太宰治『十五年間』

「魚服記」を発表し、井伏さんは、「何かの間違いかもわからない」と言って心配してくれているのに、私は田舎者の図々しさで、さらにそのとし「思い出」という作品を発表し、もはや文壇の新人という事になった。そうしてその翌る年には、他のかなり有名な文芸雑誌などから原稿の依頼を受けたりしていたが、原稿料は、あったり無かったり、あっても一枚三十銭とか五十銭とか、ひどく安いもので、当時最も親しく附き合っていた学友などと一緒におんでやでお酒を飲みたくても、とても足りない金額であった。「晩年」という創作集なども出版せられ、太宰という私の筆名だけは世に高くなったが、私は少しも幸福にならなかった。私のこれまでの生涯を追想して、幽かにでも休養のゆとりを感じた一時期は、私が三十歳の時、いまの女房を井伏さんの媒酌でもらって、甲府市の郊外に一箇月六円五十銭の家賃の、最小の家を借りて住み、二百円ばかりの印税を貯金して誰とも逢わず、午後の四時頃から湯豆腐でお酒を悠々と飲んでいたあの頃である。誰に気がねも要らなかった。しかし、それも、たった三、四箇月で駄目になった。二百円の貯金なんて、そんなにいつまでもあるわけは無い。私はまた東京へ出て来て、荒っぽいすさんだ生活に、身を投じなければならなかった。私の半生は、ヤケ酒の歴史である。
 秩序ある生活と、アルコールやニコチンを抜いた清潔なからだを純白のシーツに横たえる事とを、いつも念願にしていながら、私は薄汚い泥酔者として場末の露地をうろつきまわっていたのである。なぜ、そのような結果になってしまうのだろう。それを今ここで、二言か三言で説明し去るのも、あんまりいい気なもののように思われる。それは私たちの年代の、日本の知識人全部の問題かも知れない。私のこれまでの作品ことごとくを挙げて答えてもなお足りずとする大きい問題かも知れない。
 私はサロン芸術を否定した。サロン思想を嫌悪した。要するに私は、サロンなるものに居たたまらなかったのである。
 それは、知識の淫売店である。いや、しかし、淫売店にだって時たま真実の宝玉が発見できるだろう。それは、知識のどろぼう市である。いや、しかし、どろぼう市にだってほんものの金の指環がころがっていない事もない。サロンは、ほとんど比較を絶したものである。いっそ、こうとでも言おうかしら。それは、知識の「大本営発表」である。それは、知識の「戦時日本の新聞」である。
 戦時日本の新聞の全紙面に於いて、一つとして信じられるような記事は無かったが、(しかし、私たちはそれを無理に信じて、死ぬつもりでいた。親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて黙って共に討死さ。)たしかに全部、苦しい言いつくろいの記事ばかりであったが、しかし、それでも、嘘でない記事が毎日、紙面の片隅に小さく載っていた。曰く、死亡広告である。羽左衛門が疎開先で死んだという小さい記事は嘘でなかった。
 サロンは、その戦時日本の新聞よりもまだ悪い。そこでは、人の生死さえ出鱈目である。太宰などは、サロンに於いて幾度か死亡、あるいは転身あるいは没落を広告せられたかわからない。
 私はサロンの偽善と戦って来たと、せめてそれだけは言わせてくれ。そうして私は、いつまでも薄汚いのんだくれだ。本棚に私の著書を並べているサロンは、どこにも無い。
 けれども、私がこうしてサロンがどうのと、おそろしくむきになって書いても、それはいったい何の事だか、一向にわからない人が多いだろうと思われる。サロンは、諸外国に於いて文芸の発祥地だったではないか、などと言って私に食ってかかる半可通が、私のいうサロンなのだ。世に、半可通ほどおそろしいものは無い。こいつらは、十年前に覚えた定義を、そのまま暗記しているだけだ。そうして新しい現実をその一つ覚えの定義に押し込めようと試みる。無理だよ、婆さん。所詮、合いませぬて。
 自分を駄目だと思い得る人は、それだけでも既に尊敬するに足る人物である。半可通は永遠に、洒々然たるものである。天才の誠実を誤り伝えるのは、この人たちである。そうしてかえって、俗物の偽善に支持を与えるのはこの人たちである。日本には、半可通ばかりうようよいて、国土を埋めたといっても過言ではあるまい。
 もっと気弱くなれ! 偉いのはお前じゃないんだ! 学問なんて、そんなものは捨てちまえ!
 おのれを愛するが如く、汝の隣人を愛せよ。それからでなければ、どうにもこうにもなりゃしないのだよ。
 とこう言うとまた、れいのサロンの半可通どもは、その思想は云々と、ばかな議論をはじめるだろう。かえるのつらに水である。やり切れねえ。
 いったい私の言っているサロンとは何の事か。諸外国の文芸の発祥地と言われているサロンと、日本のサロンとは、どんな根本的な差異があるか。皇室または王室と直接のつながりのあるサロンと、企業家または官吏につながっているサロンと、どう違うか。君たちのサロンは、猿芝居だというのはどういうわけか。いまここで、いちいち諸君に噛んでふくめるように説明してお聞かせすればいいのかも知れないが、そんな事に努力を傾注していると、君たちからイヤな色気を示されたりして、太宰もサロンに迎えられ、むざんやミイラにされてしまうおそれが多分にあるので、私はこれ以上の奉仕はごめんこうむる。なあに、いいやつには、言わなくたってちゃんとわかっているのだから。
 私は戦争中に、東条に呆れ、ヒトラアを軽蔑し、それを皆に言いふらしていた。けれどもまた私はこの戦争に於いて、大いに日本に味方しようと思った。私など味方になっても、まるでちっともお役にも何も立たなかったかと思うが、しかし、日本に味方するつもりでいた。この点を明確にして置きたい。この戦争には、もちろんはじめから何の希望も持てなかったが、しかし、日本は、やっちゃったのだ。
 昭和十四年に書いた私の「火の鳥」という未完の長編小説に、次のような一節がある。これを読んでくれると、私がさきにもちょっと言って置いたような「親が破産しかかって、せっぱつまり、見えすいたつらい嘘をついている時、子供がそれをすっぱ抜けるか。運命窮まると観じて、黙って共に討死さ。」という事の意味がさらにはっきりして来ると思われる。
 すなわち、
(前略)長火鉢へだてて、老母は瀬戸の置き物のように綺麗に、ちんまり坐って、伏目がち、やがて物語ることには、──あれは、わたくしの一人息子で、あんな化け物みたいな男ですが、でも、わたくしは信じている。あれの父親は、ことしで、あけて、七年まえに死にました。まあ、昔自慢してあわれなことでございますが、父の達者な頃は、前橋で、ええ、国は上州でございます。前橋でも一流中の一流の割烹店でございました。大臣でも、師団長でも、知事でも、前橋でお遊びのときには、必ず、わたくしの家に、きまっていました。あのころは、よかった。わたくしも、毎日々々、張り合いあって、身を粉にして働きました。ところが、あれの父は、五十のときに、わるい遊びを覚えましてな、相場ですよ。崩れるとなったら、早いものでした。ふっと気のついた朝には、すっからかん。きれい、さっぱり。可笑しいようですよ。父は、みんなに面目ないのですね。そうなっても、まだ見栄張っていて、なあに、おれには、内緒でかくしている山がある。金の出る山ひとつ持っている、とまるで、子供みたいな、とんでもない嘘を言い出しましてな、男は、つらいものですね、ながねん連れ添うて来た婆にまで、何かと苦しく見栄張らなければいけないのですからね、わたくしたちに、それはくわしく細々とその金の山のこと真顔になって教えるのです。嘘とわかっているだけに、聞いているほうが、情ないやら、あさましいやら、いじらしいやら、涙が出て来て困りました。父は、わたくしたち、あまり身を入れて聞いていないのに感附いて、いよいよ、むきになって、こまかく、ほんとうらしく、地図やら何やらたくさん出して、一生懸命にひそひそ説明して、とうとう、これから皆でその山に行こうではないか、とまで言い出し、これには、わたくし、当惑してしまいました。まちの誰かれ見さかいなくつかまえて来ては、その金山のこと言って、わたくしは恥ずかしくて死ぬるほどでございました。まちの人たちの笑い草にはなるし、朝太郎は、そのころまだ東京の大学にはいったばかりのところでございましたが、わたくしは、あまり困って、朝太郎に手紙で事情全部を知らせてやってしまいました。そのときに、朝太郎は偉かった。すぐに東京から駈けつけ、大喜びのふりして、お父さん、そんないい山を持っていながら、なぜ僕にいままで隠していたのです、そんないい事あるんだったら、僕は、学校なんか、ばかばかしい、どうか学校よさせて下さい、こんな家、売りとばして、これからすぐに、その山の金鉱しらべに行こう、と、もう父の手をひっぱるようにしてせきたて、また、わたくしを、こっそりものかげに呼んで、お母さん、いいか、お父さんは、もうさきが長くないのだ、おちぶれた人に、恥をかかせちゃいけない、とわたくしを、きつく叱りました。わたくしも、そう言われて、はじめて、ああそうだったと気がついて、お恥ずかしい、わが子ながら、両手合せて拝みたいほどでございました。嘘、とはっきり知りながら、汽車に乗り、馬車に乗り、雪道歩いて、わたくしたち親子三人、信濃の奥まで、まいりました。いま、思い出しても、せつなくなります。信濃の山奥の温泉に宿をとり、それからまる一年間、あの子は、降っても照っても父のお伴して山を歩きまわり、日が暮れて宿へかえっては、父の言うこと、それは芝居と思えないほど、熱心に聞いて、ふたりで何かと研究し、相談し、あしたは大丈夫だ、あしたは大丈夫だと、お互い元気をつけ合って、そうして寝て、また朝早く、山へ出かけて、ほうぼう父に引っぱりまわされ、さんざ出鱈目の説明聞かされて、それでも、いちいち深くうなずいて、へとへとになって帰ってきました。何もかも、朝太郎のおかげです。父は、山宿で一年、張り合いのある日をつづけることができて、女房、子供にも、立派に体面保って、恥を見せずに安楽な死に方を致しました。ええ、信濃の、その山宿で死にました。わしの山は見込みがある、どうだい、身代二十倍になるのだぞ、と威張って、死んでゆきました。まえから、心臓が、ひどく悪かったのです。木枯しのおそろしく強い朝でしてな。あわれな話ですね。けれども、あの子は、見どころあります。それから母子ふたりで、東京へ出て、苦労しました。わたくしは、どんぶり持って豆腐いっちょう買いに行くのが、一ばんつらかった。いまでは、どうやら、朝太郎も、皆様のおかげで、もの書いてお金いただけるようになって、わたくしは、朝太郎が、もう、どんな、ばかをしても、信じている。むかし、あれの父をあんなに大事にかばって呉れたこと思えば、あの子が、ありがたくて、もったいなくて、あの子のことだったら、どんなことがあっても、たとえあれが、人殺ししたって、わたくしは、あれを信じている。あれは、情の深い子です。(後略)
 このような思想を、古い人情主義さ、とか言って、ヘヘンと笑って片づける、自称「科学精神の持主」とは、私は永遠に仕事を一緒にやって行けない。私は戦争中、もしこんなていたらくで日本が勝ったら、日本は神の国ではなくて、魔の国だと思っていた。けれども私は、日本必勝を口にし、日本に味方するつもりでいた。負けるにきまっているものを、陰でこそこそ、負けるぞ負けるぞ、と自分ひとり知ってるような顔で囁いて歩いている人の顔も、あんまり高潔でない。
 私はそのように「日本の味方」のつもりでいたのであるが、しかし時の政府には、やっぱりどうも信用が無かったようである。情報局の注意人物というデマが飛び、私に、原稿を依頼する出版社が無くなってしまった。しみったれた事を言うようであるが、生活費はどんどんあがるし、子供は殖えるし、それに収入がまるで無いんだから、心細いこと限りない。当時は私だけでなく、所謂純文芸の人たち全部、火宅の形相を呈していたらしい。しかし、他の人たちにはたいてい書画骨董などという財産もあり、それを売り払ってどうにかやっていたらしいが、私にはそんな財産らしいものは何も無かった。これで私が出征でもしたら、家族はひどい事になるだろうと思ったが、どういうわけか、とうとう私には召集令状が来なかった。安易にこんな事は口にしたくないが、神の配慮、という事を思わずにはいられない。私はねばって、とにかく小説を書きとおした。
 このごろ私は、仙台の新聞に「パンドラの匣」という長篇小説を書いているが、その一節を左に披露して、この悪夢に似た十五年間の追憶の手記を結ぶ事にする。
(前略)嵐のせいであろうか、或いは、貧しいともしびのせいであろうか、その夜は私たち同室の者四人が、越後獅子の蝋燭の火を中心にして集まり、久し振りで打ち解けた話を交した。
「自由主義者ってのは、あれは、いったい何ですかね?」と、かっぽれは如何なる理由からか、ひどく声をひそめて尋ねる。
「フランスでは、」と固パンは英語のほうでこりたからであろうか、こんどはフランスの方面の知識を披露する。「リベルタンってやつがあって、これがまあ自由思想を謳歌してずいぶんあばれ廻ったものです。十七世紀と言いますから、いまから三百年ほど前の事ですがね。」と、眉をはね上げてもったいぶる。「こいつらは主として宗教の自由を叫んで、あばれていたらしいです。」
「なんだ、あばれんぼうか。」とかっぽれは案外だというような顔で言う。
「ええ、まあ、そんなものです。たいていは、無頼漢みたいな生活をしていたのです。芝居なんかで有名な、あの、鼻の大きいシラノ、ね、あの人なんかも当時のリベルタンのひとりだと言えるでしょう。時の権力に反抗して、弱きを助ける。当時のフランスの詩人なんてのも、たいていもうそんなものだったのでしょう。日本の江戸時代の男伊達とかいうものに、ちょっと似ているところがあったようです。」
「なんて事だい、」とかっぽれは噴き出して、「それじゃあ、幡随院の長兵衛なんかも自由主義者だったわけですかねえ。」
 しかし、固パンはにこりともせず、
「そりゃ、そう言ってもかまわないと思います。もっとも、いまの自由主義者というのは、タイプが少し違っているようですが、フランスの十七世紀のリベルタンってやつは、まあたいていそんなものだったのです。花川戸の助六も鼠小僧の次郎吉も、或いはそうだったのかも知れませんね。」
「へええ、そんなわけの事になるますかねえ。」とかっぽれは、大喜びである。
 越後獅子も、スリッパの破れを縫いながら、にやりと笑う。
「いったいこの自由思想というものは、」と固パンはいよいよまじめに、「その本来の姿は、反抗精神です。破壊思想といっていいかも知れない。圧制や束縛が取りのぞかれたところにはじめて芽生える思想ではなくて、圧制や束縛のリアクションとしてそれらと同時に発生し闘争すべき性質の思想です。よく挙げられる例ですけれども、鳩が或る日、神様にお願いした、『私が飛ぶ時、どうも空気というものが邪魔になって早く前方に進行できない。どうか空気というものを無くして欲しい。』神様はその願いを聞き容いれてやった。然るに鳩は、いくらはばたいても飛びる事が出来なかった。つまりこの鳩が自由思想です。空気の抵抗があってはじめて鳩が飛び上る事が出来るのです。闘争の対象の無い自由思想は、まるでそれこそ真空管の中ではばたいている鳩のようなもので、全く飛翔が出来ません。」
「似たような名前の男がいるじゃないか。」と越後獅子はスリッパを縫う手を休めて言った。
「あ、」と固パンは頭のうしろを掻き、「そんな意味で言ったのではありません。これは、カントの例証です。僕は、現代の日本の政治界の事はちっとも知らないのです。」
「しかし、多少は知っていなくちゃいけないね。これから、若い人みんなに選挙権も被選挙権も与えられるそうだから。」と越後は、一座の長老らしく落ちつき払った態度で言い、「自由思想の内容は、その時、その時で全く違うものだと言っていいだろう。真理を追究して闘った天才たちは、ことごとく自由思想家だと言える。わしなんかは、自由思想の本家本元は、キリストだとさえ考えている。思い煩うな、空飛ぶ鳥を見よ、播かず、刈らず、蔵に収めず、なんてのは素晴らしい自由思想じゃないか。わしは西洋の思想は、すべてキリストの精神を基底にして、或いはそれを敷衍し、或いはそれを卑近にし、或いはそれを懐疑し、人さまざまの諸説があっても結局、聖書一巻にむすびついていると思う。科学でさえ、それと無関係ではないのだ。科学の基礎をなすものは、物理界に於いても、化学界に於いても、すべて仮説だ。肉眼で見とどける事の出来ない仮説から出発している。この仮説を信仰するところから、すべての科学が発生するのだ。日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だったのだ。わしは別に、クリスチャンではないが、しかし日本が聖書の研究もせずに、ただやたらに西洋文明の表面だけを勉強したところに、日本の大敗北の真因があったと思う。自由思想でも何でも、キリストの精神を知らなくては、半分も理解できない。」(中略)
「十年一日の如き、不変の政治思想などは迷夢に過ぎない。キリストも、いっさい誓うな、と言っている。明日の事を思うな、とも言っている。実に、自由思想家の大先輩ではないか。狐には穴あり、鳥には巣あり、されど人の子には枕するところ無し、とはまた、自由思想家の嘆きといっていいだろう。一日も安住を許されない。その主張は、日々にあらたに、また日にあらたでなければならぬ。日本に於いて今さら昨日の軍閥官僚を罵倒してみたって、それはもう自由思想ではない。それこそ真空管の中の鳩である。真の勇気ある自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳! この叫びだ。昨日までは古かった。古いどころか詐欺だった。しかし、今日に於いては最も新しい自由思想だ。十年前の自由と、今日の自由とその内容が違うとはこの事だ。それはもはや、神秘主義ではない。人間の本然の愛だ。アメリカは自由の国だと聞いている。必ずや、日本のこの真の自由の叫びを認めてくれるに違いない。」(後略)

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