうした効果に先立つことなどありえない。この種の例は数えきれないほど挙げることができようが、しかし、誰もが十分に経験ずみだと思われることをこれ以上詮索するのはやめにしよう。

ニー これまでわれわれは、抽象的観念が不可能であることを指摘してきた。〔次いで〕抽象的観念のもっとも有能な擁護者たちが述べてきたことを考察し、抽象的観念がそのために必要だとされてきた目的にとって、それは何の役にも立たないということを指摘しようと努めてきた。そして最後に、抽象的観念が生みだされる起源にまで遡り、それが言語であることを明らかにした。なるほど言葉にはすぐれた使い道がある。あらゆる時代や民族において探究心旺盛な人たちがこぞって努力した末に得られた知識の在庫すべてが、言葉のおかげでたった一人の人間の視野におさまり所有されうるからである。しかしそれと同時に、大部分の知識が言葉の誤用によって、そしてそうした知識を伝えるための一般的な話し方のせいで、奇妙なまでに紛糾し曖昧になってきたことも認めねばならない。したがって、言葉は知性を欺きがちだから、私はいかなる観念を考察するにせよ、長年の絶えざる使用によってこの観念と固く結びついてきた名前をできるだけ私の思考から剥ぎとって、ありのままの裸の姿でこの観念を見つめることにしよう。そうすれば、以下の利点を引き出せると期待していいだろう。

二二 第一に、私は言葉の上だけの争いから免れると確信できるだろう。この雑草がほとんどすべての学問において繁茂してきたがゆえに、真で健全な知識の成長が阻まれてきたのである。第二に、そうすることによって、抽象的観念の巧妙な罠から確実に脱出できる。この罠のせいで人びとの精神は惨めにも紛糾し困惑してきた。のみならず、奇妙なことに、繊細で探究心旺盛な精神の持ち主ほど、この罠に深く捕らえられ脱け出られなくなる。第三に、言葉を剥ぎとられた私自身の観念にのみ思考を集中するかぎり、どうして私がいとも簡単に誤るのかが理解できなくなる。私が考察する対象を、私は明晰かつ十全に知る。もってもいない観念をもっていると思って欺かれることなどなくなる。私自身の観念のどれかが、ほんとうは互いに似ているあるいは似ていないのに、そうだと思い込むことは不可能になる。私の観念のあいだにある一致あるいは不一致を見分け、複合した観念のなかにいかなる観念が含まれ、いかなる観念が含まれていないかを見てとるためには、私自身の知性のなかで生じていることに注意深く目を配りさえすればいいのである。

二三 しかし、これらの利点すべてを手に入れるためには、言葉による欺瞞から完全に解放されねばならない。私自身もかならずこれができると請け合えるわけではない。言葉と観念のあいだの結合ほど早くに始まって長期の習慣によって固められたものはないので、この結び目を解きほぐすのはきわめて困難なことだからである。この困難をさらに増大させたのが、抽象の学説であるように思われる。それというのも、抽象的観念は言葉と結びついていると人びとが考えるかぎり、彼らが観念に代えて言葉を使うのは不思議とは思われなくなるからである。なぜなら、抽象的観念それ自体はまったく理解不可能なものであるから、言葉を使わずにそうした観念を精神のなかにとどめておくのはできない相談だということが判明するからである。だからこそ、管見によれば、省察においては言葉を使わずに観念をありのままの姿で考察するよう口をきわめて他人に勧めた人たちも、やはり自分自身はうまくそうすることができなかったのである。近年、言葉の誤用から生じる不合理な意見や無意味な論争に非常に敏感になる人たちが増えてきた。そしてこれらの悪弊を矯正するために彼らは、観念を表示する言葉に目を向けず、表示されている観念に注目するようもっともらしく忠告する。しかし、彼らが他人に与えたこの忠告がどれほど適切であっても、彼ら自身はこれにしかるべき敬意を払えなかったのは明白である。それというのも彼らは、言葉の唯一の直接的な使い道は観念を表示することであり、どの普通名詞も確定した抽象的な観念を直接に表示していると考えたからである。

二四 しかし、彼らのこうした考えは誤りだということが知られるなら、われわれは言葉による欺瞞をもっと容易に防止できる。自分は個別的観念しかもっていないということを知っている人は、名前に結びつく〔とされる〕抽象的観念を見つけて理解しようと頭をしぼる無駄なことなどしなくなるだろう。名前はつねに観念を代表するわけではないということを知っている人は、見つかりもしない観念を探す徒労をやめにすることだろう。したがって、考察すべき観念から言葉の衣装と重荷を剥ぎとって、その観念を明晰に見てとるよう最大限の努力を傾けるのが望ましい。言葉こそ、判断を曇らせ注意を散漫にする主因だからである。天界に視野を広げても、大地の内部を覗き込んでも無駄である。識者の著作に助言を仰いでも、古人の曖昧な足跡をたどっても無駄である。われわれは言葉の覆いを取りはずして、きわめて見事な知識の木を見さえすればいい。この木の素晴らしい果実はわれわれの手の届くところにある。

二五 言葉ゆえの混乱と幻惑から知識の第一原理を浄化するよう気をつけなければならない。言葉にすがって果てしなく推論を重ねたところで、まったくの徒労に終わるだろう。どれほど帰結を引き出しても、その分だけ賢くなることはけっしてないだろう。先へ進めば進むほど、それだけ取り返しのつかないほどに方向を見失い、困難と虚偽の深みにはまり込むだろう。そこで、以下の論考を読もうとされる読者諸賢にお願いしたいことがある。私の言葉を自分自身の思索のきっかけにして、私が書いたときと同じ思考の流れで読むよう努めていただきたい。こうすることで読者は、私が言っていることの真偽を容易に判別できるだろうし、私の言葉によって欺かれる危険からも逃れられるだろう。自分自身の観念から欺瞞の覆いを剝ぎとり、それをありのままの姿で考察すれば、読者はいかようにしても誤診に陥ることはないからである。

人間的知識の原理について 第一部

一 人間的知識の対象を吟味しようとする誰にとっても明らかなように、これらの対象は、感官にじっさいに刻印される(imprinted)観念であるか、それとも、精神の受動と能動に注意することによって知覚されるような観念であるか、あるいは最後に、記憶や想像力の助けによって形成される観念、つまり、もともといま述べた仕方で知覚された観念を複合したり分割したりすることによって、あるいはたんにそれらを再現することによって形成される観念であるかのいずれかである。視覚によって私は、さまざまな度合いと変化をもつ明るさと色の観念を手に入れる。触覚によって私は、たとえば硬さと柔らかさ、熱さと冷たさ、運動と抵抗を知覚し、さらにはこれらすべてをその量や程度にかんしてさまざまに知覚する。嗅覚は私ににおいを与え、味覚は味を与える。そして聴覚は精神に、あらゆる音調をさまざまに組み合わせた音を伝えてくれる。さらに、これらのいくつかは相互に随伴することが観察されるので、一つの名前で呼ばれ、そうすることで一つの事物とみなされるようになる。たとえば、ある色、味、におい、形そして硬さが相伴うのが観察されると、それらは一つの特定の事物とみなされ、リンゴという名前によって表示される。これ以外の観念の集まりも、石、木、本、そしてこれらに類した感覚可能な事物をつくりあげ、これらの事物は快適であったり不快であったりするのに応じて、愛憎、悲喜等々の情念を引き起こす。

ニ  しかし、このような果てしなく多様な観念すなわち知識の対象すべてのほかにさらに、これらを知るあるいは知覚する何かが、つまり、意志する、想像する、思い出すといったさまざまなはたらき(operations)を観念にたいして行使する何かが存在する。この知覚する能動的な(active)存在者は、私が精神(mind)、(spirit)、(soul)あるいは私自身(my self)〔私の自我〕と呼ぶものである。これらの言葉によって私が指示しているのは、私の観念のうちのどれかではなく、これらの観念から全面的に区別される事物である。つまり、もろもろの観念はこの事物のうちに存在する、あるいは同じことだが、この事物によって知覚される。それというのも、ある観念が存在するということは、知覚されるということにその本領があるからである。

三 誰でも承認するように、思考内容も、情念も、想像力によって形成される観念も、精神のそとには存在しない。そしてこれに劣らず明白なことに、さまざまな感覚(sensation)つまり感官に刻印されるさまざまな観念は、どれほど混合され結合されようとも(つまり、いかなる対象をつくろうとも)、これらの観念を知覚する精神のなか以外には存在できない。存在する(exist)という言葉が感覚可能な事物に適用されるとき、それが何を意味するのかに注意する人なら誰でも、このことを直観的に知ることができるだろう。「私がこれを書いている机は存在する」と私は言う。すなわち、私はこの机を見るし、これに触る。そして、もし私が書斎のそとにいるとしても、私は「それは存在する」と言うだろう。この発言によって私が意味しているのは、「もし私が書斎にいるなら、私はそれを知覚するだろう」あるいは「何か他の心がじっさいにそれを知覚している」ということである。においが存在した、すなわち、そのにおいが嗅がれた。音が存在した、ということはつまり、その音が聞かれた。色あるいは形が存在した、つまり、それらが視覚あるいは触覚によって知覚された。私がこの「存在する」あるいはそれに類した表現で理解できるのは、以上のことだけである。それというのも、「思考しない事物は絶対的に存在する、すなわち知覚されることとは何の関係もなしに存在する」といくら言われたところで、その発言はまったく理解不可能だからである。そうした事物が存在する(esse)ということは知覚されている(percipi)ということなのであって、その事物がそれを知覚する〈精神すなわち思考する事物〉のそとに存在するなどというのは不可能なのである。

四 〈家、山、川、一言で言えば、感覚可能な対象はすべて自然的に存在するあるいはほんとうに存在する、つまり、知性によって知覚されるということから区別されて(distinct)存在する〉というのは、なるほど奇妙にも人口に膾炙した意見である。しかし、この原理が世間でどれほど大きな確信と黙認をもって迎え入れられているとしても、これをあえて疑問に付す気概をもつ人なら誰でも、もし私に誤りがなければ、これが明白な矛盾を含むことに気づくだろう。それというのも、たったいま言及した対象は、われわれが感官によって知覚する事物以外の何であろうか。そしてわれわれは、われわれ自身の観念あるいは感覚以外の何を知覚するというのだろうか。ということはつまり、これらの観念のどれかが、あるいはこれらの観念の組み合わせ(Combination)が知覚されずに存在するということは、明らかに矛盾しているのではないか。

五 もしこの〔人口に膾炙した〕主張を徹底的に吟味するなら、それはつまるところ抽象的観念の学説に依拠していることが判明するだろう。それというのも、感覚可能な対象が知覚されずに存在すると考えられるようにするために、その対象が存在するということをそれが知覚されるということから区別する(distinguish)──このこと以上にはなはだしい抽象などありうるだろうか。明るさと色、熱さと冷たさ、延長と形、一言でいうなら、われわれが見て触れる事物はどれも、感覚、概念、観念、つまりは感官への刻印以外の何であろうか。そして、頭のなかでさえこれらのどれかを知覚から分離する(separate)ことなど可能であろうか。もしこれを容易に分離できるというのなら、私に言わせれば、それと同じくらい容易に、ある事物をそれ自身から切り離す(divide)こともできるだろう。なるほど私は、これまでおそらくけっして切り離されたものとして感官によって知覚しなかった事物を、頭のなかで切り離すことができる、あるいはそれらを互いに分離して(apart)考えることができる。たとえば私は、四肢のない人間の身体の胴体を想像するし、あるいは、薔薇そのものを考えずとも薔薇のにおいを思い浮かべることができる。このかぎりで、私はたしかに抽象できる。つまり、ほんとうに分かれて(asunder)存在することが可能であるような対象を、すなわちじっさいに分かれて知覚されることが可能であるような対象を分離したものとして(separately)考えるということ──これだけを抽象と呼ぶのが適切であるとするなら、なるほど私は抽象できる。しかしながら、考えたり想像としたりする私の能力は、〔対象あるいは事物が〕ほんとうに〔分かれて〕存在するこの可能性を、すなわちほんとうに〔分かれて〕知覚されるこの可能性を超えることはない。したがって、私がある事物をじっさいに感覚せずともその事物を見るあるいは触れることはできないのと同様に、私は頭のなかですら、何らかの感覚可能な事物あるいは対象を、それの感覚あるいは知覚から区別されている(distinct)ものとして考えることもできない。

六 真理のなかには、きわめて身近で明白であるがゆえに、目を開きさえすれば見てとれるものがある。次の重要な真理はそうしたものであろう。つまり、天界の聖歌隊や地上の備品のすべて、約言するなら、世界という巨大な構築物を構成しているすべての物体は精神のそとでは自存できず、それらが存在するというのは知覚されるあるいは知られるということであり、したがって、それらが私によってじっさいに知覚されないかぎりは、あるいは、私の精神のなかに存在しないかぎりは、もしくは私以外の何らかの被造的存在者の精神のなかに存在しないかぎりは、それらはそもそもまったく存在しないか、それとも、何らかの永遠の存在者の精神のなかで存続するにちがいない。こうした物体のどれかひとつの部分が精神から独立に存在すると考えることは、まったく理解不可能で、抽象にまつわるすべての不合理を抱え込むからである。この真理を確信するためには、読者はよくよく考えたうえで、感覚可能な事物が存在することをそれが知覚されることから分離できるかどうか、それも自分自身の頭のなかでさえ分離できるかどうか試すだけでいいだろう。

七 上述のことから、すなわち知覚するもの以外の実体は存在しないことが帰結する。しかし、この点をもっと十分に論証するためには、以下のことを考えてみればいい。感覚可能な性質とは色、形、運動、におい、味等々のことである、つまりは、感官によって知覚される観念である。しかるに、知覚しない事物のなかに観念が存在するというのは、明らかな矛盾である。なぜなら、観念をもつということは、知覚するということとまったく同じだからである。したがって、色、形そしてそれに似た性質がそのなかに存在するものは、そうした性質を知覚するのでなければならない。それゆえ、こうした観念のそれを支える〕〈思考しない実体あるいは基体〉が存在できないのは明らかである。

八 「しかし」とあなたがたは言う、「観念そのものは精神のそとには存在しないけれども、観念と似ている事物は存在するかもしれない、つまり、観念はこの事物の写しあるいは類似物であって、こうした事物は精神のそとに存在する、つまり、思考しない実体のなかに存在する」。これにたいする私の回答は以下のとおりである。観念は観念にしか似ることができない。とはある色は別の色に、ある形は別の形にしか似ることができない。もしわれわれがほんの少しでもわれわれの頭のなかを覗いてみるなら、観念のあいだ以外に類似(likeness)を思い浮かべるのは不可能であることが分かるだろう。さらに私は尋ねたい。われわれの観念がそれの像あるいは代理である原則あるいは外的な事物と想定されているものは、それ自身が知覚されるのか、それとも知覚されないのか。もし知覚されるのであれば、それらは観念であって、われわれの勝ちになる。しかし、もし知覚されないとあなたがたが言うなら、色は目に見えない何かに似ているとか、硬軟は触れることのできない何かに似ている等々と主張することに意味があるのかどうかを、誰にせよ吟味していただきたい。

九 第一性質と第二性質を区別する人たちがいる。彼らは前者によって、延長、形、運動、静止、固体性つまり不可入性、そして数を考えている。彼らが後者によって示しているのは、これら以外の感覚可能な性質のすべて、たとえば、色、音、等々である。彼らによれば、これら後者の感覚可能な性質についてわれわれがもつ観念は、精神のそとに存在する事物、つまり知覚されずに存在する事物の類似物ではない。しかし彼らは、第一性質についてのわれわれの観念を、精神のそとに行在する事物、つまり彼らが物質と呼ぶ思考しない実体のなかに存在する事物の模像つまり似像にしようとしている。したがって物質ということによってわれわれは、感官をもたない不活発な実体を理解し、この実体のなかに延長、形そして運動がほんとうに存在すると考えねばならないことになる。しかし、これまで指摘したことから明らかなように、延長、形そして運動は精神のなかに存在する観念でしかなく、ある観念は別の観念にしか似ることはできない、したがってこれらの観念もそれらの原型も、知覚しない実体のなかには存在できない。それゆえ、物質あるいは物的実体と呼ばれているものの概念そのものが、そのなかに矛盾を含んでいるのは明らかである。

一〇 形、運動そして他の第一性質あるいは原型的性質が精神のそとに存在する、つまり思考しない実体のなかに存在すると主張する人たちは、それと同時に、色、音、熱さと冷たさ、そしてこれらに類した第二性質はそのようには存在しないと認める。それというのも、彼らに言わせれば、これらの性質は精神のなかにのみ存在する感覚であり、これらの感覚は物質の微細な粒子のさまざまの大きさ、肌理そして運動に依存し、これによって引き起こされるからである。彼らはこのことを、いかなる異論も許さずに証明できる不可疑の真理とみなしている。さて、これらの原型的性質はそれ以外の感覚可能な性質と不可分に結合していて、頭のなかでさえそれらから切り離される(abstracted)ことはありえないということが確実であるなら、そうした原型的性質は精神のなかにしか存在しないことが明らかに帰結する。しかるに、他でもいいからよくよく考えたうえで、物体の延長や運動を頭のなかでの分離〔抽象〕(abstraction)によってこれら以外のすべての感覚可能な性質なしに思い浮かべられるかどうか試してもらいたい。私自身はと言えば、延長して運動する物体の観念をつくるためには、この観念に何らかの色やそれ以外の感覚可能な性質を同時に与えなければならないと明白に見てとるが、しかし、こうした感覚可能な性質は精神のなかにしか存在しないと認められている。要するに、延長、形そして運動は、これら以外のすべての感覚可能な性質から切り離されるなら、思い浮かべることができない。したがって、こうした他の感覚可能な性質が存在するところには、これら延長等もまた存在するにちがいない。すなわち、延長等は精神のなかに存在するのであって、ここ以外のどこにも存在しない。

一一 あらためて言うなら、大きい小さい速い遅いは、精神のそとのどこにも存在しないと認められている。それというのも、これらはまったく相対的だから、つまり、感覚器官の構造や位置が変化するのに応じて変わるからである。したがって、精神のもとに存在する延長は大きくも小さくもないし、精神のそとに存在する運動は速くも遅くもない、すなわちそれらはまったく何ものでもない。しかしあなたがたは、それらは延長一般、運動一般なのだと言う。こうしてわれわれは、延長した運動する実体が精神のそとに存在するという主張がどれほどあの抽象的観念という奇妙な学説に依存しているのかを見てとることになる。そして、ここでどうしても述べておきたいのだが、現代の哲学者たちが彼ら自身の原理のゆえに陥っている物質あるいは物体的実体の曖昧で漠然とした説明は、アリストテレスとその追随者たちのもとでの第一質料(materia prima)というたいそう笑いものになっているあの古びた考えにきわめて似ている。延長がなければ、固体性など思い浮かべられない。しかるに、すでに指摘しておいたように、延長は思考しない実体のなかには存在しない。それゆえ、同じことは固体性にも当てはまらなければならない。

一ニ たとえ数以外の性質が精神のそとに存在すると認められるとしても、数はことごとく精神の産物である。同じ事物であっても、精神がそれを異なった観点で見るのに応じて、異なる数で呼ばれることを考慮するなら、誰にとってもこのことは明白であろう。たとえば、同じ延長でも、精神がヤード、フィートあるいはインチのどれを参照しながら考慮するかに応じて、一、三あるいは三六である。数はきわめて明白に相対的である、つまり人間の知性に依存している。したがって、数に精神のそとの絶対的存在とりえる手立てを講じるなどというのは、奇妙きてれつなことである。一冊、一頁、一行という言い方がある。これらのうちのあるものは他のもののいくつかを含むにしても、これらはすべて等しく単位である。そしてこれらの単位のいずれにおいても、その単位がかかわるのは明らかに、精神によって任意に結合された観念のある個別的な組み合わせである。

一三 単一性は単純観念つまり複合されていない観念であって、他のすべての観念に随伴して精神のなかに入ってくる、と考える人たちがいることは承知している。単一性という言葉に対応するそのような観念を私がもっていることを、私は確認できない。もしそうした観念をもっているのなら、私がそれを見逃すはずはないだろう。むしろ逆に、それは私の知性にとってもっとも身近なはずであろう。なにしろ、すべての他の観念に随伴し、あらゆるたくいの感覚と反省によって知覚されると言われているからである。もうこれ以上言わずとも知れることであろうが、単一性は抽象的観念である。

一四 さらに付け加えておこう。現代の哲学者たちは、感覚可能な性質のいくつかが物質のなかには存在しない、つまり精神のそとには存在しないことを論証している。これと同じやり方で同じことを、何であれ他のすべての感覚可能な性質についても同様に論証できる。たとえば、熱さと冷たさは精神のみがこうむる変様であって、ほんとうに存在するものの模像などではない、つまりこれらの冷熱を引き起こす物体的実体のなかに存在するものの模像ではない、と言われている。それというのも、一方の手に冷たく現われる同じ物体が他方の手には温かいと思われるからである。しかるに、これと同様に、形と延長は物質のなかに存在する性質の模像あるいは類似物ではないと論じてなぜいけないのか。なぜなら、同じ目でも異なった場所にあれば、あるいは、その目が同じ場所にあっても構造が異なっていれば、形や延長はさまざまに現われ、したがって、精神のそとの不変の一定した何ものかの似像ではありえないからである。さらに、甘さは味を引き起こす事物のなかにほんとうにあるのではないことが論証されている。なぜなら、当の事物が変化しないのに、発熱したりその他の変調が舌に起きたりしたとき、甘さは苦さに変わるからである。運動は精神のそとには存在しないと言うことは、この場合と同じくらい理にかなったことではないだろうか。それというのも、精神のなかの観念の継起が速くなればなるほど、外的対象には何の変更がなくても運動はそれだけ遅く現われることが認められるからである。

一五 手短に言おう。色や味が精神のなかにしか存在しないことを明白に論証すると思われているこうした議論をよくよく考える人なら、その議論が同じ威力をもって同じことを延長、形そして運動についても論証することになるのを見てとるだろう。ただし、認めなければならないことだが、このやり方の議論が論証しているのは、延長や色が外的対象のなかに存在しないということではなく、むしろ、この対象の真の延長や色はいったいどれなのかを感官によって知ることはできないということでしかない。しかし、これに先立つ議論は、色や延長はすべて、あるいは他のいかなる感覚可能な性質も、精神のそとの思考しない基体のなかに存在できないということを、あるいはじつのところ、およそ外的対象といったような事物は存在できないことを明白に示しているのである。

一六 しかし、巷間に流布している意見をもう少し調べてみよう。延長は物質の様態あるいは偶有性であり、物質はそれを支える基体である、と言われている。さて、「物質が延長を支える」という言い方で何が意味されているのかを説明してほしいものである。「物質の観念などもっていない、だから説明できない」とあなたがたが言うのなら、私はこう答えよう。あなたがたは物質の絶対的な観念はもっていないとしても、しかし、もしその言い方の意味するところが少しでも分かるというのなら、少なくとも物質の相対的な(relative)観念をもっているのでなければならない。すなわち、あなたがたは物質が何であるかを知らないとしても、物質が偶有性といかなる関係(relation)をもっているのかを、つまりは、物質が偶有性を支えるということによって何が意味されているのかを知っているはずである。ここでの「支える」という言葉は明らかに、柱が建物を支えるといった言い方に見られるような、普通の文字どおりの意味では受け取られていない。それでは、いかなる意味で受け取られねばならないのか。

一七 きわめて鋭敏な哲学者たちは、物質的実体ということで何を意味しているのかが分かっていると公言する。しかし、彼らの意味するところを調べてみると、彼らがこれらの音に結びつけているのは、存在者一般の観念と、それが偶有性を支えるという相対的な概念でしかないと彼ら自身が認めているのが分かるだろう。存在者という一般的観念は私にとって、あらゆる一般的観念のうちでもっとも抽象的で理解不可能であるように思われる。そして、存在者が偶有性を支えるということは、たったいま述べたように、これらの言葉の普通の意味では理解できず、したがって何か別の意味で受け取られねばならないが、しかし彼らは、この別の意味が何であるかを説明していない。したがって私は、物質的実体という言葉が表示しているこれら二つの部分ないし分枝を考えてみると、これらにはいかなる明確な意味も結びついていないと確信する。しかし、形や運動、あるいはその他の感置可能な性質のこの物質的基体あるいは支えについて論じることで、なぜわれわれは余計な厄介ごとに巻き込まれなくてはならないのか。この基体なるものは、それらの性質が精神のそとに存在すると想定してはいないだろうか。そして、この想定はそれだけですでに矛盾していて、まったく理解不可能ではないだろうか。

一八 しかし、われわれが物体についてもっている観念に対応する固くて形をもっていて運動する実体が、かりに精神のそとに存在することは可能だとしても、われわれはこのことをいかにして知ることができるのか。われわれがそれを知るのは、感官によるか理性によるかのいずれかでなければならない。われわれの感官にかんして言えば、われわれがこれによって知るのは、われわれの感覚や観念、すなわち感官によって直接に知覚される事物だけである(これらを何と呼ぼうとかまわない)。しかし感官は、知覚される事物に似た事物が精神のそとに存在する、つまり知覚されずに存在するということをわれわれに教えてくれるわけではない。このことは物質論者自身でさえ認めている。したがって、いやしくもわれわれが外的な事物を知るとするなら、それは理性によるのでなければならない。つまり、外的な事物が存在することを、感官によって直接に知覚されるものから推論するしかない。しかし、われわれが知覚するものをもとにして、物体が精神のそとに存在することをわれわれに信じるようにさせるのは、いかなる理性なのだろうか。なぜなら、物質を擁護する人びと自身も、物体とわれわれの観念とのあいだに何らかの必然的結合があるなどと言い張りはしないからである。私に言わせれば、あまねく認められているように(そして、夢、錯乱等々で生じることが議論の余地なく示しているように)、われわれがいまもっている観念に似ている物体が外部にまったく存在しないにもかかわらず、われわれはそうした観念のすべてをもつことが可能である。したがって、外的物体の想定は明らかに、われわれの観念を生みだすために必要ではない。なぜなら、外的物体が同時に作用しなくても、現在われわれが見ているのと同じ秩序で観念がときに生みだされ、ひょっとしたらつねに生みだされうるということが承認されているからである。

一九 「しかし、外的物体がないのにすべての感覚をもつことは可能であるにしても、感覚に似た外的物体を想定するやり方のほうが、いかにして感覚が生みだされるかを、おそらく他のやり方よりももっと容易に理解し説明できると思われる。したがって、物体といったような事物が存在するのであって、これがわれわれの精神のなかにその観念を引き起こすことは、少なくともありうることである」〔と、あなたがたは反論するかもしれない〕。しかし、この反論も不可能であって、その理由は以下のとおりである。かりに物質論者に譲歩して、彼らが言う外的物体を承認するにしても、彼ら自身が認めているように、われわれの観念がいかにして生みだされるかを彼らがその分だけきちんと知ることにはけっしてならない。なぜなら、彼ら自身が白状しているように、いかなる仕方で物体が精神に作用できるのか、あるいは、いかにして物体が観念を精神のなかに刻印できるのかを、彼らは理解できないからである。したがって、われわれの精神における観念あるいは感覚の産出は明らかに、物質あるいは物体的実体を想定する理由にはなりえない。この産出は、こうした想定のあるなしにかかわらず、いずれにせよ説明不可能のままだと認められているからである。それゆえ、物体が精神のそとに存在することが可能だとしても、じっさいに存在すると主張することは、きわめて当てにならない意見でしかないにちがいない。それというのも、そのように主張するということは、神はまったく不要なものを、つまり何の役にも立たないものを無数に創造したと何の根拠もなしに想定することだからである。

二〇 要するに、外的物体が存在するとしても、われわれがこのことを知るようになるのは不可能である。そして、外的物体が存在しないのにそれが存在すると考えるための理由は、われわれがいま〔前節での反論として〕もっているのとまったく同じ理由しかない。〔すなわち、〕次のように想定していただきたいし、この想定が可能だということは誰も否定しないだろう。ある知性体が、外的物体の助力などないのに、あなたがたがいまもっているのと同じ一連の感覚あるいは観念をもっていて、しかもこれらが同じ秩序と生気をもって彼の精神のなかに刻印されているとしよう。そこで私は尋ねたい、彼の観念によって代理され、彼の精神のなかにこれらの観念を引き起こす物体的実体が存在するとこの知性体が信じるようになる理由は、あなたがたが同じことを信じるためにおそらくもっている理由しかないのではないのか。これについては疑問の余地がない。理屈をわきまえた人であれば、このたった一つのことを考察するだけで、物体が精神のそとに存在するということを論証するために自分がいかなる議論を繰り出そうとも、これらの議論のいずれもまったく無力ではないかとすぐにも疑ってかかるからである。

ニー 物質の存在を論駁するためにこれまでに述べたことにさらに論証を付記する必要があるとするなら、この学説から出てきた誤謬や難点(不敬は言うまでもないが)のいくつかを例示できるだろう。この学説は哲学においては数知れぬ論争や論議を、そして宗教においてははるかに重要な少なからぬ論争や論議を、その結果として引き起こしてきたからである。しかし、ここでそれらの詳細に立ち入るのはやめておこう。アプリオリなやり方ですでに十分に証明された(思い違いでなければ、私は十分に証明しておいたつもりである)ことを確認するために、アポステリオリな論証など不要だからだし、また、後にこれらの論証にいくらか触れる機会もあるからである。

二二 この主題を扱うにあたって、不必要なまでに冗長に書いているとの誇りを、私は免れないかもしれない。それというのも、ほんの少しでも熟慮できる人になら一行か二行できわめて明証的に証明されうることを長々と論じたところで、それが何の役に立つのだろうか。この熟慮にあたっては、あなたがた自身の頭のなかを覗き込んで、音、形、運動あるいは色は精神のそとに存在できる、つまり知覚されずに存在できると考えることができるか試すだけでいい。この簡単な試みだけで、あなたがたが擁護しようとしていることはまったくの矛盾だということが見てとれるだろう。そこで私は次の論点にすべてをかけることにしよう。何かひとつの延長した運動する実体が、あるいは一般に、何かひとつの観念ないし観念に似た何かが、それを知覚する精神のなか以外に存在できる、とあなたがたが考えることができさえすれば、私は即座に降参しよう。そして、あなたがたが擁護する外的物体の集合体すべてにかんして言えば、たとえ、それが存在すると信じる理由をあなたがたが挙げることができなくても、あるいは、それが存在すると想定されても何のに立つのか分からないとしても、それが存在することも認めよう。あなたがたの意見が真であるという可能性だけで、じっさいそれが真であることを論証していることにしよう。

二三 「しかし」とあなたがたは言う、「たとえば、ある公園のなかの木を想像する、あるいは私室のなかに本があるのを想像する、そして、そばにはそれらを知覚する人が誰もいないのを想像する──これ以上に簡単なことはないはずだ」。これにたいして私はこう答える。あなたがたはそう想像できるし、そこには何の困難もない。しかしこのように想像するということは、あなたがたがとかと呼ぶ何らかの観念をあなたがたの精神のなかでつくっているくせに、それと同時に、それらを知覚できる誰かの観念をつくるのを怠っているということでしかないのではないか。しかし、そう想像している間じゅうずっと、あなたがた自身がそれらの木や本を知覚している、あるいは考えているのではないか。だから、この反論は何の役にも立たない。その反論は、あなたがたはあなたがたの精神のなかに想像する能力を、あるいは観念をつくる能力をもっているということしか示していないのであって、あなたがたの思考の対象が精神のそとに存在できる、とあなたがたが考えることができるということまで示しているわけではない。この後者のことを明示するためには、そうした思考の対象は思い浮かべられずに存在する、あるいは考えられずに存在すると考えることが必要であるが、しかしこのことは明白な矛盾である。外的物体が存在するとわれわれが全力を挙げて考えている間じゅう、われわれはわれわれ自身の観念のことを思いめぐらせているだけなのだ。しかし、精神が自分自身を注視しないときには思い違いをして、物体は考えられずに存在する、あるいは精神のそとに存在すると考えることができると思ってしまうし、じっさいそう考えていると思い込む。しかしながら、精神がそのように考えているときには、それと同時にそれらの物体は精神自身によって把握されている、あるいは精神自身のなかに存在しているのである。ほんのわずかでも注意してみれば、ここで言われていることが真で明白であることは誰にも分かるだろうし、物質的実体の存在への反論をこれ以外に挙げることなど不要であろう。

ニ四 感覚可能な対象がそれ自体で絶対的に存在するすなわち精神のそとに存在するという言い方で意味されていることを理解できるかどうかを知るためには、われわれ自身の頭のなかをほんのわずかでも調べてみればいい。私にとってこれらの言葉は明らかに、まったくの矛盾を指すか、さもなければ何も意味していないかのどちらかである。そして他の人たちにこのことを確信させるためには、彼らが落ち着いて彼ら自身の思考に注意してみるよう請うよりも手っ取り早く適正な手段はないと思う。そして、もしこの注意によってこうした表現の空虚さや矛盾が明らかになるなら、彼らを説得するためにこれ以上のことはまったく不要である。したがって、私が力説したいのはまさにこの点、つまり、思考しない事物の絶対的存在というのは意味のない言葉であるか、さもなければ矛盾を含む言葉であるということである。これこそ私が繰り返し説き続け、注意深く考える読者に心から推奨していることなのである。

二五 われわれの観念、感覚はすべて、あるいは、われわれが知覚する事物(これをいかなる名前で区別してもかまわない)はすべて、明らかに非能動的(inactive)であり、それらのなかには力(power)あるいは作用力(agency)はまったく含まれていない。したがって、ひとつの観念あるいは思考の対象が他の観念を生むことはできない、あるいは他の観念を変えることはできない。これが真であることを納得するためには、われわれの観念を観察するだけでいい。それというのも、われわれの観念およびそのどの部分も精神のなかにしか存在しないのだから、それらのなかには知覚されるものしかない、しかるに、感官の観念であれ反省の観念であれ、自分の観念に注意するものは誰でも、これらのなかにいかなる力も活動(activity)も知覚しないだろう、したがって、これらのなかにはそうしたものは含まれていないことになるからである。わずかな注意でわれわれに明らかになるように、観念の在り方そのものが受動的(passive)で不活発(inert)なのであって、観念がなにごとかを行う、あるいは厳密に言えば、何らかの事物の原因であることは不可能である。さらにはまた、第八節から明らかなように、観念は何か能動的(active)な存在者の類似物あるいは模像であることも不可能である。ここから明らかに帰結するのは、延長、形そして運動はわれわれの感覚の原因ではありえないということである。したがって、これらの感覚が粒子の配置、数、運動そして大きさから出てくる力の結果だと語るのは、間違いなく虚偽でなければならない。

二六 われわれは観念がたえず継起するのを知覚する。新たに引き起こされる観念もあれば、変化する観念もあり、あるいは完全に消える観念もある。したがってこれらの観念には、それらが依存する原因があり、この原因が観念を生み変化させる。この原因が何らかの性質、あるいは観念、あるいは観念の組み合わせではありえないことは、前節から明らかである。したがって、この原因は実体でなければならない、しかるに、すでに示されたとおり、物体的あるいは物質的実体は存在しない、それゆえ、観念の原因は非物体的な能動的実体、つまり心であることになる。

二七 心は一つの単純で、分割できない、能動的な存在者である。心が観念を知覚するかぎりで、それは知性と呼ばれ、観念を生むもしくは観念にそれ以外の仕方ではたらきかけるかぎりで、それは意志と呼ばれる。したがって、魂あるいは心については、いかなる観念も形成できない。それというのも、およそ観念というのはすべて受動的で不活発であるから(第二五節を見よ)、能動的に作用するものを似像あるいは類似によってわれわれに示すことができないからである。ほんの少し注意してみれば誰にも明らかなように、観念を生んだり変えたりする能動的原理に似た観念をもつことは絶対に不可能である。つまり能動的に作用するものは、その本性からして、それ自体では知覚されえず、ただそれが生みだす結果によってのみ知覚される。ここで述べられていることが真であることを疑う人がいるのなら、その人にはよくよく考えたうえで、何らかの力もしくは能動的存在者について観念を形成できるかどうか、つまり、意志知性の名前で呼ばれている互いに区別される二つの原理的な力について観念をもっているかどうか試してもらいさえすればいい。さらに、これら二つから区別される観念として、あるいはの名前で表示される実体あるいは存在者一般について〈先の二つの力を支えるあるいはそれらの基体になっている〉という相対的な概念をもつとともに、これについて第三の〔絶対的な〕観念をもっているかどうか試してもらえばいい。そうした観念をもつことができると主張する人たちもいる。しかし、私の見るところ、意志という言葉はそれぞれ別の観念を表わしているのではない。あるいはほんとうのところを言えば、そもそも観念を表わすのではなく、観念とはまったく違う何か、つまり、およそ観念に似ることがありえない何か、あるいは、作用者(agent)であるがゆえに観念によって代理されることもありえない何かを表わしている。ただし、同時に認めておかねばならないことだが、魂や心について、そして、精神のはたらきについて、たとえば意志する、愛する、憎むといった精神のはたらきについて、これらの言葉の意味を知っている、あるいは理解しているかぎりで、われわれは何らかの概念をもっている。

二八 私は自分の精神のなかに好きなように観念を引き起こすことができるし、適切だと思うたびに精神の情景を変えることもできる。意志しさえすれば、すぐにも私の想像力のなかにあれこれの観念が生じるし、この同じ力によって、観念が消されたり、他の観念にとって代わられたりする。このように観念をつくったり壊したりするということがあるからこそ、精神はまことに適切にも能動的と呼ばれる。以上のことは確実であり、経験に基づいている。しかし、「思考しない作用者」とか「意志作用がないのに観念を引き起こす」といった言い方をするとき、われわれは言葉をもてあそんでいるにすぎない。

二九 なるほど私は自分自身の思考を制御する力をもってはいるものの、しかし、この力がどれほどのものであれ、感官によって現に知覚されている観念は、思考のように私の意志に依存しているのではない。昼日中に目を開けるとき、私は見るか見ないかを選択するわけにはいかないし、私の視界にどんな個別的な対象が飛び込んでくるかを決める力ももっていない。聴覚や他の感官についても同様であって、感官に刻印される観念は私の意志の産物ではない。したがって、これらの観念を生みだす何らかの他の意志あるいは心が存在する。

三〇 感官の観念は想像力の観念よりも強力で生き生きとしており判明である。さらには、より多くの堅固さ、秩序そして一貫性を備えている。つまり、人間の意志の結果である観念がしばしばそうであるようにでたらめに引き起こされるのではなく、規則正しい連結や系列をなして引き起こされる。こうした系列の驚くべき配置は、その創造者の知恵と善意をあますところなく立証する。さて、われわれが依存する精神は、われわれのうちに感官の観念を引き起こすにあたって、規則をたて秩序を定めたが、こうした規則や秩序は自然法則と呼ばれる。そして、これらの法則をわれわれは経験によって学ぶ。経験は、事物の通常の経過においてはしかじかの観念にはしかじかの他の観念が付随することをわれわれに教えてくれるからである。

三一 こうしたことを学ぶと、われわれはある種の予見を手に入れ、生活の便益のためにわれわれの行為を規制できるようになる。そして、こうした知識がなければわれわれはいつまでも手探り状態にあることになろう。つまり、感官の快をほんのわずかでも生みだし、感官の苦をわずかでも取り除くためには、どのように行為するのがいいのか分からなくなるだろう。食べ物がわれわれを養い、睡眠がわれわれに生気をよみがえらせ、火がわれわれを暖めるということ、播種期に種をまくと収穫期に取り入れができるということ、一般に、しかじかの結果を手に入れようとすればしかじかの手段が有益だということ──こうしたことすべてをわれわれは、われわれの観念のあいだの必然的結合を発見することによってではなく、確固とした自然法則を観察することによってのみ知る。この観察がなければ、われわれはすべて不確実と混乱に陥るだろうし、人生の諸事においていかに身を処すべきかは、成人といえども生まれたての赤子と同じくらい分からないことになろう。

三ニ しかしながら、この首尾一貫した斉一な作品は、これを支配し自然法則を定めようと欲した心の善性と知恵をこれほど明らかに示しているにもかかわらず、われわれの思考はこの心へ向かうのではなく、むしろ第二原因を探し求めて彷徨してしまう。それというののも、感官の観念のあるものが他の観念に恒常的に伴っているのをわれわれは知覚するし、このように伴うのはわれわれがやっていることではないということをわれわれは知っているにもかかわらず、われわれは性急にももろもろの観念そのものに力や作用力を帰して、ある観念を他の観念の原因にしてしまうからである。たとえば、視覚によって何らかの丸くて光る形を知覚し、それと同時に触覚によって熱さと呼ばれる観念ないし感覚を知覚するのを観察すると、ここからわれわれは太陽が熱さの原因であると結論してしまう。これと同様に、物体の運動と衝突に音が付随するのを知覚すると、われわれは後者が前者の結果であると考えがちである。しかし、これほどに馬鹿げていて不可解なことはない。

三三 自然の創造者によって感官に刻印される観念は、ほんとうに存在する事物(real things)と呼ばれており、そして、想像力において引き起こされる観念は、これに比べれば規則的でもないし、生き生きともしていないし、そして恒常的でもないから、観念と名づけるのがより適切だということになっている。つまり、この観念とは事物の似像(images of things)であって、この似像が事物を写し代理する(copy and represent)ことになっている。しかしながら、われわれの感覚はどれほど生き生きとして判明であっても、やはり観念である。すなわち感覚は、精神自身がつくる観念と同じく精神のなかに存在する、あるいは精神によって知覚される。なるほど感官の観念は、精神の産物よりもほんとうに存在する度合いが高い、つまり、より強力で整然としていて首尾一貫している。しかし、だからといって、この感官の観念が精神のそとに存在することにはならない。おまけに、これらの観念がこれらを知覚する〔人間の〕心あるいは思考する実体に依存する度合いは、〔精神の産物に比べると〕低い。感官の観念は他のもっと有能な心の意志によって引き起こされるからである。しかしながら、それでもやはりそれらは観念である。そして、いかなる観念も、弱いにしろ強いにしろ、それを知覚する精神のなか以外に存在できないの確かである。

三四 先に進む前に、これまで述べてきた原理にたいして寄せられるかもしれない反論に答えておくのは時間の無駄ではないだろう。こうしたことをするのは頭脳明晰な人たちにとってはあまりに冗長に思われるかもしれないけれども、このたぐいの事柄を誰もが等しく理解するとはかぎらないし、私にしてもすべての人に理解してもらいたいと願っているので、このような答弁を許していただきたい。第一にこういう反論が寄せられるだろう、「前述の原理によれば、自然においてほんとうに存在し自存するものすべてが世界から消え去り、それに代わって観念の妄想体系が生じることになる。存在するすべての事物が精神のなかにしか存在しなくなる、つまり、まったく空想上のものになってしまう。すると、太陽、月そして星はどうなってしまうのか。家、川、山、木、石について、いやわれわれ自身の身体についてさえどう考えなければならないのか。これらはすべてそれぞれ空想力の妄想あるいは幻覚でしかないのか」。この反論にたいして、そしてこれと同じたぐいの他のすべての反論にたいして、私は以下のように答えよう。先述の原理によって、自然におけるたったひとつの事物さえわれわれから奪われはしない。われわれが見て、触って、聞くものはどれも、あるいは、何らかの仕方で考えたり理解したりするものはどれも、相変わらず確実なままだし、相変わらずほんとうに存在する。事物の本性なるものがあるのであって、ほんとうに存在するものと妄想でしかないものの区別は完璧に保持されたままである。このことは第二九、三〇および三三節から明らかである。これらの節においてはまず、妄想つまりわれわれ自身がつくる観念と対立するほんとうに存在する事物ということで何が意味されているのかを指摘しておいたが、しかしその後では、これら両者が等しく精神のなかに存在すること、そしてこの意味ではどちらも観念であることを指摘しておいた。

三五 感官によるにしろ反省によるにしろ、われわれが把握できるものはどれも存在するのであって、私はこうした存在を論駁しているのではない。私が自分の目で見るもの、自分の手で触るものが存在するということ、それもほんとうに存在するということを、私は少しも疑わない。われわれがその存在を否定する唯一のものは、哲学者たちが物質とか物体的実体と呼ぶものだけである。そして、このように否定するからといって、哲学者たち以外の人びとが損害をこうむるわけではない。そうした人びとは、あえて言わせてもらえば、物質などなくてもいっこうに困らないからである。じっさい〔損害をこうむるのは無神論者と哲学者だけであって〕、無神論者は自分の不敬虔を支えるために〔物質という〕空虚な名前を口実にできなくなるだろうし、哲学者たちもおそらく、無駄口や論争のための大きな手がかりを失ったことに気づくだろう。

三六 いまの私の論述によって事物はほんとうに存在しなくなると思う人は、およそ考えうるかぎりきわめて明白な言葉で説明されてきたことをまったく理解していない。そこで、これまで述べてきたことをここで要約しておこう。精神的実体、精神あるいは人間的魂は、それ自身のなかに好きなように観念を意志したり引き起こしたりする。しかしこれらの観念は、感官によって知覚される他の観念に比べて、はかなく、弱くそして不安定である。後者の観念は、自然の何らかの規則ないし法則にしたがって人間的精神に刻印されるので、この精神よりも強力で賢明な何らかの精神の結果であることが示されるからである。この後者の観念は、ほんとうに存在する度合いが前者の観念よりも高いと言われるが、このことの意味は、後者がより強くわれわれを刺激し、より秩序立っていて、より判明だということ、そして、それらを知覚する精神がつくったわけではないということである。そしてまさにこの意味において、私が昼間に見る太陽はほんとうに存在する太陽であり、私が夜に想像する太陽はこの太陽の観念なのである。ほんとうに存在するということをいま説明した意味で受け取るなら、どの植物も、どの星も、どの鉱物も、そして一般にこの世界じ じゅうのすべての部分が、何か他の原理によるのと同じくらいわれわれの原理によっても、ほんとうに存在することは明らかである。ほんとうに存在するということに私が意味するのとは違うことを意味させることができるかどうかは、各自が自分の頭のなかを覗き込んで判断していただきたい。

三七 「しかし少なくとも、物体的実体がことごとく奪い去られることになる」と言う人もいるだろう。これにたいしては以下のように答えよう。もし実体という言葉が一般大衆の理解する意味で、つまり、延長、固体性、重さ、そしてこれに類した感覚可能な性質の組み合わせとして受け取られるなら、これを奪い取るという咎でわれわれが非難されるいわれはない。しかし、もし哲学的な意味で、つまり、精神のそとにある偶有性もしくは性質を支えるものとして受け取られるなら、たしかにわれわれはそれを奪い去っていると認めよう。けっして存在しないもの、想像力においてすら存在しないものを奪い取るのは、いっこうにかまわないと言われているからである。
四○ しかし、どれほど言い聞かせても、こんなふうに言い返したくなる人もいるだろう、「私はやはり自分の感官を信頼するだろうし、どれほどもっともらしい議論であろうとも、感官の確実性をしのぐことなどありえないと思う」。たしかにそのとおりである。感官の証言をどれほど尊重してもかまわない。われわれも同じことをするにやぶさかではない。私が見て聞いて触るものが存在するということ、つまり、私によって知覚されているということ──このことをわれわれは、自分自身の存在と同じくらい疑えない。しかし、感官の証言が、感官によって知覚されていない事物の存在証明になるのはどうしてなのか──これが私には分からない。われわれはなにも、誰かを懐疑主義者にしたいわけではない、つまり、彼の感官を疑わせようとしているのではない。むしろ逆であって、およそ考えうるかぎりの重要性と確実性を感官に付与しようとしているのだ。われわれがこれまで述べてきた原理ほどに懐疑主義に対抗する原理はないのであって、これについては後ほど明示することにしよう。

四一 第二にこういう反論が寄せられるだろう、「たとえば現実の火と火の観念には大きな違いがある、つまり、自分自身が火傷をする夢を見たり想像したりするのとじっさいに火傷をするのとでは大違いである」。この反論やこれに類した反論が、われわれの主張に反対するために持ち出されるかもしれない。これらすべてにたいする答弁は、これまですでに述べてきたところから明らかであるし、ここでは次の点を付記するだけにしておこう。もし現実の火が火の観念ときわめて違うのであれば、その火が引き起こす現実の痛みもまたその同じ痛みの観念ときわめて違うことになる。しかしながら、「現実の痛みがその痛みの観念と同様に、知覚しない事物のなかに、つまり精神のそとに存在する、あるいは存在できる」などとは誰も言わないであろう。

四二 第三にこういう反論が寄せられるだろう、「われわれは事物をわれわれのそとにじっさいにあるものとして、あるいは、われわれからじっさいに離れたものとして見る。したがって、これらの事物は精神のなかに存在するのではない。なぜなら、数マイルも離れたものとして見られる事物が、われわれ自身の思考と同じくらい近くにあるというのは馬鹿げているからである」。これに答えるには、以下のことを考えてもらえばいいだろう。すなわち、夢のなかでわれわれはしばしば事物をたいへん遠くに離れたものとして知覚するが、しかしそれにもかかわらず、これらの事物は精神のなかにしか存在しないと認められている。
四五 第四にこういう反論が寄せられるだろう、「前述の原理からすれば、事物はたえまなく絶滅しては新たに創造されることになる。感官の対象は知覚されるときにのみ存在する。だから、木々が庭に存在し、椅子が談話室に存在するのは、それらを知覚する誰かが傍に存在するあいだだけのことである。私が自分の目を閉じれば、部屋の家具はすべて無に帰するし、目を開けるだけで、それらはまた創造されることになる」。これらすべてに答えるにあたって私は、第三節、四節等々で述べられたことを参照するようにと読者に申し上げたい。そして、〈ある観念がじっさいに存在する〉という言い方によって、〈その観念が知覚されている〉ということから区別される何かを意味できるかどうかを考えていただきたい。私はと言えば、できるかぎり綿密に探究した後でさえ、この言い方で〈その観念が知覚されている〉ということとは別の何かが意味されるとはとても思えない。そしていまいちど読者にお願いしたいのだが、自分自身の頭のなかをよく調べて、言葉に騙されないようにしていただきたい。もし読者が、自分の観念あるいはその原型は知覚されずとも存在することは可能だと考えることができるのなら、私は降参しよう。しかし、もしそう考えることができないというのであれば、自分でも何であるか分からないものを擁護すること、そして、ほんとうは何の意味もない命題に同意しないことに不合理の烙印を押して私を非難することは、理にかなわぬことだと認めるであろう。

四六 哲学でいま流布している原理そのものが、まさにこの不合理の廉でどれほど咎められることになるのかを見るのは的外れではないだろう。私が瞼を閉じると、私のまわりの目に見える対象はすべてたちまち無に帰するだろうなどと言えば、これはまことに不合理なことだと考えられている。しかしながら、このことこそ哲学者たちによって広く認められていることではなかろうか。すなわち彼らはこぞって、視覚の固有にして直接的な唯一の対象である明るさと色が、知覚されているあいだしか存在しないたんなる感覚であることに同意しているからである。さらに、事物がたえまなく創造されているというのは、ある人びとにとってはおそらくとても信じがたいことに思われるだろう。けれども、まさにこの考え方はスコラ哲学ではごく普通に教えられていることである。それというのも、スコラ哲学者たちは、物質が存在すること、そして、世界の機構全体が物質からつくられていることを承認しているにもかかわらず、物質は神による保存なしには存続できないという意見をもっていて、これを連続的創造だと説明しているからである。

四七 さらに、少々考えてみれば明らかになるように、たとえわれわれが物質つまり物体的実体の存在を認めるとしても、いかなるたぐいの個別的物体も知覚されていないあいだはおよそ存在しないということが、いま広く認められている原理からかならず帰結するだろう。その理由は以下のとおりである。第一一節およびそれ以降の節から明らかなように、われわれの感官によってとらえられる物体は個別的性質によって互いに区別されるのに、哲学者たちが擁護する物質なるものはこうした性質をまったくもたない理解不可能な何かである。この点をもっと明瞭にするために、物質の無限分割可能性について述べておこう。物質の無限分割可能性は、少なくともきわめて評判のいい傑出した哲学者たちによっていま広く認められている。彼らは、この無限分割可能性をいま流布している原理に基づいていかなる例外も許さずに証明するからである。ここから帰結するのは、物質のどの粒子にも、感官によって知覚されない無限数の部分があることである。したがって、どの個別的物体も感官にとって有限な大きさをもっていると思えること、つまり感官に有限数の部分しか示さないということの理由は、その物体がそれ以上の数の部分を含まないということではない。なぜなら、その物体はそれ自体においては無限数の部分を含むからである。その理由はむしろ、感官がそうした無限数の部分を見分けるのに十分なほど鋭敏ではないということである。それゆえ、感官がもっと説做になるにつれて、それに比例してい対象のなかにもっと多くの数の部分を知覚する、つまり、対象はもっと大きなものとして現われる。そして、対象の形も変化する。なぜなら、対象の端にある部分のうち、以前は知覚不可能であった部分はいまや、もっと鈍重な感官によって知覚されていたのとはまったく違う線や角によってその対象の境界を限定するように現われるからである。そして、大きさや形がさまざまに変化した後で、ついに感官が無限に鋭敏になるときの物体は〔大きさと形にかんして〕無限であることになるだろう。こうした過程のすべてにおいて、変化しているのはその物体ではなくて、感官だけである。したがって、それ自体において考察されるどの物体も、無限に延長しており、したがっていらゆる形を欠くことになる。ここから以下のことが帰結する、すなわち、たとえわれわれが物質の存在をどれほど確実なものとして認めるにしても、それに劣らず確実なことに、物質論者たち自身は彼ら自身の原理によって、感官によって知覚される個別的物体も、それらに似た何かも、精神のそとには存在しないということを承認せざるをえない。言わせてもらうが、彼らによれば、物質および物質のどの粒子も無限で無形(infinite and shapeless)であって、目に見える世界を構成する多様な物体すべてを形成するのは精神にほかならない。これらの物体のどれひとつとして、知覚されるあいだしか存在しないからである。

四八 よく考えてみるなら理の当然のこととして判明するように、第四五節で提起された反論はわれわれが前提した原理に向けられるのではないし、まして、われわれの考え方すべてにたいする反論になるわけではない。それというのも、なるほど感官の対象は知覚されずには存在できない観念でしかないとわれわれは主張するものの、しかしだからといってここから、それらの対象はわれわれによって知覚されるあいだだけ存在すると結論するわけではないからである。なぜなら、われわれが知覚しないとしても、そうした対象を知覚する何か他の精神が存在しうるからである。物体は精神のそとには存在しないと言われる場合はいつでも、私はあれこれの個別的な精神ではなく、およそすべての精神のことを言っていると理解していただきたい。したがって、前述の原理からは、物体がたえまなく絶滅しては創造されるということ、あるいは、物体についてのわれわれの知覚が中断しているあいだまったく存在しないということは帰結しない。
五○ 第六に、あなたがたはこう言うだろう、「物質と運動によってきわめて多くの事物が説明されてきた。これら物質と運動を取り去れば、粒子哲学のすべてを破壊することになる、つまり、現象の説明に適用されて多大の成功をおさめてきた機械的原理を掘り崩すことになる。要するに、自然研究において古今の哲学者たちによって成し遂げられてきたいかなる進歩も、物体的実体あるいは物質がほんとうに存在するという想定に基づいている」。これにたいして私は次のように答えよう。個別的事例を引き合いに出せば容易に明らかになるように、この想定に立って説明される現象はどれも、この想定がなくても同じくらいうまく説明できる。現象を説明するということは、しかじかの機会にわれわれがしかじかの観念をもつようになるのはなぜなのかを示すこととまったく同一である。しかし、いかにして物質が精神にはたらきかけ、精神のなかに観念を生みだすのかは、いかなる哲学者もあえて説明できると言い張りはしない。したがって、自然哲学において物質が無用であることは明らかである。さらに、事物を説明しようと試みるにあたっては、物体的実体ではなく、形、運動そしてこれら以外の性質を用いるしかないであろうが、しかし、これらはじつのところたんなる観念にすぎないのであって、したがって、すでに第二五節で指摘したように、何らかの事物の原因ではありえない。

五一 ここまで言うと、第七にこう問われるかもしれない、「自然的原因を取り去って、あらゆる出来事を精神の直接のはたらきのせいにするのは馬鹿げているように思えないだろうか。これらの原理によれば、火が温めるとか水が冷やすと言ってはならず、精神が温める等々と言わざるをえなくなる。こんなふうに語る人は嘲笑われて当然ではなかろうか」。これにたいしては、こう答えよう。たしかに彼は笑い物になるだろう。こうした事柄においてわれわれは、識者のように考え一般大衆のように語るべきである。コペルニクスの体系が真であることを文句なしに確信している人びとですら、「太陽が昇る、太陽が沈む、あるいは、太陽が子午線に届く」という言い方をする。それなのに、彼らが外連味たっぷりにこれと反対の言い方をするなら、それは間違いなくたいへんな失笑をかうことになるだろう。これまで言われたことをちょっと考えてみるだけで明らかなように、われわれの主張を認めたとしても、言語の普通の用法はいささかの変更も動揺もこうむらない。

五二 何らかの言い方が厳密で思弁的な意味で解されるならどれほど偽と思われようとも、しかし、日常生活においてわれわれのうちに適切な意見を喚起するかぎりで、つまり、われわれの安寧のために必要な振る舞い方を呼び起こすかぎりで、そうした言い方をしてもいっこうにかまわない。いやそれどころか、〔言語使用の〕適切さというのは慣習によって決まるがゆえに、言語はかならずしも真ではない流布した意見に迎合するのであるから、私の言い方が偽と思われるのもいたしかたないことである。したがって、どれほど厳格で哲学的な推論においても、揚げ足取りの連中に難点とか撞着の口実を与えないために、われわれが語る言語の傾向や特質を変えるというのは不可能なことである。しかし、公正で率直な読者であれば、ある論述の目的、そこへもっていく筋道、そしてそれら筋道の組み合わせから〔筆者が〕言わんとするところを汲みとって、言語使用が避けるわけにはいかなかった不正確な言い方を寛恕してくれることだろう。

五三 物体的原因が存在しないという意見にかんして言うなら、これはスコラ哲学者たちの幾人かによってこれまで主張されてきたばかりでなく、現今の哲学者たちによっても言われていることである。つまり彼らは、物質が存在するということを認めているけれども、それにもかかわらず、神だけが万物の直接的な作用因だと主張する。これらの人たちが見てとったところによると、感官のどの対象をとってみても、そのなかに力や活動を含むものは何もない。したがって、感官の直接的な対象だけでなく、精神のそとに存在すると彼らが想定するいかなる物体もまた、力や活動を含まない。しかしそうなると、彼らが想定する数え切れないほど多数の被造物は、自然のなかにいかなる結果も生みだせないと彼ら自身が認めるだろう。したがって、これらの被造物はなんの役にも立たないのに創られたことになる。なぜなら神は、こうした被造物がなくとも、あらゆることをうまくやってのけたからである。言わせてもらうが、このような想定は、たとえ可能だと認めるにしても、きわめて不可解で法外であるにちがいない。

五四 第八にこう考える人がいるかもしれない、「人類があまねく一致して同意しているという事態は、物質を擁護する論拠、つまり外的な事物が存在することを擁護する無敵の論拠である。世間の人たちがすべて間違っている、とわれわれは想定しなければならないのか。そして、もしそうなら〔第九に〕、これほどに流布して優勢な誤謬の原因を挙げてほしいものだ」。これには次のように答えよう。〔第八反論に答えることにして〕まず第一に、入念に調べてみればおそらく分かるように、物質が存在すること、あるいは、事物が精神のそとに存在することをほんとうに信じている人たちは、〔反論者が〕思い込んでいるほどに多くはない。厳密に言えば、矛盾を含むもの、あるいは、無意味なものを信じるのは不可能である。そして、〈物質が存在する、あるいは、事物が精神のそとに存在する〉という先の表現がこのたぐいのものでないかどうかは、読者の公平な吟味にゆだねることにする。なるほど、ある意味では、物質が存在すると信じるという言い方を人びとはしてもかまわない。すなわち、彼らの振る舞いを見れば分かるように、彼らの感覚の直接的な原因、つまり、たえまなく彼らに刺激を与え、こうする点で彼らにきわめて身近に現前する原因は、感官をもたず思考もしない何らかの存在者だとみなされている。しかし、〈感官をもたず思考もしない何らかの存在者〉というこれらの言葉が意味するところを彼らが明らかに理解し、この理解に基づいてきちんとした思弁的な見解を表明できるとはとても思えない。ある命題にほんとうは何の意味もないのに、しばしば耳にしたことがあるというだけで、その命題を真だと思い込んで騙されるのは、これにかぎったことではない。

五五 しかし第二に、何らかの考え方がどれほどこぞって執拗に固持されていると認められようとも、そうした執着はその考え方が真であることの論拠としてはまことに薄弱である。人類のうちの無思慮な連中(こちらの方がはるかに多い)によってどれほど多大の見や謬見がいたるところできわめて執拗に抱かれたかを考慮する人たちは誰でも、そのように判断する。かつて対蹠地や地球の運動は奇怪な不合理とみなされていた。識者ですらそう思っていた。そして、識者が人類の残りの連中よりもどれほど少ないかを考えてみるなら、この対蹠地や地球の運動という考え方が今日にいたるまで世間でほんのわずかの支持しかえなかったのも当然なのである。

五六 しかし〔第九反論として〕、この偏見の原因は何か、この偏見が世間で広まっていのはなぜなのかと問われている。これには次のように答えよう。知覚される観念の多くは内側から引き起こされるわけでもなければ、意志のはたらきに依存しているわけでもないから、これらの観念はわれわれ自身が創ったわけではない。人びとはこのことを知ると、こうした観念あるいは知覚の対象は精神に依存せず、精神のそとに存在すると主張してきたが、しかし、〈観念が精神に依存せず、精神のそとに存在する〉というこれらの言葉に矛盾が含まれるということは夢想だにしなかった。しかし哲学者たちは、知覚の直接的な対象が精神のそとに存在するのではないことを明確に見てとったから、一般大衆のこの誤謬をいくらか訂正したものの、しかしそれにもかかわらず、今度はそれに劣らず不合理と思われる別の誤謬に陥っている。すなわち、何らかの対象が精神のそとにほんとうに存在している、あるいは、知覚されることから区別されて自存しているのであり、われわれの観念はこうした対象によって精神に刻印されたからには、この対象の似像あるいは類似物でしかない、と考えてしまった。そして、哲学者たちのこうした考え方は一般大衆のそれと同じところに起因している。つまり、哲学者たちは自分自身の感覚を創ったわけではないことを自覚しているから、彼らが明白に知るところによれば、こうした感覚は外側から刻印されたのであり、したがって、当の感覚が刻印されている精神から区別される何らかの原因をもっているにちがいない、というわけである。

五七 したがって、哲学者たちの想定によれば、感官の観念はそれと似ている事物によってわれわれのうちに引き起こされる。しかし、精神だけが能動的に作用できる。それなのに、彼らがこの精神に訴えないのはなぜだろうか。このことを説明する理由は第一に、われわれの観念に似ている事物が外側に存在すると想定したり、そうした事物に力や活動を帰したりするのは矛盾であることに彼らが気づいていないからである。第二に、最高の精神は、われわれの精神のなかにそうした感官の観念を引き起こすにもかかわらず、感覚可能な諸観念の個別的で有限な集合によって表示され限定されて目に見えるようにはならないからである。つまり、われわれ人間のような作用者なら、その大きさ、顔色、四肢そして運動によって表示され限定されるであろうが、しかし最高の精神はそのような在り方をしていない。そして第三に以下の理由がある。この最高の精神のはたらきは規則的で斉一的である。自然の経過が奇蹟によって中断されると、人びとはすぐにも〔自然よりも〕もっとすぐれた作用者が現前していると認めてしまう。しかし、事物が通常の経過をたどっているのを見てとると、われわれはあらためて深く考えようとはしない。事物が秩序正しく連結しているということは、そうした事物を創った存在者の全知、全能そして最善を証しするにもかかわらず、きわめて一定不変でわれわれに馴染みなものだから、われわれはそうした事物が自由な精神の直接的な結果だとは考えない。とりわけ、一定不変ではなく移り気なはたらきは、不完全性であるにもかかわらず、自由の印とみなされているからである。

五八 第一〇にこういう反論が寄せられるだろう、「あなたが提起している考えは、哲学や数学におけるかなりの健全な真理と折り合いがつかない。たとえば、地球が運動するというのは、いまではどの天文学者たちによっても、きわめて明晰かつ納得できる根拠に基づく真理と認められている。しかし、前述の原理によれば、そうした地球の運動はありえない。それというのも、運動は観念でしかないのだから、もしそれが知覚されなければ存在しない、しかるに地球の運動は感官によって知覚されないからである」。これにはこう答えよう。この〔地動説の〕学説は、正しく理解されるなら、われわれが前提した原理と一致することが判明するだろう。それというのも、地球が運動するかどうかという問題はじつは、これまで天文学者たちによって観察されてきたことから次の帰結を、すなわち、もしもわれわれがしかじかの状況に、つまり、地球と太陽の双方から離れたしかじかの位置におかれるとするなら、地球が惑星の聖歌隊のなかを運動して、それら惑星のひとつとまったく同じに見えるのを知覚する、という帰結を引き出せるのかという問題にほかならず、そしてこの帰結は、疑う余地のない確固とした自然の規則によって、そうした観察された現象から理の当然のこととして推論されるからである。

五九 われわれは自分の精神のなかで連続的に継起する観念を経験してきた。われわれはこの経験から出発して、一連の多くの行為の後でどのような観念をもつことになるのかを、けっして不確実に推測するのではなく、確実かつ十分な根拠に基づいてしばしば予測できる。つまり、現在おかれている状態とはまったく違った状態におかれた場合われわれに何が現われてくることになるかを、正しく判断できるようになる。自然にかんする知識の本領もまさにここにあるのだし、その有用性と確実性もこれまで語られてきたこととまったく矛盾しない。星の大きさ、あるいは、天文学や自然におけるそれ以外の発見から出てくるかもしれないこれに類した反論に以上の答えを適用するのは、容易なことであろう。

六○ 第一一にこう問われるだろう、「〔もしあなたが正しいのなら、〕植物の込み入った有機的組織や動物の諸部分〔器官〕の驚嘆すべき機構(mechanism)は何の役に立つのか。きわめて精妙につくられ組み合わされたじつに多様なこれらの内的部分がなくても、植物は成長し葉や実をつけ、動物はそのすべての運動をやってのけることになるのではないか。なにしろこうした内的部分は、観念であるからにはいかなる力やはたらきといったものをも内在させておらず、この部分に帰される結果といかなる必然的な結合ももっていないからである。もしも、あらゆる結果を「あれ」によって、つまり意志の作用によって直接に生みだすのはまさに精神にほかならないとすれば、人間の作品であれ自然のそれであれ、あらゆる作品における精巧で巧みなものはすべて無駄につくられたと考えざるをえなくなる。ある巧匠が時計の発条、歯車そしてあらゆる可動部品をつくり、自分の意図した運動を生みだすようにそれらを調整したとしてみよう。しかしながら、あなたの学説によれば、これらすべての作業は無駄であったと考えざるをえなくなる。この時計の針を動かして、一日の時間を知らせてくれるのは何らかの知性体だからである。もしそうなら、当の巧匠がわざわざそれらの可動部品をつくって組み合わせることなどしなくてもいいのだから、この知性体が針を動かす等のことをやってなぜいけないのか。空の箱だって、そうではない箱と同じくらい役に立つのではないか。そして、時計の動きに障害がある場合はつねに、それに対応した何らかの不具合が可動部品に発見されて、この不具合が巧匠の手によって修復されれば万事復旧するのに、あなたの学説ではどうしてこうなるのか。これと似たことは、その大部分が最良の顕微鏡でも見分けがつかないほど素晴らしく精巧で巧妙な自然という時計仕掛けすべてについて言えるだろう。以上の問いを簡潔に言えば以下のようになる。きわめて巧みにつくられた数え切れないほど大量の物体や機械装置(machines)は、世間で通用している哲学ではまことに適切な用途を指定してもらい、おびただしい現象を説明するのに役立っているにもかかわらず、あなたの原理によるなら、どのようにすればそうした物体や機械装置を納得できるように説明できるのか、つまりは、それらの目的因を提示してもらえるのか」。

六一 以上のすべてにたいして私はこう答える。第一に、摂理の運営にかんして、つまり摂理によって自然のいろいろな部分に割り当てられている用途にかんして何らかの困難があり、この困難を私は先述の原理によっても解消できないにしても、この反論は、最上の明証性をもってアプリオリに論証されていることの真理と確実性を覆すほどの重みをもつことはないだろう。しかし第二に、流布している原理にしたところで同じ困難を免れているわけではない。それというのも、神ならば、道具や機械装置がまったくなくてもおのれの意志の命令だけでさまざまな事物を引き起こしたであろうことは誰も否定できないのに、神はいったい何のためにそうした仕掛けによって事物を引き起こすなどという回りくどい方法をとるのかと問われるからである。いやそれどころか、〔第三に〕もし綿密に考察するなら、この反論は、そうした機械装置が精神のそとに存在すると主張する人びとにもっと強力に投げ返されることが分かるだろう。なぜなら、すでに明らかになったように、〔この機械装置の〕固体性、嵩、形、運動等々はいかなる活動効力も備えておらず、したがって自然のなかにたった一つの結果さえ生みだせないからである。第二五節を参照せよ。したがって、そのような機械装置が知覚されないのに存在すると想定する人は誰でも(かりにその想定が可能であるとしても)、明らかに何の役にも立たない想定をしていることになる。なぜなら、知覚されずに存在することになっている機械装置に何らかの用途が割り当てられるとすれば、それは知覚可能な結果を生みだすということでしかないであろうが、しかしこの結果はじつは精神にのみ帰されうるからである。
六ニ しかし、〔第一一反論で指摘された〕困難をもっと詳細に見るなら、あの部分や器官すべてを組織することは、何らかの結果を生みだすために絶対に必要であるわけではないにしても、しかし、自然の法則にしたがって、恒常的で規則的なやり方で事物を生みだすためには必要であると言わねばならない。自然的結果の系列すべてを貫通する確実で普遍的な法則が存在する。これらの法則は自然の観察と研究によって知られるようになり、生活にとって有用で彩りを添える技巧をこらした事物をつくるためにも、さまざまな現象を説明するためにも人びとによって用いられる。この説明の本領とは、個々の現象が普遍的な自然法則と一致するのを示すこと、あるいは、同じことであるが、自然的結果の産出において存在する斉一性を明らかにすることにのみあるからである。この点は、哲学者たちが現象の説明と称しているいろいろな事例に注目してみれば、誰の目にも明白であろう。最高の作用者によって維持されているこうした規則的で恒常的なはたらき方にはすぐに目につくたいへんな有用性があることは、第三一節ですでに示しておいた。そして、これに劣らず明らかなことに、部分の個別的な大きさ、形、運動そして配置は、何らかの結果を生みだすのに絶対に必要ではないにしても、自然の恒常的で機械的な法則にしたがって結果を生みだすのにはやはり必要である。そこでたとえば、神は、すなわち事物の通常の成り行きを維持し支配する知性体は、もしも奇蹟を生みだす気になれば、時計の可動部品をつくって時計のなかにそれを入れる人がまったくいなくても、時計の文字盤のうえにありとあらゆる運動を引き起こすこともできるだろう。しかしながら、創造において神によって賢明な目的のために確立され維持されている機構の規則にしたがって神が行為しようとするのなら、可動部品をつくりそれらを正しく調整する時計師の行為は、先述の〔文字盤上の〕運動の産出に先行する必要がある。これは、これらの運動に不具合がある場合にもつねに、それに対応した可動部品の何らかの不具合が〔時計師によってまず〕知覚されて、〔その後で〕この不具合を正すことによって万事復旧する必要があるのとまったく同様である。

六三 事物の通常の系列をはずれた何らかの現象を生みだすことで、自然の創造者がみずからの圧倒的な力を誇示するというのは、なるほどときには必要かもしれない。自然法則からのこうした逸脱は、人びとを驚愕畏怖させて神的存在者を承認させるのに格好だからである。しかしその場合、こうした例外はほんのたまに使われるべきである。さもなければ、こうした驚愕畏怖の効果をあげないことは明白だからである。おまけに神は、自然の作品によってみずからの属性をわれわれの理性に納得させる方をむしろ選ぶように思われる。自然の作品は、そのように納得させるに足るだけの調和と工夫をその出来栄えにおいて披瀝し、その創造者の知恵と善意をあますところなく示しているからである。

六四 この間題をもっと明確にするために、第六〇節の反論はじつは以下のことに尽きると言っておこう。「観念はでたらめで無秩序なやり方で生みだされるのではない。観念間には、原因と結果の秩序や結合に似た何らかの秩序や結合があるからである。さらには、きわめて規則的で巧妙な仕方でつくられた諸観念の組み合わせもたくさんある。こうした組み合わせはそれぞれ自然の手になる道具のようなものであって、それ自身は哲学者の注意深い目にのみ見分けがつくゆえに、いわば舞台の背後に隠れてひそかにはたらき、世界という劇場で見物できる現象を生みだす。しかしながら、ある観念が別の観念の原因ではありえないのだから、あの結合は何の役に立つのか。さらに、あの道具にしても、それは精神のなかで知覚されるものにすぎず、いかなる結果も生まないのだから、自然的結果を生みだすには役立たない。したがって、なぜこうした道具がつくられたのかが問われることになろう。換言すれば、われわれが神の作品を間近に覗き込んで、これほどまで規則に合致して巧妙に組み合わされたじつに多様な観念を見てとるようにと、神はなぜわれわれをけしかけるのか。神がこうした技巧と規則性といった(こう言ってよければ)手間をかける無駄をするとはとうてい信じがたいからである」。

六五 以上すべてにたいして私はこう答える。第一に、観念間の結合は原因結果の関係を含まず、印あるいは記号とそれによって表示されるものとの関係しか含まない。私が見ている人は、私がそれに近づくとこうむる痛みの原因ではなく、痛みを私にあらかじめ警告する印である。これと同様に、私が聞く騒音は、周囲の物体のあれこれの運動や衝突の結果ではなく、そうした運動や衝突の記号である。第二に、なぜ観念が機械装置に、すなわち、巧妙で規則的な組み合わせへと形成されるのかという理由は、文字が組み合わされて言葉になる理由と同じである。もともと与えられていた少数の観念がおびただしい結果や行為を意味するようになるためには、それらがさまざまに組み合わされねばならない。そして、これらの組み合わせが恒常的かつ普遍的に使われるためには、それらの観念は規則にしたがって、賢明な工夫を伴って組み合わされねばならない。このようにしてわれわれは、しかじかの行為から何を期待できるか、そして、しかじかの観念を引き起こすためにはいかなる方法をとるのが適切であるかにかんして、じつに多くのことを教えてもらうことになる。物体(自然的であれ人工的であれ)の内的部分の形、肌理そして機構を見分けることによって、われわれはそうした形等々に依存する事物のさまざまな用途や特性を知るようになる、あるいは事物の本性さえも知るようになると言われるとき、私がはっきりと理解できるのはじつは以上のことでしかない。

六六 ここから明らかになるように、結果を生みだすためには何らかの原因が協働し協力すると考えてしまえば、いろいろな事物がまったく説明がつかず、われわれをたいへんな不合理へ陥らせてしまう。しかし、もしそれらがわれわれにいろいろと教えてくれる印や記号とのみみなされるなら、きわめて自然に説明がつき、適切で明白な用途をあてがってもらえるようになる。そして、自然哲学者の任務とは、自然の創造者によって制定されたこうした記号を探し求め、それを理解するよう努めることであって、物体的原因によって事物を説明すると言い張ることではない。後者の学説に立ったからこそ、人びとの精神は、われわれがそのなかで生き動きそして存在する能動的原理、つまり、至高の賢明な精神からあまりに遠く隔たってしまったと思われる。
七四 物質なるものが偶有性を支えるためにのみ思いつかれてきたことは、物質論者自身でさえ認めるところであって、この理由がすっかりなくなっているからには、ひたすらその理由に基づいていたものを信じることなど、ためらいもなくやめにするのが当然であろう。しかしながら、この偏見はきわめて根深くわれわれの思考のなかに埋め込まれているので、どのようにしてこの偏見から逃れられるのかほとんど見当がつかなくなる。それゆえに、そして、事物そのものが擁護不可能なものであるがゆえに、今度は少なくとも名前だけでも保持しようという気になり、存在者あるいは機会といった何か分からない抽象的で曖昧な概念にこの名前をあてがうようになる。ただし、少なくとも私が見るかぎり、こうするためのもっともらしい理由などまったくない。それというのも、感官によるにしろ反省によるにしろ、われわれの精神に刻印される観念、感覚、概念のうちで、不活発で思考せず知覚されていない機会が存在することを推論させる出発点となるものがわれわれの側にあるだろうか、あるいはわれわれはそのようなものを知覚するだろうか。他方、全能の精神の側でも、その精神が何らかの不活発な機会によってわれわれの精神のなかに観念を引き起こすよう指図される、とわれわれに信じさせるようなもの、あるいはせめてそう推測させるようなものがあるだろうか。

七五 人間の精神が、理性のいかなる明証性に反してでも、思考しない鈍重な何ものかを大いに好み、これを介在させることによって神の摂理からいわば遮られ、神を世界の出来事からいっそう遠ざけてしまうというのは、偏見の力を証しするきわめて法外な一例であって、大いに嘆くべきことである。しかし、物質への信念を守るためにどれほど最善を尽くそうとも、あるいは、理性がわれわれを見放すときに事物のたんなる可能性を頼りにしてわれわれの意見を支えようとどれほど努力しようとも、そして、理性によって制御されない想像力を精一杯はたらかせてこの貧弱な可能性をどれほど立証しようとも、こうしたことすべての結末は、神の精神のなかに何らかの知られていない観念があるということでしかない。それというのも、神にかんして機会ということで意味されていると私に思えるものがあるとすれば、これだけだからである。そして、この機会ということで人びとが手に入れようとしているのは、つまるところ、事物ではなくて名前だけである。

七六 したがって、神の精神のなかにそのような観念があるかどうか、そしてそれらが物質という名前で呼ばれていいかどうかは、これ以上争わないことにしよう。しかし、もしあなたがたが延長、運動そしてこれら以外の感覚可能な性質を支える〈思考しない実体〉という考えになおも固執するなら、そうしたものは存在不可能であるとはっきり言っておこう。なぜなら、これらの性質が知覚しない実体のなかに存在する、あるいはそうした実体によって支えられているというのは、明らかな矛盾だからである。

七七 しかし、あなたがたはこう言うだろう、「われわれが知覚する延長やそれ以外の感覚可能な性質ないし偶有性を支える思考しないものは存在しないとしても、これらとは別の性質の〔根底にあってそれらを支える〕何か不活発で思考しない実体ないし基体がひょっとしたら存在するかもしれない。もっとも、これらの性質は、ちょうど盲目に生まれた人にとっての色がそうであるように、われわれにとって理解不可能かもしれない。われわれはそれらの性質に見合った感官をもっていないからである。しかし、もしわれわれがある新たな感官をもつとするなら、ちょうど開眼した盲人が明るさや色の存在を疑わないのと同様に、われわれはおそらくそうした性質が存在することを疑わないだろう」。これにたいしてはこう答えよう。第一に、あなたがたが物質という言葉によって、〈知られていない性質を支える知られていないもの〉しか意味しないのなら、そんなものが存在するかどうかはまったく問題にならない。なぜなら、そうしたものはわれわれには何のかかわりもないからである。そして私は、何であるかも分からなければ、なぜなのかも分からないものについて論議することにいかなる利益があるのか理解できない。

七八 しかし、第二に、もしわれわれが新たな感官をもつとしても、それがわれわれに提供するのは新たな観念あるいは感覚でしかないだろう。そしてそうなれば、形、運動、色、そしてこれらに類したものにかんしてすでに持ち出されたのと同じ理由によって、われわれはそうした観念あるいは感覚が〈知覚しない実体〉のなかに存在することに反対するだろう。これまで指摘しておいたように、性質というのは、それを知覚する精神のなかにしか存在しない感覚あるいは観念以外のものではないし、このことは現在われわれに馴染みの観念について当てはまるだけでなく、およそ可能なすべての観念にも同様に当てはまるからである。

七九 しかし、あなたがたはこう言い張るだろう、「私には物質の存在を信じるいかなる理由もないし、私は物質なるものを使えない、つまり、物質によって何かを解明できるわけでもない、あるいはこの言葉によって何が意味されているのかさえ分からない。しかし、それがどうしたというのだ。物質が存在する、そして、そもそもこの物質なるものは観念の〔根底にある〕実体あるいは機会であると言うことには、依然として何の矛盾もない。これらの言葉の意味を解きほぐそうとしたり、どこまでも詳細に明らかにしようとするのは、なるほどきわめて困難であるにしても、やはりそう言うことに矛盾はない」。これにたいして私はこう答える。言葉が何の意味もないままに使われるとき、あなたがたは好きなようにそうした言葉を組み合わせていいし、そうすることで矛盾に陥る危険を冒すわけでもない。たとえば、「二の二倍に等しい」と言ってもかまわない。ただし、こう言ってかまわないのは、あなたがたがこの命題に含まれているそれらの言葉をその普通の意味において用いるのではなく、自分たちですら何であるか分からないものを表わす印とみなしていると公言するかぎりでのことであって、これと同じ前提においてであれば、あなたがたは「偶有性のない不活発で思考しない実体が存在し、これがわれわれの観念の機会になっている」と言ってもかまわない。そしてわれわれは、この後者の命題に納得できるのであれば、前者の命題にもまったく同じくらい納得できることになろう。

八O あなたがたは最後にこう言うだろう、「物質的実体という主張を放棄して、物質とは知られていない何ものかであると言い張ったら、つまり、物質は実体でもなければ偶有性でもなく、精神でもなければ観念でもなく、不活発で、思考せず、分割できず、運動せず、延長しておらず、いかなる場所にも存在していないと言い張ったらどうだろうか。それというのも、物質のこの否定的な定義だけを固守するかぎり、実体機会に反対して持ち出されるもの、あるいは物質についてのそれ以外の何か絶対的もしくは相対的な概念に反対して持ち出されるものはどれも、まったく無効だからだ」。これにたいしてはこう答えよう。もしそうしたいというなら、あなたがたは物質という言葉を他の人たちがという言葉を使うのと同じ意味で使い、そうすることでこれら二つの言葉をあなたがたなりに交換可能なものにしてもかまわない。それというのも、いまの定義の諸部分をまとめて考えるにしろ単独で考えるにしろ、どちらにしろ注意深く考えてみるなら、この定義からはという術語で喚起される効果や印象しか出てこないから、この定義の帰結はつまるところ、物質は無であるということでしかないと思われるからである。

八一 あなたがたはたぶんこう言い返すだろう、「さっきの定義には物質を無から十分に区別するものが含まれている。つまり、本質存在者現実存在といった肯定的で抽象的な(adstract)観念だ」。なるほど、抽象的で一般的な観念をつくる能力があると自負する人たちは、こうした観念をもっているかのように語るし、彼らに言わせれば、これらの観念はあらゆる概念のうちでもっとも抽象的で一般的である。しかし、この「もっとも抽象的で一般的である」ということは、私にとっては、あらゆる概念のなかでもっとも理解不可能なものであるということを意味する。なるほど、さまざまな位階に属し、さまざまな能力を備えたじつに多様な精神が存在し、これらの精神の能力たるや、その数においても範囲においても、私の存在の創造者が私に授けてくれた能力をはるかにしのぐということには、疑いの余地がない。そして、至高の精神の無尽蔵の力がそうした多様な精神にいかなる観念を刻印するのかを、私が自分自身のわずかな制限された狭い知覚の入口によって規定しようと臆面もなく言い張るなら、それは間違いなく最大の愚挙にして僭越であろう。色が音と異なるのと同じくらいに、互いに異なり、そして私がこれまで知覚したとれとも異なる、無数の種類の観念あるいは感覚がおそらく存在するかもしれないからである。しかしながら、ひょっとしたら存在するかもしれない無限に多様な精神と観念にかんして、私が自分の理解力の乏しさを認めるにどれほどやぶさかではないにしても、それにもかかわらず、精神概念から、つまり知覚することと知覚されることから切り離された(abstracted)存在あるいは現生存在の概念をもっていると自負することは、管見によれば、まったくの矛盾であり言葉遊びでしかない。最後に〔第一三に〕、おそらく宗教の側から出てくるかもしれない反論を考察することにしよう。

八二 こう考える人たちがいる、「物体がほんとうに存在すると主張するために理性から引き出される論拠は、なるほど証明の域にまで達しない。しかしそれにもかかわらず、この物体の存在という点で聖書はまことに明快であるから、信心深いキリスト教徒なら誰でも、物体がほんとうに存在し、そしてたんなる概念以上の何かであることを十分に納得することだろう。なぜなら、樹木、石、山、川、町そして人間の身体がほんとうに存在することを明白に前提している事実が、聖書では数え切れないほど語られているからである。これにたいしてはこう答えよう。聖俗を問わずおよそいかなるたぐいの書物も、これらのそれに類した言葉を一般大衆が受け取る意味で使用するかぎりで、つまりそれらを有意味に使用するかぎりで、われわれの学説によってその真理を疑われる危険に陥ることいない。これらの事物のすべてがほんとうに存在すること、一般大衆が理解する意味で受け取られるかぎりでの物体が存在すること、その意味での物体的実体すらも存在することがわれわれの原理と一致することは、これまで示されてきたとおりである。つまり、事物観念ほんとうに存在するもの妄想の違いは明確に解明されていた。そして思うに、聖書のどこにも、哲学者たちが物質と呼ぶものも、精神のそとの対象の存在も言及されていない。

八三 さらに、外的な事物が存在するにせよしないにせよ、万人が一致するところによれば、言葉の適切な用法とは、われわれが思考するものを表示するということ、つまり、わわれによって知られ知覚されるかぎりでの事物を表示するということである。ここから明確に帰結するのは、われわれがこれまで書き記した主張には、言語の正しい使用や表示作用に悖るものは何もないということ、そして、いかなるたぐいの言説であれ、それが理解可能であるかぎりは、けっして揺らぐことはないということである。しかしこうしたことはすべて、これまで述べられたことからきわめて明白であるから、もうこれ以上拘泥する必要はないであろう。

八四 しかし、まだこう言い張る人がいるだろう、「少なくとも奇蹟は、あなたの原理によってその重みや重要性のかなりを失ってしまう。モーセの杖のことをどう考えねばならないのか。その杖はほんとうに蛇に変わったのではないのか、それとも、それを見ていた人びとの精神のなかの観念が変化しただけなのか。そして、われわれの救世主がカナの婚姻の席で、来客たちの視覚、嗅覚そして味覚を欺いて、ワインの見かけつまりワインの観念だけを客たちのなかに生みだしたにすぎない、などと想定できるか。同じことは他の奇蹟のすべてについて言えるだろう。前述の原理に従うなら、これらの奇蹟はすべて空想力の瞞着あるいは幻覚にすぎないとみなさざるをえなくなる」。これには以下のように答える。その杖はほんとうの蛇に変わったし、水もまたほんとうのワインに変わった。このことが他のところで私の言ったことと少しも矛盾しないということは、第三四節と三五節から明らかであろう。しかし、この「ほんとうの(real)」と「想像上の(imaginary)」について論ずべきことは、すでに明白かつ十全に解明され、頻繁に言及されたし、それにまつわる困難もこれまでの論述からきわめて容易に回答をえられるだろうから、ここでその解明を繰り返すのは読者の知性を侮辱することになるだろう。ただ次のことだけは言っておこう。食卓についた人たちがすべてワインを見て、嗅ぎ、味わい、飲み、そして酔いが回るとするなら、そのワインがほんとうに存在することは私には何の疑いもない。したがって、つまるところ、奇蹟がほんとうに存在するかどうかにかんしてためらいが生じるのは、われわれの原理に立つからではなく、〔哲学者のあいだで〕流布している原理に立つからにすぎない。それゆえこの逡巡は、これまで語られてきたことにとって不利というよりはかしろ有利になる。

八五 私はさまざまな反論を最大限の明晰さで提起しようとしたし、それらに可能なかぎりの説得力を与えてきた。こうした反論に片がついたので、次にわれわれの主張からの帰結を見ることにしよう。これらの帰結のいくつかはすぐに明らかになる。たとえば、おびただしい思弁が空費されてきた困難で曖昧ないろいろな問いがことごとく哲学から消え去ってしまう。物体的実体は思考できるのか、物質は無限に分割可能なのか、そして、物質はどのように精神に作用するのか──こうした探究やそれに類した探究はいつの時代も哲学音たちを際限なく困惑させてきた。しかしこれらの探求は、物質の存在に依存しているのだから、われわれの原理に立てばもはや生じようがない。〔哲学以外の〕学問にかんしても宗教にかんしても、これら以外に多くの利点があるし、これらの利点をこれまで述べてきたところから誰でも容易に引き出すことができよう。しかし、以下でその次第をもっと明確にしておこう。

八六 われわれが主張してきた原理から分かるように、人間的知識はおのずと二つの項目に、つまり観念についての知識と精神についての知識に帰着する。これらのおのおのについて順番に見ていこう。
 最初に観念つまり〈思考しない事物〉について述べよう。これについてのわれわれの知識がはなはだ曖昧で混乱したものになり、きわめて危険な誤謬に誘い込まれたのは、感官の対象は二様に存在すると想定されたからである。つまり、一方は理解可能な存在すなわち精神のなかに存在するということであり、他方は精神のそとにほんとうに存在するということである。この想定によれば、思考しない事物はそれ自身の自然的自存を、つまり心によって知覚されるということから区別される自存をもつと考えられている。もし私の間違いでなければ、きわめて無根拠で不合理な考えであると指摘されてきたこの想定こそが、まさに懐疑主義の根源である。それというのも人びとは、ほんとうに存在する事物が精神のそとに自存していて、これについての知識が事物に的中するのは、それがほんとうに存在する事物に一致しうるかぎりでのことだ、と考えてしまったものだから、自分がそもそも事物に的中した知識をもつとは確信できなかったからである。なぜなら、知覚される事物が知覚されない事物と一致しうるということ、つまりは、精神のそとに存在する事物と一致しうるということは、いかにして知られるというのだろうか。

八七 色、形、運動、延長等々はそれぞれ、精神のなかの感覚としてのみ考えられるかぎり、完璧に知られる。これらのなかには知覚されないものは何もないからである。しかし、もしそれらが精神のそとに存在する事物すなわち原型を示す印や似像とみなされるなら、われわれはことごとく懐疑主義に巻き込まれてしまう。〔この懐疑主義によれば、〕「われわれが見ているのは事物の見かけだけであって、事物のほんとうの性質ではない。何らかの事物の延長、形あるいは運動がほんとうは何であるか、そして絶対的には何であるか、あるいはそれ自体において何であるかをわれわれは知ることができず、われわれが知るのはそうした延長等々がわれわれの感官とどのように対応あるいは関係しているかということにすぎない。事物は同じままにとどまるのに、われわれの観念は変化する。すると、事物のなかにほんとうに存在する真の性質を再現しているのは、われわれの観念のうちのどれなのか、あるいは、そもそもわれわれの観念のどれかがそれを再現しているかどうかさえ、われわれは決定できない。したがって、われわれが見、聞き、そして触れるものはすべておそらくは幻影や虚しい妄想にすぎず、事物の本性のなかに存在するほんとうの事物とまったく一致しない」。こうした懐疑主義はすべて、事物観念が違うと想定し、前者は精神のそとに、つまり知覚されずに自存すると考えることから帰結する。この点を詳述し、いつの時代の懐疑主義者も持ち出す論拠がどれほど外的対象の想定に依存するのかを指摘するのは、容易なことであろう。

八八 思考しない事物は知覚されることから区別されてほんとうに存在すると考えてしまうと、われわれは〈ほんとうに存在する思考しないもの〉の本性を明白に知りえないだけでなく、それが存在することすら知ることができなくなる。だからこそ、われわれが見てとるように、哲学者たちは自分たちの感官を信用せず、天と地の存在を、自分たちが見たり触ったりするものすべての存在を、はては自分たち自身の身体の存在さえも疑ってしまう。そして、彼らはさんざん苦労して考えたあげく、感覚可能な事物の存在について何ら自明な知識にも論証的知識にも到達できないと認めざるをえなくなる。しかし、もしわれわれが言葉を有意味に使用し、何であるか分からないものを表示する「絶対的」「外的」「存在する」等という術語に惑わされないようにするなら、精神をこれほどに迷わせ混乱させ、哲学を世間の物笑いの種にしているこうした疑惑はすべて消え去ってしまう。私が自分の感官によってじっさいに知覚しているものの存在を疑うくらいなら、自分自身の存在さえも疑うことができる。それというのも、思考しないものの存在の本領がまさに知覚されていることにあるからには、何らかの感覚可能な対象が視覚や触覚によって直接的に知覚されているにもかかわらず、それがおよそ存在しないなどということは、明らかな矛盾だからである。

八九 事物に的中した適切な知識の堅固な体系を築くなら、それは懐疑主義からの攻撃に抗する鎧になるだろう。こうするためにもっとも重要なのは、「事物」「ほんとうの在り方」「存在」ということで何が意味されているのかを最初に明確に説明することであろう。なぜなら、これらの言葉の意味を確定しないかぎり、「事物がほんとうに存在する」ということにかんして議論したところで、あるいは、それについて知っていると言い張ったところで無駄だからである。事物あるいは存在者というのは、すべての名前のなかでもっとも一般的な名前であって、これのもとには全面的に区別される異質な二種類のもの、すなわち、この名前以外に共通するものを何ももっていない二種類のもの、つまり精神観念が含まれている。前者は能動的で不可分な実体である。後者は不活発ではかなく依存的な存在着であって、それ自身で自存するのではなく、精神あるいは精神的実体によって支えられている、あるいはそのなかに存在する。われわれは自分自身の存在を内的な感じあるいは反省によって理解し、他の精神の存在を理性によって理解する。われわれはわれわれ自身の精神、心そして能動的存在者について何らかの知識あるいは概念をもっていると言っていいが、しかし、厳密な意味ではこれらについて観念をもっていない。これと同様に、われわれは事物間の、あるいは観念間の関係について知っているし、それについての概念をもっている。こうした関係は互いに関係している観念や事物から区別される。後者はわれわれによって知覚されうるのに、われわれは前者を知覚しないからである。管見によれば、観念、精神そして関係はどれもそれぞれの仕方で人間的知識の対象であり、言説の主題である。したがって、観念という術語をわれわれが知っているすべてのもの、あるいはわれわれがその概念をもっているすべてのものを表示するほどに拡張するのは不適切であろう。

九〇 感官に刻印される観念はほんとうの事物である、つまりほんとうに存在する。われわれはこのことを否定しない。われわれが否定するのはむしろ、そうした観念が、それを知覚する精神のそとに自存できるということ、あるいは、精神のそとに存在する何らかの原型の類似物だということである。なぜなら、感覚あるいは観念が存在するということはまさに、知覚されていることにその本領があるのだし、観念は観念以外のいかなるものにも似ることはないからである。他方、感官によって知覚される事物は、その起源について言うなら、外的と呼ばれてよい。なぜなら、そうした事物は内部から、精神自身によって生みだされるのではなく、そうした事物を知覚する精神とは区別されるある精神〔神〕によって刻印されるからである。感覚可能な対象は、これとは別の意味でも同様に精神のそとに存在すると言われてよい。つまり、その意味とは、そうした対象は何か別の精神〔他人〕のなかに存在するということである。したがって、私が自分の目を閉じているときも、私が見ていた事物は依然として存在しうるのだが、しかしそれはある別の精神〔神と他人〕のなかに存在するのでなければならない。

九一 私が以上のように語るからといって、事物がほんとうに存在するという事態にはいささかの瑕疵も生じない。広く受け入れられている原理が承認しているところによれば、延長、運動、そして一言で言えば、すべての感覚可能な性質は、それ自身で自存できないがゆえに、支えを必要とする。しかるに、感官によって知覚される対象は、これらの性質の組み合わせにほかならず、それゆえ、それ自身で自存できないということも認められている。ここまでは万人が一致するところである。したがって、もしわれわれが、感官によって知覚される事物は実体に依存して存在すると語るなら、つまり、そうした事物がそのなかに存在できる支えに依存して存在すると主張するなら、そうした事物はほんとうに存在するという広く受け入れられている意見をわれわれはいささかも毀損していないし、この点で奇を衒っているとの責めを負ういわれらない。違いがあるとすれば、以下の点だけである。すなわち、われわれの見解によれば、感官によって知覚される〈思考しない存在者〉は知覚されることから区別されて存在することはまったくないのであって、したがって、あの延長しておらず不可分な実体のなかにしか存在できない、つまり能動的に作用し、思考し、そしてこれらの〈思考しない事物〉を知覚する精神のなかにしか存在できない。これにたいして、哲学者たちの広く流布した主張によれば、感覚可能な性質は不活発で延長した〈知覚しない実体〉のなかに存在し、彼らはこの実体を物質と呼んで、これに自然的自存を付与する。つまり、あらゆる思考する存在者の外側での自存、あるいは、およそ何らかの精神によって知覚されることから区別される自存、さらには、創造者の永遠の精神によって知覚されることからさえ区別される自存を物質に付与する。哲学者たちは、たとえ物体的実体がいやしくも創造されたと認めるにしても、創造者によって創造されたこの実体の観念しかこの永遠の精神のなかにはないと想定しているからである。

九二 すでに指摘したように、物質あるいは物体的実体の学説は懐疑主義の主要な支柱と土台になっていた。これと同様に、無神論と反宗教の不敬な体系もまたすべて同じ基盤のうえに建てられてきた。しかり、物質が無から創造されるなどおよそ考えにくいことだと思われたものだから、古代の哲学者たちのなかでもっとも高名な人たち、いや、これら古人のなかでも神の存在を認める哲学者たちでさえ、物質は創造されたのではなく、神と同じく永遠だと考えたのである。いつの時代にも無神論者たちにとって物質的実体がどれほどの盟友であったかは、語るに及ばないであろう。彼らの奇怪な体系はことごとくこの実体に明白かつ必然的に依存しているので、この礎石がいったんはずされてしまえば、建造物の全体は瓦解するしかない。したがって、無神論者たちのあらゆる邪悪な宗派の馬鹿馬麗しさについては、いまさら説する必要はない。

九三 不敬で冒潰的な連中の気質におもねることによって、すぐにも彼らの賛同をえる体系においては、非物質的実体は嘲られ、魂は身体と同様に分割可能で滅びると想定される。この体系は、事物の形成からいかなる自由も知性も計画も排除して、その代わりに、それ自身で存在していて思考しない鈍重な実体を万物の根源や起源にすることだろう。そして、そうした連中が聴従する人びとの意見によると、人間よりも優れた精神が世界の出来事を配慮あるいは気遣いすることなどないのであって、出来事の系列すべては物体同士の衝突から出てくる盲目の偶然や運命的な必然になる。〔物質を想定する〕彼らがこう考えたくなるのも無理はない。しかし他方で、もっとまともな原理をもつ人たちは、宗教の敵たちが思考しない物質にかくもしがみつき、すべてをこの物質に帰そうとかくもこぞって躍起になっているのを目にするとき、この連中がこうした有力な支えを奪われるのを見るなら、どれほど歓喜にむせぶだろうか。なにしろ、この唯一の砦から追放されるなら、あなたがたお気に入りのエピクロス派やホップズ派そしてその他の連中は、一片の口実さえもうけることもできなくなり、およそもっとも簡単で容易な仕方で駆逐されるからである。

九四 物質や物体が知覚されずに存在するということは、無神論者運命論者の主たる支えであっただけでなく、いかなる形態をとるにせよ偶像崇拝もまた同様にこれと同じ原理に基づいている。太陽、月、星そしてその他のすべての感官の対象はそれぞれ、知覚されるということ以外にはおよそ存在しようがないからには、精神のなかの感覚でしかない。このことだけでも考えてみるなら、自分自身の観念に跪いて、それを崇める人などおそらくまったくいないだろう。むしろ、万物を生みだし維持する永遠の不可視の精神を称賛するにちがいない。

九五 この同じ馬鹿げた原理は、われわれの信仰箇条と混じり合うと、キリスト教徒にとって少なからぬ困難を引き起こしてきた。たとえば、ソッツィーニ派やその他の連中が復活にかんしてどれほど多くの逡巡や反論を持ち出してきたことか。しかし、こうした反論のうちもっとも説得力のあるものですら、〈身体が同じと呼ばれるのは、その形にかんしてではなくて、つまり、感官によって知覚されるものにかんしてではなくて、いろいろな形のもとでも同じままにとどまる物質的実体にかんしてである〉という想定に依拠しているのではないか。論争はまさにこの物質的実体の同一性に集中しているのだから、この実体を取り除き、身体ということで平凡な普通の人びとの誰もが理解しているものを考えてみたまえ。つまり、直接に見られ触れられているもの、感覚可能な性質の組み合わせでしかないもののことを考えてみたまえ。そうすれば、あの連中のきわめて回答しづらい反論ですら無に帰するだろう。

九六 物質がいったん自然から追放されるなら、哲学者たちや神学者たちの悩みの種であった多くの懐疑主義的で不敬な考え方は、そして、無益な騒ぎを人類に引き起こしただけの信じられないくらい多くの論争や判じ物めいた疑問は、それとともに雲散霧消する。したがって、われわれがこれまで物質に反対して持ち出してきた議論が証明に等しいとみなされないにしても(私はもちろん、明らかに証明に匹敵すると思っているが)、知識と平和と宗教の盟友なら誰しもそうなって欲しいと願うのは当然であろう。

九七 観念についての知識にまつわる誤謬や困難を引き起こしているのは、知覚の対象が外的に存在するということだけではない。序論ですでに述べておいたような抽象的観念(abstract ideas)の学説もまた、その大きな元凶である。およそもっとも明白な事物、つまり、われわれがもっとも身近に熟知し完璧に知っている事物も、抽象的なやり方で考えられてしまうと、奇妙にも困難で理解しがたいものになってしまう。時間、場所そして運動は、個別的につまり具体的に受けとられるなら、誰もが知っているものである。しかし、形而上学者たちの手に渡ってしまうと、あまりに抽象的で精妙になってしまうものだから、常識をそなえた人びとには理解できなくなってしまう。あなたがたの召使にしかじかの時間にしかじかの場所であなたがたに会うよう言いつけてみたまえ。すると彼は、これらの言葉で何が意味されているのか、立ちすくんで考え込むことなどないだろう。この個別的な時間や場所、彼がそこへ行くための運動のことを考えるにあたって、彼は何の困難も覚えないからである。しかし、もしも時間が、一日を多様に分割する個別的な行為や観念のすべてを排除して、抽象的に(in abstract)存在の連続つまり持続としてのみ受けとられるなら、おそらく哲学者ですらこれを理解するのに当惑するだろう。

九八 私が時間の単純な観念を形成しようとするとき、つまり、私の精神のなかの観念の継起から切り離されていて(abstracted)、斉一に流れ、すべての存在者によって分有される時間の観念を形成しようとするとき、私はいつも逃れがたい困難に巻き込まれて茫然自失する。私はそんな時間のことなどまったく知らないからである。ただし、仄聞するところによると、他の人びとは、時間は無限に分割可能だと言っている。そして彼らは、私が自分の存在について奇妙な考えを抱かざるをえなくなるような仕方で、時間について語っている。それというのも、この学説によれば、人は思考されるものがないままに無数の年月を過ごすか、さもなければ、人はその人生の瞬間ごとに絶滅させられる、とどうしても考えざるをえなくなるが、しかしこれらはどちらも等しく不合理だと思われるからである。したがって、われわれの精神のなかの観念の継起から切り離されるなら時間は無なのだから、いかなる有限な精神の持続も、この同じ精神ないし心のなかで互いに継起する観念や作用の数によって測られねばならないことになる。さらにここから明白に帰結することだが、魂はつねに思考する。そしてじっさい思うに、自分の頭のなかで精神の存在をその思考から分割する、ないしは切り離そうとする人は誰でも、それが容易な仕事ではないことを見いだすだろう。

九九 これと同様に、延長や運動をそれ以外のすべての性質から切り離し(abstract)、それらだけで考えようと試みるとき、われわれはたちまちのうちにそれらを見失い、とてつもなく突飛な見解に陥ってしまう。こうなるのはすべて以下の二重の抽象(abstraction)のせいである。第一に、たとえば延長は他のすべての感覚可能な性質から切り離されうると想定され、第二に、延長が存在するということはそれが知覚されるということから切り離されうると想定されている。しかし、自分が語っていることをよくよく考え理解しようと気配りする者は誰でも、もし私が間違っていなければ、以下のことを認めるだろう。すなわち、感覚可能な性質はどれも等しく感覚であり、そしてどれも等しくほんとうに存在するということ、延長があるところには色もある、つまりそれらは他の精神のなかにあるということ、さらに、この延長や色の原型は何か他の精神のなかにしか存在しないこと、そして、感官の対象はこうした感覚が互いに結合し混合しあるいは(こう言ってよければ)凝固したものにほかならず、これらすべては知覚されずに存在するとは想定されえないこと。

一〇〇 ある人が幸福であるとはいかなることか、ある対象が善いとはいかなることか──こんなことは知っていると誰でも思うだろう。しかし、個別的な快のすべてから隔離された幸福の抽象的観念を、あるいは、善いものすべてから隔離されたの抽象的観念を形成できるなどと、ほとんどの人は言い張りはしない。これと同様に、〔個別的なものから〕隔離された正義の観念をもたずとも、人は正しく有徳でありうる。これらの言葉、そしてこれらに類した言葉は、すべての個別的な人や行為から切り離された一般的概念を表わしているという意見は、道徳を困難にし、道徳の研究を人類にとってますます役立たずにしてきたように思われる。そしてじっさいのところ、抽象の学説は知識のもっとも有用な部分を台無しにするのに少なからず貢献してきた。

一〇一 感官から受容される諸観念とこれら諸観念間の関係を論じる思弁的学問の二つの主要な部門は、自然哲学と数学である。これらのおのおのについてこれからいくらか述べることにしよう。
 最初に自然哲学について語ろう。懐疑主義者たちが凱歌をあげるのは、まさにこの主題についてである。われわれの能力を見くびり、人類を無知で下等なものに見せるために彼らが繰り出し備蓄している議論はもっぱら、われわれは事物の真のほんとうの本性にかんして克服しがたい無知の状態にあるという主張から引き出されている。この主張を彼らは誇張し、これについて延々と述べたがる。彼らに言わせれば、われわれは惨めにも感官によって欺かれ、事物の外面や外見に惑わされているだけである。どれほど卑しい対象であっても、それらすべての実在的本質、内的性質そして内的構造は、われわれの視界から隠されている。つまり、一滴の水のどれにも、一粒の砂のどれにも、人間的知性の力では見抜くことも把握することもできない何かがある。しかし、これまで指摘してきたところから明らかなように、この不平不満にはまったく何の根拠もないし、われわれは誤った原理に災いされて感官を信用しなくなり、完全に把握している事物について何も知らないと思い込んでいるのである。

一〇二 事物の本性について無知であると宣言させる大きな誘因のひとつは、いま流行りの意見である。これによると、すべての事物はおのれのうちにその特性の原因を含んでいる、すなわち、どの対象のなかにも何らかの内的本質が存在していて、この本質が源になってそこから対象の識別可能な性質が流れ出ており、これらの性質はこの本質に依存する。われわれに現われてくる現象を隠れた性質によって説明すると言い張る人たちもいたが、しかし昨今では、この隠れた性質はおおかた機械的原因に、つまり、感覚不可能な粒子の形、運動、重さそしてこれらに類した性質に姿を変えている。ところがほんとうは、精神以外にいかなる作用者あるいは作用因も存在しない。運動もそれ以外の観念もすべて完璧に不活発であることは明らかだからである。これについては第二五節を見よ。したがって、色や音は、形や運動や大きさ等々によって生みだされるとの説明は徒労でしかないし、この種の試みにはいかなる説得力もない。一般に、ある観念や性質を別の観念や性質の原因とみなす要求も、同断である。われわれの学説によるのであれば、どれほど多くの仮説や思弁が排除され、自然研究がどれほど簡潔なものになるのかは、言うまでもない。

一〇三 いまや大人気の機械的原因は引力である。石が地球に向かって落ちる、あるいは海が月に向かって膨らむのは、この引力によって十分に説明されると思う人たちもいるかもしれない。しかし、こうしたことが引力によってなされると告げられたところで、われわれはどれほど利口になるのか。そうなるのは、引力という言葉がこの〔地球や月への〕向かい方を表わしており、しかもこの向かい方は、〔離れた〕物体同士が互いに向かって押されたり突かれたりすることによるのではなく、相互に引き合うことによるからなのか。しかし、この作用の仕方については何も確たることは言われていない。すなわちこの仕方は引くと呼ぶのと同じくらいに、押す突くと呼んでも(おそらく)いっこうに構わないからである。さらに、鉄の部分が互いに固く凝集しているのをわれわれは目にする。そして、これもまた引力によって説明されている。しかし、他の事例と同様にこの事例においてもまた、引力という言葉によって表されているのは結果そのもの以外の何かであるとは思えない。それというのも引力という言葉の狙いは、この結果が生みだされるための作用の仕方、すなわちこの結果を生みだす原因ではけっしてないからである。

一〇四 なるほど、いろいろな現象を見てとり、それらを互いに比較してみるなら、われわれは現象間に何らかの類似や一致を観察できる。たとえば、石が地上に向かって落ちる、海が月に向かって盛り上がる、物体が凝集する、そして結晶化する──これらの現象のなかには何か似たものが、つまり、物体同士の結合や相互接近がある。したがって、これらの現象やそれに類した現象のどれも、自然の結果を綿密に観察し比較したことのある人にとっては、奇妙あるいは驚くべきものとは思えないだろう。それというのも、奇妙とか驚くべきものと思われるのは、通例ではないもの、つまり、われわれが観察する通常の経過からはみ出て孤立しているものだけだからである。物体が地球の中心に向かっていくことは、奇妙とは思われていない。なぜならこれは、われわれが日々の生活でいつも知覚しているからである。これにたいして、物体が月の中心に向かっても同じように引かれていくというのは、たいていの人びとにとって奇妙で説明のつかないことと思われるだろう。なぜならこれは、潮汐においてのみ認められるからである。ところが、哲学者というものは、もっと広い自然の領域を考慮に入れる。そして、地上でも天界でも数え切れないほどの物体が互いに向かっていくのを示す諸現象を観察し、そこに何らかの類を見てとったので、この向かうということに引力という一般的な名前を付けて、これに還元されうるものをすべて正しく説明できると考える。そこで彼はたとえば潮汐を、水陸からなる球が月に向かって引かれることによって説明する。彼にとってこの引かれるというのは、奇妙とも不規則とも思われず、むしろ自然の一般的規則あるいは法則の個別事例としか思えないからである。

一〇五 したがって、現象を知るということにかんして自然哲学者たちが他の人びととどこが違うのかを考えてみるなら、その違いはそうした現象を生みだす作用因を哲学者たちのほうがよく知っているという点にあるのではなく(なぜなら、この作用因は何らかの精神の意志以外の何ものでもありえないからである)、むしろ哲学者たちの理解の範囲がもっと広いという点にのみあるのが分かるだろう。こうした視野の広さによって、自然の作品において類似、調和そして一致が発見され、個別の現象が説明される、つまり、一般的規則に還元される。これについては第六二節を見よ。自然現象の出現において観察される類似や斉一性に基づくこうした規則は、精神にとってまことに心地よく、精神はこれを追い求める。なぜなら、こうした規則は、われわれの眼前にあるもの、われわれの身近にあるものを超えてわれわれの眺望を拡大してくれるからである。つまり一般的規則というものは、きわめて隔たった時間と距離において生じたかもしれないことにかんしてまことに蓋然的な推測を可能にしてくれるし、さらには、未来の事柄をも予測させてくれるのであって、精神は全知へ向かっていくこうした努力を大いに好むからである。

一〇六 しかしながらわれわれは、こうした事柄において慎重にことを進めるべきである。それというのも、われわれは類似を強調しすぎるきらいがある、つまり、真理にとってまずいことに、おのれの知識を一般的法則にまで高めるよう駆り立てる精神の熱狂におもねりがちだからである。たとえば、引かれるとか互いに引き合うということは多くの事例に現われるものだから、幾人かの人びとはすぐさまこれを普遍的だと宣言し、他の物体すべてを引きつけるとか他の物体すべてによって引きつけられるということはおよそすべての物体に内在する本質的な性質だと言いつのる。しかし、恒星(fixed star)がそのように互いに向かっていくとはとても思えない。つまり、この引かれるということは物体にとっておよそ本質的ではないのであって、したがって、たとえば植物の垂直上方の成長とか空気の弾性のようないくつかの事例においては、まったく正反対の原理が顔をのぞかせるように思われる。以上すべての事例において必然的あるいは本質的なことがあるとすれば、それはそうした事例すべてが支配的精神の意志に全面的に依存しているということでしかない。なぜならこの精神は、ある物体をさまざまな法則にしたがって互いに凝集させる、あるいは、互いに向かっていくよう仕向けはするものの、しかし他の物体は固定した(fixed)距離においたままにし、はたまた別の物体にはばらばらに飛び散るという〔引力とは〕正反対の傾向を与えているのであって、これらの事例はすべて彼の思し召しのままだからである。

一〇七 以上で述べられてきたことを前提とするなら、以下の結論を下してもいいと思う。第一に、哲学者たちが精神と区別される自然的作用因を探し求めるとき、彼らは明らかに無駄な努力をしている。第二に、被造物のすべては賢明にして善なる作用者の作品であると考えるなら、(幾人かの哲学者たちが主張しているのとは反対に)事物の目的因について思いめぐらせることこそ哲学者たちに似つかわしいように思われる。そして、認めねばならないことだが、自然物はさまざまな目的に適合し、もともと筆舌に尽くしがたい知恵をもってその目的のために企図されたのであるから、こうした目的を指摘することが自然物を説明するひとつの優れた方法であり、学者にとってまことにふさわしいと考えていけない理由には分からない。第三に、いま述べた二つのことから、自然誌〔博物学〕を研究してはならない理由、つまり、観察と実験を行ってはならない理由は出てこない。この観察と実験が人類にとって有用であり、ここから一般的帰結を引き出せるということは、事物そのもののあいだの不変的関係の結果ではなく、世界を統治するにあたって神が人間に示す善意と慈愛の結果にほかならないからである。これについては第三〇、三一節を見よ。第四に、われわれの視野に収まる諸現象を綿密に観察することによって、われわれは自然の一般法則を発見し、この法則から他の諸現象を導出できる。ただし私は、導出すると言っているのであって、証明するとは言わない。それというのも、この証明といったたぐいの導出はすべて、自然の創造者はつねに斉一にはたらく、つまり、われわれが原理とみなす規則をたえず遵守してはたらくという想定に依拠しているけれども、しかしわれわれはこのことを明白に知ることはできないからである。

一〇八 諸現象から一般的規則を形成し、その後でこの規則から現象を引き出す人たちは、原因ではなく記号を考察していると思われる。われわれは自然的記号間の類似を知らなくても、つまりある事物がいかなる規則によってしかじかであるのかを言うことができなくても、そうした記号を十分に理解できる。そして、一般的な文法規則をあまりに厳密に遵守するがゆえに、不適切な書き方をすることがおおいにありうるのと同様に、自然の一般的規則から推論するにあたって、そうした類似をあまりに遠くまで拡張し、そうすることで誤認に陥るということもありえないではない。

一○九 賢明な人は、本を読むにあたって、言語にかんする文法的注記よりもむしろ意味をしっかりと考えてそれを利用するだろう。これと同様に、自然の書物を熟読するにあたって、個別的な現象のおのおのを一般的規則に引き戻し、その現象がこうした規則からいかにして生じるのかを示すのにもっぱら気を遣うというのは、精神の品位に悖るように思われる。われわれはもっと高貴な目的を掲げるべきであろう。すなわち、自然物の美、秩序、広大さそして多様性を眺めながら精神を活気づけ高揚させ、そこから適切な推論によって、創造者の雄大、知恵そして慈悲をもっとよく考えるようにして、ついには、われわれの力の及ぶかぎり創造のいろいろな部分を、その目的すなわち神の栄光に奉仕させ、そしてわれわれ自身と他の被造物の維持や慰安に奉仕させるべきである。

一一〇 先述の類似あるいは自然学のためのもっともすぐれた手引書が力学にかんするある著名な論考であることは、誰もが容易に認めるところであろう。称賛されて当然のこの論考の冒頭で、時間、空間そして運動が、絶対的相対的真の見かけの数学的通俗的に区別されている。著者によって詳細に説明されているこの区別は、そうした量が精神のそとに存在していると想定している、つまり、そうした量が日常的には感覚可能な事物と関係して考えられるものの、しかしそれにもかかわらずそれら自身の本性においては、そうした感覚可能な事物とは何の関係もないと想定している。

一一一 時間について言うなら、あの論考では、時間は絶対的な意味では、つまり〔感官から〕切り離された(abstracted)という意味では、事物の存在の持続すなわち事物が存在し続けることとして理解されている。しかし、この主題については第九七節と九八節ですでに述べておいたから、ここであらためて付け加えることは何もない。次に残りのものについて言うなら、この著名な著者は、絶対空間が存在すると主張する。この空間は感官によって知覚されず、それ自体は均一で不動のままである。そして、相対空間はこの絶対空間の尺度である。これは運動可能であって、感覚可能な物体にかんするその位置によって規定されるのに、通俗的には不動の空間とみなされている。彼の定義によれば、場所とは、空間のうちで何らかの物体によって占められている部分のことである。そして、この空間が絶対的であるか相対的であるかに応じて、場所もまた絶対的であるか相対的である。彼に言わせれば、絶対運動とは、ある物体が〔ある〕絶対的場所から〔他の〕絶対的場所へ移動することであり、同様に、相対運動とはある物体がある相対的場所から他の相対的場所へ移動することである。そして、絶対空間の部分はわれわれの感官によっては捉えられないから、われわれはそうした部分の代わりにそれらの部分の感覚可能な尺度を使い、そうすることによって、われわれが不動とみなす物体にかんして場所と運動のどちらをも規定せざるをえなくなる。しかし、これまた彼に言わせれば、哲学的に考察するにあたってわれわれは、自分の感官を度外視(abstract from our senses) しなければならない。それというのも、静止しているかに見える物体のどれもじつはそうではないかもしれず、そして、相対的に動いている同じ事物がほんとうは静止しているかもしれないからである。そして、これとまったく同様に、ひとつの同じ物体も、その場所がさまざまに規定されるのに応じて、同時に相対的な静止と運動の状態にあるということがありうるし、あるいはさらに、同時に正反対の相対運動をともないながら動くということさえありうる。見かけの運動にはこうした曖昧さがすべて見いだされうるが、しかし真の絶対的な運動においてはけっしてそういうことはない。したがって後者だけが哲学において考察されるべきである。そして、われわれが耳にするところによれば、真の運動が見かけの運動あるいは相対運動から区別されるのは、以下の特性による。第一に、真の運動あるいは絶対運動においては、全体にかんして同じ位置を保つすべての部分は、全体の運動をも分けもつ。第二に、場所が動くからには、その場所のなかに位置するものもまた動く。したがって、動いている場所のなかで動いている物体は、おのれの場所の運動をも分けもつ。第三に、真の運動は、物体そのものに加えられた力による以外には、生じることも変化することもない。第四に、真の運動は動く物体に加えられた力によってつねに変化する。第五に、たんに相対的な円運動においては遠心力は存在しないが、しかしそれにもかかわらず、真のあるいは絶対的な円運動においては、遠心力は運動量に比例する。

一一二 しかし、このように語られているにもかかわらず、相対運動以外の運動がありうるとは思えない。したがって、運動を考えるためには、その相互の距離ないし位置が変化する少なくとも二つの物体が考えられねばならない。だから、たった一つの物体しか存在しないのであれば、それが運動することはおよそありえない。私がもちうる運動の観念はかならず関係を含むのであってみれば、以上のことは明らかであると思われる。

一一三 しかし、どの運動においても一つ以上の物体を考える必要があるにもかかわらず、一つの物体だけが運動することもありうる。すなわち、距離の変化を引き起こす力が加えられている物体、あるいは換言するなら、そうした作用が付与されている物体だけが運動する場合である。それというのも、相対運動を定義するにあたって、何か他の物体からの距離を変化させる物体を運動すると呼び、そうした変化を引き起こす力あるいは作用がその物体に付与されるか否かを問わない人がいるとしても、相対運動は感官によって知覚され日常生活において見られるものであるから、常識をそなえた人なら誰でも最優秀の哲学者と同じくらいに、相対運動とは何かを知っているからである。そこで私は誰にせよ尋ねたい、通りを歩くとき彼がその上を過ぎていく石は、彼の足との距離を変えるがゆえに動くと言われていいのだろうか、この言い方は彼がそのときに感じる運動に適っているだろうか。私に言わせれば、運動はあるものと他のものとの関係を含むにしても、この関係の項のおのおのが運動と呼ばれなければならないわけではない。ある人が何かを考えているからといって、その考えられている何かが考えるわけではないのと同様に、ある物体が他の物体の方へ動く、あるいは他の物体から動くからといって、その当の他の物体そのものが動くわけではないのである。

一一四 場所がさまざまに規定されることがあるのに応じて、その場所に関係する運動もさまざまである。ある船のなかの人は、船の舷側にかんしては静止しているけれども、陸にかんしては動いていると言われる。あるいは、彼は船の舷側から見れば東へ動くが、陸から見れば西へ動くと言われる。人びとは日常生活で何らかの物体の場所を規定するために、地球のそとに出ることはけっしてない。つまり、地球から見て静止しているものは、絶対的に静止しているとみなされる。しかし哲学者たちはもっと遠くまで思考を広げ、事物の秩序をもっと正しく考えるので、地球そのものでさえ動くということを明らかにする。そこで彼らはこうした考えを堅固なものにしようとして、物体の世界には限りがあり、そしてこの世界の一番端の不動の壁あるいは殻は真の運動を計測するための場所だと考えているように思われる。ではわれわれ自身はどう考えるのかを調べてみるなら、われわれがその観念をつくることのできる絶対運動はすべてじつはこのように定義される相対運動にほかならないことが判明すると思う。それというのも、すでに〔第一一二節で〕述べたように、あらゆる外的関係を排除した絶対運動は理解不可能だからであり、〔第一一一節の最後で〕絶対運動に帰された先述の特性、原因そして結果はすべて、もし私の間違いでなければ、この種の相対運動に符合することが見いだされるからである。遠心力について、それは相対的な円運動にはけっして属さないと言われていたが、そのことを論証するために持ち出された実験からどうしてこの発言が帰結するのか私には分からない。『自然哲学の数学的諸原理』定義八への注解を見よ。それというのも、前節から明らかなように、容器のなかの水は、最大の相対的な円運動をもっていると言われる時点では、いかなる運動ももっていないように思われるからである。

一一五 〔前節最後の理由をさらに補強するなら、〕ある物体を運動していると名づけるためには、第一に、それが何か他の物体にかんしてその距離や位置を変えるということ、第二に、この変化を引き起こす力あるいは作用がこの物体に加えられるということが必要である。これら二つの条件のうちどちらかが欠けているなら、ある物体が動いていると語るのは、人類の思慮分別にも言語の適切な用法にも適うとは思えない。ある物体が何か他の物体からの距離を変えるのを見るとき、たとえその物体にいかなる力も加えられていないとしても、われわれがこの物体は動いていると考えるのはなるほど可能だと認めよう(この意味では見かけの運動は存在するだろう)。しかし、われわれがそのときそう考えるのは、動くと考えられる当の物体に距離の変化を引き起こす力が加えられているもしくは付与されている、とわれわれが想像しているからにほかならない。だからこそわれわれは、動いていない事物を動いていると取り違えることもある。それだけのことである。

一一六 これまで述べてきたことから明らかなように、運動を哲学的に考察したところで、絶対空間が存在することにはならない。絶対空間は感官によって知覚される空間から区別され、そして物体と関係する空間からも区別されることになっている。〔しかし、運動がすべて相対的であるのに応じて、空間もまたすべて「知覚される」相対空間であり、〕この空間が精神のそとに存在できないことは、感官の他の対象すべてについて同じことを証明するのと同じ原理に基づいて明らかである。そして、もし注意深く調べるなら、すべての物体を排除した純粋空間の観念をつくることすらできないこともおそらく判明するだろう。この観念が不可能であると思われるのは、それがきわめて抽象的な観念であるからだ、と私は言わねばならない。私が自分の身体の何らかの部分を動かすとき、もしその運動が自由で抵抗に遭わなければ、そこには空間があると私は言う。しかし、もし抵抗があるなら、そのとき私は、そこに物体があると言う。そして、運動への抵抗が小さいか大きいかに応じて、その空間はより純粋であるかより純粋でないと私は言う。したがって、私が純粋空間あるいは空虚な空間という言い方をするとき、この空間という言葉が物体や運動から区別された観念、あるいはそれらなしに考えられた観念を表わしていると想定してはならない。まことにわれわれは、どの名詞も何らかの区別された観念を、つまり他のすべての観念から切り離されうる何らかの観念を表わしていると思いがちであるけれども、このことこそ数限りない誤解をこれまで引き起こしてきたのである。したがって、私自身の身体を除いて世界のすべてが絶滅させられたと想定するとき、それでもなお純粋空間が残ると私は言う。これによって私が意味しているのは、私の身体の四肢がまったくなんの抵抗も受けないであらゆる方向に動くことが可能だと私が考えるということでしかない。しかし、もしこの身体もまた絶滅させられるなら、いかなる運動もないだろうし、したがっていかなる空間もないだろう。視覚が純粋空間の観念を与えてくれると考える人がいるかもしれない。しかし他のところですでに示したところから明らかなように、空間と距離の観念はこの感官によって獲得されるのではない。『視覚新論』〔第一二六節〕を見よ。

一一七 純粋空間の本性にかんして識者たちのあいだで生じてきた論争と難点のすべては、以上述べてきたことによって解消されると思われる。しかし、これまでの論述の主要な利点は、この主題について考えてきたいろいろな人たちが陥ったと思い込んでいるある危険なディレンマから逃れられるということである。つまりそれは、ほんとうに存在する空間は神であると考えるか、それとも、永遠で創造されず無限で不可分で不動である何かが神のほかに存在すると考えるかのいずれかであるというディレンマである。これらのどちらも有害で馬鹿げた考えであると思われるのは当然である。なるほど、少なからざる聖職者たちは、さらには著名な哲学者たちもまた、空間に限界があるとか空間は絶滅させられると考えるのは難しいということを理由にして、空間は神的であるにちがいないと結論してきた。そして近頃の人たちのなかには、神の共有不可能な属性が空間と符合することを指摘するよう努める者さえいる。しかし、こうした学説がどれほど神の本性にふさわしくないと思われるにしても、もしわれわれが広く受け入れられている意見にしがみつくなら、いかにしてそれから逃れられるのか私には分からない。

一一八 自然哲学については以上のとおりである。次いで、思弁的学問のもうひとつの重要な部門、すなわち数学についていくらか論じることにしよう。数学においては、ほとんど他のどこにも見られないくらいに、その証明は明晰で確実である。それゆえに数学は称賛されているのだが、しかし、もしもその原理のなかにこの学問の研究者たちが人類の他の人たちと共有する何か隠れた虚偽が潜んでいるなら、数学といえども誤謬から完全に免れているとは言えない。数学者たちはその定理をきわめて高度の明証性から引き出すけれども、彼らのこの明証的な第一原理は量の考察を超えることはない、つまり彼らは、すべての個別学問を超えてそれらに影響する最高原理の探求にまで高まることはない。したがって、この最高原理のなかに虚偽が含まれているなら、これら個別学問のどれも、数学さえ例外とはしないで、この誤謬を共有することになるだろう。数学者たちが掲げる第一原理が真であること、そしてこの原理から彼らが定理を引き出すやり方が明晰で疑問の余地がないことを、われわれは否定しない。しかしわれわれに言わせれば、数学の対象を超えるほど大きな射程をもった何らかの誤った最高原理があるかもしれないし、しかも、この最高原理はまさにそれほどの射程をもっているがゆえに、暗黙のうちにこの学問の進展のすべてにわたって想定されているにもかかわらず、表だって言明されることがない。そして、この吟味されていない隠れた誤謬の悪影響が、この学問のすべての部門に拡散している。率直に言うなら、抽象的で一般的な観念が存在するという学説、そして対象が精神のそとに存在するという学説から生じる誤謬に、数学者たちは他の人びとに劣らず関与しているのではなかろうかと、われわれは怪しんでいるのである。

一一九 算術の抽象的観念をその対象にしていると考えられてきた。数の特性や相互関係を理解することは、思弁的学問の卑しからざる部分だと想定されている。思考を異常なまで繊細に高めようとしたと思われる哲学者たちによれば、抽象的な数は知性によって把握される純粋な本性をもっている。この意見のゆえに数は尊敬の的であったし、数にかんするきわめてつまらない思弁ですら、実生活では何の役にも立たずむしろ混乱を助長するだけであるにもかかわらず、高く評価されてきた。そこで、この意見によってその精神がはなはだ汚染された幾人かの人びとは、数には強力な神秘が含まれていると夢みて、数によって自然物を解明しようと試みてきた。しかし、われわれ自身の頭のなかを覗き込み、これまでに語られてきたことを考察するなら、われわれはこのように高く舞い上がった抽象に低い評価を下して、数にかんするすべての探究は難解な些事でしかないと考えることだろう。そうした探求は、実生活に奉仕することも、生活の利便を促進することもないからである。

一二〇 抽象的な単一性については、以前に第一三節で考察しておいた。この節ならびに序論で言われたことから明らかなように、そのような観念など存在しない。しかるに、数は単位の集まりと定義されるから、もしそのような抽象的な単一性や単位がないとするなら、数詞や数字で表記される抽象的な数の観念もまたないと結論できるだろう。したがって、算術における理論は、もし数詞や数字から切り離され、さらにすべての使用や実生活から切り離され、はたまた数え上げられる個別的な事物からも切り離されるなら、いかなるものをも対象にしていないと想定していい。ここから見てとれるように、数にかんする学問はことごとく実生活に従属しているのであり、たんなる思弁の問題とみなされるときには、まことに虚しく不毛なものになってしまう。

一二一 しかしながら、抽象的真理を発見するという一見すると素晴らしい外見に惑わされて、何の役にも立たない算術的法則や問題で時間を浪費する人びともいるかもしれないから、もっとじっくり考察して、そうした言い分の虚しさを暴き立てるのも的外れではないだろう。そしてこの虚しさを明らかにするには、算術をその揺籃期において検分し、人びとをこうした学問の研究へ駆り立てたものはもともと何であり、彼らが何を目指していたのかを注視してみるのがいいだろう。人びとはまずはじめに、記憶を容易にし計算を助けるために、石や木の小片を使ったり、あるいは書くときには、斜線を一本ずつ引いたり、点を一個ずつ打ったり、あるいはそれに類することをした、と考えるのは自然である。これらの小片等のおのおのは単位を表わすとされた、つまり、彼らが数える必要のあったものが何であれ、そのものの何かひとつを表わすとされたわけである。その後、彼らはもっと簡便な方法を見いだした。つまり、ひとつの文字をいろいろな斜線や点の代わりにした。そして最後に、アラビア人やインド人の記数法が使われるようになった。この方法においては、少数の記号すなわち数字が繰り返され、おのおのの数字が占める位置に応じてその意味が変わることによって、すべての数がきわめて適切に表現されうる。このやり方は言語に合わせて行われたと思われるので、数字による表記と名前による表記のあいだには厳密な平行関係が観察される。すなわち、九個の単純な数字は最初の九つの数詞に相当し、前者における位置は後者における桁名称に対応する。そして、単独での数値と桁の数値というこうした条件に適合させて、部分になる一定の数字や記号から、全体を示すにはいかなる数字がどのように配置されるのが適切であるのかを発見する方法、あるいは逆に全体から部分を発見する方法が編み出された。そして、求められる数字を発見してしまうと、同じ規則あるいは平行関係が一貫して観察されるから、数字を言葉にして読むのは容易になり、こうして数は完璧に知られるようになる。なぜなら、いかなる個別的な事物の数も、それが知られると言われるのは、われわれが数詞を知るとき、あるいは、〔この数同との〕恒常的な平行関係にしたがって事物に属する(適切に配置された)数字をわれわれが知るときだからである。こうなるのはなぜかと言えば、これらの記号が知られるなら、算術の操作によってわれわれは、こうした記号によって表わされる個別の計算結果のいかなる部分の記号をも知るのであって、このように記号において計算することによって(さまざまな量の事物の一つ一つが単位とみなされるなら、それらの量の数と記号のあいだには恒常的な結合があるから)、われわれは数え上げようとしている事物そのものを正しくひとまとめにしたり分割したり分配したりできるようになるからである。

一二二 したがって、算術においてわれわれは事物ではなくて記号を注視する。それにもかかわらず、記号が注視されるのは、それ自身を目的にしてのことではなくて、事物にかんしていかに行為し、事物をいかに正しく処理するのかをそれらの記号がわれわれに教えてくれるからである。さて、われわれが言葉一般について以前に(序論の第一九節で)観業したころによれば、ここでもまたこう考える人たちがいるかもしれない。つまり、数詞や数字は、われわれの精神に個別的な事物の観念を示唆しないかぎりで、抽象的概念を表示しているのだ、と。いまこの主題についてもっと綿密に論述するのは差し控えるが、しかし、次のことだけは言っておこう。つまり、これまで述べてきたことから明らかなように、数にかんする抽象的真理や法則とみなされているものが対象にしているのは、じつは数えられうる個別的な事物だけである。さらに加えて言えば、数詞と数字もまたその対象になるが、しかし、これら数詞や数字はもともと、人びとが数える必要のあったあらゆる個別的な事物の記号であることによって、つまりその個物を適切に代理できるという理由によってのみ、考察されるようになったのである。ここからも分かるように、それ自身を目的にして記号を研究するのが愚かで不毛であるのは、言語の真の用法を無視して、つまりもともとの意図や有用性を無視して、言葉にかんする場違いな批評、あるいはたんに言葉の上だけの推論や論争に時間を費やすのと同断である。

一二三 数から延長へ話を進めよう。相対的なものと考えられた延長は幾何学の対象である。そして、この学問の基本書〔ユークリッドの『原論』〕では、公理としても定理としても明言こそされていないものの、有限な延長の無限分割可能性がこの学問のいたるところで想定されており、幾何学における原理や証明と不可分かつ本質的に結びつくと考えられているので、数学者たちはこれをけっして疑わず問題にさえしない。そして、この考え方こそ幾何学において混乱を引き起こす非常識すべてを生みだす根源であるし、こうした非常識は人類の平明な常識に真っ向から逆らい、学問によってまだ毒されていない精神にはまったく受け入れがたいものである。さらには、数学の研究をきわめて難解かつ冗長にしている込み入った極度の些事すべての主たる根拠もまた、この考えなのである。そこで、有限な延長はけっして無数の部分を含まない、すなわち無限に分割できないことを明らかにできるなら、人間理性の恥辱とみなされてきた途方もなく多くの困難と矛盾から幾何学という学問をただちに解放し、それと同時に、幾何学の習得をこれまでよりもはるかに手間暇のかからない仕事に変えることだろう。

一二四 どの個別の有限な延長も、われわれの思考の対象でありうるかぎりは、精神のなかにのみ存在する観念であり、したがってこの延長のどの部分も知覚されねばならない。それゆえ、私が考えている有限な延長において無数の部分を知覚できないのなら、それらの部分がその延長に含まれていないことは確実である。しかるに、何らかの個別的な線、面あるいは立体を私が感官によって知覚するにしろ、あるいは私の精神のなかで思い描くにしろ、これらの線、平面、立体において、私が無数の部分を見分けられないのは明らかである。したがって私は、それらの部分はそこに含まれていないと結論する。私にとって何よりも明白なのは、私が考えている延長は私自身の観念でしかないということであり、そして、これに劣らず明白なのは、私の観念のどれひとつとして無限数の他の観念に分解できない、つまり、私の観念は無限に分割できないということである。もし、有限な延長ということによって有限な観念とは区別される何かが意味されるなら、それが何であるか分からない、したがってそれについてはいかなることも肯定もしくは否定できない、と私は宣言する。しかし、延長部分等々の術語が何らかの理解可能な意味に受け取られるなら、つまり観念として受け取られるなら、有限な量もしくは延長は無限数の部分からなると語ることは、誰でもただちに承認するほどにきわめて明白な矛盾である。そうした発言が理性的被造物の同意をえることなど不可能であろう。なぜなら、たとえ回心した異教徒が穏やかでゆっくりとした歩みによって化体を信じるようになるとしても、理性的被造物はどれほど徐々にであれそうした発言に同意することなどないからである。古くからの根強い偏見はしばしば原理のなかに潜りこむ。そして、いったん原理の効力と信用を得てしまった命題は、それ自身だけでなく、そこから引き出されうるすべての命題もまた同様に、あらゆる吟味を免れると考えられるようになる。そして、どれほど粗雑な不合理であろうとも、こうした手段によれば、人間の精神はすぐにもそれを鵜呑みにしてしまうのである。

一二五 その知性が抽象的で一般的な観念の学説に囚われている人は、(感官の観念についてどう考えるにせよ)抽象的な延長が無限に分割可能であることに納得するかもしれない。そして、感官の対象が精神のそとに存在すると考えている人は、まさにそう考えるがゆえに以下のことを認めるようになるだろう。すなわち、たった一インチの長さの線は無数の部分を含みうるのであって、これらの部分はあまりに小さくて見分けられないけれども、ほんとうに存在するのだ、と。これらの誤謬は余人のみならず幾何学者たちの精神のなかにも移植され、彼らの推論に同じような影響を与えている。しかし、延長の無限分割可能性を支持するために使われる幾何学由来の議論がこうした誤謬に基づいていることを示すのは困難なことではないだろう。さしあたりわれわれは、数学者たちがこぞってなぜこれほどまでにこの無限分割可能性の学説を偏愛し固守するのかを、概括的に述べるだけにしておこう。

一二六 他のところ(序論の第一五節)ですでに述べたように、幾何学における定理や証明は一般的な観念にかかわる。その節では、このことがいかなる意味で理解されるべきかが解明されている。すなわち、幾何学の作図に含まれる個別的な線や形は異なった大きさをもつ無数の他の線や形を代表すると想定されている。あるいは換言すれば、幾何学者はこれら無数の線や形をその大きさを度外視して(abstract from)考察する。しかしだからといって、彼が抽象的(abstract)観念をつくっているということにはならない。むしろ彼は、その個別的な大きさが何であるか、つまり大きいのか小さいのかに頓着せずに、この大きさを証明にとってはどうでもいいものとみなす。しかしながらこの結果として、作図におけるある線が、たった一インチの長さしかなくとも、まるで一万の部分を含むかのように語られざるをえなくなる。その理由は以下のとおりである。この線はそれ自体におい いて考慮されるのではなくて、一般的であるかぎりで考慮されており、そして、この線が一般的であるのは、それが表示のはたらきをするからにほかならない。つまり、このはたらきによって、その線そのものはけっして一インチを超えないにもかかわらず、自分よりも長い無数の線を代理する。そして、こうした長い線においてであれば、一万やそれ以上の部分は見分けられうる。このようにして、これら表示される線のこうした特性が(きわめてありふれた比喩的な語り口によって)、それらを表示するものに移し替えられ、そこからさらに進んで、この表示するもの自身に属すると誤解されるようになる。

一二七 ある線が含む部分がどれほど多くても、その線はかならずそれよりも多い部分を含むのだから、この一インチの線は指定されるいかなる数よりも多い部分を含む、と言われている。しかし、この主張は絶対的に〔それ自体で〕受けとられたそのインチに当てはまるのではなく、そのインチによって表示される事物にのみ当てはまる。それにもかかわらず、人びとはこの区別を保持せずに考えるものだから、紙のうえに書かれたこの小さな個別的な線はそれ自身のなかに無数の部分を含むと信じ込んでしまう。一インチの一万分の一の部分といったようなものは存在しないが、しかし、このインチによって表示されうる一マイル地球の直径の一万分の一の部分は存在する。したがって、私が紙のうえに三角形を描き、たとえば、長さが一インチを超えない一辺を〔地球の〕半径とみなすとき、私はこの半径が一万あるいは一〇万あるいはそれ以上の部分に分割されると考える。なぜなら、それ自体で考えられたこの一インチの線の一万分の一の部分はまったくの無であり、したがって、それを無視しても何の誤謬も不都合もないけれども、しかしながら半径として描かれたこれらの線は、もっと大きな量を代表する記号にほかならず、おまけにこのの一万分の一の部分はきわめて大きなものでありうるから、実生活での大きな誤謬を防ぐためには、その線として描かれた半径は一万あるいはそれ以上の部分からなるとみなさねばならないからである。

一二八 何らかの定理を一般的に使用するためには、紙のうえに描かれた線について、それがじっさいには含んでいない部分をまるで含むかのように語らざるをえなくなる理由は、以上述べてきたことから明らかになる。しかしながら、徹底的に吟味してみれば判明するように、そう語らざるをえないからといって、われわれは一インチそのものを千の部分からなる、あるいはそれらの部分に分割できると考えることはできず、むしろ、この線によって代理される一インチよりもはるかに大きい何か他の線だけをそのようなものとして考えることができる。おまけに、われわれがある線は無限に分割可能であると言うとき、われわれは無限に大きな線のことを考えざるをえない。前節までに述べたことが主たる理由になって、幾何学においては有限な延長の無限分割可能性を想定しなければならないと考えられてきたのであろう。

一二九 この誤った原理から帰結したいろいろな不合理や矛盾はどれも、その原理を論駁する証明だと考えてもいいだろう。しかし、いかなる理屈によるのかは分からないが、アポステリオリな論証は無限にかんする命題の論駁とは認められないと主張されている。まるで、まさに無限な精神にとっては、矛盾したものを調停することは不可能ではないといわんばかりである。あるいは、不合理で矛盾したものは真理と必然的に結合し、真理から出てくるといわんばかりである。しかし、この言い訳は通用しないとみなす人なら誰でも、無精な精神を甘やかすためにこの言い訳が考案されたと思うだろう。なぜならこの精神は、かつて真なるものとして受け入れてきた原理の厳しい吟味をやり遂げるのではなく、むしろ怠惰な懐疑主義を黙認したがるからである。

一三〇 近年、無限にかんする思弁は、きわめて高揚して奇妙な考えにまで達しており、当代の幾何学者たちのあいだに少なからぬ疑念と論争を引き起こすまでになった。非常に著名なある人たちは、有限な線は無数の部分に分割されると主張するだけでは満足せずに、さらに進んで、これら無限小のおのおのはそれ自体で無限な他の部分に、つまり第二位数の無限小に下位分割され、そしてこの無限小もまたさらに無限な他の部分に下位分割されるといったぐあいに、この分割が無限に続くと主張する。私に言わせれば、これらの人びとは、けっして終わることのない無限小の無限小の無限小の云々があると言っていることになる。したがって彼らによれば、一インチは無数の部分を含むだけでなく、無限の部分の無限の部分の無限の部分の云々といった無限に続く部分を含むことになる。ところが他の人たちは、第一位数より下位の無限小の位数はすべてまったくの無であると主張する。なぜなら、〈何らかの正の延長量あるいは延長部分は、それを無限に増やしても、せいぜいのところ与えられている最小の延長に等しい〉と想像するのは、当然のことながら不合理だと考えるからである。しかしながら他方で、正の実数根の二乗、三乗あるいは他の累乗はそれ自体まったくの無であると考えるのも、いまの不合理に劣らず不合理であるように思われる。しかし、第一位数の無限小を主張して、それに引き続く位数のすべてを否定する人たちは、この不合理を言い張らざるをえなくなる。

一三一 したがって、上記の人たちはどちらも間違っていて、何らかの有限な量のなかに含まれる無限小の部分あるいは無数の部分といったようなものはないと結論していいのではなかろうか。しかし、あなたがたは言うだろう、「もしあなたのこの見解が勝ちをおさめるなら、幾何学のまさに基礎そのものが破壊されることになろう。そして、この学問をきわめて驚くべき高みにまで引き上げてきた偉大な人たちは、その間ずっと空中楼閣を築いていたことになる」。これにたいしてはこう答えよう。幾何学において有用で人間生活の利便を促進するものはすべて、われわれの原理に立っても堅固なままで揺らぐことなどない。この学問はその実用性という点では、これまで述べてきたことから不利益をこうむるよりはむしろ利益を受け取ることだろう。しかし、この点を適切に解明することは、別の探究の主題であろう。その他のことについて言うなら、思弁的数学のもっと入り組んだ複雑な部分のいくつかは真理を毀損することなく削ぎ落とされるけれども、だからといってそこから人類にとっていかなる損失が引き出されることになるのか、私には理解できない。むしろ反対に、たいへんな能力と粘り強い勤勉をもち合わせた人たちがそうした厄介ごとなど考えずに、生活の関心事にもっと密接にかかわること、あるいは生き方にもっと直接に影響することの検討に思考を費やすほうが、まことに望ましいことだろう。

一三二 あなたがたはこう言うだろう、「疑う余地なく真であるいろいろな定理が無限小を使う方法によって発見されている。もしも無限小の存在が矛盾を含むとすれば、こんなことはありえなかっただろう」。これにたいして私はこう答えよう。徹底的に吟味すれば分かるように、〈有限な線の無限小の部分〉あるいは〈感覚可能な最小量以下の量〉を使ったり考えたりする必要などまったくない。それどころか、明らかに誰もそんなものを使ったり考えたりしていない。なにしろ、そうすることは不可能なのだから。

一三三 これまで述べてきたことから明らかなように、きわめて多くの重大な誤診はこの論考の先の部分で論駁しておいた誤った原理から生じてきた。そして、これら誤診だらけの原理と反対の原理なら、とりもなおさずきわめて実り豊かな原理であるように思われる。それというのも、この原理から真の哲学ならびに宗教にとって非常に有益な数え切れないほどの帰結が出てくるからである。とりわけ、これまで指摘してきたように、物質という想定、つまり物体的対象が絶対的に存在するという想定こそ、人間にかんする知識であれ神にかんする知識であれ、あらゆる知識にたいするもっとも邪悪な公然の敵がもっぱら拠りどころとし確信してきたものにほかならない。そして以下のことが言えるとするなら──すなわち〔第一に〕、思考しない事物がほんとうに存在するということをそれが知覚されていることから区別し、それらの事物に人びとの精神のそとでの自存を認めるなら、何ひとつとしてまったく説明されず、むしろ反対にきわめて多くの説明不可能な難点が生じるということ。〔第二に、〕物質という想定は、たったひとつの根拠にすら基づいていないがゆえに、まったく当てにならないということ。〔第三に、〕その想定からの帰結は吟味と闊達な探究の光に耐えられず、無限なものは理解不可能であるというよく耳にする暗愚な口実のもとに隠れるということ。〔第四に、〕この物質を除去したところで悪い帰結などまったく出てこないのであって、物質などなくてもいっこうにかまわず、むしろすべては物質がある場合と同じくらいうまく、いやそれどころかその場合よりもはるかに容易に考えられるということ。そして最後に、精神と観念のみを想定するだけで、懐疑主義者無神論者の双方が永遠に沈黙し、この想定は理性宗教のどちらにも完璧に合致するということ──以上のことが確実に言えるとするなら、この想定は承認され固く保持されると期待していいと思う。たとえこの想定が仮説としてのみ提出され、物質の存在が可能だと容認されたとしても、やはりそう期待していいだろう。けれども私は、物質の存在が可能ではないことを明白に証明したと思っている。

一三四 なるほど、前述の原理の結果として、学問のかなり立派な部分とみなされているいろいろな論争や思弁は無用なものとして拒否される。しかし、このように言うと、すでにこのたぐいの研究に深くはまり込み、かなり先まで進んでしまった人たちは、われわれの考えを大いに毛嫌いするかもしれない。だがそれにもかかわらず、他の人たちならこう考えると期待したい、すなわち、ここで述べられた原理や主張が研究の労を軽減し、人間的知識を従前よりもっと明晰で簡明で容易に到達できるものにするなら、こうした原理や主張を嫌悪する正当な理由などない。

一三五 観念についての知識にかんして述べようと思ったことを済ませたので、われわれが〔第八六節冒頭で〕提示しておいた順序にしたがって、次に精神を扱うことにしよう。これにかんして人間的知識は、普通そう想像されているほどに不十分であるわけではない。われわれが精神の本性について無知であると考えられる大きな理由として挙げられているのは、われわれがその本性の観念をもっていないということである。しかし、人間の知性が精神の観念を知覚しないということは、そうした観念が存在することなど明らかに不可能であってみれば、たしかにその知性の欠陥とみなされるべきではない。そして、もし私が間違っていなければ、このことは第二七節ですでに証明されていた。ここではこれに加えて言っておこう、すなわち、すでに示されたように、精神とは思考しない存在者すなわち観念がそのなかに存在できる唯一の実体あるいは支えであるが、しかし、観念を支えるあるいは知覚するこの実体そのものが観念である、あるいは観念に似ているというのは、明らかに不合理である。

一三六 あなたがたはおそらくこう言うだろう、「(幾人かの人たちが想像したように)実体をも知るのに適している感官がわれわれには欠けていて、もしわれわれがこれをもつなら、ちょうど三角形を知るのと同様に、われわれ自身の魂を知ることができるだろう」。これにたいして私は以下のように答える。われわれに新しい感官が授けられるとしても、われわれがそれによって受け取るのは何か新しい感覚つまり感官の観念だけだろう。しかるに、とか実体という術語によって意味されるものが何か個別的なたぐいの観念ないし感覚でしかないと言う人などいないと思う。それゆえ以下のように結論していいだろう、すなわち、あれこれ適切に考えるなら、丸い四角を理解できないということでわれわれの能力を責めるのは筋が通らないのと同様に、精神あるいは能動的な思考する存在者の観念をわれわれに提供しないということでわれわれの能力に欠陥があると考えるのも筋違いである。

一三七 観念すなわち感覚が知られるのと同じやり方で精神は知られうるという意見から、魂の本性にかんして多くの不合理で異端的な主張や手に余る懐疑主義が出てきた。おそらくはこの意見のせいで、どう調べても魂の観念をもっていることが見いだせないがゆえに、身体から区別される魂を自分はそもそももっているかどうか疑う人たちさえ出てきた。観念は能動的ではなく、それが存在するということは知覚されているということにほかならない。それにもかかわらず、観念はそれ自体で自存する作用者の似像あるいは類似物であると主張する人たちがいる。彼らを論議するには、これらの言葉で意味されていることに注意してあるだけでいい。しかしおそらくあなたがたは言うだろう、「観念は、〈思考し、作用し、それ自体で自存するかぎりでの精神〉に似ることはできないけれども、何か他の点では似ることができる。そして、観念あるいは似像があらゆる点で原像に似ている必要はない」。

一三八 これにたいして私はこう答える。もし観念がいま挙げられた点で精神を再現しないとするなら、それが何か他の点で精神を再現することは不可能である。観念を意志する、思考する、そして知覚する力を除外するなら、観念が精神に似ることのできる点など残らない。それというのも、精神という言葉によってわれわれが意味するのは、思考し、意志し、知覚するものだけであり、この術語が表示しているのはまさにこれであり、これでしかないからである。したがって、これらの力がいささかでも観念において再現されえないとするなら、精神の観念が存在できないのは明らかである。

一三九 しかし、あなたがたはこう反論するだろう、「もしも精神あるいは実体という術語によって表示される観念がないとするなら、これらの術語はまったく何も表示しない、つまり何の意味ももたないことになる」。これにはこう答えよう。これらの言葉は、ほんとうに存在する事物を意味し表示している。この事物は、なるほど観念でもなければ観念に似てもいないけれども、観念を知覚し、意志し、観念について推論する事物である。私自身がそれであるもの、私が「私」という術語によって指示しているものは、あるいは精神的実体によって意味されているものと同じである。しかし、あなたがたはこう言うだろう、「これは言葉の争いにすぎない。そして、他の名前が直接に表示しているものを観念と呼ぶことには誰もが同意しているのだから、精神とかという名前によって表示されているものもまたなぜこれと同じ名称を分かち合ってはいけないのか」。これにはこう答えよう。精神が対象とする思考しない事物はすべて、まったく受動的で、その存在は知覚されるという点にしかその本領がないという点で一致している。ところが他方、魂あるいは精神は能動的な存在者であって、その存在は知覚されることではなく、観念を知覚し、思考するという点にその本領がある。したがって、完全に食い違っていて似ていない本性をもつ事物を同じ言葉で呼んで混同するのを避けるためには、われわれは精神観念を区別する必要がある。第二七節を参照。

一四○ 広い意味でならたしかに、われわれは精神の観念を、あるいはむしろ概念をもっていると言っていい。すなわち、われわれはこの精神という言葉の意味を理解しているのであって、さもなければこれについて肯定も否定もできないであろう。さらにわれわれは他の人びとの精神のなかにある観念をわれわれ自身の観念を媒介にして思い浮かべる。両者が似ていると想定するからである。これと同様にわれわれは、われわれ自身の魂を媒介にして他の精神を知る。われわれ自身の魂は、広い意味では他の精神の似像あるいは観念だからである。それというのも、私の魂が他の精神にたいしてもっている関係は、私によって知覚される青や熱さが他人によって知覚されるそれらの観念にたいしてもっている関係と似ているからである。

一四一 魂の自然的不滅を主張する人びとは、魂に最初に存在を与えた創造者の無限の力によってすら魂が絶滅されることは絶対にありえないと考えているわけではない。むしろ彼らの意見によれば、魂の自然的不滅とは、魂は通常の自然法則あるいは運動法則による破壊あるいは解体に服していないということでしかない。これにたいして人間の魂をか細い生きた炎あるいは動物精気の塊でしかないと主張する人びとは、魂を身体と同様に崩壊しうる可滅的なものにしている。なぜなら、自分がそのなかに囲われている住まいが破壊された後で生き延びることが自然的に不可能なものほど、容易に消散するものはないからである。そして、こんな考えを美徳と宗教からの影響すべてにたいするもっとも効果的な対抗手段とみなして、それを抱き大事にしたがっているのは、人類のなかでも最悪の部分である。しかしこれまで明らかになったように、身体はいかなる組織や構造をもとうとも、精神のなかのまったく受動的な観念である。したがって精神と身体は、光と闇よりももっと互いに離れ異質である。われわれが指摘したように、魂は不可分で非物体的で延長しておらず、したがって可滅的ではない。何よりも明らかなように、自然的物体に襲いかかるのをわれわれが時々刻々目にしている運動、変化、腐敗そして解体(そしてこれらこそ、自然の経過ということでわれわれが意味しているものである)は、けっして能動的で単純な非複合的実体に影響することはない。したがって、そのような存在者は自然の力によって解体することはない、すなわち、人間の魂は自然的に不滅である

一四二 われわれの魂は感官のない非能動的な対象と同じ仕方で、つまり観念を手段として知られるのではないということは、これまで言ってきたことから明らかであると思われる。精神概念は全面的に異なった事物であるから、「それらは存在する」「それらは知られる」等々とわれわれが言うとき、これら「存在する」とか「知られる」という言葉が両者の本性に共通している何らかの事物を表示していると考えられてはならない。これら二つの本性には似たものや共通のものは何もない。そして、われわれの能力が増加したり向上したりするなら、われわれは三角形を知るのと同じように精神を知ることができるようになると期待するのは、音を見るのを期待するのと同じくらい不合理であるように思われる。このことを諄々と説くのは、いろいろな重大な問題を明らかにし、魂の本性にかんして何らかの非常に危険な誤謬を回避するために重要だと思われるからである。能動的存在者あるいは能動作用についてわれわれは、概念をもつと言ってもいいけれども、しかし厳密に言うなら、観念をもつと言ってはならないと思う。私の精神について、そして観念にかかわる精神の作用について、それら「精神」や「作用」という言葉によって意味されているものを知り、あるいは理解しているかぎりで、私は何らかの知識あるいは概念をもっている。私が知っているものについて、私は何らかの概念をもっているのである。世間がどうしても観念概念という術語を互換的に使用したいと言い張るのであれば、そうしてはならないと言うつもりはない。しかし、非常に異なる事物を異なる名前によって区別することは、明晰さと適切さに貢献する。さらに注意しなければならないことがある。すなわち、すべての関係は精神の作用を含むので、われわれは事物のあいだの関係や関連について、適切に言うなら、観念ではなくてむしろ概念をもつと言わねばならない。しかし、観念という言葉が現代の流儀では精神や関係そして作用にまで拡張されるのなら、これはつまるところ言葉遣いの問題である。

一四三 とりわけ精神的な事物にかかわる学問を複雑で曖昧なものにするのに、抽象的観念の学説が少なからず与かってきた。このことを付記しておくのは的外れではあるまい。人びとは精神の力や作用の抽象的概念を形成できると想像してきた、つまり、そうした力や作用をそれぞれの対象や結果から隔離されたものとして、さらには精神や心そのものからも隔離されたものとして考えることができると思い込んできた。こうして、抽象的概念を表わすと思われてきた大量の暗愚で曖昧な術語が形而上学と道徳に持ち込まれ、これらの術語から識者たちのあいだで数えきれない混乱と論争が繁茂してきたのである。

一四四 しかし、精神の本性と作用にかんして人びとを論争と誤謬に巻き込むのにもっとも貢献したのは、それについて感覚可能な観念から借用した術語で語る常套的なやり方である。たとえば、意志は魂の運動と呼ばれている。この呼び方が吹き込む信念によれば、人間の精神は運動しているボールのようなものである。したがって、ボールがラケットの打撃によって必然的に押しやられ方向づけられるのと同様に、精神もまた感官の対象によって必然的にそうされることになる。道徳において危険な帰結を招き寄せる果てしのない疑念と誤診がここから出てくる。哲学者たちが沈思黙考し、自分の言いたいことを注意深く考察する気になりさえすれば、こうした疑念や誤謬はすべて一掃され、真理が明白、不変そして一貫したものとして姿を見せるだろう。

一四五 これまで述べてきたことから明らかなように、われわれが他人の精神の存在を知るのは、その精神の作用によるしかない、あるいは、その精神によってわれわれのなかに引き起こされる観念によるしかない。私が知覚するいろいろな運動、変化、つまりは観念の組み合わせは、私自身に似た何らかの個別的な作用者がそうした組み合わせに随伴し、その産出にあたって共にはたらいていることを私に教えてくれる。したがって、私が他人の精神についてもつ知識は、私の観念について私がもつ知識のように直接的ではない。むしろ、〔私のうちに引き起こされた〕観念によって媒介されている。私はこれらの観念を、私自身から区別される作用者すなわち〔他人の〕精神の結果とみなして、あるいは、この精神に随伴する記号とみなして、この精神に関係させるからである。

一四六 なるほど、何らかの事物にかんしては、人間的作用者がその産出に関与していることをわれわれは納得できるにしても、しかしながら、自然の作品と呼ばれている事物にかんしては、つまりわれわれによって知覚される観念あるいは感覚のほとんどすべての部分にかんしては、それらが人間の意志によって生みだされるのではない、あるいはそれに依存するのではないのは明らかである。したがって、そうした事物の原因となる何か他の精神が存在する。なぜなら、それらの事物がそれ自身で自存するというのは矛盾しているからである。第二九節を参照。しかし、〈自然物の恒常的な規則性、秩序そして連鎖〉、(創造のより大きな部分の驚くべき壮麗、美そして完全性〉、〈創造のより小さな部分の申し分のない工夫〉、さらには〈全体の正確な調和と対応〉、しかし何よりも、〈いかに賞賛してもしきれない快苦の法則〉、そして〈動物たちの〔個体や種を保存する〕本能あるいは自然的傾向、欲求そして情念〉──もしわれわれがこれらを注意深く考察するなら、そしてさらに言わせてもらえば、これらすべてを考察すると同時に、一にして永遠、無限に賢明で善にして完全といった属性の意味と重要性に注意を払うなら、これらの属性すべてが先に述べた精神に属していることをわれわれは明らかに見てとるだろう〔第三○節を参照)。なぜならその精神は「すべてのもののなかにいてすべてのことをなさる」からであり、「万物はその精神にあって成り立っている」からである。

一四七 ここから明らかように、神はわれわれから区別される他の精神あるいは心と同じくらい確実かつ即座に知られる。それどころか、神の存在は人間たちの存在よりもはるかに明白に知覚されるとさえ言っていい。なぜなら、自然の結果は人間的作用者に帰される結果よりも無限に多くかつ重要だからである。人間を示唆するどの印も、あるいは人間によって生みだされるどの結果も、自然の創造者たる精神の存在をもっと強力に明示する。それというのも、他人に影響を与えるにあたって人間の意志がなしうることと言えば、自分の身体の四肢を動かすことでしかないが、しかし、そのような運動が他人の精神のなかの観念を伴う、つまり他人の精神のなかに観念を引き起こすのは、創造者の意志に全面的に依存するからである。ひとり「その力ある言葉をもって万物を保っておられる」彼だけが精神たちのあいだの交流を維持し、この交流のおかげで精神たちは互いの存在を知覚できるのである。けれども、万人を照らすこの純粋で明白な光そのものは目に見えない。

一四八 神を見ることができないというのは、無思慮な連中がよく口にする口実であるように思われる。彼らに言わせれば、もしわれわれが一人の人間を見るように神を見ることができさえすれば、われわれは神が存在することを信じ、そしてそう信じることによって神の命令に従うだろう。しかし、われわれは目を開きさえすれば、われわれの仲間の被造物のうちのひとつを見るよりももっと十分で明晰な視力をもって万物の至上の主を見る。しかしその理由は、(幾人かが主張するように)われわれが神を媒介なしの直接的な視覚によって見るからというのではない。あるいは、われわれは物体的事物をそれ自身によって見るのではなく、神の本質のうちでそうした事物を代理しているものを見ることによって見るからというのでもない。この学説は、私にとって理解不可能であると言っておかねばならない。私が言いたいことを説明しよう。人間的精神あるいは人格は、観念でないがゆえに感官によって知覚されない。したがって、われわれがある人間の色、大きさ、形そして運動を見るとき、われわれは自分の精神のなかに引き起こされたある感覚あるいは観念を知覚しているにすぎない。そして、多様な個々別々の集合体としてわれわれの視野に示されるこれらの感覚あるいは観念は、われわれ自身と似た有限な被造的精神の存在をわれわれに示してくれるのに役立つ。したがって、もし人間ということで、われわれと同じように、生き、動き、知覚し、そして思考するものが意味されるとするなら、われわれが見ているのは明らかに人間ではなく、何らかの観念の集合体である。すなわち、この集合体によってわれわれは、思考や運動の個々別々の原理があるということ、つまりわれわれ自身と似ていて、こうした集合体に伴い、これによって表わされる原理があると考えざるをえなくなる。そして、これと同じ仕方でわれわれは神を見る。違いと言えば、一方では、観念の何かひとつの有限で貧弱な集合体が個別的な人間的精神を指示しているのにたいして、他方では、われわれが視線をとの方向に向けようとも、いついかなる時でもいかなる場所でも神性の明白な印を知覚するということでしかない。人間によって生みだされる運動そのものについてのわれわれの知覚が〔その人間の〕印や結果であるのと同様に、われわれが見て聞いて触れるもの、あるいはいかなる仕方にせよ感官によって知覚するものはすべて、神の力の印あるいは結果だからである。

一四九 したがって、いささかでも熟慮できる人にとっては、神の存在以上に明白なものがないのは明らかである。すなわち神とは、たえずわれわれのもとに運ばれてくる多種多様な観念あるいは感覚をわれわれの精神のなかに生みだすことによってわれわれの精神に親密に現前する精神、そしてわれわれが絶対的かつ全面的に依存している精神、つまりはわれわれがそのなかで生き動きそして存在している精神だからである。われわれの精神にこれほど身近でこれほど明らかなこの偉大な真理がきわめて少数の人たちの理性によってしか見いだされないというのは、人間たちの愚かさと不注意の悲しい事例である。人びとは神性のこれほどに明白な顕現に取り囲まれているにもかかわらず、それらによって心動かされることもなく、いわば過剰な光によって目がくらまされているように思われる。

一五〇 しかし、あなたがたはこう言うだろう、「自然は自然物の産出にまったく与からないのか。自然物はすべて神の直接的で唯一のはたらきにのみ帰されねばならないのか」。これには以下のように答えよう。もしも自然ということで、もろもろの結果の目に見える系列、つまり何らかの確固とした一般法則にしたがってわれわれの精神に刻印される感覚の系列だけが意味されるとするなら、この意味で受け取られる自然がいかなる事物をも生みだせないことは明らかである。しかし、もしも自然ということで、神からも、自然法則からも、そして感官によって知覚される事物からも区別される何らかの存在者が意味されるとするなら、この言葉は私にとって空虚な音であり、それには何の理解可能な意味も結びついていないと言わねばならない。この意味での自然は、神の遍在も無限の完全性も正確に考えていなかった異教徒たちによって導入された虚しい妄想である。しかし、もっと説明がつかないのは、聖書への信仰を公言しているキリスト教徒たちのあいだで、この意味での自然が受け入れられていることである。なぜなら聖書は、異教の哲学者たちが自然のせいにするのを常としている結果をたえず神の直接の手に帰しているからである。「主は霧を立ち上がらせられる彼は雨のためにいなびかりを起こしその倉から風を取り出される」(『旧約聖書』「エレミア書」第一〇章一三節)。「彼は死の影を朝に変じ昼を暗くして夜となす」(『旧約聖書」「アモス書」第五章八節)。「彼は地に臨んで……夕立をもってそれを柔らかにしそのもえ出るのを祝福しまたその恵みをもって年の冠とされる。……牧場は羊の群れを着もろもろの谷は穀物をもっておおわれる」(『旧約聖書』「詩編」六五歌)。しかし、聖書にはたえずこうしたことが記されているにもかかわらず、われわれはどうしたわけか、神がきわめて親しくわれわれに心を寄せていると信じるのを嫌がる。(もし聖パウロを信じていいとするなら)「神はわれわれひとりひとりから遠く離れておいでになるのではない」にもかかわらず、われわれは神がはるか遠くに離れていると思い、彼の代わりに盲目の思考しない代理を据えたがるのである。

一五一 おそらくこういう反論が寄せられるだろう、「自然物の産出において観察される緩慢で段階的な方法は、全能作用者の直接の手をその自然物の原因としていないように思われる。おまけに、奇形、早産、開花期に枯れてしまう作物、荒野に降る雨、人生に降りかかる悲惨は、自然の仕組み全体が無限の知恵と善意をもった精神によって直接に駆り立てられ指揮されているのではないことを証ししている」。しかし、この反論への答えは第六二節からきわめて明白である。いま述べられた自然の方法は、自然がもっとも単純で一般的な規則にしたがって、そして恒常的で首尾一貫したやり方ではたらくために絶対に必要であり、このはたらきが神の知恵善意のどちらをも証しすることは明らかだからである。自然というこの巨大な機械装置の巧みな工夫の有り様について言うなら、その運動や種々の現象がわれわれの感官を刺激するにもかかわらず、その全体を駆動させる手そのものは血肉をそなえた人間には知覚できないようになっている。「まことに(預言者が言うように)あなたはご自分を隠しておられる神である」(『旧約聖書』「イザヤ書」第四五章一五節)。しかし、いささかも思考の労をとろうとはしない肉にまみれた怠惰な連中の目には神は隠れているけれども、それにもかかわらず、偏見のない注意深い精神にとっては、存在の全体系を作り上げ統御し維持している全知の精神が親密に現前することほど明白に看取しうるものはない。われわれがほかのところで述べたところから明らかなように、一般的で確固とした法則にしたがってはたらくということは生活の営みにおいてわれわれを導くためにも、そして自然の秘密に分け入るためにも欠くことができないがゆえに、もしそうしたはたらきがなければ、どれほど遠くかつ広く及ぶ思考も、どれほどの人間的賢慮や深慮も、いかなる役にも立たないだろうし、そもそもそうした能力や力が精神のなかに存在することすら不可能であろう。第三一節を見よ。このたったひとつの考察だけでも、先の自然の方法から出てくるいかなる個別の不都合をも十分に凌駕する。

一五二 さらに、以下のことを熟慮すべきである。自然の欠点や欠陥ですら無用というわけではない。なぜならそれらは、ある種の快適な多様性をつくる、つまり被造物のほかの部分の美しさを増すからである。これはちょうど、絵画の影がより明るく照らされた部分を引き立たせるのに役立つのと同様である。これと同じように、以下のことを吟味してみるのがいいだろう。種が発芽せず胎児が死んでしまう、そして植物や動物が十分に成長する前に不慮の事故によって死滅する。われわれはこれを自然の創造者の無思慮だとして咎める。しかしながら、われわれのこの振る舞いは、虚弱でつましい死すべき者たちに馴染んでいるがゆえに身についてしまった偏見の結果ではなかろうか。なるほど人間の場合なら、大変な苦労と勤勉の末にようやく手に入れたものを倹約しながら使うというのは、知恵として評価されるかもしれない。しかし、動物や植物の説明できないほどに精妙な機械装置が一個の小石よりももっと多くの苦労や労力を偉大な創造者に要求するなどと想像してはならない。全能の精神はたんなる「あれ」という命令によって、つまり彼の意志の作用によって、こんな差別などしないで万物を産出できるということほど明らかなことはない。ここから明らかなように、自然物の壮麗な豊饒は、それらを産出する作用者の弱さや浪費として解釈されるべきではなく、むしろ彼の力の豊かさの証拠とみなされるべきである。

一五三 自然の一般法則の結果として、さらには有限で不完全な精神の行為の結果として、この世界には苦痛や不快が混じり込んでいるにもかかわらず、現在われわれがおかれている状態にあっては、これはわれわれの安寧にとって絶対に必要である。しかし、われわれの視野はあまりに狭い。たとえばわれわれは、あるひとつの個別的な苦痛の観念だけを念頭において、それをとみなす。ところが他方、もしわれわれが自分の視界を広げて、事物のさまざまな目的、結合そして依存関係を理解するなら、また、いかなる機会にいかなる比率でわれわれは苦痛と快楽をもつようになるのかを理解するなら、あるいは、人間的自由の本性を理解するなら、そして、われわれがこの世界に送り込まれるにあたっての計画を理解するなら、その場合われわれは、それ自体で考察されるならと見える個別的な事物も、存在の全体系と結びついているものとして考察されるなら善の本性をもっていると認めざるをえないだろう。

一五四 思慮深い人にとってはこれまで述べてきたところから明らかになるように、無神論マニ教の異端に賛意を示す人びとは、注意散漫で理解力欠如の精神の持ち主でしかない。なるほど偏狭で無思慮な人びとは、摂理の業を、つまり美や秩序を受け入れる度量がないものだから、それらを戯画化するだろう、あるいは理解しようと努めたりしないだろう。しかし、正しく広範に思考するすべを身につけ、さらには熟考するのを常としている人たちは、自然の機構をくまなく照らす知恵と善性の神的痕跡をどれほど賞賛してもしきれない。しかしながら、どれほど強烈に精神を照らしだす真理といえども、考えるのを嫌がり故意に目を閉じれば見えなくなる。したがって、ほとんどの人類が実務や快楽に余念がなく、精神の目を開いて事物を注視したことなどほとんどないがゆえに、理性的被造物において期待されていい神の存在についての確信と明証をまったくもたないとしても、それは驚くには及ばないのである。

一五五 驚くべきことに、それほど明白で重要な真理を不注意ゆえに確信しない人びとがいるだけでなく、むしろ、そのように不注意なままにとどまるほど愚かな人びとが見いだされる。けれども、恐るべきことに、キリスト教の国々に住んでいて才能も閑暇も持ち合わせているのに、怠惰で恐るべきこうした不注意だけのせいである種の無神論に陥っている人びとがあまりに多い。あの全能の精神の遍在、聖性そして正義の徹底した感覚が骨身にしみて、その感覚によって啓発された魂が、その精神の法則を良心のとがめなしにいつまでも蹂躙し続けることなど不可能だからである。したがってわれわれは、以下の重要なことがらを真剣に考慮し堅持して、いかなるためらいもなしに確信できるようにすべきである──すなわち、「主の目はどこにでもあって悪人と善人とを見張っている神はわれわれとともにいましわれわれが行くすべての場所でわれわれを守り、……食べるパンと着る衣服を賜う」、神はわれわれのもっとも内奥の思考に現前し、それを知っている、そして、われわれはきわめて絶対的かつ直接に神に依存している──これらの偉大な真理を明白に見てとるなら、われわれの心は畏敬すべき深慮と聖なるおののきによって満たされざるをえず、この深慮とおののきこそへのもっとも強力な誘因であり、悪徳にたいする最良の防壁である。

一五六 それというのも、われわれの研究においてまっさきにやるべきことは、を考察し、そしてわれわれの義務を考察することだからである。私の仕事の真意と計画はもっぱらこの考察を促進することであったから、もし私がこれまで述べたことによって読者に神の現前についての敬虔な感覚を鼓吹できないとするなら、そして、学識ある人びとの主たる仕事になっている不毛な思弁の虚偽や虚飾を示すことによって、その分だけ読者に福音の有益な真理を敬い奉じる気にさせないとするなら、私は自分の仕事をまったく無用で無効とみなすことだろう。なぜなら、この福音の真理を知り実践することこそ、人間本性の最高の完成だからである。

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