アリストテレス『自然学』第6巻 第9章(ゼノンのパラドックス)

 ゼノンは誤った議論をしている。というのは、いかなるものもすべて、それが〔自らと〕等しい大きさのものに対応した位置にあるときには、常にいつでも静止している[か運動変化している]とすれば、そして場所移動しているものは、常にいつでも「今」において〔自らと等しい大きさのものに対応した位置に〕あるとすれば、場所移動している矢は運動変化しない、と彼は主張しているからである。しかし、この議論は誤っている。なぜなら、時間は、ちょうど他のいかなる大きさも分割不可能なものから成るのではないのと同様に、「今」が集まって成っているのではないからである。
 ところで、運動変化に関するゼノンの議論は四つあって、それらを解こうとする人たちを手こずらせている。その第一は、場所移動するものが目的地点に到達するには、それに先立ってまずその半分の地点に到達しなければならないがゆえに、運動変化はありえないということについての議論であるが、これについては、先ほどの議論の過程(※第6巻 第2章)で対処しておいた。
 第二の議論は、「アキレウス」と呼ばれているものである。それは、最も遅い走者でも最も速い走者によっていつになっても追いつかれることがないであろう、というものである。なぜなら、追いかける側のものは、追いつくのに先立って、まず逃げる側のものが走り出したその地点に到達しなければならず、したがって、より遅い側のものがいつもわずかなりと先んじているのは必然的なことだ、というのである。しかし、これも先の「二分割」によるものと同じ議論で、そのつど付け加わる大きさを半分に分割するのではない点で相違しているだけである。したがって、この議論からは、より遅い側のものが追いつかれることはないということが帰結するが、「二分割」による場合と同じ論法に従ってそうなるのである(なぜなら、いずれの議論においても、ある種の仕方で大きさが分割されることによって、境界にまで到達することがないということが帰結しているからである。ただし、こちらの議論では、追いかけることでは悲劇にまで謳われたほどの最速のものでも、最も遅いものにさえ追いつけないということが付け加えられているが)。したがって、必然的にその解法もまた同じものとなる。先んじているものが追いつかれることはないとする主張が誤りなのである。なるほど、それが先んじている間は、追いつかれてはいないが、しかしながら、有限の長さを通過しうるということを許容しさえすれば、追いつかれるからである。
 以上が、その二つの議論であるが、第三は今しがた述べられたもの、すなわち「移動している矢は静止している」というものである。しかし、こういう結論がもたらされるのは、時間が「今」の集まりから構成されていると考えることによるのであって、この想定が許容されないかぎり、その推論は成立しない。
 第四の議論は、競走路において、等しい大きさの物塊列に沿って、等しい大きさの二列の物塊列が、一方は競走路の終端から、他方は折り返し点から、等しい速さで反対方向に運動変化している場合についてのもので、ゼノンは、その場合、半分の時間が二倍の時間に等しいことになるように思っているのである。この議論の誤りは、運動変化しているものに沿ってであっても、静止しているものに沿ってであっても、等しい速さで等しい大きさを移動するのには、等しい長さの時間を要する、としているところにある。これは誤りである。たとえば、停止している等しい大きさの物塊列を符号AAで表し、符号BBで表したものが折り返し点から出発する物塊列で、その数も大きさもAAに等しいものとし、また符号ΓΓで表したものは終端から出発する物塊列で、その数も大きさもAAに等しいものとし、B列と等しい速さで移動するものとしよう(図7a)。さて、B列とΓ列が相互に傍らを運動変化するとき、先頭のBと先頭のΓは同時に〔A列(および相手側の列)の〕末端に位置することになる(図7b)。すると先頭のΓがB列全体の傍らを通過し終えても、先頭のBは〔A列全体に対しては〕半分の傍らを通過し終えたことになり、したがって、要した時間は半分ということになる。なぜなら、どちら側のものにせよ、それぞれ一つの物塊の傍らを通過するのに要する時間は等しいからである。しかし、同時にまた、〔その時間に〕先頭のBはΓ列全体を通過し終えたことにもなる。なぜなら、先頭のΓと先頭のBが同時にそれぞれ相手側の列の末端に位置することになるからで、[B列の物塊それぞれを通過するのにも、A列の物塊それぞれを通過するのにも経過する時間は等しい、とゼノンが言うように]その理由は、両者がA列沿いに費やす時間は等しいことにある。以上がゼノンの議論であるが、それは先に述べられたような偽りによってもたらされたものである。
 さらにまた、矛盾対立関係における変化に関しても、われわれにはそれを不可能とする難点は何も存しない。たとえば、白くないものが白いものへと変化しつつあって、そのどちらの状態にもないような場合には、それは白くもないし、白くないこともないということになろう、という議論がある。しかし、あるものの全体がそのどちらかの状態にあるのでなければ、それは白いとも白くないとも言えない、というわけではない。われわれがあるものを白いと言ったり白くないと言ったりするのは、その全体がそうなっていることによってではなく、その大部分が、あるいはその最重要部分がそうなっていることによってだからであって、その状態にないということと、全体がその状態にないということとは同じではないのである。そして、〔端的な意味での〕ある、、ものとあらぬ、、、ものについても、その他矛盾対立関係にあるもの同士についても、事は同様である。すなわち、対置関係にあるもののいずれか一方の側にあるのが必然であって、ただ全体としては、常にいかなるときにもどちらの側にもありはしないのである。
 さらにまた、円や球など、一般にそのもの自身において運動変化しているものについて、それら自体としては静止しているとする議論もある。なぜなら、それら自体も、その諸部分も、一定の時間にわたって同じ場所のうちにあることになり、したがって、それらは静止しているとともに運動変化していることになるだろうから、というのである。しかし、第一に、その諸部分はいかなる時間にも同じ場所のうちにありはしないし、さらには、その全体もまたたえず異なった場所へと変化しつづけているのである。なぜなら、円周上のA点から辿られる円周とB点から辿られる円周、Γ点から辿られる円周、さらにその他の円周上の点のそれぞれから辿られる円周(図8)は、ちょうど音楽に熟達した人間が人間一般でもある──前者が後者に付帯しているからであるが──というような意味でのことを別にすれば、どれも同じものではないからである。したがって、円周はたえず異なった円周へと変化していて、一時も静止してはいないのである。球についても、その他そのもの自身において運動変化しているものについても、事態は同じようである。

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